4話
----どうして、こうなったんだろう
少女の頭の中で、そんな一言が響いていた。
少女の眼下で、銃を持った男達や女達が一人の男に襲いかかっている。機械の様に正確に相手の隙を見つけながら味方を撃たない様に発砲するその動きは見事な物で、男はただ銃弾から身を守るだけで精一杯になっている様に見える。
一方的に襲われている男は、少女に流れ弾が行かないように立ち回っている風に思えた。それだけを見れば、少女は男に守られている様に見えるだろう。
だが、実際には違う。少女もまた、男を殺そうと隙を窺っているのだ。
----どーして、こうなっちゃったんだろうなぁ
男の隙を見つけようと窺いながらも少女、ジェーン・ホルムスは心の中で盛大なため息を吐いた。
今目の前で男に対して大きな抵抗も出来ずに倒されているのは彼女の手持ちの兵隊達である。組織の金で買った薬で作り上げたそれらがゴミの様に倒れる事はジェーンにとっても嬉しい事ではない。
「……使い捨てって言ってもなぁ」
「んんん? 何か言ったかい?」
思わず口を突いて出た言葉を耳聡く聞きつけ、男は空中で体を回転させて、相手の射線を混乱させながらジェーンに話しかけてくる。
その声はとても脳天気な物で、銃弾が体を掠めている事など気にもしていない様だ。
だが、その馬鹿そうな雰囲気とは裏腹に、彼が持つ二丁の拳銃から放たれた銃弾は一発たりとも外れる事無くジェーンの兵隊達を撃ち抜いていた。
「……なんでもないよ、リドリーさん」
曲芸の様な、格闘技の様な動きで二丁拳銃を操る姿にまた呆れ、ジェーンは面倒臭そうな顔をする。
まったく乗り気ではないその反応を見て、男、リドリーは奇妙な笑みを浮かべた。まるで言葉を別な意味として受け取った様に。
「怖がらなくてもいいんだ、俺が君を守ってやるからな」
妙に気取った、気障に見えなくもない笑顔から出た言葉にジェーンは気分が悪くなった。
リドリーの声は感情が籠もっている様でもあり、棒読みにも聞こえる。その声こそ男の内心を見破りにくくさせている要因であり、ジェーンが疲れた表情をしている理由でもあった。
そんなジェーンを余所に、リドリーは倒した兵隊が持っていた機関銃を蹴り上げて器用に両手で掴み、扉の向こうで待ち伏せをしていた兵隊達を容赦無く撃ち殺していく。
なぜ見えたのか、なぜそこに居るのが兵隊達だと分かったのかは甚だ疑問だったが、ジェーンはもう気にしない事を決めていた。
子供が蟻の列を踏みつける様な、相手を生き物扱いをしていない笑顔を浮かべたリドリーは機関銃をゴミの様に投げ捨てたかと思うと、拳銃のグリップで接近した兵隊の頭を思い切り殴りつけている。
----本当に、どうしてこうなっちゃうんだろうか
頭を叩き潰される勢いで倒れ込む兵隊達を眺めつつ、ジェーンは内心と袖の中の拳銃を隠して頭の中に先程起きた出来事を思い浮かべた。
数分前
「二重に、21、にじゅー、ジューキュー……どうして、こうなったんだろう」
数分後に同じ事を考えるなど知りもせず、ジェーンはため息混じりにカウントを続けていた。既にスクリーンの中のエンドロールは終盤に入っていて、音楽も終わりが近づいている。
ジェーンのカウントも終盤に入り、それと同時にジェーンは余裕を取り戻していく。そのままであれば、スクリーンが暗転すると同時に気分は楽になるだろうと思わせた。
「はは! すばらしいワンダフル最高だ! なあなあみんな拍手拍手しないとねぇ!」
が、隣に居る男が喋る言葉に呆れと疲れと妙な不気味さを感じ、ジェーンの表情はまた余裕の無い疲れを思わせる顔を浮かべた。
隣に居るだけで様々な種類の疲れを感じさせるが、それでもジェーンは意地を張って座り続ける。何より、この船に乗った者は皆、もし無関係であっても『復讐の対象』なのだ。
----後、十秒。みんなみんな、殺してあげる。
心に自らの復讐の炎をもう一度刻みつけ、ジェーンはカウントを再開する。もう、後十秒も無い。背後で彼女の兵隊達が準備をしている事が何となく分かる。
