第一話
そろりと家を出て来た。
愛想のいい笑顔を顔に貼り付けつつ、すれ違う人達にいつも通りの変わらない挨拶をして、周囲から皆がいなくなるのを見計らった。
道中、ゆっくりと橙色の夕陽が木々の隙間から溢れるのを見て、私は大きく息を吐いた。
「あー……良かった……」
ああ、今日も夕陽がきれい……明日も晴れるといいな……
目的は頂上。右へ左へくねる道を進んでいく。
現在、山管理の猪爺しか入山を許されていないこの山への頂きには一本の木が毎年赤い果実をつける。
それは「幸運をもたらす」として、村で人気の果実なのだ。
だけど、年に一度、初夏の時期にしか実らないその甘い香りを持つ実は年々数を減らし、今年はその数が極端に少ないことからとうとう村長が猪爺に命令を下し、入山を制限するまでになった。
もちろんその実に限らず、例えば茸がたくさん取れたり、枝や大きめの葉がたくさん取れるなどの他の目的で入山することもあったのだけど、それを期間限定で禁止することに決まった。
特に女の人達はとても悲しんだ。
刺繍を丹念に凝らした服であったり、綺麗な色で染めた頭巾であったりなど、試行錯誤しながらなんとか果実に変わるものを作り出そう、と知恵を絞ってはいるのだけど……やはり長く続いたものを変えるのは難しい。
猪爺もありとあらゆる手を使ってみたと聞いたけど……やっぱりどうする事も出来ないと判断したらしい。
しばらく辛抱して様子を見よう――苦渋の決断だったのだ。
木が枯れてしまうことにでもなれば元も子もない。だから皆、文句も言えず、まだ木が生きているのだから、いずれまた元通りに実をつけてくれるようになれば私達もまた取りに行けるのだから――と考え、泣く泣く村長の決定に従うことにした。
今日の私を他の姉さん達や友達が知ればどう思うだろう……
後でばれた時の事を考えるだけでぞっとするけどさ……でも、今日だけは譲れないの。
どうしても真にあの実をあげたいの。
そりゃ、抜け駆けみたいで悪いなとは思うけどさ……
足元にあった小石を蹴る。それはこつんと勢い良く木に当たって崖から落ちた。
そっと行って、そっと小さいのを取ってくれば、いいよね。見つからなければいいよね。
そう何度も自分自身に言い聞かせて一歩ずつ前へ進む。
明日は真にとって待ちに待った大切な日。
山を降りる人が選ばれる投票日なんだから。
この村の四方八方を覆うのは深い深い緑、山々。どこまでもどこまでも続く。
いつから私達の先祖がここへ住むようになったのかは分からない。私達はここの山をお守り下さっている山神様の恩恵を受けて暮らしている。
枯れることのない湧き水。
切っても切っても生えてくる木々、豊富な山の幸。
太陽は東から規則正しく毎日昇り西へ沈む。適度に雲を呼び、雨ももたらしてくれる。
日々の幸せは微々たるものだけど、村の皆はそれなりに仲が良くて、争い事はあまりない。
多少の喧嘩はもちろんあるけれど、次の日には仲直り。
助け合い、笑い合い、そんな暮らしをしている。
こうした暮らしが出来るのも私達が村の中、山の中にいるからだ。
一旦山を降りれば、山神様の守りは届かず、山が牙を向けると言う。
下山の道は山神様のお許しがなければ開かず、途中で迷ってしまいいずれ命を落とす。
山管理の猪爺は村と山の外を行き来できる人で、下山道を知る唯一の人。
今回の選挙で選ばれた者だけが猪爺の案内で山を降りることが出来る権利を得る。
そしてそこから外に広がる世界に触れる事が出来るんだ。
選挙にはもちろん候補者がいる。二回目の今回は真を含めて四人だ。
立候補制で、資格を持つ者だけが、我こそはと名乗りを上げる事が出来るのだ。
その資格は事細かく決められていて、話に聞くだけでも、両手両足だけでは足りない程だという。
その内の一つに年齢の項目があって、十六歳の成人を迎えていなければならない。
前回の投票の時は真は一五だったので、立候補の「り」を言った途端、村長に「口を噤め」と戒められた程だった。
その夜会いに行った時の彼の悔しく歪められた顔を私は今でも覚えている。
候補者には一人ずつに色があてがわれ、投票者はこれぞ、と思う者の色と同じ色の葉っぱを箱の中に入れる。
真に充てがわれた色は赤。真が大好きな色。
いつも額に巻いている赤い紐は頭の後ろで固く結ばれ、背中に長く垂れている。
遠駆けをする度に風になびくその紐を見るのが私はとても好きだ。
だから余計にあの赤い果実を渡したい、渡さないといけない! と強く思ったの。
あともう少し。
あともう少し。
なんとか陽が沈む前にあの木まで辿り着かないと、実がどこにあるのか見えなくなっちゃう。
私は上下する胸を抑えながらさらに足を早めた。
西の空が真っ赤に染まっているのを見ながら明日の真の当選をお祈りした私は、さてと……と、目の前の木を見上げた。
節に足を掛けてなんとか手を伸ばせば届く所に一つだけ赤い実がなっている。
全体をぐるりと回って見てみたけど、まだ青いものを数に入れても実は五つほどしか見当たらない。
去年の今頃はこの何倍もなっていたのに。取りに来る人がいないのにこれだけしかないなんて……
雨の日が多かったわけでも少なかったわけでもない。風によって地面に落ちてしまった形跡もない。ましてや木が枯れているわけでもないのだ。
日照りの日が多かったわけでもないし……他の木の実はちゃんと実っているのに。
どうして……この木だけ?
