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Siren  作者: 蘿蔔 華宵
1/6

眩暈―memai―

以前ボイスドラマ用に書いていた台本を加筆修正して小説とさせていただきました。朗読は別として、台本としての使用はお断りしております。

台本はございますのでお問い合わせください。


*登場人物の名前変更

*冒頭部分、加筆修正いたしました。


登場人物


鵜飼うかい あきら 主人公


鵜飼 瑞菜みずな     晶の姉


響  啓吾けいご        


響  マコト    啓吾の息子        


響  真奈美まなみ     啓吾の妻


高浦 直司  (たかうら なおじ) 響の恩師である元教授

 



 ――其の湖に、霧は何時もかかっていた――



 私は一度瞳を閉じる。

 頬に感じる、湿った粒子。

 其の冷気が、もう一度呼び覚ます。

 嗚呼、そうしてまた、始まるのだ。


 終らない


 夢が



郊外、夜通し車を走らせていた。


目的があったから。

真っ暗なハイウェイ。

光の筋を成してすれ違い、遠ざかってゆく電灯。

同じように走る車を、視る事が無くなり、どれくらい経っただろう。


据え付けられた薄暗いライトが照らす、古びた看板に書かれた警告文。


 【危険、この先濃霧発生地域】


そして


【私有地に着き、立ち入り禁止】



警告文を体現するように道が失われてゆく。

 

遂には行き止まり、車を降りると鬱蒼とした木々たちが、立ち塞がるように森を成していた。


道を誤ってなどいない。


祈るように車を降りる。


深く、濃くなってゆく霧の中におぼろげに見える灯り。


 


 ――其処こそが、僕の目指す目的の屋敷である筈だから。



湿気が髪を濡らす中で、うっすらと水音が、波音が、したような気がした。

夜の闇の中、霧に白み、滲むように浮かび上がる薄鼠色うすねずいろの壁。

冷たい白色灯が、小さな窓の存在を知らせている。


細長い明かりを目指して進むと、古びた屋敷の簡素な扉に、不釣合いないかつい真鋳しんちゅうのノッカー。

欧州の彫像のような、精巧な造形。

それは、豊かな巻き毛の幼い子供、だが、目元めもとには布が巻かれ、双眸そうぼうは隠されている。

いったい、彼は、何故、視ることを許されずに、この粗末な扉に捕らえられているのだろう。


既にジットリと髪を濡らす、霧の見せる妄想なのか。


そんな事を考えながらつたに埋もれた柱の呼び鈴指を押し付けてみる。


確かに、二度、三度と屋内に響いているであろう其の音も、どこか歪んで聞こえている。

顎下あごした、いや、首元に据え付けられた重苦しいリング

得体の知れない不安と、嫌悪感が、掴もうと伸ばした指を戸惑わせる。

けれどもそれ以上に、其の指を動かすモノが、僕の心にはあった。


色あせた真鋳しんちゅうのドアノブは、しっとりと濡れ、雫を落としていた。


少しずつあけた扉の奥に、ほんの一踏ひとふみ挿し入れようと、足を伸ばすと、硬く、重い何かに当たり、倒してしまう。

ズキリと走る痛みに思わず声を出すと、薄暗い部屋の中でゆらりと蠢く気配が有った。


「誰か……居ますか」


声を掛けても、物音一つしない。

どこか古びた、それでいて、無機質なその部屋の空気。

よどみとは違う、打ち捨てられた。

そんな寂しさが、その家の嘆きが伝わってくるような、灰色の空気。


「あの……」と僕がもう一度声を出すと、それに被るように男の声が聞こえた。


「――ければ」


「――え?」


「誰も居ないかと尋ね。そして、君はドアを開け、踏み入ってくるのか」


唯一、月の光が差し込む窓を背に、その声のあるじは立っていた。

部屋の明かりは低く、漆黒の影が月光を受け姿を隠すように、人物のシルエットを型どっている。

其の時、心の内で溜息を漏らしてしまう、『嗚呼、たどり着いたのか』と。


 でも其れは、終わりでなく、始まり。


 永遠に消える事の無い


 終わりの無い

 

 アノ

 

