11話
「戻ったぞ」声を掛けて、五階の部屋へと入り込む。
「は、早かったですね」またもや緊張が室内に轟いた。
部下の者達は言いつけ通り、何も行動していない。手持ち無沙汰な様子だったが、自分への恐怖が動きを制限したらしかった。
「勝手に爆破を始めたりはしていないな?」念の為に聞いておいたが、答えは分かっている。
「勿論です。もしそんな事をしようとする奴が居たら、殺して止めます」そうしなければ、全員殺される。そう言いたげな顔だ。
まあ、構わない。それより、戦利品と呼ぶべき者の髪を引っ張っておく。首からは手を放していた為か、勢い余って少し強く力が入ってしまった。
「いたた」大して痛く無さそうに、女が笑った。「怖がられてますね。まあ、当然だったりするのかな」
「人聞きの悪い奴だ」
「そりゃ、自分を拉致して殺そうとする人の事を良くは言わないですよね」
「そりゃそうだ」
思わず納得してから、軽く首を振る。相手のペースに乗せられている自覚は有った。言葉では何を言っても倒せる相手では無さそうだ。
自分と対等に話す女の事が気になったのか、室内の連中が目を見開いている。大半は珍獣でも見た様な顔をしているが、一部は不気味な怪物に対する怯えを浮かべているのが分かった。
ただ、ウェディングドレス姿かつ片腕が血塗れで、しかもとんでもなく楽しそうなのだから、誰だって奇妙だとは思うだろう。
「あの、そいつは?」怯えている者の一人が、尋ねてきた。
「さあな」むしろ、俺が聞きたい。そう言いたかったが、無駄に不安を煽る必要も無い。
その間にも彼女は部屋を観察していて、微笑んでいる。流れている音楽や、開いたままの鞄の中に入った本。それにテレビで流れている映画や演劇の数々へ同時に目を通しているのだろうか。
ここまで素直に楽しむ表情は良い物だ。物語に精神を依存する自分とは違い、本当に幸せそうなのが分かる。
「ま、座れ」髪を掴むのを止めて、両肩を掴んで椅子へ座らせる。元々そこに座っていた部下は、早々に離れていた。
彼女は思った以上に大人しく座り、部屋の中に有る作品へ興味深げな視線を向けている。
「良い座り心地だね。ところで、この作品達は全てあなたの持ち物ですか?」
「そうだが、それがどうした」
「友達になれそうです、と思って」
柔らかな笑顔を見せたかと思うと、また作品の鑑賞へと戻る。ミュージカル作品が映し出されると、足でリズム良く床を叩き、鼻歌を楽器の様に奏で出す。
彼女は、本当に捕まえられてきたのだろうか。むしろ勝手に着いてきた、むしろ自分が招待した、と思いたくなってしまう。
何時の間にか、彼女は鞄の中に入っていた漫画を読んでいる。しかも同時に二冊だ。片方は『コミックというジャンルの認識を変えた』と言われる作品であり、もう片方は、二人の男女がひたすらフェチズム的な恋愛関係に浸る作品だ。
よくぞ集中力が続く物だ。一冊だろうが百冊だろうが、同時に没入できるのだろう。更に、その手に流れる筈の血が書籍に染み込む事はまるで無かった。
「こう、こういう漫画を読んでいるとキュン、って、そういう気分になるね。胸の奥が暖かくなりますから」恋愛漫画を腕の中で抱き締め、もう片方には純粋な感嘆を見せる。「こっちは、とにかく凄い作品だとしか言えません。そう、それ以上の表現は無いかな」
彼女の目線はテレビにも行った。それでいて漫画は読み続けるのだから、とんでもない。
「そっちの映画は階段のシーンが有名だね。もう片方は……取調室物か、そういうのは大好きさ」
目を輝かせたかと思うと、今度は既に見終わっていた映画の入ったケースに片目を向けている。
「おお、『人が訪れ』」
有名な台詞だ、先回りして言っておく事にした。「『去っていく』。お前もこの映画は好きか?」
彼女は嬉しそうに頷いた。「勿論だよ。アンサンブル物の中でも古典にして名作だ。後年に与えた影響力は凄まじいとしか言えません」
目を細めて語る所を見ていると、可愛らしく思える。理性的な部分は彼女のあらゆる挙動に対する警戒が必要だと思っても、どうしようもない部分で気を許しつつ有る自分を自覚する。
