第六話
猪爺には鳥笛なる物を持たされている。
要は……迷子の笛なんだけど。もしも何かがあって途中道に迷うようなことになったら、これを吹いて猪爺に知らせるのだ。
まぁ、もうすでに何度も来たことのある山だし、その可能性はほとんどない、と言ってもいいんだけどさ。用心の為にいつも渡されるのだ。
だから私は大丈夫だって、安心しきっていたのかもしれない。
足には自信があるし、下りでは走れば日暮れまでには帰りつけるだろうし、楽勝、楽勝! と思ってたのに――――
それが甘かった。
「まさか……落ちるなんて……誰が予想したのよ……」
横から飛び出してきた手の平ほどの子栗鼠を避けようとして――見事に転げ、いや、転がり落ち、大きく元の道から外れてしまった。
最悪なことに、首から掛けておいた鳥笛はぱっくりと二つに割れてうんともすんとも鳴らない。
そしてもっと最悪なことに……どうやら左足首を捻ったようなのだ。
「えー……んー……困った」
本当に困った時っていうのはもっと焦っておろおろしてしまうものかと思っていたけれど、なんだか自分でも驚くほどに落ち着いている。
「さて、真弥……どうするの?」
真からもらった赤い紐はしっかりと腰にまいていたお陰で失くしたりはしていない。
ぎゅっと握りしめて目を瞑る。
真なら、どうする……?
――まず、歩けそうか、確かめる。
「くっ……折れてないから、大丈夫。痛いけど我慢出来ないほどじゃない。右足は使える……」
次には?
日が完全に落ちるまで時間がない。そうしたら夜の獣達が動き出す。火を持ってない私は不利だ。
「こ、小刀……」
袋に仕舞っておいた非常時用の小刀をいつでもすぐに使えるように腰に差す。
できればあまり使いたくないけど、今はそんな事言ってられない。
「元の道にさえ戻れば心配した猪爺が助けに来てくれる……よね」
自分で言っておいて不安になってきた。
心配してくれているといいけど。どうだろうな、猪爺……。でも、父さんなら帰って来ない私にすぐ気づいてくれるはず。
上を見上げてみるけど、転げ落ちた崖をこの足で登るのは不可能だと判断した。
だったら同じ方角へ進めばいいだけの事――――
大丈夫。大丈夫。
焦っては駄目だ、と猪爺にも散々言われたばかり。
私はさっき摘み取っておいた赤紫の粒苺を何個か口に放り入れて、水で無理矢理喉に流し込んだ。
異変に気づいたのは水音が聞こえた時だった。
「ああ、やったぁー。小川まで来た!」
左足首は熱を持って丸っこく膨れ上がってしまっていた。
水に浸した布をそおっと足首に当てる。
「くぅー、冷たい! あとちょっとだからね、頑張ってくださいよ」
人事のようにそう呟いた時――――ふと何かが焦げたような匂いが漂ってきた。
辺りを見回したけれど、火は見えないし……決していい香りだとは言えないものだ。
「なんだろ……臭い……」
治ったはずの頭痛がまたぶり返してきた。
多めにおばあちゃんに薬をもらっておけばよかったな、と思いつつ私はまた歩き出す。
ついに黄色の花畑まで戻ってくるとその匂いはさらに強くなった。我慢出来ずに腕で鼻を押さえ付けながら足を引きずり前へと進む。
ここからならもう村の見張り塔の灯りが見えるはずなのに……その方角は真っ暗だ。
どうして……見張り役の兄さんが火をつけ忘れたのかな?
いつもある光景が違う姿に見える時はいつだって自分にとって嫌な事が起きる時。
真が村を出てった時の夜を思い出してしまう……
歯を食いしばって痛む足を叩きつつ、私は早足になった。
あと少しで村が見える、といった距離だった。
何かに腰の紐を後ろから掴まれ、私の体は宙に浮いた。
「えっ…………?」
痛みがお尻に走った時、自分が投げ飛ばされたのだと気づく。
その瞬間――――
ヒュンと風を切る音が耳に届き、私の鼻先には刀の切っ先が付きつけられていた。
自分の悲鳴が出る前に体が悲鳴をあげて私は息を呑んだ。
「村の娘だな」
聞いたことのない声に、少し曖昧な発音。
たった一言だけなのに、それだけでこの人は村の人間ではない、と全身で分かった。
「答えろ、一人か」
「……はい」
後ろからも枝を踏みしめて近づいてくる足音が聞こえる。
前に一人、後ろに……多分一人。
なんでこの村に? こんな山の奥のまた奥の村に?――第一どうやってここまで……?
大昔に体の小さな男の子とだったら喧嘩で勝ったことがあるけれど……それは飽くまでも喧嘩だし、ましてやこの小さな小刀で勝てるなんて気はさらさらない。
後ろから近づいてきた人間が松明を持っていたお陰で、私に刃を向ける男の顔がやっとはっきりした。
子どもの頃のお話の中に出てきた――獅子。
黄金の鬣を風になびかせ、走る獣の王。
睨まれたら最後、獲物の体は爪先から一気に凍りつく。
身の毛もよだつほどの咆哮は全ての者を目の前に平伏せさせるほどの威力で――――
「お前は『マヤ』か」
「……え……っ?」
恐怖に飲み込まれそうになっていた所に、自分の名前が呼ばれ、私は浮上する。
「村人は『マヤは外出した』と言っていた。今村の外にいるのはどうやらお前だけのようだ。お前が『マヤ』だろう」
外出?
