3話
翌日、午後。
ホテルの中には外側から分かるよりも大きなロビーが広がっていた。数回建てのどこにでも有りそうなホテルだが、この部分だけは何らかの拘りが見て取れる。
目立っているのは、結婚式場にも使えるという広告が乗せられたレストランだ。描かれているパスタやトマトをみた限り、典型的なイタリア料理店の類に思える。何となく、美味しそうに思えた。
しかし、今はまだ夕食時ではない。大きく息を吸って、空気を味わう。撮影の後の休暇とは、かくも安らぐ物なのか。
ロビーには他の客が何人か居たが、誰も自分がカミラ・クラメールだとは気づいていない様子だ。当たり前の事である。髪は特殊メイクに使うウィッグで腰まで届く長髪になっているし、着ている物は旧ドイツ風の軍服らしき物である。女物ではないが、自分の背が高めだからか、一応は似合う形で着られたと自負している。
そんな格好をした変人を注意して見つめる者などそうは居ない。居たとしても、自分の正体には気づかない。
「うん、悪くない」
腰に届く髪は黒く、掻き上げる仕草をする度に流れる様な触り心地が実感出来た。監督の所から借りてきて正解だ。
今の所、危険そうな物は見当たらない。テロリストグループが居る様子も無く、日常的なホテル内の情景が展開されている。あえて言えば、ソファに座っている二人組の片方が、顔を包帯で隠している所だろうか。
さらに人々の姿を観察していると、若い夫婦がホテルマンに話しかける姿が見えた。何となく横から聞いてみると、どうやら、このホテルに有名人が泊まっていないかと尋ねている様だった。ホテルマンが困り果てた様子で対応していて、少し哀れだった。
自分も有名人の末席に居るが、そんな者達に率先して関わる必要も無い。従業員には内心で応援を送るとして、部屋へ向かう事にする。
受付に行くと、恭しい態度の従業員が挨拶をしてきた。同じ様に返事をしながら自分の名前を告げると、すぐに予約が入っていると言ってカードキーを取り出してくる。真っ当な教育を受けているのだろう、慣れ慣れしくはないが、とても友好的な態度を見せてくれる。演技が上手い、素直にそう感じた。
カードキーを受け取り、一礼する。気分の良い接客態度に、来て正解だったという気持ちが沸いた。監督の紹介でなければ、素直に喜ぶ所だ。
部屋は最上階が予約されていた。七階建てなので、一番上と言っても高層ではない。エレベーターで簡単に行ける高さだ。階段で走った方が早いのだが、そういう気分ではなかった。
エレベーターの前は、装飾が程良く施されている。控えめな木目調が好ましい。
「あの」ボタンを押そうとした時、自分に呼び掛ける声が聞こえた。
そら来た。内心で気持ちを引き締める。あの監督が予約したホテルだ。騒動の一つや二つは有って当然、むしろ、それが楽しみで此処へ来た。
声の主が居る方向へと振り向く。そこには、随分と変わったウェディングドレス姿の女が立っていて、飛びきり幸せそうな笑顔と輝く瞳を向けてきていた。
そのドレスは基本的に純白だが、胸から足にかけて螺旋状の切れ込みが入っていて、その下に虹色の肌着が見えている。顔立ちが可愛らしいだけに花嫁モデルの撮影か何かにも見えて、妙に目を引く。自分の軍服姿も目立つと思うが、こちらに比べれば問題にもならない。
「カミラ・クラメールさんですか?」少年の様な高めの声で、自分の正体を見破った事を伝えてくる。隠すつもりも無かったので、特に驚かない。
どうも、花嫁はミーハー気質の持ち主の様だ。それでも無駄に騒いだりしない所を見るに、配慮はしてくれている。好意的に扱うべきだろう。
「その通りだが、君は?」
「私ですか、ファンですよ、ファン。あなたの出演作品は全部目を通しています」
余程好きなのか、目から光が出ている風に見える。強烈なファンの様だ。そう認めると、少し意地の悪い事を言いたくなってきた。