 夢――




「何も無い、帰りたまえ」


静かで、深い声。まるで溜息と合わさるように聞こえる。

僕は、確かめなければならない。

そう、声の主が、求めている人物であるのかを。


ひびき、教授」


何故なら、響 啓吾。彼に会う為に僕はやってきたのだから。


「……閉めてくれ、アレが、中に入る」


 アレ……。


聞き違いであったのか、それとも、霧を嫌ってそう云ったのか。


僕は、慎重に様子をうかがいながら家へと入り、後ろ手でドアを閉めた。


閉めてしまったんだ。



「失礼しました。湿気が、入ってしまいましたね。

 すみません」


黒い影のまま、男は部屋端へやはしへと動く。


「あの、突然ですみません。ひびき教授でいらっしゃいますか」


再び尋ねた僕に応える事無く、「待ちなさい」と云ってゆっくりと鉄の火掻き棒を手にとると、存在すら気付かせなかった暖炉に、火を入れようとし始める。



そうして点けられた火が、少しずつ広がり、部屋を明るくしてゆく。


 

改めて見回す生活感の無い空間に、姿を現す質素な家具。だが其れよりも、何よりも、はっきりと視たい。確かめたい。


『彼の顔は、彼は、確かに響 啓吾、本人なのか』


「霧は、晴れない……」


低く呟くように話す男の声。全てを聞きとる事は出来なかった。


僕は暖炉にもたれる男に近寄る、彼を確かめる為に。

だが、同時に炎は、僕の姿を、くっきりと照らし出してしまう。

彼は、僕を視てなんと云うだろうか。


「この辺りの霧は、晴れることは無い。

 道々警告もあったはずだが、気付かなかったのかね……」


振り向いた彼は、一瞬目を見開いた。

 

そして僕も確認する。しっかりと頭に焼き付いている、一枚の写真。

其処に写っていた男と同じ顔。

目の前に居る此の男は、響啓吾ひびきけいごに間違いないと。

響啓吾。望洋大教授。

若輩ながら、その才能で異例の出世で教授となった彼が突然の失踪をした。

病身の妻を抱え、自らも【心神喪失】とマスコミが面白おかしく書き立てる。

特異な英知と容貌に魅せられた関係者が、メディアの渦へと、彼を巻き込まんとしていた矢先の出来事であっただけに、スキャンダルは格好の餌食と成る。

誰もが憧れる白眉の学者であった響を、陰惨な古来の風習や伝承、奇習を研究し常軌を逸していったのだと云う者もいた。

 

彼は家族と共に、世間を逃れるように姿を消した。 


響は、一瞬驚くように僕を見詰め、そうして次にいぶかしげに目を細めると口を開いた。


「君は――」


 

彼の目元が少し、ほんの少しだけワラッタような気がした。あれは、気のせいであったのか。


「座っても、よろしいですか」


今度は答えを待たず、彼への視線もそらす事無く、僕は暖炉の前に用意された上等そうな膝掛椅子に腰を下ろす。

滑らかな手触りの布が張られたライトグレー。

いいや、銀とも、薄青うすあおとも見えるその色。

大きく育った炎が揺れて照らしている。

手触りは、そう、昔飼っていた猫のそれに良く似ていた。

 

彼の瞳は、今度は心を静かに押し隠したように、静かに僕を見詰めていた。


不躾で申し訳ありません。

ですが、夜通し運転をしていたもので……。

ああ、此れは素敵な膝掛椅子でらっしゃる。

まるで、包まれるようだ」

 

炎に照らされる彼の顔。

四十路よそじ間近な筈の年齢を感じさせない、鼻筋の通った堀の深い面立ち。

柔らかそうな亜麻色の髪、鳶色とびいろの瞳。

すらりと伸びた身体、線の細い上半身。

仕立てのよさそうなグレーのジャケットに黒いスラックス。

胸元を開けた白いカッターシャツの首には薄い紫、薄青紫ラベンダー色のスカーフを巻いていた。

その色は、姉の好きな色。

 

好きな色だった。


「何処から」と彼が尋ねる。その声は、緊張に満ちていた。


「街から」と僕が応える。緊迫した空気が二人を包む。


「街」


「ええ。そうですよ」と僕が言うと、彼は「そうか……」と目をそらし、横を向いた。

 彼の緊張が、少しだけ和らいでいったように受け取れた。


たったそれだけの、初めて交わす会話に、思わず僕は笑みを漏らす。

何故ならそれは、確かに僕の顔を見て彼が見せた驚きの表情が、僕を喜ばせたから。

 

