1話
カミラ・クラメールは、とあるバスの上に立っていた。この車が行く高速道路には殆ど車が通っておらず、光だけが夜の闇の中を走っていく。それはまるで人という生き物の孤独さを表現している様であり、何故だか息苦しくなってしまう。
ただ、自分にはその孤独とやらを飲み込み、踏み潰していく力が有り、心が有る。そう確信する彼女にとっては、大した意味の無い事だ。
圧倒的な自分への信頼の中で、彼女は一つ頭に思い浮かべる。
それは少女であった時分に出会った人の姿であり、今の自己を形成するきっかけにもなった女性の姿だ。黒く長い髪で、長身痩躯の、だが人間とは思えない程に優れた力を持つ人物。そんな人は、かつてこう言った。
「どんな状況でも、余裕は忘れるな。意地を張って、無理をしてでも強く有って見せろ」何よりも雄弁な不敵な笑みと一緒に告げられた言葉だった。
彼女と共に過ごしたのはたった数週間に過ぎない。それでも、カミラはその言葉で立っている。例えば今、こんな場所に居る事も。
「ああ、少し集中を欠いたかな」
脇道に逸れた思考を取り除き、カミラは現実へと意識を帰還させる。途中で幾らかの案内板が身体に衝突しかけたらしいが、無意識に避けていたのか見事に無傷だ。高速で走るバスの上での振る舞いには見えないだろうが、自身には自然な事だ。
その間にも、一つの案内が眼前に迫っていた。普通に衝突すれば即死は免れない。が、普通に避けるのでは強くは無い。やるべきは、誰もが目を疑う様な方法だ。誰かの注目を得たい訳ではないが、自己満足として行うべきだろう。
瞬間的な思考が体感時間を引き延ばしていき、一瞬を数十秒と同等にする。たちまちバスの動きが鈍くなり、死神の声に等しい風を切る音すら放置して、カミラは案内板に集中した。
案内板の下を、バスが通る。車高の問題で、しゃがみ込んでも避けられる隙間は無い。それを見て取り、カミラの腕は瞬く間に鉄製の板を掴んだ。高速度に引っ張られて潰れるか、バスから足を踏み外してしまう所だが、尋常ではない脚力と腕力で常識を無視して、あくまで軽く身体を横へ逸らす。
僅かに全身が足場を失うが、すぐに板の裏側へと回る。舞台の裏側へ回る様な動きを心がけて、再びバスへ足を戻した。
全くの無傷で、避けきった。ほぼ人間とは思えない技を成功させたが、達成感は無い、出来て当たり前の事が出来たという実感で僅かに喜びながら、これからするべき事を考える。そもそも、バスの上に乗る事が目的ではないのだ。
体感時間が元の物へと戻る。すると、バスの背後から黒い車が走ってきた。速度は完全に規定違反で、競技に使う物と遜色の無い物だ。鈍速のバスになど、すぐ追いついてしまう。
僅かな寒気がカミラを襲った。しかし恐れずに黒の車を睨み、状況の進行を観察する。
車の窓が開き、後部座席から一つの黒い暴力が現れた。外から見える部分では筒の様な形をしていたが、その後方には間違い無く握る部分が有り、引き金が有るのだろう。どう見ても、軽機関銃だった。
「……ふざけるなよ」『久しぶりに』本物の銃を見て、少しの怒りが漏れる。
それを認識した瞬間にバスの窓が吹き飛んだかと思うと、車体に次々と風穴が生まれた。連続した発砲が爆発音の様に響き、銃は間違いなくカミラを狙う。が、彼女は冷静に車の上から飛び降り、身体を車体の側面へと移して安全を確保し、片手だけでバスに掴まって、銃弾から身を隠した。
そんな事は黒い車も承知していたのか、速度を落としてバスの後ろへ移動してくる。そこから銃撃されても避けられる自信は有ったが、面倒だ。
車が丁度後ろの方へ来た事を見ると、カミラは舌打ち一つ吐き出し、鉄製らしき窓枠を蹴った。その勢いで加速すると、同時にバスを掴まえていた手を離す。
勢いに乗った全身は瞬く間に黒い車へ向かい、そのボンネットへ衝突した。凄まじい音を立てたが、自分の身は何とか無事だ。それだけを確認すると、素早くバックミラーを掴んで身体を浮かせ、もう片方の手で後部座席のドアを開ける。
軽機関銃を持った男は、慌てて自分へ銃口を向けて来た。それなりの場数は踏んだ『プロ』の様だが、驚きは隠せていない。隙が見えてしまえば終わりだ。引き金を引かれる前に銃を奪い取り、顔面を一発だけ殴って気絶させる。