ここにいるのは私だけだと分かっているけど、きょろきょろと辺りを見回して耳を澄ましてみる。
静か……よし……
一つだけだから……一つだけだから。
ゆっくりと私はその木の幹に足をかけた。
手をこのでっぱりにかけて、足をここへ持ってきて……
ぐーっと腕を伸ばすと、指先にやっと赤い実が当たった。
あっとちょっと! と思って、さらに体を持ち上げると――――左手を置いていた太い枝がミシッと音を立てた。
「あ……わわ……」
落ちながら咄嗟に右手を振り回し――――ドンっと音がしてお尻に痛みを感じた時には私は根本に座り込んでいた。
「い、たぁー!!」
衝撃音で驚いた鳥達がバサバサと一斉に飛び立ち、赤い空へと飛んで行く。
それを涙目で見つめながら、私は少しの間、お尻をさすって痛みが引くのを待った。
木から落ちたことはこれまでに一回どころじゃないし、これよりひどい怪我だってしたこともある。でもさすがに痛みには慣れないんだな……
またおっきな青痣になっちゃうなぁ……
腕や足も服が所々破けて血が滲んでいた。
「あーあ……なんで落ちるかなぁ、私」
見上げると、さっき手にかけていた枝が宙ぶらりんになっていた。あの枝がなければもう実に手が届きそうもない。
でも、さっきまで目指していた実の姿が見えなくなってる。
「あっ!」
見回すと少し離れた所でポツンと落ちていた赤い実。
慌てて拾い上げると右手にねとりとした感覚があった。側面を見たら、ほぼ半分が潰れて果汁が滴っている。
「あっ……あー……」
甘くて赤い実は外見も然ることながら、果汁も真っ赤で、一旦手についてしまうとなかなか取れないのだ。
ちょっと舌で舐め取ると甘酸っぱさが口に広がる。残りは丁寧に拭き取ったけど、やっぱり手の平はほんのり赤く染まった。
持ってきた布にそぉっと崩れかけた実を包んで、背負っていた袋へと大事にしまう。
もう一度木を見上げてみるけど……もう一つなんて……どうやっても取れそうにない。
「……間抜けー……」
木の天辺に止まった烏がクェ―、と私を馬鹿にしたように鳴いて余計に惨めになった。
私の婚約者の真は村長の一人息子。年は私より五つ上。
物心ついた時から、私には決まった相手、真がいるのだと父さんに言われて育った。
それを真も受け入れていたようで、私達は仲の良い兄妹のような関係を育んでいた。
ある日、彼に見合う年頃の女の子は山のようにいるのに、どうして私なんか? と思って父さんに聞いたら……
「今は長になんて収まっとるが、昔は毎晩酒を飲み比べする飲兵衛だったのだ! お前と真との婚約は俺が飲みに勝った時の約束だ。俺に感謝しろよ、今では村一番の男の嫁になれるんだから」
ガハハと大きな口を開けて笑う父さんを見て、私は顔面蒼白になって家を飛び出した。
賭けの道具だったなんて……そんなのでいいの?
私は真が大好きだけど、でも……真は? この事を知ったらどんな反応をするんだろう!
