2話
逃げた男を追いかけた客の――違法薬物の売人達を纏めるプランクが抱いたのは、この世に生を受けて以来、初めて感じる強烈な怒りだった。
「……殺しておくべきでしたか」
自分が売ったと思わしき薬物の中毒者を追いかけたプランクは、男が逃げた路地の先に広がっている光景を見て、小さく呟く。人生で最初と言っても良い程の殺気が体から漏れだしていて、止められない。
彼の視線の先には、三人の人間が居た。一人はナイフを
持っていて、知っている存在だ。もう一人は少年で、彼に関してはどうでも良い。しかし、最後の一人をどうでも良いと思う事は出来なかった。
その先に居た女は絶世という単語すら霞む程の美女だった。色々な感情を通り越して一周回り、おぞましく感じてしまう程の美しさである。しかし、プランクにとっては外見など二次的な要素でしかない。
重要なのは、彼女の目の奥にある狂おしい程のおぞましい気配、そして『楽しい』という感情だった。
そう、少年を庇う様に背後から抱き締め、ナイフを掌で受け止めた女、エィスト……カナエはこの世の殆ど全てを冷たく見るプランクにとって、間違いなく特別な視線を送るべき相手なのだ。
その場所から分かる程に掌から血を流すカナエは、楽しそうに笑っている。恐らく、刺された事など何とも思っていないのだろう。
「……殺しましょう、ええ、殺します。私の大事なカナエを傷つけてくれた代償は、死しかない」
しかし、プランクは我慢出来ない程の怒りを纏っている。何故そこまで怒るのか、本人ですらよく分かっていなかったが、それでも怒っていた。
彼は、心の底から爆発する様な怒りに身を任せ、ナイフを持つ哀れな中毒者の首へと向けて回し蹴りを放っていたのだ。
一方、首筋を蹴り飛ばされ、何かが折れる様な音と共に壁へ頭を叩き付けられた男を視界に入れながらも、少年はそれに対しては何らかの感情を抱く事すら叶わなかった。
本来なら、相手に同情の一つでも抱いたかもしれない。が、今の少年の状況は外界に意識を向けられる程に余裕のある物では断じて無い。
視界の先に見えたのは、手だった。ナイフの突き刺さったそれは血を流していて、初雪の様に白い手からは赤い血『らしき物』が流れている。
少年は理解した。自分の背後に居る存在が、ナイフから庇ってくれたのだ。ナイフの刺さっていない手が自分の胸元に置かれて、守ろうとしている所からもそれは明らかである。
何か、言わなければならない。少なくとも命を助けられたのは確かだ。少年は全身から溢れんばかりの忌避感と嫌悪感を押さえ込みながら振り返り――目が、合った。
「大丈夫? 怪我は、無い?」
少年と目が合ったかと思うと、女は心配そうな表情で少年の体の向きを反転させ、怯える子供にする様な手つきでそっと抱き締める。自分の手にナイフが刺さっている事など構わずに少年の身を心配するその姿は、どこか優しい。
「良かった、怪我は無いみたいだね。怖かったね、もう大丈夫。怖い人はもっと怖い人が始末してくれたから」
言いながら、カナエは中毒者を一撃で倒れさせたプランクへと目を向ける。倒れる男が生きているのかいないのかは分からなかったが、大した問題ではあるまい。
ともかく、視線を送られたプランクは少年へ羨ましそうな目を向けていた。
彼女は掌から溢れる血が少年の体に付着しない様に慎重な動きで抱き締めていて、狂ってしまう様な不気味な笑顔はどこにも無い。
代わりに、なのか安堵の籠もった微笑みを浮かべていて、怖がらせない様にと気遣かっている事がよく分かる物だ。
「ご、ごめんなさい」
謝る事しか出来なくなった少年は、ただ謝った。言葉は簡単な物でしか無いが、必死に許しを希っている事がよく伝わって来た。
心をそういう気持ちで一杯にしている少年の目は女に対し、自分の行為が許されるかをとても不安そうに見ている。少し震えているのは、薄ら寒い思いをしたからかもしれない。
そんな姿を見た女は少年を抱き締める姿勢から少し腕を放して両肩を掴み、不安そうな顔をする少年の頭をこつん、と軽く叩いた。
「もうやっちゃ駄目だよ?」
同時にウインクを一つ、そして微笑む。少年の悪戯を自分は許した。そんな気持ちを精一杯伝える笑顔だ。同時に、その奥には自分の行動に対する謝罪も含まれている様に見えた。
いや、実際に含まれているのだろう。女は少年へ悪い事をしたと言いたげな自嘲気味の笑みを浮かべていて、その瞳は少しだけわざとらしかったが、揺れている。
