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12話


「首筋、脇腹に……臍の周り、後は鳩尾の周りとかが。おっと、足の指先を忘れていました」二対一という状況に有って、プランクは何処か遠くを見る様な目をしていた。


「何の話だ」

 隣に居る紅が訝しげに尋ねると、彼はどうでも良さそうに答える。

「カナエの性感体」

「はぁ?」

 状況に沿わない発言だが、プランクは堂々としていて、恥ずかしがったりはしない。

「ですから、彼女が可愛い反応を見せてくれる所ですよ」


 そんな事は聞いていない。紅も包帯が幾らか落ちるくらいに驚いているが、銃を握る力だけは維持している。相手のペースに乗せられない為にも、意志は強く持たねばならなかった。


「お前、何を言ってるんだ」

「おや」

 首を傾げて、プランクが頭を軽く掻く。

「勘違いでしたか。てっきり、彼女を狙って私を殺しに来たのかと」


 プランクの声は心底どうでも良さそうだ。こちらの目的など、本当に興味が無いのだろう。

 今、此処で引き金を引くべきか。それ以前に、彼を撃ち殺した所で報復になるのかが問題だ。死についても無関心で、殺しても意味が無い気さえする。

 それが作戦ならば大した物だ。現に、自分達は発砲もせずに立ち止まっていたのだから。


「まあ構いません」プランクはこちらへ銃を突きつけたまま、何もせずに虚空を見つめている。「婚約者として、別の男が狙っているならそれはそれでカナエを楽しませてあげられるかもしれないと、そう思ったまでです」


 言葉の中には強い感情と執着が宿っていた。だが、自分達を殺せる指先には意志すら存在しなかった。


「何を、考えてるんだ」思わず、口から恐怖が出る。

「さあ、何も考えていないのかもしれません」プランクは肩を竦めつつも、口元の犬歯を剥き出しにした。「カナエの事を除いてはね」


 全身の神経が警戒と恐怖で支配された。底の無い湖に物を落としてしまった様な不気味さだ。湖の水が澄み渡っているのが余計に怖い。その上を一人の女らしき物体が踊って回るのだから、尚更だ。

 これが一人の悪党としてのプランクだ。心底思い知らされた。

 だが、それでも自分達は紅と朱という二人組だけでの報復行動に出たのだ。ここで銃を下げ、殺意を引っ込める訳にはいかない。


「俺はあの女みたいなのが大嫌いだね、反吐が出る」自分が先に嘲笑を作ると、遅れて紅が嫌味ったらしい表情をする。

「そうだな、ああいう女は趣味じゃない」


 二人揃っての挑発にも関わらず、プランクは口元の笑みに柔らかな物を宿した。「でしょうね、私くらいだ」無駄に誇らしげだった。


「外見は良いのに、中身から溢れるおぞましさが人を寄せ付けませんから」

「お前は平気なのか、あの嫌な感じが」

「勿論です」自信たっぷりに頷き、似合わない微笑を浮かべていた。「でなければ、婚約なんかしないでしょうに」


 プランクの瞳が僅かに細められる。撃たれる、という確信が一気に溢れ出し、紅への合図も忘れて思わず引き金を引いてしまった。

 一瞬の事だ。銃弾は確かに命中する筈だ。しかし、彼は頭を少し横へ倒した状態となっただけで、何一つ顔色を変えていなかった。

 代わりに窓ガラスが割れる音がしていた事に気づく。それを認めると、心から恐怖が沸いた。銃弾ですら、この男には驚異とならないのだ。


「彼女と一緒に居るなら、これくらいは当然です」


 こちらの驚愕を肯定する形で声が掛けられるが、誰が信じられるというのだ。こちらが銃撃する瞬間を読み取り、同時に射線を見切って、この至近距離でありながら首を軽く動かすだけで安全を確保するなど。