「まあ、楽しんでくれ」自分でも、彼女を捕まえた理由がよく分からなくなっていた。
彼女は一度視線をあらゆる作品から外し、自分へ向けた。それだけで、魂を捕まれた気分となってしまう。
「そういう訳にも行かないね。私はほら、一応は捕まった身なんだ」
「俺は、作品を楽しむ時は集中する主義だ」
彼女は心配ご無用とばかりに漫画本を高速で読み終えた。「心配しなくても、話しながらでも作品に集中出来ますし、こういう読み方でもちゃんと頭に入りますから」
机に漫画を置いて、内股の膝に両手を置く。何が嬉しいのか体を前後に揺らしながら、自分の顔を見つめてくる。とんでもない美人だと言えるが、顔立ちなどより、怪しげな雰囲気がどうしても気になる。
落ち着きの無い様子は子供にも思えるが、気配が尋常ではない。室内に居る部下達は既に彼女から視線を外して、決して見ない様にしていた。それほどまでに強烈な存在感なのだ。
油断は出来ない。そう感じながら対面の椅子へ座ると、彼女は好奇心旺盛な瞳を自分の服装へ向けてきた。
「そのコート、ポケットが沢山有るのでしょうね。叩けばビスケットが出てくるのかな」
「いいや、ビスケットが割れて二つになる」 瞬く間に表情が残念そうな物へ変わる。言わんとする所は分かったので、きちんと言葉を続けておく。「冗談が通じない人だ、何て思ってくれるなよ。その歌は聞いた事が有る」
「ああ、やっぱり?」分かっていて顔色を変えて見せたらしい。
「ところで君、こういう作品に詳しいので?」
「いや、物語であれば何でも好きだ。特に限定はしていない」
「へぇ。私もそういう感じだけど、本当に好きになった作品は狂った程に好きになりたいと思っていますよ」鞄の中に入ったアニメ作品を撫でて、優しげな声を出している。「そういう出会いは滅多に無いからね。自分の人生を変える様な、強烈な出会いは」
「同感だが、そういう出会いは本当に少ないさ」
同意出来る意見だったが、自分はあらゆる物語に興味を持つ存在だ。特定の作品にそこまで傾倒した経験は、『自分が今の自分になる前』にしか無かった。
それでも、彼女は気分を害さずに何度も頷いている。どうにも、関心と興奮と正体不明の愛情が混ざっている風に見えた。
五回くらい頷き続けていた彼女だったが、唐突に思い出した様子で手を叩いた。「おっと」しまった、と言いたげに自身の頭を軽く小突き、同時に片目を瞑っている。
「私とした事が、自己紹介がまだだった。私は仮名衣、気軽にカナちゃんと呼んで欲しい所でしょうか」
「いや、カナエと呼ばせて貰う」そんな呼び方は自分には似合わないだろう。
「そっか、残念」何処までが本気なのか分かり難い表情で、カナエが肩を竦めている。
その名前が偽名である事くらい、すぐに分かる。しかし、自分自身の名前という物に対する確かな敬意や愛情という物も有って、妙に本名らしくも有った。
「ところで、あなたの名前は?」
あまり良い返事ではないが、素直に答えておく。「悪いが、無いんだ」
自分が決定的に変わった日に、そんな物は捨て去った。便宜的に映画俳優や作家の名前を使う時も有ったが、それを名乗ろうとは思えなかったのだ。
そして、本当の事を言うと不思議と気分が楽になった。
「んー、じゃあ、私が名前を決めてあげましょう」名前が無い事に驚きもせず、カナエがそんな事を言ってきた。
「どうしてそうなる」
「だって、名乗る物がないなら、誰かが作ってあげないと」
当然の様に言ってくるので、それが当たり前の事なのではないかという気がしてくる。気を強く持たなければ、そのまま相手の言葉に流されてしまいそうだ。
そんな自分の抵抗を面白がりながら、カナエは頬に手を置いて考え込む。
少しの間だけ思考に費やしたかと思うと、思いついた様子で手を叩き、酷く楽しげに言った。
「微笑みマッチョ」
「誰だ」
「じゃあ、リー・ハーヴェイ・オズワルド」
「JFK暗殺の犯人とされる人物だろうが」
「柴犬」動物の名前である。
「好きなのか」