僕はその時、精神的に有利を感じていたのだ。

この顔を、彼は【知っている】と、確信できたのだから。 


僕の微笑みは、彼にどう映ったのであろう。彼はこの時、何を感じ、何を考えていたのであろうか。

彼が少し目を細めるのを確かに見た。

あれは、何故だったんだろう……。


「誰か? とは、お尋ねにならないんですね」


僕は、慎重に言葉を選ぶ。


【失敗】をしたくない。


全てに。

 

僕は目的を、必ず、果たすのだ。


有利に、狡猾に、会話を進めなければならない。

 

暖かな暖炉が、身体を温めてゆく。

 

だが僕は、心を硬く強張こわばらせてゆく。

 

僕の心の緊張を、目前に立つ響教授に悟られぬように。


「誰……? 君は、盗人ぬすっとだ。そうだろう?」

 

遅れて応えた彼の言葉には、もう先ほどの緊張感は含まれていなかった。

 

ダメだ。


有利に、もっと有利に会話を進めてゆかなくては。


僕は苛立つ。


「はぐらかすんですか」


不躾ぶしつけで、あつかましい盗人。……其処そこに居なさい」


「っ、何処にゆかれます……!」


「面白い物言いをする人だ。さぁ、これを。髪が濡れている」

 

そう云って差し出された白いタオル。清潔でふっくらとしたタオル。

彼は今度はしっかりと微笑んでいた。

僕を見詰める彼の優しげな視線が、子供の頃亡くした父親を思い出させた。


「ありがとう、ございます」


「そうそう、よく拭きなさい。

 何か、飲むかね……?」


「いえ、お構いなく」


「待っていなさい」


奥へと消えてゆく彼の背中を確かめて、与えられた白いタオルで髪を拭いた。

すっかりと大きく育った暖炉の炎が、先ほど感じた重苦しい雰囲気を取り払う。

湯気の立つマグカップを手に、戻ってきた彼はうっすらと、微笑みすら浮かべていた。

 


「何も無いが、体が温まる。飲みなさいハーブティーだよ。妻の好物でね。苦手だったかな」

 

それは、カモミールにレモングラス。そして僅かなシナモン。

苦手であるものか。このレシピは……。


「……いいえ。僕も好きです。それに、此の味は――」と続けようとした僕の言葉を遮るように、教授が話し出した。


「さぁて。では、聞くとしよう。君は、誰かな」


心なしか、親しげな声音に聞こえた。

彼は暖炉の炎に向かって左右に置かれた一人がけの膝掛椅子ソファー

そう、僕が腰掛けた椅子と対照的に並べられた、もう片方に腰を下ろした。

 

揺れる炎が僕たちを照らす。


「何故、此処へ……?」


改まってそう尋ねる。

彼は真っ直ぐに僕を視る。

ホンの僅かであった僕の精神的有利は、崩れ去ろうとしているように思えた。

 

そんなことは許さない。

 

許せない。


「お心当たりが、あるのでは」僕は食い下がる。食い下がっているつもりであった。だが、所詮それは……。


「クイズは……好きではないんだ」

落ち着いた声が、それをねじ伏せる。彼の家、彼の椅子。彼の居場所で。


「先ほど、僕を見て驚かれていましたね」


胸が、押し潰される。

温かく揺れる暖炉の火影ほかげ。柔らかなタオル。そんなモノに。

鼓動が、刻むように僕に促す。


 ――イソゲ――と。


「余りに」教授が云う。


「憐れに見えたから……かな」


「! どういうことですっ」思わず声音が上がる。侮られている。この男に。


「濡れて、疲れ果てていた。

 さ迷う野良犬のようだったよ」


「ふざけるなっ」


立ち上がった僕の拳が、小刻みに震えた。怒り。何に。

この男の、子ども扱いに。

もう、直接に問いただしたい。たった一つのコト。大切な、大切な僕の――


「なんと……。

 君は、不躾であつかましいだけでなく、恩知らずなんだね」


「貴方に恩など――!」


「清潔なタオルと、温かい飲み物。当然のほどこしだと、君は誰に教わったんだろう」


彼の口調は、年長者のそれとして、僕をたしなめるように僕をあざける。

 

たとえそう扱われようとも、僕は【子供】であってはならない。

 