「それはどうも、なら『ダーウィン・オブ・ザ・デッド』は?」進化の果てはゾンビ、ゾンビこそ生態系の頂点という映画だった。
全く無名のタイトルだが、花嫁は頷く。「見ました、酷い映画でしたね。確か、ヒロインなのにゾンビの群を気絶させちゃったとか」
それは、演技として凄んだら気弱なキャストが気絶してしまったという話だ。知名度は最低に近い映画なので、その辺りの逸話を知っている事に内心で驚いてしまう。
だが、まだだ。まだ知名度の低い作品は有る。
「『エックス&ファイブ・クラーミング・エース』は?」
「勿論! 素敵なギャング物です。確か、最後のシーンで黒幕のあなたが去っていくシーンで終わりですね」
「『グラン・ルームス』」
「アンサンブル物……群像劇ですね。一階のロビーでソファに延々と座って人生相談に乗る、穏やかな役です」
「『ドン』」
「あ、心霊ホラー物。マーダー役でしたね」
「『永劫の探求』」花嫁が首を傾げる。「映画化してないじゃないですか」引っかけにも動じない。知ったかぶりでも無いらしい。
「なら『ジャム物語・人は何故ジャムをパンに塗り、弾を詰まらせるのか』」
「ああ、バカ映画。確か主人公を徹底的に扱き下ろす怖い女性将校役でしたよね。出演作品で一番怖い役だったかも」
「『プラン9・フロム・アウタースペース』は?」
「それはエドワード・D・ウッドジュニアの映画じゃないですか、ベラ・ルゴシのフィルムを使い回してる奴。制作はあなたが生まれるよりずっと前ですよ」
次々と口にした映画のタイトルに、花嫁は即答という形で返してきた。
「あ、エレベーター、来ましたよ」話している間に彼女が押していたのか、エレベーターの扉が開く。
その中へ入り込むと、花嫁も同じ様に入って来て、少し離れた所に居る男へ手招きをした。「プランクさん、ほら、早く」呼ばれた男はすぐに近づいてきて、花嫁の側へ立った。
「それで、サインが欲しくって」何事も無かった様に頼み込んでくる。
少し考え込む様子となって、彼女は不安そうにした。「もしかして、迷惑だったかな?」かと思うと、何やら嫌な気配を纏ってくる。
時折丁寧さが欠けた口調になるのは、癖なのだろうか。ともあれ、サインを断る理由が無い。
「構わないよ、迷惑ではないさ。特に、君みたいな熱心なファンはね」
快く返事をすると、彼女は満天の星空より明るい顔となる。「ありがとうございます。じゃあ、これにお願いします」
そう言うと、彼女は隣に居る男の懐に手を突っ込んで、一枚の小さな紙を取り出し、差し出してきた。名刺の様だが、裏面には何も書かれていない。
これを色紙代わりにして書けば良いのだろう。軍事的な勲章を模したペンを胸ポケットから取って、その紙を壁に押しつける。
「さて、君の名前は?」
「カナエ、です。漢字では、『仮名衣』でお願いします」
「私がそういう文字を書ける事も知っている、と」
「有名な話でしょう?」
一応、その通りだ。一体、何処まで詳しいのだろうか。
自分の名前と、カナエと名乗った花嫁の名前を入れておく。漢字で『仮名衣』と書くのも忘れない。字的に考えれば偽名だが、気にしない。
書き終えて、紙を自分の手元へ寄せる。「ところで、可愛いドレスだな」
「そうですか? 嬉しいな、似合ってます?」
「ああ、とっても。今日が式の当日かな、参加しても?」
「あ、いえ。その、実は、張り切って勢い勇んで、気づいたら下見なのに着て来ちゃったんですよ、えへへ、ちょっと間抜けかな?」恥ずかしそうに、腹の辺りで両手を置いた。
やはり、とても可愛らしい『演技』だ。いや、演技ではない様に思えるが、彼女のあらゆる挙動と声に妙な違和感、異質さが含まれている様に見える。何故か人間とは思えない。
微かな疑心を覚えていると、隣に居た男が彼女の頭を軽く叩く。「張り切り過ぎですよ」
「良いじゃないですか、プランクさん。あっ、この人が私の婚約者です」