「真弥?」
広場で暗がりの中一人で座っていた私を偶然にも真が見つけた。
ううん……きっと父さんが心配して真を呼びに言ってくれたんだ。
そして優しい真だから私の行きそうな所を一つずつ探してくれたに違いない。
その証拠に、今の時間は家に居たはずの彼の手は私と同じくらい冷たかった。
「どうした? まーた誰かと喧嘩でもしたか?」
「ううん……そんなんじゃないの……」
「マーヤ?」
隣に座った真は私の冷たくなった肩を抱く。
くっついた所からじんわりと温かさが伝わってきて、真の微かな汗の匂いがした。
「父さんから……聞いたの……」
「何を?」
「私達がどうして婚約者になったのか……」
「そう。どうして?」
真は私の俯き加減の顔を覗き込む。柔らかい月明かりに照らされた彼の顔はとても綺麗。
男の人にこんな表現はおかしいかもしれないけど、でも、真は本当に綺麗な顔立ちをしてるんだ。女の私が落ち込むくらいに。
すらりと伸びた顎。笑うと右の頰に一つえくぼが出来る。長めの前髪が女の子の視線を遮るように時折隠すけれど、その下にあるのは晴れ渡った空のように澄んだ薄茶色の瞳。
他の男の子達を率いて先頭を馬で駆ける時にはいつも厳しく引き上げられる黒い眉は、私と居る時には優しく下げられる。そして両目を細めて微笑むんだ。
「賭け事の……結果でそういう事になったんだって……」
「仁さんが、そう言ったの?」
「うん……長が昔、父さんに飲み比べで負けたからって……」
「飲み比べ!?」
私の婚約者は急にお腹を抱えて笑い出した。
「真……?」
「――っ、ご、ごめん! いや、仁さんらしいと思ってさ――ははっ」
父さんらしい?
私はどうして真が笑っているのか分からずに、頰を膨らます。
その膨れた右側の頬に真の唇が触れた。
急だったから私はびっくりして体を引くけれど、彼がそれを許さず、そのまま私を抱き寄せた。
「違うよ、真弥。それは仁さんが照れ隠しの為にそう言っただけだよ」
「照れ、隠し?」
「うん。彩さんが亡くなられた時のことだけどね……仁さんはものすごく落ち込んだんだ」
「母さん……が?」
真の口から突然亡き母の名前が出てきたのは予想外だった。
「親友の父が仁さんを慰めるために毎晩酒に付き合ってたらしいよ。それで、仁さんは泣きながら真弥の事をずっと気にしてたらしい」
ゆっくりと真は私の体を解放する。私達は向き合った。
父さんが泣いてた……? 私の事を思って?
きっと私の顔からは幾つもの疑問が読み取れたのだろう、真はくすりと笑いを零す。
「『この子は母を知らずに育ってしまう。いくら村の女達が母代わりになると名乗りを挙げてくれたとしても、本物の母親というものは特別なものだ。それは特に女の子にとってはな。こんな粗忽な父親が育てれればこいつの将来は見えたものだ。それじゃあ、嫁の貰い手に苦労する……』」
「えっ……じゃあ、長が飲み比べで負けたって言うのは……」
「そんな事あってもおかしくはないだろうけど、俺達の婚約とは無関係だろうね」
開いた口が塞がらない、とはこのことだ。
父さんってばどうしてちゃんと言ってくれなかったの?
なんで嘘なんか? 親同士が決めた結婚の約束なんて村ではよくある事なのに。
「仁さんと父は酒豪だしね。そう言えば真弥は信じると思ったんだよ。それに恥ずかしかったんだと思うよ。男親が泣いて娘の将来を案じただなんて本人に知られるのが」
「でも……賭けの道具にされたと信じた娘の気持ちはどうなるのよっ……」
真は優しく私の髪を撫でる。
まるで気が立った猫をなだめるように優しくゆっくりと。
それが気持ちよくて、むくれていた顔がとろんと溶け出してしまいそう。
「ねぇ、真弥。真弥はまだ小さかったから覚えてないだろうけどね、初めて俺が父から真弥の事を聞かされた時……嬉しかったんだよ」
「ほ、んとに?」
「ほんと。俺が嘘をついたこと、あったっけ?」
「…………ない」
「だろ?」
真の笑顔は私のささくれた心を癒していく。でも……
「本当に良かったの? ほら、他にも可愛い子とか、料理が上手な子とかいっぱいいるのに? それに、真は長の息子なんだから……」
「なんだ、真弥は俺に他の子を薦めたいの?」
「そ、そんなんじゃ!」
横に勢い良く振った手を掴まれてそのまま真の大きな両手に包まれた。にやりと真の口角が上がる。
「冗談。真弥の成人の日が楽しみだ。早く大きくなってくれよ、婚約者さん」
――これは一年前の話。
こうやって笑い合っていっぱい抱きしめ合って、いつか一緒になれる日を私達は心待ちにしていたの。