少しだけ俯いて足元に浅く息を吐くと、波立っていた心が静まるのを感じた。

 

慎重に。


激高は隙を作る。

 

再び、繰り返し胸の内で唱える。

 

失敗は、許されない――と。


「失礼しました。ですが、どうか、はぐらかさずに教えてください。姉は、瑞菜みずなは、此処に居るはずですっ」


「ミズナ」

 

彼がその名を繰り返す。たったそれだけの事が、僕の心を激しく揺さぶる。


「貴方は、僕を見て、姉を、姉を――」


「君は」彼はまた、僕を遮る。


「君は、夜分突然に現れ、無人であっても進入しようとドアを開け、床を濡らした」


「そ、それは――」


「にもかかわらず、僕に施しを受け、今はそうして、炎の前で腰掛けている」


「だからそれは――」


「其の椅子は、息子のお気に入りでね」


息子……。


そうだ、彼には家族が居る筈。共に姿を隠したと……。


メディアの興味は、直ぐにうつろう。いつしか誰も、彼の話題を口にすることは無くなってしまった。

彼の行方を求める事。僕にはそれが差ほど困難ではなかった。

それは、ハガキに記されてあったから。

遅れて僕の元に届いた、たった一人の家族。

姉、瑞菜のハガキに。


 

幾度も遮られる僕の言葉。だが、苛立つ事を努めて抑える。それは、良策とは云えないから。



「覚えているかな。君は、まだ、名乗ってすらいないんだよ」


「貴方は知っている」


『少なくとも僕の顔を』


「何故そんなふうに何時も、会話が成り立たないんだ」と云って残念そうに頭を軽く振る。


「イツモ……?」


照らされた肌の熱が、頬骨を上って、瞳の奥底まで痺れるように広がってゆくのを感じた。

 

鉛のように重たくなってしまった瞼。

 

ぐにゃりと歪んでゆく視界の中で、懸命に彼の姿を捉えようと抗っていると、其の僅かな視界を遮る、アレは彼の指、それとも白い――






「う、ううん……」


「もう、気が付いたんだね。さぁ、顔を横に向けてあげよう。しばらく吐き気がするはずだ。我慢せず……と言ってあげたいが、片付けるのはごめんだよ。此処は、大切な治療室だからね」


「教授……?」頭がズキリと、指し込む様に痛む。


見上げると響教授が白衣に身を包み、マスクをつけて僕を見下ろしていた。 

 

「これは、どう云う事です」


声を出してみると、胃液が逆流しそうなほどの吐き気を感じた。


「冷静なんだね。とても助かるよ。私は、雑音ノイズに敏感でね。君が静かにすると約束するのなら、話をする事だってかまわないんだ」


 冷静……。


であるわけが無い。

けれど、騒ぐのが得策ではない事だけは、解っていた。

知っていた。何度も読み返した姉のメモ。最初は覚書。

そうして、見え隠れする存在。

其れは、男。

男の癖、言葉、好きな事、嫌いな事。

憶測で、事実として。様々な日常。

響啓吾と云う男。


彼について書かれた沢山の記事。

だがどれも、公になっている事実以外は憶測でしか書かれていない。

実像は薄ぼんやりと靄の掛かった陽炎のように捉えられていない。


姉を探し、必ず辿り着く響という存在。

僕は彼の恩師にあたる、高浦と云う男に会いに行った。

そして高浦氏の知る限りの彼、という人物像が窺える文章を、入手することが出来た。

其処に記された響という男。

高浦は云っていた。


 響を、悪魔の様な男であると。


 響は人を魅了し、支配し、破壊すると。


破壊。


そう、破壊すると。

 



「さて、話そうか」


教授が僕に語りかける。


僕は高浦の文章から読み取り、想像した響教授像。


其の記憶をたどることに務めた。


『そうだ……彼は決して寡黙ではない、むしろ会話を愉しむ癖がある』


「そう、ですね」


「嗚呼、素敵だな。君となら、久しぶりに会話を楽しめるだろうか」


「もちろんですよ」


『彼は否定を事の外、嫌う。彼の好むモノ、それは議論では無く、【肯定】が前提の会話……』


込み上げて来る吐き気。

此れは、きっと薬品の仕業。

僕は、懸命に堪えながら目をいっぱいに広げる。

寝かされているのは恐らく医療用の寝台。

その横に置かれた、小さな丸椅子に腰掛ける彼を、僕は懸命に見詰める。

見下ろす響教授の目を、真っ直ぐに見る事だけに、意識を集中させた。

彼の目は、深い泉のようでも有り、虚ろな硝子玉のようにも思えた。

小首を傾げて僕を見下ろしながら、淡々と呟く。


「ふうむ。どうも君は、本当に違うようだ」


「何がです」『何と、だ』


「彼女と」教授が応える。


僕は、彼との会話に慣れてきた。

 