「初めまして」紹介に合わせて、軽く頭を下げて来た。オールバックで、冷静そうな顔立ちだ。顔のパーツの中でも、瞳だけが目を引いている。
まるで荒涼とした砂漠だ。何の潤いも無い、滅んだ後の世界のイメージである。あらゆる部分が明るい花嫁とは正反対だ。
男からは、何らかの強さを感じられた。「良い男だな」素直な感想を口にすると、花嫁が首を振ってきた。
「素直に言って良いんですよ、虫けらを見る様な目をしてる、って」
「いいや、ファンの旦那にそんな事は言えないね」失礼な感想だと思ったが、花嫁の感覚では違うらしい。「そういう不気味さがまた好きなんですから、問題ないです」
「カナエ、初対面の相手に好き合っている事をアピールされると、私であっても少し照れますよ」
「それが狙いです、実際、愛してるんだから恋人自慢くらい良いじゃないですか」
たった一言話しただけで、二人はもう自分達の空気という物を形成し始めている。エレベーターはもうすぐ五階に到着する頃だ、二人から別れる意味も有って、紙を差し出す。
「さあ、二人の時間の邪魔をして申し訳ないが、サインだ」男の方から視線を移し、花嫁は喜んで紙へ手を伸ばす。「おお、貰います!」
それを見ていると、普通に渡すのも少し面白くないと思えた。
頭に浮かんだのは、トランプを相手の指の股へ挟んだ事だ。ポーカーのシーンで最後の決着を行う際に、相手の指へ四枚、口へ一枚を投げ込むという演出だった。その作品を見ているファンなら、喜ぶかもしれない。
悪戯心もあって、彼女の指の股へ滑り込ませてみる。普通なら難しいが、この程度ならバス上で銃撃を避けるよりは遙かに簡単だった。失敗する筈も無い。
だが、指の股へ入る寸前で腕を掴まれて、動きを止められたかと思うと、花嫁はサインの書いた紙を丁寧に受け取っていた。
「ありがとうございます、一生大事にしますね」掴んでいた腕を離し、楽しげに言葉を続ける。「ちなみに、さっき名前が出た映画で同じ動きをやっていましたよね、阻止しましたけど」
その時、エレベーターが到着した音を鳴らせた。六階だ、自分の降りる場所ではない。
「あ、私達は六階ですから」そう言うと、二人は外に出ていた。
花嫁がサインを胸元で大事そうに撫でている。その乙女の様な表情からは、久方ぶりに自分の動きを止めた存在の雰囲気は全く感じられない。
「……そうだな、じゃあ、またスクリーンで会いに来てくれ」冗談めかして告げると、彼女が笑い声を上げた。「言われなくともあなたの出演作は全部網羅してますって」
「そうしてくれ、今度の新作も、その、色々と死ぬ思いをしたんだ。見てくれると嬉しい」
「もちろん! では、今度は観客席で!」
花嫁が、手を振ってくる。それに対して手を振り返しながらボタンを押すと、扉が閉まっていった。
その時、エレベーターから見て奥側の方で、先程ロビーで見た男女が歩いているのが見えた。六階に居る辺り、有名人は見つけられなかったのだろう。
彼らの顔色を確認するより早くすっかりと扉が閉まり、上昇する感覚がやって来た。
そう思っていると、もう扉が開く。七階の廊下には誰も居なかった。体感的には早い物で、七階に到着するまで一瞬も無かった様な錯覚が有る。
思った以上に、花嫁との会話を長く感じていた様だ。
誰も居ないなら、と。何の遠慮もせずに廊下へ出る。背後のエレベーターはすぐに閉まり、下の階へと落ちていく。部屋はすぐ側で、探す程の物でも無い。
思わず、小声で独り言を口にする。「……変わり者と出会う辺り、まさに『何か』の予兆だな」まるで、何かのストーリーに巻き込まれた気分だ。
何となく、あの新郎新婦がこのホテルで起きるかもしれない『何か』に関わっているのではないか、という直感が有った。
それがどれほどの危険なのか、はたまた単なるラブストーリーで、危険など全くないのか。そこまでは分からない。分からないが、一応は部屋へと向かう事が先決だ。
一方で、その部屋で『何か』が起きようとしている、そんな気もした。