 そして、そんな強烈な技を見せてもプランクは変わらず無関心な瞳を向けてきた。


「それで?」

「……何だ」かろうじて、返事はできた。

「カナエではないなら、何の目的で私を殺すのですか」質問を口にしてから、困った風な仕草を見せる。「敵は沢山居ますが、どうでも良くてね、つい忘れてしまいます」


 それを聞いて、消えかかっていた怒りが再燃した。


「ふざけるなよ」

 今度は避けられない様に、頭ではなく胸を狙う。紅も、同じ様にした。

「高瀧さんを殺したのは、お前だろうが」


 同時に重圧を掛けるが、その程度では何も変わらない。それも重々承知の上だ。恐怖も味わい、不気味さも飲み干したのだ。もう、報復を止める感情は残っていないと思えた。


「そういえば」燃える様な殺意を全身から放ちながらも、紅がプランクを見つめた。「こういう状況、映画で有ったよな。三人が居て銃を向け合って、狙われてる奴が『お前等を撃つ方が早い』とか言ってるんだ」

「残念ながら、興味が有りません」

「だろうな」紅は頷いて、不敵に笑う。「だが、今の状況はそれらしい。ちょっと違うがな」


 紅は自分の包帯を全て外し、床に放り捨てた。何処かの女に殴られたという痣は全く治っていないが、その傷がより剣呑さを見せつけていた。


「お前が銃弾を避けられるくらいに素早くたって、俺達はお前を殺す。それが義務であり、責任だからだ。お前は怖い。怖いが、それはどうでも良い事だ」傷によって生まれた、思い切り凶悪な顔を見せつける。


 そこには自らを奮い立たせる意味が有ったのだろう。それは同時に、相棒である自分の心にも勇気を与える結果となった。

 こちらの本気を感じ取ったのか、プランクは溜息を吐いた。挑発でも無関心でもない、面倒そうな雰囲気だった。


「困りましたね。私が死ぬと、少々の問題がありますので」

「だが、殺す」

「しかしね、残念ながら今は貴方達に殺されて良い状態ではない」考え込む素振りを見せながら、プランクの視線が窓の方へと移る。

「そう。この状況を切り抜けるならお二人を殺す必要が有ります」数の不利など気にもかけず、あくまで冷たい声を出した。「しかし、こちらにも都合が有ります、今は必要以上の殺戮は避けたい物で」


 こちらがどんなに殺意を剥き出しにしても、まるで恐れていない。あれほどの身体技能が有れば、こちらを殺すくらいは簡単なのだろう。

 それでも自分達はまだ生きている。生きているなら、この男と差し違える事も可能な筈だ。


「殺したかったら、殺せば良い」紅が怒りを滲ませた。

「そうも行きません」


 銃は下ろさなかったが、プランクの指に力が入っていないのは分かる。発砲する気配は無く、どうやら本気でこちらを殺さないつもりの様だ。どう考えても見下されている。

 この男は一体、どうするつもりなのか。


「まあ、カナエに助けて貰うのが一番に現実的でしょう」

「此処には居ないのにか?」

「呼べば、彼女は来ますよ」その口振りは自信に満ち溢れて、一分の疑いすら抱いていなかった。


 彼の視線は今も窓の方へと向いている。今なら撃ち殺せる気がするが、実際に発砲しても殺せるとは思えない。紅も同感らしく、まだ引き金を引かない。


「彼女が来るとすれば、こちらからでしょうね」


 こちらの事など微塵も意識に入れていない。自分の命にすら無関心を貫き続け、ただ自分の愛する人だけを頭の中に住まわせている姿だった。



+



 銃を渡すか、否か。迷ったのは少しの間だけで、本当の所は殆ど即決する事が出来た。自分に有るのは世界を物語にするという意志であって、命を大切にする気は微塵も無いのだから。