そうとは知らない男は拍手に夢中で、背後の人間が銃を構え始めている事など気づきもしない様に見えた。
何故か、そうは思えない気がしてくるのが不思議な事だったが。
スクリーン内の音楽は既に止まって、最後の名前が表示された所だ。それでも興奮が冷めない男の拍手は室内に音を響かせている。
ジェーンはその態度から感じられる不思議な不気味さと不安さを隠しながら、時計の針を見て微笑みを浮かべた。
「三、にー、いーち……ゼロっ」
時間だ。ジェーンがカウントを終え、流れ弾を避ける為に椅子の下へ隠れたその瞬間、彼女の兵隊は機関銃を手に持って立ち上がった。
スクリーンが、暗転する。
瞬時に銃声が響き渡り、人が倒れた音が聞こえて来た。
「……え?」
音を聞いて、ジェーンは呆けた様な声を上げた。人が倒れた事に驚いた、などという話ではない。いや、それはある意味では間違っていないのだ。
問題は人が倒れた事ではなく、その方向にある。そう、人が倒れた音は隣からではなく----少し離れた、兵隊達の居る場所。
この瞬間、銃声が何度も、何度も響き渡る。
照明は消えている為に部屋で何が起きているのかを明確に知る事は出来なかったのだが、銃のマズルフラッシュが男が何をしているのかだけを伝えてきた。
そこに居た男は暗闇の中で二丁の拳銃を持って、次々に銃弾を放っていた。
無造作に放っている様にしか見えなかったが、効果は絶大だ。撃った側から兵隊達が倒れていく事が、ジェーンには何となく伝わってくる。
「……はは」
男は、軽い声で笑っていた。赤いドレスの伝説の通り、本当に不幸がやってきてしまったのだ。尤も、男----リドリーには、幸福でしか無いのだが。
二丁の拳銃をまるで体の一部を使う様に巧みに操り、リドリーは兵隊達を倒していく。まるで演武でもしている様な動きだ。
勿論、兵隊達とて強化され続けた機械にも等しい存在だ。相手がただ者ではない事を見切ると、彼ら彼女らもそれに合わせて動き出す。
内部の状況に気づいた兵隊達も扉を蹴って破り、入り込んで来る。
それを見ると同時にリドリーは射線から逃れる為に床へ伏せ、『偶然』懐から落ちて床に転がしていたマガジンに銃を押しつけて見事な動きでリロードして見せた。
「……何これ、え、何なのこれ」
まるで、どころか本当に演武だ。しかも、実戦だというのに緊張感の一つも感じさせない。ジェーンは今、目の前で起きている光景が受け入れられずに居た。
そんな彼女を置いて、戦闘は続いていく。兵隊達は最初の半分まで減らされており、戦況は圧倒的にリドリー一人だけの優位に立っている。
リドリーは心の底から浮かべている様に見える笑顔で銃を構え、相手を撃つ事に何の躊躇いも無く、あくまで炉端の石を踏みつける様に引き金を引く。
彼が引き金を引く度に、兵隊達は何の抵抗も無く倒れていった。
兵隊達が両手で数えられるくらいの数にまで減ったその時、リドリーは座椅子を蹴り上げて飛び上がり、相手の射線を混乱させた。
「っ、ふっ!」
軽く息を吐いて、リドリーは着地する。その先には丁度、ジェーンの兵隊達が数人居る。
相手が接近した事を認識した兵隊達は素早くナイフを取り出して、リドリーの急所になりそうな場所を狙って攻撃を仕掛ける。
が、リドリーの動きはとんでもなく素早かった。
獲物を狙う獣の様な俊敏さで兵隊達の一人からナイフを奪い、相手が何かをするより数倍早く喉にもう一つの口を作って蹴り飛ばす。
かと思えばナイフを捨て、再び仕舞っていた袖の二丁拳銃を近距離から遠慮なく発砲し、自分を囲う形で立っている兵隊達を見事な動きで倒していった。
それは彼がボスと敬う男とどこか似た、だが別の『何か』が混ざり込んだ動きだ。だが、そんな事はこの場の誰も知らない上、知っていても兵隊達には意識など無いから気づかない。
瞬く間にその場の数人を片づけてリドリーは残った一人を見つめる。