だがこの状況を考えれば、それが早いのか遅いのか、明らかであった。

 

短い彼の言葉。その一言一句から僕は答えを引き出さねばならない。

 

寝かされながら、少しずつ戻った感覚。

  

 まるで病院の一室。


其処は消毒薬の鼻を突く臭いに混じり、微かにもっと怖気が走るどろりとした空気に満ちていた。

 

白いカーテンでぐるりと囲まれてはいるが直ぐ隣に、同じように寝台に横たわる者がいるように思えた。

両手首に力を入れてみるが、やはり何かに縛られているようだった。

 

でも僕は決して目をそらさない。


そう、対峙するのは常人じょうじんでは無いのだから。

 

早くに両親を亡くし、二人きりの姉弟あねおとうと

親代わりだからと、双子の僕に世話をやく姉。

だが、今は狂おしいくらいに懐かしく恋しい。

たった一人の肉親。


父が死ぬと施設に送られた。

子供の頃から二人、何が起ころうとも支えあって生きてきた。

そう、何が起ころうとも。


街へ出て暮らすようになると、姉を一人残し毎晩悪い友人と遊び耽っていた僕。


気付かなかった。

 

姉が誰かに惹かれていたという事を。

そうしてそれも、許されない相手だということを。

 

二人で暮らしていたあの安アパートに、今はもう、姉は居ない。

 

残されていた部屋で見つけ、知らなかった姉の毎日を短い言葉から読む。

其れは走り書きのようなメモ。

姉は、何かにつけて考えを書き留める癖があったのだ。

部屋の隅々から見つけて読み漁った。

 

其処に書いてあった【家族】のいる男の名が、響啓吾。

 

この男であった。


最後に見つけた走り書き。

 

 【彼を、助けたい】


 

ノートの切れ端一面に繰り返し書かれている【助けたい】と云う言葉が、気になって仕方が無かった。

姉の綴る【彼】と云う人物は、響啓吾に違いなかった。

妻子が有りながら、地位も名声も有りながら、響は姉を、支配していた。

 

許されない。


決して。

 

そんな男に姉は恋をしたというのか。

 

そんな男に。

 

そうして届く。

配達の遅れた一枚のハガキ。

ある人の手伝いをしていると、【心配をしないで】と云う、短い文章だけのそのハガキ。

自分の居場所は記されていない、たった一枚のハガキ。

母の胎内で繋がり、共に眠り、血肉を分けあった双子。

僕は驚嘆する。あのおとなしい姉が、断ち切るように消える。家族を、僕を捨てて。

有るはずがない、そんな事実。


消印を追い、知人を尋ね、僕はやっと辿り着いたのだ。

 

 

世話好きの、優しい瑞菜。

 

僕の双子の姉。たった一人の大切な僕の家族。

 

 

確信は僕の心を強くする。


 

この男は、姉の行方を知っている。

 

姉に、何をしたのだ。

 

こうして僕に薬を飲ませ、拘束する理由がもし姉に関係していると云うのなら――

 

姉は、瑞菜は――

 

 

そんな風に瑞菜を思っていると、頭の中の薄靄うすもやが徐々にハッキリとなってゆく。

だが教授は、だんだんと言葉があやふやになってゆく。

それはまるで夢現ゆめうつつ

自らに問いかけ、自ずと応えるように。


「瑞菜君が姉と、言っていたかい? ああ、違った……。……いや、そうだ、確かに――」

 

僕は何とか、彼を僕との会話に引き戻そうと努めた。

 

「姉です、僕の姉です」


 『思い出せ、響』


「そう、なのか?」


 『そうだ、思い出せ。瑞菜はどうした。何処に居る』


「ご存知ありませんでしたか」


「身よりは……居ないと言っていた。幼い頃に両親をなくし、施設で育ったと……」


『僕のことを話していないのか』

 

