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10話

 カード型の鍵を入れて、扉を開ける。開けっ放しにして、中へ入っていく。すると、目の前に茶色を主題とした空間が広がって、微かだが爽やかで良い香りが嗅覚に捉えられた。

 思わず、感心の声が漏れる。反射的に五感へ意識を集中させて、記憶を刺激した。例えるならば質の良い石鹸だろうか。目立つ物ではないが、覚えが有る。

 少し考えれば、それがカミラ・クラメールの物なのだと分かる。女性らしさより、彼女らしさを現す香りだ。普通の人間なら気づけないだろうが、自分は誤魔化せない。

 そこが彼女の部屋だという事は明らかで、一人の熱心なファンとして嬉しい気持ちにさせられる。他のファンに自慢してやりたくなり、そのままベッドに飛び込みたくなった。


「これが」喉を鳴らし、シーツに指を這わせる。「これに、彼女が寝転がっていたりして」


 少し変態的かな、と思う。同性の寝ていたであろうベッドを興奮気味に見つめているなど、傍から見れば何とも微妙な光景だろう。

 それに、今はこんな事をしている時ではない。カミラの言葉を信じるならば、この部屋には監視すべき何かが有るのだ。

 しかし、見ている限りベッドには誰も寝ていない。ベッドの下に誰かが隠れている可能性も考えたが、誰も居なかった。


「ふぅん……?」声を漏らしてみる。聴覚を鋭くしても、誰かが反応した様子は無い。


 第六感にも引っかかる物は無く、室内に第三者が存在する事は、あり得ない。どうやら、本当に無人の部屋の様だ。肩の力が自然に抜けた。

 もう一度、室内を見回す。家具の配置はプランクの居る部屋と同じで、特に変わっている感じはしない。

 いや、部屋の隅にトランクが置かれている。「これかな?」手に取ってみると、妙な雰囲気が見えた。自分の中に有る感覚が、危険を訴えている気がする。

 外見的にも、嫌な予感を思わせるデザインだ。その危険が大いに好奇心を刺激させてくれて、此処へ来たのは正解だったと確信させるのだ。

 試しに、指先で軽くつついてみる。特に反応は無い。「生き物が中に入っている、というのは無いかな」少し、残念だ。「可愛い動物でも入っていれば嬉しいんだけど」

 続いて耳を近づけてみると、微かな電子音が聞こえてきた。何らかの機械類が入っていると見て間違い無い、トランクを開けて中身を確認するのは止めておいた方が良さそうだ。そして、トランクが血塗れになってしまった。

 カミラの私物ではないだろう。ロビーで出会った彼女はこんな荷物を持っていなかったし、何より、こんな物より彼女から感じる危険の方がずっと強い。

 ならば、と考えてみる。トランクの正体には一つの心当たりが有った。こんな所で出会うとは、面白い事も有った物だ。


 それの一般的な名称を、口にしてみる。「爆弾かな」


「正解だ」


 訪れる筈の無い返答が来た。それを認識した瞬間には、既に後頭部に強い衝撃が走り、身体が前に倒れかかった。

 背後から殴られた。痛む頭でそれを理解すると、倒れ込みそうになった所を後ろから支えられ、勢い良く両目を塞がれる。背中に、何かを突きつけられている感触が有った。


「動くな」


 初めて聞く、男と思わしき声だ。だが、誰なのかは考えるまでもない。この爆弾を設置した何者かだろう。部屋の確認に来て、そこに居た自分の口を封じようとしているに違いない。

 中々に愉快な状況だ。背中を押している物は、大きめの銃かと思われる。


「こいつは熊を撃ったりする銃だ。人間を撃つ物じゃないが、俺は撃つぞ」どうやら、自分に向けられているのは猟銃らしい。

「猟銃かな」

「そうだ、猟銃だ。あまり喋らない方が良いぞ、うっかり撃ちそうだ」


 猟銃を向けるとは何とも面白い、愉快だ。幸い、今すぐ殺す気は無いらしいので、反撃をしない事を決める。こんな面白そうな事態を、正当防衛で破壊する気は微塵も無かった。


「大人しくしていれば、危害は加えない」ああ、それは嘘だな。瞬時に分かる。


 男の声は、無関心かつ不気味なくらい無気力である。プランクに近い物を感じさせるが、熱の籠もり方が彼とは異なる。プランクから得られる感覚が、澄んだ湖の底へ犠牲者を引きずり込む無数の手なのに対して、こちらは暗いヘドロの沼に入り込んだ様な感覚が有る。

