15話
カナエと二人が完全に去っていく。それを確認してから、小さく溜息を吐いた。
計画が台無しだ。あの爆弾事件の犯人は頭が狂っている。自分と同じく、人の顔など覚えていないと確信していたのだが、人間の姿を構成する物の一つとしては覚えていたらしい。
自分より、少し優秀だ。自分の場合は、興味や関心、それに愛情もカナエの物である。壊れ狂った頭では、彼女以外の全てを記号や性質として記憶する事しか出来ない。
あの名無しの誰かは、カナエに対してどこか特別な感情を抱いている様だ。ただし、自分と同じ愛情の類とは違って、友情と呼ぶべき物も感じられる。その点では、彼女を楽しませる恋人にはなってくれないだろう。とても残念である。自分には微塵も通じない話も完全に合う様で、とても相性が良さそうに見えたのだが。
ともあれ、友人であっても喜ばしい事だ。カナエの幸せを第一に思っている身として、素直に祝福できる。世の中には恋人が他の異性と一緒に居るだけで怒りを覚える者も居るらしいが、愚かな事だ。とはいえ、ビジネスの道具としては活用しやすく、有り難い性質だとは思っている。
自分の様な人間性を全人類が手に入れてしまえば、瞬く間に世は破滅するだろう。この心を埋め尽くす虚無は、繁栄も発展も、生存も求めないのだから。
さて、カナエと名無しの男は上手く事態を制止させられるのだろうか。起きる事には興味が無いが、彼女がどれほど楽しい思いをするかは重要な事項だ。
実は、彼女の事は全く心配していない。精神性があらゆる物事を楽しむ様に出来ているし、何より、命の危険という物があり得ないのだ。
どう転んでも、カナエの楽しい幸せに繋がる。なら、この場合で心配するべきは自分自身だろう。
どうも、カナエが発する不気味な享楽の気配が敵意や悪意の有る接近を許さないらしく、一人で居ると自分を暗殺しようとする人間が時折現れる物だ。
それを撃退するだけの力は持っているが、限界は有る。こういう時に限って、敵という物は現れるのだ。
「大人しくしなさい」
ほら、来た。
扉へ背を向けた瞬間、刃物の感触が首筋に触るのが分かった。気配は分かっていたが、それなりに早かったので反応が追いつかなかった。
「あなた、このホテルのオーナーなんですってね?」女の声に続いて、男の声が聞こえてくる。
「そうなんだってな?」
背中に押しつけられている物に、銃口が加わった。大口径の拳銃である。部屋の壁くらい突き破れるだろう。もっとも、このホテルは防弾仕様なのだが。
「私がオーナーであれば、どうするんですか?」
「ちょっとばかり、私達がお家に帰るのを手伝って貰いたいのよ」
「つまり、人質ですか」
「そう、出来れば彼女と一緒に死体の結婚式を開こうと思っていたのだけれど、今日は何だか運に恵まれなくて」
そこで、やっと背後の二人があの奇妙な殺人夫婦だと気づいた。どうでも良いゴミの声はすぐに頭から消えてしまうから、困り物だ。
「私がオーナー、というのは誰から聞きましたか?」
「親切な情報をくれる人さ」
「……隠したかったけど、しょうがないわね」女の高めな溜息が聞こえる。「さっき、偶然会ったのよ、それで、ね? 分かるでしょう?」
情報、世の中に情報屋や情報通は数多くいても、ここまで妙な連中に、恐らくは無償で情報を与える人物。そんな者は、一人しか知らない。
「ああ、あの『男爵』ですね」何となく、計画外の事が起きた理由を察する事が出来た。
「そうさ、『男爵』さんだよ。良い人だよな、俺達にこのホテルを紹介してくれたし、何より」何も考えていないのか、男は喋らなくて良い内容まで口にしている。
それに比べれば女の方はまだ物を考える程度の頭が有るのか、少しだけ真っ当な雰囲気だ。
「オーナーさんなら、みんなに言う事を聞かせられると思ったの。協力してくれるわよね?」
自分が居れば無事にホテルから出られると思っている様だ。