カナエが両肘を膝に置いて身体を前に倒し、両手を胸の前で握った。
「うん、駄目かな。少しでも君と仲良くしたいんですよ。だから、私の好きな名前を名乗って欲しいなって」
「俺はペットか何かか」
冷たく言い放ったが、好意を寄せられた事実に心が揺れていた。
こんなに素直な気持ちを向けられるのは久しぶりだ。いや、両親だってこんな目を見せた事は無いから、ひょっとすると今まで一度も味わっていない感情かもしれない。退屈で嫌悪し唾棄すべき世界が、少し物語に近づいた気がする。
「気持ちは嬉しいが、もっと良い名前にしてくれ」
「そう?」気を悪くしないまま、カナエはまた考え込みだした。
彼女が周囲を見回すと、部下達が瞬く間に緊張で染まる。纏う空気の気楽さと楽しさは危険な薬を思わせて、誰もが警戒を止めない。近づく事すらはばかられるのか、全員が彼女と自分から最低でも二メートルの距離を取っている。そんな連中は、どうでも良い。
「ジョン・ドゥ」唐突に彼女が顔を上げ、自慢げな顔を見せた。
告げられた名前の意味はすぐに分かる。「名無しの誰か、か」自分にはお似合いの名称だ。脇役ではなく、謎の怪物の様な意味合いが有って実に良い。
「そういう名前の犯人が居たな」
映画の話にカナエが即座に反応し、頷いた。「居たね、でもその人は関係無いですよ」映画の登場人物と関係は無い様だ。
そうであっても、自分には良い名前だと思える。
本来、名前など必要無いのだ。自分に有るべきは登場人物を表す記号としての名称でしかない。そういう意味で、『ジョン・ドゥ』は最高だった。
「悪くない」
感慨深く頷くと、カナエの瞳がより一層に輝いた。
「良かった」
良い名を付けてくれた事に内心で感謝を述べる。伝わる筈の無い感情だが、表情で読み取られたらしく、カナエはウインクをして見せた。
では、これからの自分はジョン・ドゥだ。喜んで受け取ろう。そう言おうとすると、それより先に片手を伸ばして微笑みかけてくる。
「では、よろしくジョン」
応じるかどうかを少し迷ったが、すぐに決める。
「よろしく、カナエ」
握り返した手は想像より暖かかったが、それでいて不気味な温さが有った。そんな手を放すと、彼女は口元に手をやってクスクスと笑い、面白がる素振りでこちらの服を指さしてきた。
「ところで、それは?」それ、というのが何を指しているのかが分からず、思わず自分の服を見つめてしまう。特に変わった所は無い。
一体何を、と言いかけて、視線が服ではなく、その中に注がれている事に気づく。確かに、そこには特筆すべき物が有った。
「ああ」ワイシャツのボタンを少し外して、身体に括り付けた物を見せる。「爆弾だよ」
そう、爆弾だ。全身に巻き付けてあり、爆破すれば周辺ごと自分が吹き飛ぶ。ベルトに巻く形なので取り外しが簡単で、この構造なら、自決する時も敵に投げつける時も簡単だ。
見せるだけで部下は怖がるが、こいつはそんな可愛い存在じゃなかった。むしろ愉快げに爆弾を観察し、興奮混じりに頬を赤くしている。
「す、すっごい鍛えられてるね」注目されているのは、爆弾じゃなかったらしい。
「まあな」
確かに、自分は無駄かつ無意味に鍛え上げられた身体をしている。だが、話すべきはそこじゃないと思う。
カナエも分かっているのか、悪戯っぽく声を上げて笑っていた。
「冗談ですよ」笑い声の余韻を残したまま、尋ねかけてくる。「それで、そんな爆弾を持って、連続爆破事件の犯人さんは一体何をする気なのかな?」
答えてやるべきか否か、頭の中で少しの迷いが生じた。しかし、本当は考えるまでもない。彼女に対して口を閉ざす気持ちは、かなり前から消え失せていたのだ。やはり、自分が捕まえたというより、自分が捕まえられたという表現の方が近い。
「そうだな、まあ」
「待った」答えようとすると、片手を挙げて遮ってきた。「計画を自慢げに話す人って、大抵失敗するよね。私に説明して失敗させると、ちょっと悪いかな」
無用な心配の言葉に、思わず笑ってしまう。
「安心しろ、そういうジンクスは物語の中の話だ。此処は現実だよ、残念な事に」本当に残念だ、そういう気持ちを全力で籠めた。