 つまり、カナエが起こす事柄へ期待を覚えている以上、銃を渡さないという選択肢は最初から無かったのである。


「分かった、使ってくれ」猟銃を手に持った瞬間、部下達が顔に絶望を浮かべる。知った事か、誰がどうなろうと物語に近づけてやる、という気持ちが強まる。


 武器を渡した事で彼女が暴れたとしても、それはそれで良い。自分が果てしなく間抜けだと表す結果になろうと、決して目的を忘れない。


「ありがとう」猟銃を受け取ると、カナエは満面の笑みを見せてくれた。「これで、見せてあげられる」


 こちらを撃つ気配は無く、銃を撫でている。暴れ出すのは杞憂だったらしく、僅かにでも迷った自分が酷く恥ずかしく思えた。


 では、その銃で何をする気なのか。「良い銃だね、ロマンが有ると思うよ」恍惚とした表情で銃身に頬摺りをする所からは、想像も出来ない。


 気分は変わらず手品を心待ちにする少年だ。物語の中に没入する気持ちと似ているが、それでいて新鮮な感覚だった。


「さあ、見せてあげましょう」片手で握り、銃口を彼女自身のこめかみへ突き付ける。銃身が長いので腕を伸ばさなければならない。酷く撃ち難そうだ。「使いにくいね」

「拳銃の方が良かったか?」

「ううん」小さく首を振って、面白がった。「別に良いですよ、むしろこの方が面白い」


 カナエが頭を吹き飛ばすべく、銃を自分に向け続けている。引き金を引けば脳漿が簡単に飛び散るだろう。噴き出した血と身体が床に落ち、命を失った単なる肉塊に成り果ててしまう筈だ。

 彼女は目を瞑り、もう片方の手で指を押さえて引き金に力を入れようとする。

 自決だ。カナエの様な可愛らしい女性が自分の頭を撃ち抜く、そういう姿に興奮を覚える変態も居るだろうが、そんな性的趣向は持っていない。

 この面白い女を大人しく死なせるべきなのか。

 だが、何か有る。ただ死ぬとは思えず、確実に惹かれる物を感じた。その瞬間を見逃さない様に、全力で意識を集中させた。

 部下達が銃口から逃げる様に扉の近くへと待避していく。それを尻目に彼女は引き金へ力を入れていく。もうすぐだ、絶対に見逃せない。


「はぁい!」だからこそ、扉を蹴り飛ばして現れた者達への反応が遅れた。


 女だ。物騒なグルカナイフを片手に握り、部下の数人を斬殺する。非現実的な光景だからか、まだ誰も現状を認識できていない。


「ハッピーウェディーング!」遅れて現れた一人の男が、馬鹿みたいに明るい表情で腕を持ち上げた。


 そこに握られたのは機関銃、それも台座へ固定しなければ確実に腕が潰れる大きさの物だ。それでも男は微塵の躊躇も無く、引き金を引いた。

 凄まじい音が響いたかと思うと、瞬時に部屋の全てが破壊されていく。銃撃が襲ってきたと表現するしか無い。

 雇っていた部下達が瞬く間に死んでいく。それを認識した時には誰かが自分に覆い被さって、身体を押し倒す様に伏せさせていた。

 そっと視線を上げてみると、そこには自分に抱きつく形で伏せ、銃弾の嵐から逃れるカナエの姿が有った。


「まだ式場の下見だって、気が早い人達」唐突な状況でありながら、動揺も見せずに笑っている。


 その間にも銃撃が爆音を響かせて、死体を崩れた肉にしていく。カナエの手が耳を押さえてくれなければ狂っていたかもしれない。

 銃弾によって窓ガラスが割れていく。その破片はカナエの全身に降り注ぎ、幾らかの出血が床へ流れ出し、自分の顔にも滴り落ちてきた。血液まで良い香りがするが、それは気にしない事にしておく。


 夫婦の顔を見るに、明らかに殺人を楽しんでいる。凶悪な快楽殺人鬼の二人組だ。『男爵』と名乗る情報提供者が男女の殺人犯の事を話していた様な記憶が有る。恐らく、その犯人達だろう。


 女は刃物を好み、男は銃を好む様だ。残虐な殺し方を見る限りでは、人を殺す事を心から楽しむ悪意の輝きを感じさせてくれる。世界を嫌う自分とは異なるが、それも立派な狂気と言える。

 自分でも驚く程に動揺が少なく、落ち着いて状況を認識する事が出来た。何故、この部屋が狙われたのか。それはきっと、自分の命を助けたカナエに理由が有るのだろうなと思った。