そこには殺気や敵意は微塵も無く、その顔には楽しそうな、だが何故か演技にも感じられる笑みだけが広がっていた。
最後に残った一人の兵隊が銃を構えて応戦するも、リドリーはそれがまるっきり、ただの、少しも気にならなかったらしく軽い動きで銃を手から蹴飛ばし、その動きのまま相手の腹部を踏みつける。
呻き声一つ上げる事は出来なかったが、リドリーは別にそれを聞きたがっていた訳ではない。
「これ一回言ってみたかったんだよねぇ」
腹部を思い切り踏み潰す様に力を込めながらも、何やら惚けた様な顔で呟き、嬉しそうに弾んだ声を上げる。
そして、二丁拳銃を倒れ伏す相手に向けながら、リドリーは上を向き、自分の言葉ではない『台詞』を読み上げた。
「『お前は強い様だが、この俺はリドリー。つまり、お前よりも』……」
声は途中で銃声に遮られた。どうやら映写室を制圧した者が居たらしく、見下ろす形でリドリーに発砲する。その足下には仲間が居るというのに、気にした様子も無い。
銃弾はリドリーを撃ち抜く事無く、足下の仲間を蜂の巣にしてしまった。視界からリドリーが消えた事に最後の一人は目を高速で動かして探すが、見当たらない様だ。
映写室の窓を開けて、兵隊は顔を乗り出す。だが、これは最悪の悪手だった。
顔を窓から出した瞬間、シアタールームにある蝶番に手をかけ、口に銃を加えたリドリーが兵隊の首に手を掛け、引っこ抜く様な動きで放り出す。
勢い良く引っ張られたか為に兵隊は窓からあっさりと落ちていく。
だが、窓と兵隊はほぼ同じ幅だ。その様な事をすれば窓の側にある機材も無事ではすまない筈だが、リドリーは首を掴んだと同時に僅かな動きで映写機を傷付けない様に移動させていた。
「映写室が汚れるじゃないか!」
自分でやった事だと言うのに、初めてその顔に微かな怒りを宿してリドリーは叩き落とした者をあっさりと撃ち殺す。
そして、数秒もしたかと思うとそんな人間が居た事など忘れたかの様に、リドリーは楽しそうに微笑む。が、すぐに周囲を見て困った様な顔をした。
血飛沫や銃弾によって室内は大変な状態になっていた。いや、大変などという一言で表せる物ではない。穴だらけの椅子、血飛沫で塗れたスクリーン、人の肉まで転がっていて、地獄絵図と表現しても良いだろう。
酷すぎる状況に困り果てて、リドリーは一言だけ呟く。
「……弁償でもしなきゃいけないのか?」
演技の様な、普段とは違う印象の声で呟かれたそれは、どこか第三者に語っている様にも思われた。
「……あーぁ、やられちゃったかぁ」
その姿を、ジェーンは遠い目で見つめている。その目には絶望も希望も無く、淡々と起きた事だけを受け入れる姿がそこにはあった。
此処には、もう彼女が支配している存在は一つも無い。そして、武器となりそうな物は元々袖に隠し持っていた拳銃の一本のみだ。どう考えても、通用する相手ではない。
「残念だなぁ……ここで計画失敗だなんて」
諦観が伺える顔で、ジェーンは息を吐く。彼女の兵隊は船内にまだまだ存在するが、少なくともジェーン自身がこの場で殺されてしまえば何の意味もない。
間違いなく、自分は此処で殺されるか捕まってしまうだろう。幾ら映画に夢中でも、隣で意味有りげなカウントをしている少女が無関係だとは思わないだろう。
そう考えたジェーンは陰鬱な顔で座り込み、溜息を吐いた。
リドリーは無言の無表情で少女に近づいていく。両手に持っている二丁の拳銃と、浴びた血飛沫が一層危険に見える。
殺気や敵意は変わらず感じられなかったが、それでも無言で近づいている姿は不気味で、ジェーンに命の危険を感じさせるには十分すぎた。
目の前まで近づいてきたリドリーが片方の銃を袖に収納し、空いた手をジェーンに近づかせる。首でも絞めてくる気なのかもしれない、拷問されるかもしれない。
だが、ジェーンは恐れよりも反撃を優先させる事にする。
袖に隠してある銃は気づかれていないのか、リドリーが警戒する様子は無い。油断があるのだろう、伸ばした手は無防備で、あっさりと反撃出来る様に見える。