そうすると、カナエの表情に含まれた好奇心が更に強くなる。まるで物語の中の狂人を観察する瞳だ。欠片の嘘を吐く気も無くなって、口からは自然な真実が溢れだした。
「俺は、世界を物語の様にしたいんだ」
「それはまた、どうして?」
無意識なのか、猫背になるくらい身体を前に倒して、こちらの顔を覗き込みながら話の続きを促して来る。
素直に答えたいと思った。が、その一方で少し前置きとなる話をするべきだとも判断できた。
「初めて人を殺した時の話をしてやろう」
話すべき事を口にすると、彼女の好奇心は更に強まった様だ。「へえ、どういう感じだったんですか?」
「ああ。当時の俺は、世の中が物語の様な物だと思っていた。自分がいずれ物語の登場人物になるのが、夢だった。でもな、それは何時か訪れる物だと思ってた。その時まで俺は自分を高め続ける事に専念して、人どころか虫も殺さなかったんだ」
その結果が、今の様な身体能力だ。銃の軌道を見て避けられる程度の物を持っていると自負しているし、それが今までの自分を生存させてきた。
「そう、俺はいずれヒーローか、ヴィランか、どちらにせよ銀幕の中の何かになると思い込んでいた。とんだ見当違いさ。それに気づいたのは、偶然にも映画館の中がきっかけだった」
「映画館か。見た作品は何ですか?」
「お前も知ってる作品のどれかだよ」話の円滑な進行の為に軽く答えて、続ける。
「劇場でな、嫌に騒ぐ奴が居たんだ。そう、カップルか子供連れか。何でも良いが、とにかくうるさかった。当時は俺も真人間のフリをしていたから、苛立ちはしても、殺そうとはしなかったんだがな」
「でも殺したんだ?」
「そうだ、その通り」
軽く顔を上げて、天井を見つめる。自分の内心とは反して、染み一つ無かった。続いてカナエを見つめると、無垢を表現する白色が、異常な虹色に包み込まれている。
その当時まで頭が戻った気がする。あの頃の自分は、世の中をまだ暖かい目で見ていた。
「だが、連中はエンドロールで帰ろうとしやがったんだ。許せないね。騒いだ挙げ句に、作品を堪能しない。それは死に値する罪だと思った」
「それはまた、酷いね」彼女の相槌は、真に迫っている。
「ああ、酷い奴らだ。普通は殺さないが」
「あなたは普通じゃないんだね」
「丁度、人殺しって奴に手を染めてみたかったし、我慢の限界だったんだ。待っても待っても、世の中は物語に変わらなかったからさ」
あの頃の自分は苛立ちや退屈を心の奥で封印していた。自分が物語の登場人物だと思い込んでいただけの、単なる馬鹿でしかなかったのだ。
「殺人の方法は簡単だ。後を追って、殺す。それだけだ。幸い、本当に簡単だった」
自分がちょっと暴力的になるだけで、人はあっさり死ぬ物だ。思えば、それが決定的な一因となった。
「それで、どうなったと思う?」
「どうなったの?」光輝いた瞳が自分を見つめて来る。
「何も、感じなかったんだ」それは、魂が滅ぶ寸前に至程の衝撃だった。
自分が人を殺す。それは特別な事の筈だったのだが、実際には、そんな事実はまるで無かったのだ。
「罪悪感も、人殺しへの忌避感も辛さも無かった。ただ、どうしようもない虚無感と、退屈から来る溜息が残ったよ」出血する直前まで両手を握り締めて、机を叩く。部下達が驚きで震えた。
「おかしいよな。俺は確かに最低の罪を犯したのに、俺を捕まえようと躍起になる熱血の敏腕警官も居なかった」
「ふんふん」
「期待してたんだ。俺は変人だから、この世界の中に有るストーリーへ組み込まれると思ってた」
「……へぇ」
「そこで、思ったんだ。ひょっとすると、俺は物語の中に居ないんじゃないか、って」
吐き捨てる様な気分で口にすると、世界に対する更なる憎悪が吹き出した。あらゆる感情が吹き飛んで最低の気分となり、自然に嫌悪の笑みが浮かんだ。
そのまま爆弾の起爆装置を作動させたくなると、両手を包む暖かな感触が自分の動きを止めた。
「よく捕まらなかったね」両手の主はカナエだった。