勘違いだが、訂正する気も起きない。むしろ、何も持たずに大人しく逃げた方が良いと思うのだが、背後の二人には、危険な方法しか思い浮かばないのかもしれない。
「協力は構いませんが、殺されても知りませんよ?」
「別に構わないわ」死への恐れは、その声の何処からも感じられなかった。
経験から察せる範囲では、この二人は陶酔と快楽、更に殺人衝動の混沌から来る狂おしき感情に支配されている。カナエ辺りなら、面白がって飛びつく感情だ。
「私とこの人の目的は、人殺しだもの。死にたくはないけど、いよいよ最後となったらお互いでお互いを殺せば良いだけよ」
「それ、ロマンが有って良いなぁ。今度一回、お互いの腹を刺したり撃ったりしてみないか? 凄く良い気分になれるかもしれないぞ」
息が合い、かつ仲の良い夫婦だ。完全に同じ感性を共有する関係の例と言える。自分とカナエには無い物だが、どちらが優れているとも言えない。
「さ、行きましょう」腕を引っ張られる。顔を見られない様にしている風だが、一度会っているのだから、無意味だ。「逃げないでくださいね」釘を刺してくるが、これも意味が有るとは思えない。
逃げなくても、気紛れや心変わりで殺しに来る可能性が高い。その時に備えておく。何時死んでも構わないが、とりあえずカナエとの結婚式くらい完遂したい物だ。
もう少し、上を見てみる。今頃、彼らは何をしているのだろう。カナエの笑顔を想像していると、とても気分が良くなる。
「さて、どういう結末になるか……カナエが見ていてくれると良いのですがね」
「婚約者さんに会わせてあげられないのが残念よね」
「ああ、残念だ。俺達より仲の良さそうなカップルなのに」本気で申し訳なさそうな言葉には、全く悪意が含まれていなかった。
「ああ、お構いなく。私は、彼女の事を宇宙一良く解っていますから、側に居るのも、一緒に居るのも同じですよ」
そう、意識しなくとも彼女は側にいる。普通の人間には認識しただけで狂い死ぬ程におぞましき真実でしかなくとも、自分にとっては世界一幸福な事だ。
ならば、くだらなく、どうでも良い殺人鬼の事は意識に入れる価値すら感じられなかった。
そして、カナエで埋め尽くされた思考の中で、僅かに考える。
カナエと一緒に行った部下は、自分に隠し事をしていた気がする。その勘が正しい物であるなら、それはそれで良いかもしれない。素直にそう思った。
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自分と紅は、ロビーのソファで座り込んでいた。
無駄に座り心地が良く、眠くなってくる柔らかさだ。しかしながら、微塵も癒されぬ暗い気分が、眠気の進行を抑えつけている。寝てしまいたいのに眠れない、一種の拷問と表現する必要すらあり得るだろう。
ただプランクの殺害に失敗しただけの自分で、この始末だ。隣で転がる紅に至っては、両手で顔を押さえて呻いている。
いや、よく見れば寝息を立てている。単なる寝言の様だ。疲れているにせよ、図太い神経をしている。
馬鹿らしくなってきた。このホテルに居るプランクの仲間が殺しに来ても、それはそれで何とかなるだろう。人間、色々な物を諦めると世の中を楽観視するのかもしれない。
ともかく、面倒だ。解雇された会社員の哀愁漂う姿は、子供の頃には笑える冗談の一つだったが、今は同情で仕方が無くなる。自分とクビになった奴の違いは、社長と仲間が生きているか、皆殺しになったかの差だ。大した違いとは言えない。
もしも過去の自分が目の前に居れば、その場で射殺しかねない。むしろ、頭に銃口を向けたくなる。
殺害の失敗という汚点は、永遠に頭から離れそうもない。走馬燈の様な記憶の羅列が浮かんでは消えて、どうしようもない虚無感と苦しみだけが残されてしまう。
報復も出来ず、妥協点すら見つけられず、ただゾンビより価値の無い人生を過ごしているだけ。そんな人間に何の意味が有るのか。
「どうも、気が重くなると嫌な事ばっかり考えるよなぁ」独り身の影響からか、独り言が自然に漏れでてしまう。