実際にはそうではないのだろうが、ジェーンはその希望に縋る事にした。
手が、近づいてくる。ジェーンの頭は妙に冴えていて、手はゆっくりと迫っている様に見えた。
そのままリドリーは無言で手を伸ばし、ジェーンが腕を僅かに動かして----
「いやー大丈夫か! 無事か? 弾は当たってないかな!?」
心配そうに顔を覗き込んで、肩を叩く姿に思わず腕を止める。
「……は?」
「いや、いや! いいんだ。大丈夫だ、俺は味方だ、怖がらなくていいぞ」
呆けた様な声を上げるジェーンに、リドリーは分かっているとばかりに何度も頷き、何も分かっていないのが分かる笑みを浮かべている。
そこには危険そうな色は微塵も存在せず、ただ少女を心配する男の姿だけがあった。
「は……? へ?」
そんな状況になった意味がよく分からず、ジェーンはただ意味にならない声を上げる事しか出来ずにいた。袖に隠された銃は既に降ろされ、抵抗出来ないまま肩を捕まれ続けている。
何を思ったのか、リドリーはもう片方の銃も収納して両手で肩を掴み、何故か楽しそうにジェーンの体を揺さぶった。
「分かってる、君はあいつらに追われてるんだねぇ!」
何が楽しいのか、リドリーはそんな物騒な事を満面の笑顔で言ってみせる。ふざけているとしか思えない態度だが、その目が本気そのものである事は明らかだ。
異常と呼んで差し支えのない顔だった。目尻は下がり、口には裂けているのではないかと思う程の歪んだ笑みが、何より目には抑えきれない喜びが見えた。
「あんな変な連中に追われるなんて不幸な目にあったねぇ、けど大丈夫! 俺が付いてる!」
愉快そうな声を聞いて、ジェーンはようやく状況に納得が入った。リドリーは、彼女の兵隊達を『彼女を追っている』と勘違いしたのだ。
どうやってその様な無理がある勘違いをしたのかはジェーンにも分からなかったが、リドリーがそう考えている事だけは伝わってくる。少なくとも、そう見えた。
「……ええっと、はぁ」
「ん? どうしたんだい? ああ、俺じゃ不安? 不安か? 安心しろ、俺は多分割と強い」
何とか、自分の首が繋がった事を理解したジェーンが安堵の息を吐く。隣で何やらよく分からない事をリドリーが話しかけてくるが、聞き流す事にする。
「何、俺はスゴい武術を身につけていて、敵の配置を統計から割り出して相手の射線から逃れる事が出来るんだ、だから安心して良い」
----嘘だ、ほぼ確実に嘘だ。
聞き流しながらも、ジェーンは半ば確信を持ってリドリーの言葉の真偽を見抜く。
あまり細かく動きが見えていた訳ではないが、それでもリドリーがかなり無理矢理に『その様な形になる』動きを取っている事は何となく分かっていた。
その方法も、ジェーンは察する事が出来ている。
「……射線を見て、避けたんじゃないの?」
言いながらも、ジェーンはその出鱈目さに溜息を吐く。
様々な銃弾が飛ぶ中で、その射線を見切って全てを避けるなど、到底人間の出来る事ではない。実際に見ていなければ、ジェーンも『怪しい武術の成果』とでも言われた方がずっと説得力があるに違いない。
だが、彼女の推測は事実だったらしい。
何となくリドリーの動きが止まった様に見えた。図星だったのか、歯車で駆動する機械の様な動きで目が逸らされ、口元の笑みはぎこちない物に変わる。
が、それはすぐに消えて、そこには安心させようと一生懸命で、同時に寒々しい笑顔だけが残った。
「はは、何の事やら分からないねぇ。よしよし、君が追われてるなら俺は偶然巻き込まれた身として、自衛と……の為に動かなきゃいけない!」
言いながら、リドリーは側に転がっていた機関銃を拾う。
どういうつもりなのかとジェーンは一瞬警戒したが、次の瞬間にはその理由が分かった。リドリーは、銃を構えて天井に撃ったのだ。
「ストーリー開始だぁー!」
唐突に響いたリドリーの意味不明な声と同時に機関銃の音が響き、ジェーンは耳を塞ぐ。