「さあ、出てきなさい」気づけば銃声は止み、代わりに男女の歪んだ哄笑が聞こえる。「さあ早く、即死したら痛くないからな」


 こちらが出ていくまでも無く、男女が派手に音を立てて近づいてくる。何人か生き残っていた部下が襲い掛かるが、女の手で瞬時に首を落とされて命を落とす。

 いずれ殺すつもりだったが、人材を無駄に消費されるのは実に残念だ。


「ジョンさん」カナエが耳元へ囁いてきた。

「何だ」

「あの人達から逃げるので、よろしく」

「簡単に言うが、出来るのか」

「出来なかったら、そんな事は言わないよ」


 窓ガラスの雨を被って所々に痛々しい傷を作っても、彼女としては全く問題は無いらしい。

 自分達が隠れているのは、窓際に有るソファの影だ。身を守る事だけは何とか成功していたが、時間の問題としか思えない。


「出てこないなら、殺してあげようかなあ」男の声が聞こえて、銃が向けられるのが分かる。


 次の瞬間には撃たれる。そう思った途端、本能的に身体が勝手に動いた。覆い被さるカナエを放り出して、ソファから飛び出す。彼女の持っていた猟銃をすかさず撃って機関銃の暴走を止める事に成功した。

 急激に現れた自分の姿に夫婦が驚きを見せる。しかし、女の方は即座に冷静な顔となってナイフを投げてきた。凄まじい速度で近づいてくるが、遅い。刃を掴み、投げ返してやる。

 今度は男が別の銃を取り出してきた。自動小銃だが、人を殺すには十分過ぎる。何とか避けようと懐の拳銃へと手を伸ばしたが、その寸前でカナエが横から飛び込んできた。

 銃弾が自分の居た場所を通り過ぎる。少しでも遅れれば死んでいただろう。

 また助けられた。だが、今は何を考えるよりも殺人鬼達を潰しておくのが先決だ。死んでしまってはホテルも爆破出来ないし、世界を物語に近づける事も出来ないのだから。

 そんな覚悟を決め、改めて拳銃を取り出す。夫婦の姿をしっかりと確認しようと視線を向けた。すると、彼らの背後に有った扉から、誰かが入り込んでくるのが見えた。

 誰だ。そう考えるより早く、誰かは殺人鬼達を殴りつけ、壁際へ向かって水平に吹き飛ばした。

 よく見れば、それは長身の女だった。外側が痩躯に見えるが、中身は完璧に調整された肉体だ。鍛えていた経験が有る自分は騙されない。


「誰だ?」


 困惑する男とは別に、女は何かを理解した様子だ。


「いえ、待って。この人は確か」


 だが、女が名前を言い出すよりも早く何かが駆け回り、その口を封じさせる。それが単なる腰への蹴りだと気づいたのは、少し遅れてからの事だった。ただそれだけで、受けた女は数メートル空中へ浮いたのだ。抵抗する銃声も無駄でしかない。一発たりとも当たらず、ただホテルの壁に穴を開けるだけだ。

 何という、凄まじい存在だろう。人間とは思えない程の力と完璧過ぎる身体の組み合わせは、最早芸術の域に有ると言って良い筈だ。

 何より、その顔には見覚えがあった。現実には初対面だが、何度も何度も見た事が有る。そう、銀幕の中に居る登場人物として。


「い、一時退却!」男は素早く女を抱えて、とんでもない逃げ足で部屋から消え去っていった。


 誰も止めない。少し追いかければ簡単に片づけられるだろうに、あの女、つまりカミラ・クラメールと思わしき人物は二人の殺人鬼を見送るだけだった。

 数秒もすれば殺人鬼達が去り、残された物言わぬ躯が不気味な気配を発し出す。そこで、カミラはこちらへ顔を向けてくる。


「無事か」一度言ってから、首を振っている。「いや、無事じゃないな、どう見ても」

「ナイスだよ、カミラさん」それを聞いた血塗れのカナエは、機嫌良く立ち上がり、まるで埃を拭う様に全身のガラス片を振り払う。カーペットの床に大量のガラスと血が落ちた。

「助かった、助かりましたよ。この人が死んでしまうかと思ったよ」こちらを指さしてくる。


 言葉を聞く限りでは、自分自身が殺される気は微塵も無かったらしい。心配する必要はまるで無さそうだ。


「そっちは誰だ? 君の婚約者とは違うだろう?」

「ああ、偶然出会ったジョン・ドゥさん。意気投合したんです」

「そうか、名無しの誰かさん。成る程ね」カミラの意識がこちらに向かう。


 奇妙な緊張に襲われた。カナエの言葉を信じるなら、やはり彼女はカミラ・クラメールだ。映画女優に会うのは初めてだ。昔はそういう職業に憧れていた時期も有ったので、自分にとっては雲の上の人である。こんな場所で会えるとは夢にも思わなかった。