 どちらも入った者を死に至らしめるが、その色彩は全く異なっていた。だが、どちらも人を殺す事に眉一つ動かさないのは同じだろう。


「例えば、私が此処で叫んだら? どうなる?」

「その時は死体が増えるだけだ。死体袋は用意してあるから、安心して死んでくれ」


 そうは言われても、死体袋に突っ込まれる趣味はない。


「でも、どの道ホテルごと吹っ飛びそうだけどね」小さな声で口にして見ると、男の呼吸音が乱れた。

「何だって?」

「連続爆破事件の犯人に会えるなんて、光栄だ」強い確信が有った。

「なるほどな」背後の男が、驚きとも狂喜とも取れる息を漏らす。


 実に機嫌の良い声ではないか。まるで地獄より深い暗さの中から生み出された、不気味な光だ。しかし、特に怖くは無い。これから何が起きるのか、この男が何をするつもりなのか。興味が有った。

 男は深く息をしていて、興奮を抑え込んでいる様だ。


「少しだけ、物語は作られていた様だ」


 面白い言葉だ。一体、男は何を思って口を開いているのだろう。聞いてみると殺されるかもしれないが、尋ねてみる価値は有る。


「よく分からないけど、楽しそうだね」

「そうかもしれないな」男が愉快そうに腕の力を強くする。「全く、恐怖が沸く程に酷い世の中だよ」押さえられている目が余計に暗くなった。

「あんまり痛くされると、目が辛いんだけど」別に痛い訳ではなくとも、ちょっとした刺激を加えてみた。「我慢しろ」


 より楽しそうに、男が大きく鼻を鳴らす。背中に向けられた猟銃が、肌に刺さる寸前まで押されていた。そのまま身体を貫かれそうだ。


「それにしても、随分と平気そうだな。普通は怯えるのが筋だと思うが」

「見かけは平気そうでも、結構怯えているんですよ」まあ、当然嘘だ。むしろ友情に近い気持ちになる。

「嘘を吐くな。何時でも抜け出せる癖に」

「抜け出せないよ。君の力が強すぎてね」無視して引き剥がすのは簡単だったが、興味が有って抜け出せない。


 そんな内心を読み取っているのか、男が嘲笑に近い声を漏らした。爽やかさは微塵も無いが、好きな声だった。深く、まるで俳優の様だ。


「君、俳優さんかな?」思わず聞いてみると、男は驚いた風な息をした。「ゲーマーは必ずゲームプログラマーなのか?」違う様だ。

「俳優なら、サインが欲しかったよ」何だ、残念。そう思ったが口にはしない。

「サインって映画なら知ってるな」

「え? ……うん? あ、ああ。成る程」


 意味合いが伝わってくると、口から少しずつ笑い声が漏れ出して来た。とてもズレた回答だ、どうやら天然ボケと呼ぶべき一面も有るらしい。


「笑われたくは無いんだけどな。ここは」男が銃の先端で内臓付近を強く突いた。「黙れ、と言っておくべきか」

「あはは、ごめんごめん」


 衝撃で頭が白黒としたが、大した事ではなかった。普通の人間でも呻き声を吐き出す程度で済む物だから、自分なら尚更だ。

 ああ、しかし。猟銃の先端なら煤や錆も有るだろう、それでドレスが汚れてしまったかもしれない。白は汚れが目立つのだ。自分を象徴する虹色でドレスを作った方が良かった。


「黙って着いてこい」恐怖を煽ってくるが、、わざと悪役の様な声を出している様に思える。


 目から手が外れたかと思うと、髪を引っ張られた。抜けてしまうのは良くないから、大人しく着いていく。男が外の気配を探って部屋から出ると、猟銃の感触が無くなって、首に手が巻き付けられた。逃げようとすれば、絞めるつもりなのだろう。

 何となく、これも何かの演出に感じられた。架空の世界に引っ張られていく感覚だ。遊園地のアトラクションにでも乗せられている気分で、実に愉快だった。


「優しくしてね」

「どうかな」軽口に対して、笑われる。「俺は、自分が怖くない人間だと思っているんだがな」

「じゃあ、他人からは怖いって言われるんだ?」

「そうだな、そう言われる。俺は嫌われ者だ」


 自嘲気味だというのに、言葉の中には全く落ち込む気配が見当たらなかった。何の興味も示さない、凍り付く程の極寒の世界と言い表すべきだ。

 男は気分良く息を漏らしながら、階段の方へと歩いている。泥沼の様な精神性を感じさせるが、自分の首を絞める所は楽しそうだ。

 ますますプランクに近い。厳密には全く違うが、優しい気分になる。だからって浮気はしないが、同じ類の人間という物は居るのだと感心してしまう。自分は世の中へ冷ややかな視線を向ける者を引き寄せるのかもしれない。自分自身は明るく楽しく世界を謳歌しているというのに、不思議な話だ。