無駄に銃弾を上方に撃ち続ける姿を見た所、少なくとも攻撃という意味ではないらしい。いや、恐らくは『祝砲』のつもりなのだろう。
何を祝っているのかは、知りたくもないが。
ジェーンの呆れと疲れを余所に銃弾は天井に当たり、次々に穴を開けていく。やがてそれは大きな穴を作っていく。
上の階の床を数発が突き破った様に見えた途端、銃から軽い音が聞こえて銃声は止まる。弾切れだ。どうやらリドリーは『祝砲』の為に撃ち尽くしてしまったらしい。
「あぁぁーぁぁあぁあ、あぁ。耳がキーンとするねぇ。さっきはハイになってて気づかなかったんだけど」
撃ち終えた途端、銃を投げ捨てたリドリーが耳を押さえて苦悶の表情を浮かべてその場を転げ回る。どう見ても自分自身が原因だ、馬鹿以外の何者にも感じられない。
だが、そんな馬鹿だからこそ恐ろしい力でジェーンの兵隊達を全滅させてしまった事が、より一層恐ろしく思えるのだ。
「それでね、俺は思った訳だ。船の上、映画館で隣同士、銃を持った兵隊が襲ってくる。となれば、起きる事は一つ、いや幾つかあるけど大体はコレか」
耳を押さえる事を止めたかと思うと、何の脈略も無くリドリーは何かを喋り出す。まるで誰かに何かを発表するような口振りだったが、その目はジェーンにも、誰にも向けられていない。
何かに夢中になる男の声は、その室内で良く響く。漂って来る血が噎せ返る程の臭気を漂わせている。慣れているジェーンですら眉を顰める程だ。
が、リドリーは息を吸う事に何の躊躇も見せていない。むしろそれが良いとでも言うかの様に息を吸い、言葉に乗せて吐く。
「よし、じゃあ行くか! 俺は決めたぞ! あの雑魚共の親玉を探し出して、倒して、船に平和を取り戻す!」
それだけ言って、リドリーはジェーンの腕を掴んで持ち上げる。あまりの勢いに『雑魚共の親玉』である少女の体は軽く浮き上がってしまった程だが、何とかジェーンは着地する事に成功した。
「わっ……何なの?」
少しよろけて、ジェーンは眉を顰めた。が、同時に疑問も浮かんでくる。
「どうせ非常用のボートは全部壊されてるとか、罠が仕掛けられてるとかそういうのだろうねぇ、やっぱり……とりあえず船上に出よう! こういうのはそれが良いさ、多分」
「え、いや……ん?」
目の前の男は、一体何を言っているのだろうか。
楽しげに笑っている事も分かる。今の状況を喜んでいる事も分かる。だが、決定的に----何をしようと考えているのかが、分からなかった。
「こんな場所に居てもどうにもならないし、連れていってあげよう」
自然な動きでジェーンの腕を引き、リドリーは少女を外へ連れていこうとする。赤いドレスの少女の腕を掴み、男が引きずる姿はまるで誘拐か何かだ。
一瞬、ジェーンは悲鳴を上げようかと思って止めた。それをした所で、助ける人間も居なければ、もし居たとしても男を倒す事など出来る者は居ないだろう。
「ああ、しまった!」
黙り込んだジェーンに、ある意味では先程の数倍以上の面倒臭さを巧妙に隠した笑顔を見せる。どこか演技の様な慌てた声だ。
----もしかして、こいつ……
それを見たジェーンの中にある予想が一瞬だけ現れて、次に男が口を開いた事でその感情は消え去った。
「リドリーだ、よろしく。あなたとは是非、仲良くしたいねぇ」
演技にも見えるが、本心から言っている様にも思える。リドリーの言動はそういう物だ。
その目的と細かい思考は全く読めないが、どうにもリドリーという男は自分を映画の主人公か何かと勘違いして、ジェーンをヒロインだと考えているらしい。何とも見事な思い込みだ。
ジェーンは心の底からリドリーを馬鹿にし、同時に不気味に思っていたが、声には出さない。この状況はある意味、一番安全と言えるからだ。どんな愚か者であったとしても、リドリーという男は強いのだから。
「……わ、わたっ……私っ怖かったの! お願い……助けてっ!」
だから、ジェーンは心から助けを求める様な声で叫び、リドリーに縋り付く。悲痛さと苦しみが同時に現れたその姿は、もし事情を知っていても無視できない程だ。