変人の戯言だと思っているのではないか。そう思ったが、微笑みの質は変わらない。安心して、話を続けられる。
「俺が殺した連中はギャングだったんだ。それも、かなり危ない橋を渡ってた奴等さ。抗争寸前で、敵対組織がやったって事になった。だから、俺は今此処に居る」
起爆装置に伸びかけた腕を大人しくさせると、彼女もまた手を放した。
「それからは人を自分の手では殺してない。こいつ等は違うが、俺はそんな退屈しか感じない事はしたくない」部下達が顔を見合わせたが、気にしない事とする。
それより、嬉しそうに話を聞いてくれるカナエに意識を向けていたかった。
「ギャングの金を盗んで拷問に掛けられた事も有ったがな。痛いだけで、何のドラマ性も無かった。俺を助けてくれるヒロインは現れなかったし、連中は俺を半殺しにした所で、俺に殺されちまった。ロバート・デ・ニーロみたいな凄い雰囲気の有るボスも居なかったしな」
「うん? え?」そこで初めて、カナエが訝しげな顔をした。だが、無視して言葉を続ける。
「ついでに奪った金は映画監督を支援する団体に寄付したが、その金はきっちり支援先の売れない作家や映画監督に送られたらしい。政府の陰謀で金が横流しされる展開を期待したからな、感謝して来た奴を殴ってやったよ。そうしたらどうだ、殴られた奴は酷いマゾだったんだ。余計に感謝されたよ」
そこで言葉を止めて、反応を伺ってみる。
期待していた物とは違い、何となく疑問的な顔をしていて、大きく首を傾げていた。何だろうか、その仕草すら絵になる。見とれていると、彼女は本当に困った風な声を出した。
「君、自分を客観視するのが苦手なのかな?」
「何だって?」
「いや、どう考えてもそれは……」カナエが何かを言おうとして、首を大きく振った。「うん、やめておこう。君の中の登場人物とは、とても厳しい条件の上に成り立っているみたいだ」
何が言いたいのか分からない。
自分は確かにそういう顔となっていたのだろう、彼女は表情を笑みへと戻し、何度か頷きながらも小さく笑う。
確認をする口調で問いかけて来た。「なるほど、つまり君は世界が退屈で面白くない物だと思っているのかな」
「ああ。俺は、感情を物語の中に埋没させたいと思ってる」実現出来ていない、夢だ。
「そうかい、そうかい」こちらの考えを確認すると、彼女はどんどんと嬉しそうになっていった。
何が面白いのだろう。客観的には暗く恐ろしい、そして狂った話だ。楽しめる要素は何一つ無いと思うが、違うらしい。いや、自分へ向けられる瞳には覚えが有る。物語の登場人物を見る目という奴だ。
その視線はかつてあらゆる人間から受けたかった物だった。悪い気はしない。
自分の心が緩んだのを見て取ったのか、彼女の表情が更に柔らかくなり、手を伸ばしてきた。「ふふふ、ふふふん」頭を撫でられている。子供をあやす様な、とても優しげな手つきで。
「ふふ、私の婚約者といい、あなたといい、私の周りには面白い人が来てくれて嬉しいよ」
全力で人生を楽しんでいる事が伝わってくる。何よりも明るく、本質的に暗い部分が何一つ無い。精神的な何かを超越した、人でなしの顔だった。
「お前は、違うんだな」自分とは、逆方向の精神性だ。「空を飛ぶ鳥は美しく、地面を這う人は腐ってる。そうは思わないのか」
分かり難い例え話だが、彼女はあっさりと理解する。「いいや。鳥は飛ぶし人は歩く、どちらも共通して、生きている。一つ一つの個体に一つ一つの歴史が有り、そのどれもが愉快だ。それぞれこそ物語だ。世界という物語の断片さ。君はそう思わないのかな」
「昔はそう思っていたんだ。だが、現実はどうだ?」心の熱に浮かされるまま、両足を勢い良く立たせる。一瞬だけ彼女の手が放れた。
しかし、即座に手が伸びる。背丈が足りない為に彼女は踵を立てて背伸びをし、笑いながらも頭を撫でる事を止めなかった。
「現実は、こうさ」
「それは、弱さだね。物語が綺麗だから、世界の中の物語性と多様性から眼を逸らしてしまう」
天真爛漫さと不気味さが程良く混ざった顔色のまま、朗々と告げてくる。「自分の弱さを、認めるんだ。認めてしまえば良い、強がっている自分が抱えた弱味を、現実から目を逸らす思いも、理解してしまえば良い」