思えば女っ気の無い生き方だった。ギャングというのは、もう少し異性との出会いが多い物なので、自分には魅力が無いだけだろう。
自分の横に居るのは、紅とボスの高瀧くらいだ。紅に関しては、常に一緒だった為に『そういう関係ではないか』と何度もからかわれた。そういった趣向の持ち主ですら、冗談めかして言ってきたのだ。
しかも、紅は毎回の事ながら全く気にしていないと来ている。自分が怒りを覚えているのが子供らしい癇癪に思えてきて、怒りを収めてしまうのだ。
悪い思い出だ。しかし、決して嫌いな思い出では無かった。紅は何時でも暗く熱く、自分なんかよりずっと良好な頭をしている。
だからこそ、この状況で平気な顔をして眠る紅の行動には、何かの根拠が有るのではないか、などとも思えた。
「こんな所で油売ってても、何が出来る訳でも無いと思うんだけどな」小さく呟いてみると、隣から反論が聞こえた。「そうでもないさ」
両手を顔から外して、紅が身体を起こす。眠そうな顔をしていたが、声や瞳はしっかりと意識を持っていた。
「何だ、紅」相棒が起きあがってくれた為か、自虐的な感情が薄れていく。
「お前、起きていたのか」
紅は口元に笑みを浮かべ、小さな欠伸をした。「さっきからな、考え事をしていたんだ」
「考え事? 何だ?」
「ずっと、今回の事はどうなってるのかと、な」
そう言うと、紅は明らかに疑念を抱いた表情のまま話し出した。「あの変なサイコ臭い男女に、よく解らん男……それに、プランクの反応もそうだ。おかしい、妙なんだよ」
「何が、だ?」こちらが共感していないと悟ったのか、紅が見るからに落胆する。「何もかもだ」
「何か変だ。違和感が有るというか、何だろうな。このホテル全体が不気味に思える。まるで、誰かに誘導されているみたいな……ああ」何事かを思い出したらしく、声を掛けてくる。
「さっき、逃げる途中で会った男が居ただろ。アレな、誰かと思ったら、あいつだよ」
「あいつ?」
「ああ、俺と一緒の撮影所に居た奴だ。バスの運転手役で、俺がそのバスに銃を乱射する役だった」先日の事を思い出しているのか、疲れた表情を見せる。「随分と酷い目に遭ったが、此処で働いているとは思わなかったよ」
「それが、どうして不思議なんだ?」
「そんな偶然、そう有る物じゃないぞ。しかも、此処にはあの妙なサイコ共も居るんだ」
こちらの顔をじっと見つめている紅だったが、そこで少し息を吐き、張り詰めた空気を緩める。苛立っている事への謝罪を視線と表情だけで見せてくるので、軽く首を振って気にしないに表現する。
何も言わずに紅は軽く頭を下げて、ホテルの天井へと視線を走らせた。
「窓ガラスが吹っ飛んでも、誰も騒がないってのは変だし、もっと言うならあのイカレた連中が銃を握った段階で、監視カメラの一つにでも見られてないのはおかしい」
言われてみればその通りだ。あれだけの騒ぎが起きているというのに、ホテルマンを含むあらゆる従業員に慌てた部分が見えてこない。
「まあ、それはそうだな」
「こうは、考えられないか」本当に考えたくない物だが、と前置きをしながら、紅は続きを口にした。「このホテル自体が、何かの管理下に有るというのは」
衝撃的な言葉だった。
「なら……このホテル自体が、巨大な餌なのか?」
「そう、かもしれないという話だ。だが、あり得る話だ。あのプランクとかいう男なら、国一つくらい滅ぼすかもしれない」
そこまで口にすると、紅はまた黙り込んだ。これから、どうすれば良いのかを考え続けているのだろう。自分も、どうするかを考えるべきだ。
言われてみれば、このホテルは怪しい所が多過ぎる。普段は全く問題の無い普通の宿泊施設なのだろうが、今日だけは違った。
どんどんと、自分の中で猜疑心が沸いてくる。そんな時、背後から声が掛けられた。
「よく分かったな」
男の物と思わしき声に振り向くより早く、頭に鉄の感触がやってきた。