もちろん、リドリーもそれを無視しない。
「ああ、ああ。大丈夫、大丈夫だ……」
同じ言葉を何度も囁き、リドリーはジェーンの肩を何度も叩く。声には少しだけ優越感と、喜びが見られた。
その姿を心の中の冷めた瞳で見つめ、ジェーンはリドリーの視界に入らない場所で歪んだ笑みを浮かべる。
何もかも計画通りではないが、それでも活路は見つかった。今頃は兵隊達が船の全体に攻撃を仕掛けている事だろう。流石に、リドリーの様な人間が何人も居るとは考えたくない話だ。
それは油断と呼べる感情だったが、少なくともジェーンはそれが真実だと考えている。実際には、そうではないのだが。
リドリーが手を引いてくる。どうやら付いてこいという意味らしく、その態度は多少演技臭くとも堂々とした、何やら大物『っぽい』空気を放っていた。
----見てなさい、隙を見て……殺してあげる
心の中の殺気を全力を以て隠しつつ、ジェーンはリドリーの隙を窺う事を決めた。
「さあ、倒してやろうじゃないか。この船の敵を、この俺の敵を。敵として」
そうとは気づかず、いや、気づいていない風にリドリーは笑い、歩きだした。
+
そして、時間はジェーンがリドリーの隙を見つけられず、ただリドリーの遊びが多分に含まれた戦闘を溜息混じりに眺めていた時に戻る。
シアタールームには、もう死体以外に動く物は何一つ無い。今の所、死臭の類はまだ余り感じられないが、血と硝煙の臭いはジェーン達が居た時よりも強烈だ。
部屋中に散らばった空薬莢と銃弾で出来た穴、そして血がそこで起きた戦闘の凄まじさを物語っている。
それがたった一人と集団の戦いだと、誰が気づくだろう。少なくとも、この場で見ただけでそうだと気づく者は居まい。
何の動きもない、その部屋では、もう音は響いていない。スピーカーは音を止め、スクリーンには何も映っていない。先程放映されていた映画も、起きた戦闘も、既に過去の物だった。
そんな室内に、音が再び蘇る。
内部で何かがあったのではない。外部から音がやってきたのだ。扉が開くという、音が。しかもその音は一つではない。
三つの扉から、同時に音がやってきたのだ。
音と同時に扉は開き、三人の人間が別々の扉から姿を現す。
三者三様、性別が男で、カタギではない雰囲気を放っているという以外は何の共通点も----少なくとも、一見した所は見られない。
一人目は、剣呑さと力強さを兼ね備えた、一目見て『カタギ』ではないと分かる男。
二人目は、慌てた様子で部屋に飛び込んだ幾つも武器を持った、その点でどう見ても一般人には思えない男。
そして、最後の一人は----歪んだ笑顔の仮面を被る、時代を逆行した姿の男。
三人は同時に現れた者達の存在に驚くと同時に銃を構え----
+
一方、リドリーの去っていったシアタールームから一つ上の階に、二人の男は立っていた。
これと言って変わった所は無い、背が高い細身の男と背の低い男の二人組だ。長身の方は仕立ての良いスーツを着ているが、特に変わった所とは思えない。
平凡ではない所があるとすれば、手に拳銃が握られている事と、敵が現れる事があれば即座に撃ち殺せる様に準備をしている様に見える部分だけだ。
この点だけが、彼らを平凡な一般人以外の何かに見せつけていた。
そう、彼らは先程、共に居た男を見捨てて逃げた者達だった。捨てられた方はそう思っていなくとも、彼らはそう感じている。
「お、おい……これ……」
背の低い男が部屋の床を見て、まるで地獄でも見てきたかの様な青い顔をしている。蒼白の顔色はまさしく死人同然だ。
どうしてそんな顔をしているのか。それは部屋の様子を見れば、誰もが理解できる事だろう。そこには、悪夢が転がっていたのだ。それも、とびきりの悪夢が。
「……うげ」
もう一人の背の高い男は、壁を触ったと同時に感じた嫌な感触に思い切り眉を顰め、気分が悪そうにしつつも手の汚れを着ている服で拭き取る。