 疑問に思っていると、男が何時の間にか階段の一段目に足を下ろす。

 不意に、あの殺人的な夫婦がエレベーターの陰から姿を見せてきた。

 機関銃にグルカナイフの組み合わせだ。自分を見つめる瞳の輝きから察するに、まだ自分を殺そうと考えているらしい。


 男が気づかない様に小さく手を振ってみる。あの殺人夫婦の内、夫の方が振り返してきた。だが、慌てた妻が止めている。やっぱり面白い夫婦である。殺しに来ないなら、抱き締めてやりたいくらいだ。

 引っ張られて、身体が下へと降りていく。夫婦の姿はすぐに見えなくなった。ただ、彼らは追いかけて来る。胸の中に確信が有った。

 今度は、どうやって殺しに来るのだろう。そう期待するだけで、自分が捕まったという事実が華やかに感じられた。



+




 エレベーターが昇っていく。上部に有る階層の表示は2を示していて、すぐに3へ移動していた。身体が上昇する感覚は嫌いではない。欲を言えばもっと高層の建物が好ましいが、文句は無かった。

 目の前にはホテルマンが立っている。帽子を軽く被っている姿は好印象だが、表情は深刻で心配そうな物を見せている。自分が話した事を考えれば、当然だろう。

 この人物には全てを話している。都合良く捕まえられた従業員は、迷惑そうな顔一つせずに自分へ着いてきてくれた。

 あまり営業の邪魔はしたくないが、仕方が無いのだ。何せ爆弾である。自分が生き残るだけなら楽な話であっても、普通の神経が有ればホテル爆破を許容はしない。

 それにしても、世の中とは不思議な物だ。爆弾でホテルを破壊して何になるのだろう。何らかの恨みが有るのか、それとも単純に壊したいだけか。どちらでも頭のおかしな犯行である事は間違いない。

 尋常ではない犯罪に対して何が出来るのか。出来れば、カッコ良く立ち回りたい物だ。自分の中の炎は、何時でも戦い続けている。その苛烈さは、普通であれば燃え尽きてもおかしくはない。

 エレベーターに付けられた鏡で、自分の姿を捉える。昔、自分を変えた女性の姿にそっくりだ。思わず、自分の身体を両腕で抱き締める。それだけで、世界が明るく見える気がした。

 急な行動を見つめるホテルマンの視線に気づく。不敵に笑ってみせても、大した反応を見せない。今の自分の瞳は恐るべき輝きを増しているだろうに、随分と図太い性格の持ち主らしい。

 多少の賞賛を覚えていると、エレベーターが音を立てて到着を知らせてくる。同じくらいのタイミングでスライド式の扉が開いた。

 そこから見えるカーペットの端に、血液と思わしき染みが出来ている。誰かが垂らしたのだろうか、関係無い可能性も有るので気づかなかった事にしておく。

 ホテルマンが先に一歩を踏み出す。それに合わせて素早く部屋へと向かっていくと、余り距離が無いので想像よりも早く到着した。

 部屋の扉は開きっぱなしだ。中には任せておいた女が居る筈だが、人の気配が全く無い。ホテルマンに遅れて、中に入っていくと、そこにはやはり女の姿など無い。


「やられた、か」呟いてみると、より空気が重くなった気がする。


 大方、何かの要因で捕まえられたのだろう。女が頼み事を無視した可能性も考えたが、トランクに付着した血液が否定している。

 トランクが爆弾だと分かって自分の説明が事実だと気づいてくれたらしく、ホテルマンが血相を変えた。そのまま自分へ一言二言を告げると、そのまま部屋から飛び出していく。

 とりあえず、警察にでも通報してくれる筈だ。所詮、自分は女優であるから、肝心な部分は任せるとする。

 すっかり人の気配が無くなってしまった。自分はどうするべきだろうか。いや、一つやるべき事が有るのだ。つまり、苦情である。

 携帯電話を取り出し、電話帳から『危険な監督』という項目を選ぶ。通話を選択すると、ワンコールもしない内に電話に出る声が聞こえた。


「君から電話なんて珍しいな、カミラ」

「やあ、監督」冷ややかに言っておく。


 電話越しでも通じるくらいに強い言葉のつもりだが、向こう側に居る監督の様子は変わらない。


「やーあ、ホテルの時間はどうだい。楽しんでいるかな? こっちは今、自分が撮った映画を鑑賞しながら最高のイタリアンを楽しんでいる所だよ。いやはや、食事という物は侮れないね。知っているかな、かの有名な監督が撮った映画の冒頭で食事をしているシーンが有ったが……」