なんとも綺麗な言葉だと、私は思っていると、後ろから来たもう一人の男が獅子に声をかけた。
――何を言っているのか、分からない……ああ――
この人達は紛れも無く、山の外から来た外界人だ。
言葉が私達と違うんだ……
外出なんて言葉、村ではそもそも使わない。村で『外出』と言えば、山へ狩りや山菜採りなどに出掛けることだ。私達はちゃんとその日に行く場所をはっきりと誰かに伝えてから村を出る。『外出』なんて一括りにしたような言い方はしない。だって、危ないもの。もしも何かあって家へ帰って来ない場合、探しに行く手がかりが必要になるから。
もちろん皆は『真弥は山へ行った』という意味だったんだろう。でも皆は彼に私が『何をしに』外出したのかまでは伝えていない……
だったら……
「答えろ」
切っ先が私の髪に触れ、顔の横の髪が切れて地面に落ちた。
どうして?
どうしてこの人達は私を探していたんだろう……
生まれてから一度も会ったこともない人間が、なぜか私の名前を知っていて、私を探すためだけにここへ来たというの?
私は獅子の顔を見る。
ほんとうは恐怖で膝がガクガクしてる。
手だって汗で湿っている。顔はとても熱いのに、指先は凍えたように指先が痺れている。
それでも私は獅子の顔を見た。
今までに見たこともない……深い深い紺碧の目だった。
「――――つっ」
さらに刃を動かした獅子は私の右頰を傷つける。一気にそこに熱が集中するのが分かる。
「答えねば、お前の村人同様、切るぞ」
「村人、同様?――――まさか……」
再び松明を持った男が獅子に二言三言声をかけた。
それを聞いて眉を上げ、にやりと笑う獅子……
見張り塔の灯りがなかったのは……もしかしてあの焦げた嫌な匂いは……
「お前もあいつらの仲間入りをしたいなら別だが」
ああ、真……
私達の村が……
私達の生まれ育った村が……
あなたを待っていた村が――――
「皆を……殺したの……?」
絞り出した声は震えていた。
「質問は俺がしているのだ。俺の質問に答えろ、お前は『マヤ』だな」
「違う」
「違う?」
「私は真弥じゃ、ない」
目の前の二人はちらりと視線を交わし合う。
獅子は一瞬また不敵な笑いを浮かべたけれど、またすぐに私を睨む。
「嘘だな」
「う、嘘じゃない!」
「だったら、マヤはどこにいる、言え!」
今度は反対の頰に痛みが走る。
もちろん嘘だった。
でも、それはこの場を切り抜ける嘘。
生きるため、の嘘だ。
「真弥は……私の……双子の妹で」
「双子?」
隣の男は松明を私の方へ高く掲げる。顔を良く見るためなんだろう。
「村の皆が『外出』している、と言っていたのは……山を降りた、という意味で……」
「山を、降りた?」
「そう。婚約者を追って出て行った、の……」
「婚、約、者?」
隣の男が獅子に耳打ちをする。言葉が分からなかったんだろうか。
「では婚約者の名は何と言う」
「真」
「シン?」
獅子はちらりと横目で隣の男を見た。男も獅子を見る。
そしてさらに低い声で獅子は聞いた。
「……お前の名は何だ」
私の名前は、真弥。
でも、今は真弥であってはいけない。
真弥であればこの男は探していた私を殺すのかもしれない。
死にたくない。
殺された皆の為に、真の為に。
そして自分の為に――――生きたい。
「マ、ミ…………真実」
隣の男がまた獅子に耳打ちをする。
どうか、どうか……信じて……どうか、上手くいって!
今度は獅子が男に何かを言うと、その男は獅子に向かって一礼をして、ピィっと笛を吹いた。
向けられた切っ先が引かれ、鞘へと収まった刀。
獅子が近づいてきたかと思うと、顎を捕まれ、顔を上げさせられた。
紺碧の目なのに輝きは夜に妖しく光る獣のようで、一瞬でも気を抜けばあっと言う間にその牙で喉元を引き裂かれそう。
それでも、私は獅子の目から視線を外さなかった。
生きるんだ。
生きて、生きて、生きる。
ここで、死ねない――――
「真弥を、探しているなら……協力、してもいい……私達は双子だから……」
少しだけ、獅子が眉を下げて笑ったように見えた。
手を離されると、先ほどの笛の音で呼ばれたのか数人の人間がこちらへ走ってくるのが見えた。
獅子の手にはいつ取ったのか私の腰にあった小刀が握られていた。
「では、女……マミとやら。共に来い」
ねぇ、真。
どうか……どうか私を守って下さい。
どうか真と会えるまで、真のように強い心を、生き抜く心を私に下さい――――
一六年過ごした村と家族と友人を一日で失い、私は村を出る。
侵略者の獅子と共に。