「姉は、瑞菜は何処です」


「さぁ……」


僕は、教授がそのまま全てを、姉を、今こうして腕を縛り付けている僕までもを忘れ、その夢の中に逃げ込んでしまうのを恐れた。


「此処に居るはずです」


「そう、なのかい?」


僕の問いかけに、そう言って返す。

先ほどまでと違う教授の様子は、さらに僕を動揺させた。

其の瞳に英知の輝きは無く、まるで途方にくれた子供のようであった。

 

小首をかしげ、何かを考えている風であったが、突然彼は細長いひんやりとした指を僕の唇に当てた。



「しぃっ」


 

其の目の色が、敵に備える番犬のように大きく見開かれる。

そうして耳をそばだてながら、ゆっくりと部屋を見回す。


「聞こえるだろう、アレだ。君の為に点けた暖炉の炎の香りを、嗅ぎつけたんだ。声を出しちゃいけない。アイツは、雑音ノイズに敏感なんだ……。マコトは、渡さない。私の息子は……。マコト、今行くよ、怖がらなくていい、」


呟きながら、教授は隣の寝台へ続くカーテンをくぐっていった。

 

驚くことに、僕の隣に寝かされているのは、彼の息子、響マコトであったのだ。

 

僕は懸命に耳をそばだてる。彼に息子が居ると、沢山の記事に書いてあった。

 

そう、響マコトと云う息子が。



「父さん、どうしたの」


「大丈夫だ。

 お前は、心配することなんて無いんだよ」


囁くように、声が聞こえる。

教授ともう一人。優しげな青年の声が。

もしや、彼も僕と同じように、拘束されているのではないか。

父である教授の狂気に、晒されているのではないだろうか。

そうして彼ならば、瑞菜について何か知っているかも。


僕は、咄嗟に声を掛けてしまう。


「マコトさん、マコトさん、聞こえますか」


「え」小さく青年の声が聞こえる。


瑞菜みずなを、姉を知りませんか」


「ミズナ……」


「そうです、瑞菜、僕の姉ですっ」


「やめたまえ。マコトは病気なんだよ」


状況は変わった。

教授の他に居る、第三者マコト。

その青年も、救いを求めているのでは――僕は声を荒げ身を揺すって教授の気を引く事にした。


「くそぉ、瑞菜はどこだ、瑞菜をどうしたっ」


「残念だよ。だが、騒いでもらうわけにはいかないんだ。少し、眠っていたまえ」


隣の寝台と此方こちらを遮るカーテンより首を出して顔を覗かせた教授は、明らかに不愉快そうな声を出した。

眉をひそめ脇に置かれていた台より注射器を手に取った。


「っ、すみません。つい、姉が心配で。静かにしていると約束します。其の臭い、きっと吐いてしまう。自分を汚すのは僕だっていやです」


眠らされるわけにはいかなかった。

再び目覚めることが保証されているはずも無く、懸命に話しかけた。

かつて無いほどに、頭を働かせる。

どうする、どうする。


「あっ」僕は、驚くように声を上げた。背中をむけ準備をしていた教授が僕を振り返る。


「うん?」


「聞こえた!」


「っ、聞こえたか……やはり、やってきたのか」


「ええ! 僕にも聞こえましたっ」


「そうか、やはり、聞こえるんだな……君にも。ク、ククク、ははは、そうか、聞こえるかね、聞こえる。聞こえるじゃないか……マコト、聞いたか、ちゃんと聞こえたそうだ」


教授は嬉しそうに隣へと声を掛ける。

英知溢れると評判の彼が、僕の拙い演技に騙されるだろうかと云う、僕の賭けは――吉とでた!

僕は懸命に演じる。


「しっ、騒いだら……」


「おお、そうか、そうだったね……」


「鍵は……?」


「ああ、そうだ、そうだった……」


「マコトさんは僕が護ります」


「そう、そうか、それは……すまないね」


「だから、これをはず……っ!」


期待以上の彼の反応に調子付いていた僕は、腕に小さな痛みを感じた。

 

 

 僕は絶望する。

 

 

声を潜めて耳元で教授が囁きかける。


君は、ヤツの恐ろしさを知らない。セイレーンは……」


薄れてゆく意識の中で、確かに聞こえた。

 

セイレーンと……。



再度修正いたしました。(2月)

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