もう慣れた物だ。心の中だけで肩を竦めながらも、奪った銃を運転席へ向ける。そこに座る男の表情を確認して、彼女は『決め台詞』を口にした。
「私が、これくらいで死ぬか?」
少し、間が出来た。
銃を向けられた男が静かにブレーキを踏み、車は止まる。他の車が通っていない為に問題は無いが、道路の真ん中での停車は危険だろう。何の意味も無い思考をしながら、カミラはじっと反応を待つ。
男は、静かに笑い顔となって、口を開いた。
「カット!」
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それを告げると、途端に周囲が慌ただしくなった。離れていた場所から撮影を行っていた車が止まり、吹き飛んだバスから運転手が怒り狂って飛び出し、殴って気絶させた男が数人のスタッフに運ばれていく。
目の前に居る男は感動的な表情となって、手を伸ばしてきた。
「ああ、素晴らしかった。本当だぞ、いやぁ感動的だ、うんうん。君で正解だ」
止められた車の運転席に乗っていた男、いや、『監督』と呼ぶべきか。彼が握手を求めてくる。
一瞬だけ殴ってやろうかと考えたが、そうする意味も無い事に気づいて、カミラは快く応じた。ふざけるな、と叫びたくなったが、それはそれだ。
「それはどうも。でも随分と派手にやってくれたな、実弾でバスを吹き飛ばすなんて、どんな撮影技法だ」
「リアリティ重視さ」
「そのリアリティ追求とやらで何度も殺されかけたんだ、呆れるさ」
話しながらも男の手を握る力を強めて、自分の顔が怒りで歪んだ事を自覚する。
今回の撮影は、とにかく命の危機に晒され続けた。最も危険だったのは、二十階建てのビルから手製の紐で身体を括って飛び降りたシーンだ。窓枠に手を掛け、失敗した時は腕をコンクリート製の壁に突き刺して落下を阻止する、酷く無茶過ぎる撮影だった。
しかも、今日はバスの上に乗って高速道路を突き進み、実弾の入った軽機関銃を避けて、銃口を向けられながら車へ飛び乗らされたのだ。どんなに忠実な下僕であっても怒り狂うだろうし、カミラには監督の下僕になった覚えが無い。
ただ、何よりも無茶なのは、それを現実の物としてしまう自分自身だろうが。
「で、一つ聞きたいんだが」不機嫌さを隠さずに、運ばれていった男を指さす。「あの人は、俳優じゃないな」
「そうだ。設定通りプロでギャングの殺し屋。知人の紹介で雇ったんだけどね、とても景気良く乱射してくれて助かったよ。これもリアリティの為だ」
「何がリアリティだ。危うく死ぬ所だったぞ。実際に死んだ訳じゃないから文句が言えるんであって、死人に口は無いんだからな」
「死人が出るのもリアルだろう?」
「洒落になってない、私だから無事だった様な物さ。お前の作品に出るのは、正直言って自殺だね。特にアクション映画は酷いと思うぞ、二度と出たくない」
「心配しなくとも、普段はアクション物を撮らないよ。君が居たからだ。CGなんか話にならないね、君という女優の圧倒的なアクションの前には、比肩出来ない物さ」
一分の反省も無い男に、嫌味を一杯に詰め込んで叩きつける。「それはどうも。この映画がスタントもCG一切使っていないと知れば、観客はそれこそ目を回して倒れるな。審査員の皆様の心臓が止まっても大丈夫な様に、医療スタッフを確保しておかないと」
極力死人を出さない様に、自分も死なない様に撮影に付き合うのは大変で、監督の嬉しそうな顔が鬱陶しくて仕方がない。
そんな表情を見ていたくないと思い、視線を運ばれていく男へ移す。単なる拳でも十分な威力だからか、昏倒したまま意識は戻っていない様だ。
「後に残す程酷い怪我はさせていないつもりだが、悪い事をしたな。私のギャラから医療費は出しておいてくれ」
「ああ、分かったよ。任せてくれ、ちゃんと意識は戻すさ」
「意識を戻したら用済み、というのは止めろよ。ちゃんと金は払え、本当に危険な撮影だったんだからな」
釘を刺すと、僅かに監督の目が泳ぐ。この野郎、どうやら図星だったらしい。