反射的に引き金を指に掛けたが、そこで動きが止まる。横目で紅を見ると、拳銃を頭に向けられていた。
二丁の拳銃が自分達の後頭部へ向けられている。気配も全く無いまま接近し、とてつもない速度で銃を抜く。しかも、そんな不気味な行動に出ても従業員は誰も騒がない。
紅の言った事の真実味が余計に増した。だが、頭を撃ち抜かれては意味が無い。
「誰だよ、アンタ」紅が、懐の中からソファ越しに背後の人物へ銃を向けている。
やはり頼りになる。自分も気を取り直し、同じ様にソファへ銃口を向けた。
「俺を撃つのか?」二つの銃が自分を狙っていると理解したのか、男の声は若干の怒りを宿した物となった。
「ああ、その薄汚い銃口を退けない限りはな」返事をする紅は、欠片の恐怖も見せていない。感情を抑え、一種の特技である演技によって完全に隠し通しているのだ。
長年の相棒である自分でなければ分からない程度の物だろう。だというのに、男は背後で軽く笑っている。
「流石だ。怖い者無しのタフな奴を演じさせたら敵無しだろ」
「残念ながら、この間その自信は失った。女ってのがどれだけ怖いかを思い知らされたよ」
「ま、良い」紅の自重気味な発言には何も返さず、男は銃身で肩を叩いてきた。「それより、立て。それとも、こんな場所で始める気か?」
「このホテルなら、こんな場所でも始めても大丈夫に思えるがな」
「そうだな。だが、今は忙しい。黙って着いてこい」
驚く事に、男はそれを言ってすぐに自分達の前方へと回って、顔を見せないまま何処かへと歩み始めた。
追わなければ。そんな確信に背を押される形で立ち上がり、言われた通りに男の背へ着いていく。
背中を見る限り、服装は完璧にホテルマンの物だ。両手に握られた銃は大きく、無骨で恐ろしい。その肩が下げているのは、大きめのトランクだった。
何とも言えない物騒な気配を感じさせる物で、紅が息を呑むのが聞こえた。
「……爆弾だ」小さな小さな呟きに、思わず全身が反応する。「何だって」
「高瀧さんが妙な連中に売った代物だ。見た事が有る」前方を行く男には聞こえない様に、紅は微かな声音で答えてくれた。
話す内容が本当なら、あれは爆弾という事になる。なら、これは今流行の連続爆破事件に使われる予定の物なのか。ひょっとすると、これから自分達は爆破される運命なのかもしれない。
「安心しろ、爆発はしない」こちらの思考を読んだかの様な言葉が挟まれた。
普通は、信じるべきではないだろう。しかし、無条件に信じてみたくなった。何故だろうか、答えは分かりきっている。
声だ。この男の雰囲気が、先程までとは完全に変わっていたのだ。ホテルマンらしい穏やかな物から、強烈な怒りを爆発させた物へ変わって、とてつもない重さを周辺に押し付けているのだ。
何時の間にか、そこは事務室の様な場所となっていた。自分達が拠点としていた事務所を思い起こさせる、それなりに居心地の良い空間だ。
「一体、誰だろうな。お前等を連れてきたのは」部屋の真ん中に立った男が、面倒そうに息を吐いている。
今なら撃ち殺せるが、どうしても引き金に力が入らない。単なる重圧の影響ではなく、撃ちたくないのだ。
どうしても、撃ってはならない気がする。きっと紅も同じ気持ちだろう。彼もまた、銃撃を行っていない。
「あの女か? まあ、誰でも良いが、地獄になる予定のホテルへお前等を送り込む野郎は、許せないね」
意識的に思考から外していたが、何とも聞き覚えの有る声だ。とても覚えの有る声なのだ。ただ、その声は二度と聞かないと思っていたから、今まで全く気づかなかった。
紅の方を見てみると、彼はまさか、という顔をしている。ならば、まさしく『そのまさか』だ。
「頭の狂った野郎が馬鹿みたいに捕まったらしくてな、それなりに急いでるのさ、だから、さっさと本題に入るぞ」
こちらの動揺など知った事かとばかりに前置きを終えて、男が初めてこちらへと振り向いた。
それは、何の変哲も無い一人のホテルマンだ。
しかし、その顔立ちは実に見慣れた物だった。