一歩、自分へ足を踏み出してくる。拒絶は許されず、頬を撫でる手の感触からは逃げられない。
「どんなに意地を張ったって、自分は此処に生きているんだと飲み込めば良い」諭す様な口調であったが、顔に有るのは享楽だけだ。
この小柄な女は、一体何者だろう。
「お前は、何だ?」聞くべきではないという理性の警告を無視して、尋ねてしまった。
ただ、彼女の反応は思ったより大して強い物ではなく、ただ肩を竦めるだけで終わる。
「私は私だ。人々に希望を振りまいて、同じくらい絶望を振りまいて、何よりも楽しく世界に居座るのが目的というだけの、私だ」
「それ、普通の人間でも言える事じゃないか?」
「そう」大きく頷き、肯定していた。「そうとも。私は人間じゃないけれど、人間なんだよ、きっと」
自分自身の言葉に浸っている様子で、軽く目を瞑っている。指先はこちらの頬を這っていて、まるで玩具で遊ぶ子供に見える。
「私は人間だからね、誰かの特別になるっていうのは、凄く幸せな事で、それだけで自分の存在を認めてあげたくなる物なんだ」
だから、誰かの特別になれと言うのだろうか。
生憎と相手が居ないので、少し意地の悪い事を言ってみる。「お前がそうなってくれるのか。俺の空白を、埋めてくれるのか」
「いや、残念な事に私の想いは売却済みだから」ウェディングドレスの先を摘み上げ、優雅に一回転して見せつけてくる。
「そうか」分かっていたが、若干の落胆が有る物だ。
「ごめんね」
「いや、良い。だが、やはり世界は物語ではないな。この意志は曲がらないぞ」自分の中で世界に対する悪感情が蠢く。例え奇妙な女の言葉を受けても、そこだけは変わらない。
「そう」特に残念そうでもなく、彼女は一歩退いた。
一メートルも無い距離だが、それこそが決定的な感情の違いに思える。しかし、彼女は全く堪えた訳ではないらしく、不気味な笑みと共に椅子へ座り込んでいた。
「世間の流れにも他人の感情にも絶対に従わず、自らの意志で世界を変えようと歩む人、か。こういうの、何かの作品に有ったよね」
確かに、有る。
同意を示して首を縦に振ると、愉快そうな吐息が耳に入って感情をくすぐった。
「なら」彼女が、再び立ち上がる。
そこから発せられる空気は今までとは決定的に違い、自己的な快楽主義の悪い部分を濃縮した様なおぞましい物だった。部下の中には凶悪な気配に思わず身構えてしまう者も居るが、自分にとっては必ずしも悪い物ではない。神話に語られる怪物でも目にしている様で、痛快な気分だ。
自分自身に向けられるありとあらゆる視線と反応を受け取り、それでも彼女は平気な顔をしていて、何を考えているのかが読み取れない。
「この世界は物語なんだっていう証拠でも見せようか」ニタリ、と表現すべき笑い顔を、カナエが浮かべる。
彼女の挙動の全てを見逃さない様に観察していると、こちらへ向かって片手を伸ばしてくる。
「銃を貸してくれないかな」邪気の欠片も無い声音から、とんでもない提案が来た。
今の彼女に銃を渡すなど、殺人鬼に刃物を渡す様な物だ。絶対に渡してはいけない。分かっていても、内心では興味をそそられる物が有った。
「何に使うんだ」
聞いてみれば、彼女は曖昧に手を叩いた。
「んー、自決?」
「どうして自決する必要が有るんだよ」
「いや、世の中には不思議な事や人間の知らない事が沢山、たぁくさん有るんだよって教えたくて」
その目的で、どうして自決するのか。尋ねてみようかと思ったが、どうせ聞いても答える気はないのだろう。
「さ、拳銃でも自動小銃でも構いませんから、何なら猟銃でも問題無い」
手を出したまま、催促してくる。
部下達が震える瞳で「お願いだから渡さないでくれ」という懇願を伝えてくるが、見なかった事にしておいた。彼らの存在価値は、カナエよりずっと低い。
だが銃を渡すべきかは、悩み所だ。一体、何をするつもりなのか。期待が膨らみ、奇術師を前にした少年の如く若々しい気持ちが盛り上がってきた。