「チップを渡すか渡さないかで話してるアレか。知ってるから言わなくて構わないんだが」

「何だ。知ってるのか」監督が楽しげに話している。「まあ、当然だな。映画を見ていない映画女優なんて、映画を見ない映画監督やUFOを見た事の無いUFO信者と同じくらい馬鹿げた存在だ」

「同感だ。だが未確認飛行物体を見なくてもアダムスキー信者にはなれるだろうな」

「だが、そういう物は実際に見るからこそ映えるだろう?」


 この監督なら戦争映画を撮る為に実際の最前線で銃撃戦をしていても不思議ではないな、と思えた。それならSFを撮る時は宇宙の旅に行くのかと思うと、何だか面白く感じられる。


「それで休暇は良い物になりそうか?」感謝を寄越せと言いたげな監督の声が響く。「そこのホテル、今日は随分と予約が多くてね。空き部屋を作って貰うのに結構な交渉が必要だったんだ」

「どうもこうも、安らげる時間じゃないのは確かだな」


 言葉の中に強い嫌味を籠めてやると、流石に電話の向こう側の空気に鉛の様な重さが加わる。そこら辺の粋がっている悪党くらいならこれだけで逃げ出すのだが、監督の呼吸に変化は無い。


「ふむ、何だって?」

 聞き返されたので、答えてやる。「さっき、アンタが撮影で使ったバスの運転手が居たぞ。もっとギャラを渡せとか言ったかと思うと私に殴り掛かってきた」


 かなり課程を省略したが、嘘ではない。カメラ片手に喜んで飛んでくる可能性が有るので、爆弾を持っていた事は伏せておいた。


「それは気の毒だな」

「どちらが?」

 監督がさも当然と言いたげに答える。「運転手の方に決まってる。で、殺したのか?」

「誰が殺すか、私を殺人鬼扱いしないでくれ」

「だが人を殴っている時の君は輝いている」監督の声は、明らかに嬉しそうだ。

「酷い言い草だな」もし監督がこの場に居たなら、殴っていただろう。

「気を悪くしないでくれ。で、その君を襲った馬鹿な彼は、今そこに居るのかな?」

「いや、居ないよ」

「何処へ行った?」

「さあ、分からないね、だ」


 少しだけ、監督が黙り込んだ。何かを考え込んでいる様子だが、どうせ新作の脚本を作っているに違いないとも思える。

 頭が映画で出来ているのではないか。頭を叩いて正気に戻してやりたいが、生憎、此処には居ない。


「ギャラか……沢山の映画を撮って、なおかつ損をしない為だからな。仕方が無いんだよ」

「どっかのB級映画の帝王みたいな事を言うなよ、無駄に芸術家方向の作品を撮ってる癖に」この監督が言う資格は無いと、心から思う。


 あの一切スタントもCGも使わない命懸けの撮影だって、今の技術であればもっと低予算で、もっと躍動感や雰囲気の有るシーンを作れるのだ。彼に技術が無いとは思えないので、やはりその辺りは拘りなのだろう。


「いや、映画が転けるとかなり損をするからな。次の撮影に響くし、下積みの頃は大変だったんだ。売れないクリエイターを応援する団体が有って、随分と助けられた」実感の籠もった事を言いつつ、感謝を口にする。「いずれ恩を返そうと思っているよ」


 言葉を挟む暇も無く、監督が言葉を続けた。「それに、低予算から良い物が生まれた時より感動する物はそう無いね。あのディストピア物のSF映画だって、ストーリーより変わったアクションシーンで人気を得たんだ。でも、そのアクションが生まれた理由は」