「彼、どうしたんだ?」

 黙っている自分を、カミラが訝しげに見つめてくる。

「ちょっと驚いてるみたいです。この人もあなたの作品を色々と見ているから」

「そうか、てっきり映画俳優の後輩かと思ったよ」

「あ、それは私も思いました。この人、そういう感じの顔だよね」


 殺人鬼の襲撃も既に過去の話となったらしく、カナエは談笑を開始している。

 自分も何か話そうと、カミラに声を掛けようとした。


「ああ、呼んでる」カナエが、何故か肩を掴んできた。

「誰が?」

「呼んでるのさ、今すぐ私が必要みたいだ」詳しい事は何も言わずに、ただ奇妙で楽しげな、しかも問答無用な顔を向けてくる。「着いてきて」


 有無を言わさずに腰を捕まれる。他人を引きずる自分が、彼女に対しては無力に引っ張られるしかない。新鮮で心地良いが、一言くらいカミラと話してみたいと思う。

 カミラの方もこちらを見つめて何事かを言おうとしているのだ。この世で一番物語に近そうな映画女優と、話がしてみたくて仕方がない。


「すみませんが、後の事を頼みます」


 それでもカナエは自分を引っ張り、逃げ出す様に窓際へ手を掛ける。

 抗議をしようと口を開くより早く全身を捕まえられたかと思うと、彼女は割れた窓から外へ飛び出した。割れたガラスの破片が更に刺さるのが見える、しかし彼女は止まらずに窓の縁を蹴り上げ、とんでもない脚力で飛び上がった。

 上の階と繋がる僅かな窪みに片手を引っかけ、残った片手で自分を抱きかかえたまま、壁を蹴る事で更に飛ぶ。そして、迷う事無く六階の窓ガラスに突っ込んだ。

 そこには、唖然とした表情の二人の男と、当然の様に頷く一人の男が立っていた。


+


 驚愕。それだけが頭の中で響いた。

 部屋の窓ガラスを突き破って、下から女が飛び込んできた。言葉にすれば短いが、その中に含まれた要素は著しく現実離れを起こしている。

 まさか実際に来るとは思わない。誰だって思わないだろう。プランクが呼ぶと、本当にあの女が来るなんて。


「ほら、カナエが来ましたよ」当たり前の事だと言わんばかりの、しかし微かに自慢げな声が聞こえる。


 カナエと呼ばれた女は全身から血を流し、ガラス片が所々に突き刺さっていた。かなりの重傷だが、何の問題も無い様に見える。まさしく化け物だ。

 彼女は腰を掴まれていた男を解放し、横へ立たせている。困惑した表情は、何となく共感を呼ぶ物だった。


「プランクさん、呼びましたよね?」

「勿論。やはり分かりますか」

「当たり前だよ。あなたの声なら世界の果てからだって優先的に聞き取ります」


 二人はその指先を絡め合うと、すぐに互いの頬を撫でる。続いて肩に手を置き、小さな笑い声と愛情を預け合う。瞬時に二人だけの世界に入り込んでしまって、誰も口を出せない。