すると、スーツには赤い液体がこびり付いていて、男は更に眉を顰めて嫌な顔をする。その液体の正体は、色よりも早く臭いが教えてくれるだろう。どこか鉄臭い香りを放つ液体の正体は言うまでも無いが----血液だ。
壁中に、血液が飛び散っている。銃で撃たれたと分かる物や、壁に押しつけられて体を潰されたのではないか、と思いたくなる様な物まで、飛び散り方は様々だ。
この場で起きた事がどれだけ凄惨だったのかを如実に示して見せ、同時に人の意識をかき乱す光景である。男達もまた思い切り眉を顰め、心の底ではこんな状況を作り出した存在へ恐怖を覚えている。
「…………なんだよ、これは」
思わずそんな言葉が背の高い男の口から漏れる。拳銃を握りしめた彼らは、何とか逃げ込める部屋を探していたのだ。そして、破れかぶれの気分で偶然入った部屋こそ此処だった。
彼らとて流血沙汰に耐性が無い訳ではなく、むしろ慣れているくらいなのだが、これほどまでの物となると耐性など有って無い様な物だ。嘔吐していないだけ、彼らはまだ耐えられているのだろうが。
部屋の一部には、肉片の様な何かが付着している。そこで暴れた何者かは余程彼らに恨みがあったのだろう。そう思わせるにふさわしい光景だと言える。
「……こいつは酷い」
「そ、それより……こいつを見てくれよ」
残虐なやり口に背の高い男が眉を顰めていると、側に居た背の低い男が声をかけてくる。男は指で床の一ヶ所を指していて、混乱に包まれた蒼白な顔を晒していた。
思わず、男は更に眉を顰める。視界に入れない様に、気にしない様に努めて無視していた物を、嫌でも直視するしか無い状況に持ち込まれてしまったのだ。
だからこそ、背の高い男は苛立ちを籠めて答えた。
「ああ……分かってるよ、死体だろ」
男の言う通り、もう一人の顔面蒼白の男が指す方向には死体が転がっていた。彼らと同様に特に変わった所の無い男性で、見覚えは無いが町でよく見かける類のよくある顔だ。
彼らと同じく銃を握り込んでいなければ、やはりただの一般人の死体だと考えてしまったに違いない。
死体は、明らかに『まとも』では無かった。全身を銃や爆薬で武装し、服の中には防弾チョッキがある事が何となく見て取れるのだ。しかし、それだけが死体を異常に見せているのではない。
死体は----肉片を飛び散らせて体中を穴だらけにしていたのだ。
「……機関銃でもぶっ放されたのかね、こりゃ酷い」
「うぇ……こっち見てみろよ、床をぶち抜いて弾が飛んだんだ、うわ、天井まで貫通してやがる……」
死体をそんな状態にした物がどうやら床からやってきたらしい、という事はすぐに分かった。恐る恐る死体を退けた男がすぐに気づいたのだ。床に、恐らくは死体の穴と同じ数の穴が開いている事に。
そっと、底を覗いて見る事にする。だが、すぐに背の低い男は顔を背け、逃げる様に穴から距離を取る。凄まじい勢いで動いた後は、冷や汗を浮かべて震え出す。
態度を急変させた姿を見て、もう一人が少々の好奇心を抱く。それ以上に恐怖心が湧き出てくるのだが、しかし、『怖いもの見たさ』だ。穴の下にどんな光景が広がっているのか、誘惑には勝てない。
そして、背の高い男はその穴の奥を見た。
「……おぉ……こりゃ、酷い……」
同じ様に顔を蒼白にして、穴から出来るだけ距離を置こうとする。出来るだけ壁に張り付いた二人は顔を見合わせ、引き吊った笑みを浮かべている。
二人は同じ物を見ていた。
「……あ、あそこのあいつってやっぱり……」
「あ、ああ。だろうな……分かるよ」
思い切り、おぞましい物でも見る様に二人が頭に同じ物を浮かべる。穴の奥はシアタールームだ。破壊された椅子や人が倒れている床はその場で起きた事態の危険性を物語っているが、それはどうでも良い事だ。
彼らにとって重要なのは、そこで三人の何者か達が戦っている。その一点に尽きるのだ。
三人の顔はよく分からない。しかし体格から男で、とても人間とは思えない身体能力の人間が二人程居る事は理解できる。