「まあそれはそれとして、この映画、興行収入はどれくらいだと思う? 赤字にならなきゃ何でも良いけどね」気づかれたとは思わないのか、監督は嬉しそうだ。
「別にどうでも良い。私だってそんなに欲しい訳じゃないさ。だが、それにしても嬉しそうだな」
「まあまあの低予算であれくらい作れたんだ、嬉しいに決まっているだろう?」
「高速道路を貸し切るのは、まあまあの範疇なのか」規模が大きいのか小さいのか、思わず呆れてしまう。
「大作を撮っている連中に比べれば、まあまあさ」
破壊された車から幾つか荷物やカメラを取り出し、監督が外へ出る。その背を追う形で後部座席から飛び出すと、何人かの撮影スタッフが労いの言葉とタオル、それに飲料水を持ってきた。それを受け取ると、照れた様子で下がっていく。男女問わず人気が有る事を自覚しつつも、その反応は面白い物だ。
「君は随分と人気者だな。恋人になって欲しいのかもしれないぞ」
「恋愛絡みの作品には出ていないつもりなんだが、不思議とね」返事をしながら、タオルで汗を拭く。「スポーツドリンクも用意して有るのか」
「用意が良いだろう?」スタッフ達の準備に手を出していない監督が、何故か得意げになる。
「少なくとも、死人を出した時の用意が足りていない事だけは知ってるがな」
ペットボトルの蓋を開けて、半分ほど飲む。汗が鬱陶しくなって襟元を緩めると、誰かが生唾を飲み込んだ気がした。その相手の性別を確認する気も起きず、ただ小さく息を吐く。
出来るだけ見栄えの良い立ち位置や、挙動を心がけた結果がこれだ。自分自身の満足感は有るのだが、それ以上に他者の目が輝くのが分かる。他人の視線は、別に求めていない。
バスの運転手がスタッフに取り押さえられている。映画の撮影と言われて銃撃されたのだ、怒って当たり前だろうが、この監督はどうせ金で黙らせるのだろう。
飲料水を仕舞い込むと、その監督が声を掛けてきた。「それで? 君はこれからどうするのかな」
「暫くは活動を休む。ああ、こんな映画に出演したお陰で疲れたんだ」
準備していた言葉を即座に返して、撮影に参加させられない様にする。監督は残念そうな様子にもならず、むしろ喜んでいた。
「それなら良いホテルを知っているんだ。予約は入れておくし、宿泊費も私が出すから、行ってみたらどうかな?」
「いや、結構だ。そちらに出して貰おうとも思わない」
「何、君には良い作品を撮らせて貰った。お世話になったんだ。これくらいは当然さ」言葉自体は善意の塊だが、とてつもなく怪しい提案にしか聞こえない。
「それなら賠償金でも払ってくれ。危険撮影に手当を出してくれ。それと、今度からはせめてモデルガンを使ってくれ、死ぬ」
「大袈裟だよ。死人を出すつもりは無かったんだ」
「殺人犯は皆そう言うんだ。事故です、殺意は無かった。という風にな」
「そうかもしれないな。だが、それよりホテルに行ってみないか。危険なんて無いよ、静かで良いホテルだ」
とてもではないが、信じられる発言ではない。むしろ、地獄へ誘う切符を渡されている気分だ。が、同時に自分の中で好奇心が動いている事も自覚できた。
好んで危険に頭を突っ込む趣味は無いが、危険という物は良い刺激になる。今回の撮影も、楽しくなかった訳ではない。
「実は、もう予約してしまったんだ。行ってくれると嬉しいね」
少し迷っていると、追い打ちとばかりに言葉を続けてきた。もう自分が承諾する事を確信しているのだろうか。
悔しい事に、そのホテルを紹介された瞬間から負けが確定している。この監督は確かに酷い撮影を決行したが、それでも耐えられた理由は、楽しかったからだ。中身は酷くありがちなアクション映画だが、そのリアリティへの拘りは、本音で言えば嫌いではない。
何か、一つの事を目指して狂気的に突き進む姿には共感が沸く。若干の悔しさは感じても、嫌悪は抱かなかった。
「今回の作品、私とアクションが出来る人間が居ないのが問題だな」関係無い事を言いながら頷き、続ける。「よし、ホテル……違うな、地獄へ行ってくる」不敵な笑顔を作り上げて、カミラは監督の背中を一度だけ叩いた。
思いの外大きな音を立てたが、監督は嬉しそうだ。しかし、痛みを堪えている様子でもあったので、溜飲は少しだけ下がった。