「酷い怪我ですね」

「うん、ドレスが台無しになっちゃった」

「大丈夫、それは下見用ですから。新しいのは用意してあります」

「分かってたんだ?」

「まあ、貴女が着るんです。それくらいはあり得るでしょう」


 極寒の世界に居るかの様な冷たさが、今のプランクには全く無い。そこにはただ、誰かを狂う程に愛する一人の男だけが居る。


「やっぱり、大好きだよ」その愛情は当然、対象となる女にも届いている様だ。どんな世界の恋人同士よりも、幸せそうな顔をしているのだから。


 殺意も敵意も殆ど四散してしまう。完全に流れを掴まれてしまい、発砲するタイミングを見失った。

 困り果てて、下の階から運ばれてきた男を見てみる。何やら微妙な面持ちでプランクとカナエを見つめて、溜息を吐いているのが分かる。

 確かに、見ていて疲れるカップルだ。


「幸せ過ぎて変になっちゃいそうだよ」

「私もです。こうやって一緒に居る時間を、ずっと胸に刻みたい」

「うん」頷く女からは尋常ではない不気味さと、それを覆す程の幸福が沸き出している。


 そこで、彼女は微かな瞬間だけ、紅と自分を見つめた。そんな一挙動だけで命が絶たれた様な錯覚すら感じた。


「ずっと浸っていたいけど、まあ、先に」


 カナエが、プランクから少し離れる。名残惜しそうに手を何度か見つめながらも、視線は完全にこちらへ移された。

 怖い。酷く恐ろしい瞳だ。あんな物を恋愛対象として、愛すべき存在として選ぶなど有り得ない。改めて襲いかかる恐怖は、何とも超越的で認められない物だ。


「さて、君らにはちょっと痛い目を見て貰おうかな」


 ニッコリと、素敵な笑い顔を見せてくる。悪鬼の足音に聞こえるのは気のせいだろうか。まさしく蛇に睨まれた蛙だ。逃げる足すら動かず、処刑の瞬間を待つ囚人の心地と表現すべきだろうか。

 そんな中で、紅が一歩前に出た。銃を女に向けながらも、瞳を恐怖で滲ませながら。


「なあ」紅が、冷や汗を垂らしながら告げる。「お前、臍と脇腹が弱いんだって?」空気を無視した、酷い発言だ。


 途端に、カナエの口から子猫が鳴く様な奇妙な声が出た。重苦しい恐怖が一瞬で四散し、代わりに顔を真っ赤にして恋人の顔を見つめる女が残される。


「プランクさん、そんな事を言っちゃったの」

 とてつもなく恥ずかしそうな視線を、プランクは軽く流す。「しかし、あんなに気持ち良さそうに」

「言わないで!」

 制止されても、愉快そうな声が止まったりはしない。「この間、足の指を」

「言わないでくださいよぉ!」


 耳まで真っ赤、というのはこういう顔だろうか。

 恋人の元へ詰め寄って両肩を掴み、可愛らしく抗議を続けている。あのおぞましさが嘘の様だが、まだ記憶と身体は彼女への恐怖を忘れていない。視線に入れるだけで、背筋が凍る。


「ああもう」何度かプランクの肩や胸元を軽く叩いたカナエだったが、やがて疲れた様に肩の力を抜いた。


 こちらを見る瞳には、欠片の恐ろしさも無い。「もう良いから、帰って良いよ。まったくもう、人の恥ずかしい所を誰かに話すなんて、もう……ううっ」


 野良犬を追い払う様に手を振られた。実際、こちらは負け犬なのだから大して間違っていないが、プライドを傷つけられた気分だ。

 しかし、この凶悪な女の前でプランクを殺すのは無理だ。妥協し、逃げるしか無いだろう。紅へ視線を向けると、彼もまた無念そうに頷いた。


「ぶっ殺してやるからな」紅が床に落ちた包帯を握り締める。

「覚えてろよ」銃を握って牽制を続けながらも、その足は勝手に扉へ走っていた。


 捨て台詞しか吐けない自分達が情けない。しかし、我々は所詮、人間なのだ。絶対的かつ形容不能な恐怖の前では、あらゆる決意が揺らぎ崩れてしまう。

 そういう意味では、氷の大地より冷たいプランクという男の精神性が羨ましい。あの男であれば、やるべき事を機械的に完遂するのだろう。

 扉を開けて、そのまま廊下へと出る。そこにはルームサービスを持ってきた従業員が立っていたので、衝突する寸前で何とか避けた。


「お、っと」状況を悟られない様に、何でもない謝罪を口にする。「失礼」

「こちらこそ失礼いたしました」従業員は気にした様子も無く、微笑を浮かべて見せる。


 感づいた訳では無さそうだ。安心して逃げられる。だが、自嘲で頭が変になりそうだ。こういう時こそ、相棒との会話が必要不可欠と言える。そう思って紅の姿を見ると、彼は何故か足を止めて従業員が居た場所を見つめていた。


「紅、どうした」

「いや、さっきの奴。どっかで……」何かを思い出そうとする紅だが、より優先すべき事を考えたらしく、すぐに首を振る。「良い。ひとまず逃げよう」

「それが良い」

「ああ、逃げ切ったら不貞寝するぞ。朱、お前もどうだ」

「良いお誘いだな。俺も酒を飲んで寝たい気分だ」


 気になる言葉だったが、逃げる方が絶対的に優先だ。そんな自分を内心で散々に罵倒しつつも、身体は勝手に部屋から離れていった。


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