片方は、まだ良いのだ。問題は、もう片方の『仮面を被った何者か』である。
遠目から、しかも穴から覗いただけでも分かる嘲笑を象った仮面を付け、古めかしいトレンチコートと山高帽を付けた存在だ。二人はその風貌に聞き覚えがある、大規模な取引を台無しにされたのだ、忘れられる筈が無い。
「Mr.スマイルだ」
「そう、Mr.スマイルだ」
二人の言葉は完全に一致していた。外見だけであれば間違いなくMr.スマイルなのだ。そして、相手と戦っている姿は何やら危険な雰囲気が溢れ出している。
それが本物であると、全身から保証している様にしか見えない。そして、Mr.スマイルは彼らの取引相手を凄惨に殺したのだ。
彼らが震え上がるには、十分すぎる理由と言えるだろう。
「……ど、どうするんだ…………?」
二人が同時に顔を真っ青にして、顔を見合わせる。彼らには超人的な身体能力も無ければ状況判断力も無い。ただ単に薬の売人をしているだけで、彼らはこの状況をどうにか出来る方法を知っている訳では無いのだ。
ともかく、二人は隠れようとする。この部屋に来たそもそもの理由がそれなのだから、当然だろう。下の階がどの様な状況なのかは、もう見ない事にした。
下に居るMr.スマイルにその存在を理解されてしまえば、終わりだ。二人は同じ壁の側で、力を抜いて気配を殺そうとする。
やがて、耐えられなくなったのか背の低い男が軽口を叩いた。
「……なあよお、壁に背を張り付けた方が良いんじゃねえか?」
「うっせえ……俺はこのスーツ気に入ってるんだよ。さっき汚しちまって、これ以上汚したら取れなくなるかもしれないだろうが」
予想以上に不機嫌な声が背の高い男の口から漏れ出していた。
男が、本人の言う通りスーツを気に入っている事はよく知られた事だ。今も、血の付いた壁に服が付かない様にしているのがその証である。
「まったく、スーツが好きなのは知ってるけどよ。だけどよ、こんな状況で……」
「こういう時だからこそ、拘りとかってのは必要だろう、なあ?」
二人は軽口を叩きあって無理矢理に笑みを浮かべていた。この状況だ、そうしなければ身が持たない気分になってしまうのだろう。
しかし、話題の無い二人は自然と視界に死体が入ってくる。嫌でも目に付く穴だらけの死体はどんなに目を背けようとしても見せつける様にその存在感を放っていて、無視出来ない。
そんな死体を見ていると、背の高い男が何かに気づいた様に声を上げた。
「……なあ」
眉を顰めて、死体を見ている。一つだけの死体だ。血みどろで、生前はどんな人間だったのかを表すには顔と武器以外は何も無い。
だが、背の高い男も背の低い男も分かっている。倒れている死体の正体は恐らく、自分達を襲撃した集団の一員なのだろうと。
そして、男の疑問もそこから出る物だ。
「……この血、コイツらのだよな」
「ああ、多分な」
壁中の血飛沫と、肉片を指さして男が言う。背の低い男はまだ気づいていないのか、首を傾げつつも投げやりな調子で答えている。
しかし、背の高い男の声はどこか怯える様な物で、深刻さが強く強く伝わってきてしまう。
「……明らかに、ここで何人も死んだんだな……」
「……ああ…………」
今度は、背の低い男も真剣に答えた。だが、察しが悪い様で男の言葉に対してまだ何も気づいていない。それに苛立ったのだろう、背の高い男は軽く舌打ちする。
だが、何も言わない訳ではない。一度だけの舌打ちを終えると、すぐに頭の中にあった恐怖混じりの疑問を言葉に乗せた。
「じゃあ、残りの死体は……どこに行ったんだ……?」
『敵の配置を統計から割り出して相手の射線から逃れる事が出来る』 映画『リベリオン』より。言うまでも無くガン=カタ。マジンガーすらオマージュする超有名な架空の武術。クリスチャン・ベールがカッコよくてたまらない一方で、精神的には余り強くない(設定上仕方ないけど)。まあ、本作のはパロディ的なアレです。