「予算が無かったから、だったな。それも知ってるから教えなくて構わない」

 先回りして言うと、残念そうな声音が帰ってくる。「それも知ってるか、いや当然とはいえ……」

「ともかく、バスの運転手が私の部屋に居て、襲ってきたんだ。どの辺りが良いホテルなのか、尋ねてみたいね」


 こちらが怒っている事が伝わったのか、監督は唸る様な声を発して、控えめに「うむ」だの「ああ」だの口にした。


「……そうだな、『男爵』の奴に文句を言っておこう。情報はちゃんと渡すべきだって」聞いた事の無い名前が出てきた。


 その『男爵』とやらが、彼にホテルを紹介したのだろうか。あるいは彼自身がその人物である可能性も有る。むしろ、そちらの方が真実味が有った。


「旨いイタリアンの情報は本物だったんだがなぁ」そんな言葉も、妙に怪しげだ。

「暢気だな」

「そうでもない。ところで、こういう状況で怪しいのはテロに協力する内部の犯人だ。従業員の中に怪しげな奴は?」

「気の利くホテルマンばかりで、こちらが恐縮してしまうくらいだよ」


 もう、この監督はホテルの中に居るんじゃないかと思う。イタリアンレストランに籠もって状況を監視している可能性が非常に高く感じられる。


「私は爆破事件の首謀者になる程狂ってはいないさ、信じてくれよ。流石に率先して人殺しにはならない」こちらの疑いを感じ取ったのか、弁解している。まあ、撮影の為なら人殺しくらい平気でやりそうな人物にそう言われても、信じられる要素は何一つ無いのだが。

「いや、悪かったよ。君には迷惑を掛けっぱなしだ」

「迷惑だと思ってるなら、少しくらい心配してくれ」軽い口調で言ってみると、監督が素の声を漏らす。「そんな必要が?」確かに、必要無い。「いや、無いな」

「そうだろう、私なんかの手が有った所で、君が変えられる物か」発言内容は自嘲気味だが、語調はとても楽しそうだ。


 それを指摘してみると、監督は電話の向こうで水か何かを飲んで、喉を潤してから答えた。


「当たり前だろう。君だぞ? 君がそんな事件に巻き込まれたんだ。リアル志向の私としても、現実で起きた事件を君が片っ端から叩き潰していく所は是非見たい。そちらにカメラを持ち込めないのが残念だよ」


 潰していくのは確定なのだろうか。派手に暴れるのは大好きでも、別に暴力を振るうのが大好きという訳ではないのに、そんな風に思われるのは心外だ。

 そうは思ったが、監督に何を言っても無駄だという事は分かっている。


「何か有ったら連絡をして欲しいね。応援しているさ、頑張ってテロ組織でも快楽殺人犯でもギャングでも強盗でも何でも良いから捻り潰してくれ。前回の撮影は本物のギャングを参加させたが、やはりキャストは極力本物の方が良いと思っていてね、出来れば誰か良さそうな奴を連れてきてくれ、その場で演技指導をして俳優として雇うつもりだ。ギャラは交渉するとして……」

「もう切るぞ」面倒な語りが始まる前に、問答無用で電話を切った。


 携帯を仕舞って、溜息を一つ。リアル志向は構わないが、行き過ぎると何事も狂気の沙汰だ。自分もまた、行き過ぎた人間性くらい持っているが、彼ほど人を著しく弄び、傷つける様な物ではない。


「やれやれ、だ」


 自然と独り言が溢れ出ていく。


「本当に、面白い監督だよ」何より愚かしいと思うのは、自分自身があの監督を嫌いになっていないという点だった。


 ああいう馬鹿野郎は迷惑だが、面白い。あれくらい色々な物を振り切った人生はとても良い物に思えるだろう。

 自分の気持ちを再度確認して、姿勢を正す。何か今後の指標となる手がかりは無いか。部屋中からそれを探してみると、床に付着した僅かな赤色に気がついた。


「血、か」身を屈めて見ると、それが確かに人間の身体から出る物だという事が分かる。


 滴り落ちた僅かな物でしかないが、確かに血液だ。もしかすると、他の場所にも落ちているかもしれない。そう考えて探ると、部屋の扉の付近に同じく血が落ちている事を見つけた。

 促される様に外へ出て、廊下の床へと意識を集中させる。血は道を示す様に落ちていた。


「面白い」次の血が落ちている床へ立ち、また次を見つける。


 血やパンの切れ端で行き先を示すのは、フィクションの中では比較的多い物だが、実際に見るのはこれが最初だった。

 徒労に終わるとは思えない。いや、何となく分かったのだ。この血の道は、あのファンを名乗る女が意図的に作った物だという事が。


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