おぞましい雰囲気を纏っていない彼女の表情はごく自然な物であり、少年にとっても受け止めやすい物の様だ。
「私こそ、困らせてごめんね。もう追いかけないから安心して、ね?」
怖がらせてしまった事を反省しているらしく、彼女は少し俯きがちになっていた。あの程度は、少なくとも女にとっては遊びに過ぎなかったのだろう。
少年は嫌でも女への印象を変えざるを得ない事を理解した。最初に見た時は無防備で悪戯しがいのある人、追いかけられている時は世界の恐怖そのもの、そんな印象だったが、またそれを変えるのだ。
どんな印象を抱いたのか。少年にとってそれは簡単な事だった。
守ってくれて、優しくて、抱き締めてくれて、許してくれて、笑ってくれて。
そんな彼女がとても……
とても、とても、とてもとてもとても――――恐ろしい。
目の奥に潜むおぞましさが、その存在が、足が、手が、血の様な色の液体が、人ならざる者の気配が、優しさの中にある不快な悦楽が、空気が、抱き締められた時に感じた原因不明の目眩が、何よりも彼女の全てが恐ろしかった。
恐ろしいのだ。
「きゅぅ……」
古典的な気絶する声を上げて、少年は気を失った。余りの恐怖とおぞましさは意識を保つ事すら限界を感じさせる程の物だったのだ。
心の平穏を取った少年は、自ら気絶する事を選択した。その結果、自分の体が機械に改造されてしまったとしても、目の前の女をこれ以上認識するよりはマシだ、そう心の底から思えた。
そして、少年は意識を失っていく課程でこんな事を考えていた。
――もう、悪戯は止めよう。
本当に止められるかどうかは別として、この時は心の底から、死んでもやりたくないと思ったのだ。そんな気持ちがあったから、訳の分からない存在に目を付けられてしまったのだから。
気絶した少年を抱き止めたカナエは、少しだけ落ち込んだ様子で少年の背を撫でる。優しい手つきはまさにカナエの精神状態を表していて、傷つける意図が無い事を明らかにしている。
その姿を見たプランクは、また少年を羨ましそうに眺めながらも、壁の前で倒れた男を退ける。
生きているのか死んでいるのかも分からなかったが、少なくとも意識はあるまい。それで十分なのだ。邪魔をしないなら生死は問わない。
「どうしました、カナエ。浮かない顔ですね」
「……優しくしたつもりだったんだけど……やっぱり、さっきまでが怖かったのかなぁ」
男を隅へ退けたプランクは、珍しく落ち込んだ様子のカナエに声をかけていた。その中にはいつもの演技も含まれているが、それだけではない事くらいプランクには分かる。
彼女からの返事は独り言の様な物だった。が、その意味はよく分かる。どうやら、本当に少年を気絶させるつもりは無かった様だ。
あれだけ怖い雰囲気を放っておきながら、本人は気づいていなかったらしい。いや、気づいていて、その上で少年の反応を楽しんでいたのかもしれない。後者であるならば趣味の悪い話である。その雰囲気を平気で、いやむしろ愛おしいそうに受け止めたプランクは、小さな溜息を吐いた。
掌から血を流していても、彼女は何ら変わらない。変わらな過ぎて、逆に心配になってしまう。
「手は大丈夫ですか? 痛々しくて、見ていられないのですが……?」
「あはは、心配してくれるんだ? ありがとう、でも平気平気っ、大丈夫だよっ」
自分が平気である事を見せつけるかの様にカナエは手を振って、何の躊躇も無く刺さっていたナイフを引き抜く。蓋をされていた傷口から一気に血が流れる。
「あ、やばい。血が溢れてきたよ。ほらほら、ドクドクー、赤い液体が流れている事に自分としても感動するね」
血が吹き出したが、彼女の目は大して動揺していない。まるで痛みを感じていないかの様だ。いや、感じていてもそれを楽しんでいるのだろう。楽しそうに手を振って血をその場にまき散らしているのだ。
色々な意味で極まっているカナエに対して、プランクはまた軽い溜息を吐く。が、そこにあるのは呆れの類ではなく、むしろ安心したという安堵が含まれている様に思えた。
「大丈夫、ですか……!?」
そのプランクの溜息と同時に、路地の先からまた一人、女が現れた。その顔はプランクがコンビニのレジで見たそれと同じ物で、つまり相手がプランクを追ってきたのだと言う事を表している。
女は心配そうな顔で路地を覗き込んだかと思うと、カナエの腕の中に居る気絶した少年を見て悲鳴混じりに叫んでいた。
ついさっき、自分がナイフを突きつけられた時には困った様な顔をしただけだったというのに、今度は警戒を込めてカナエを睨んでいる。
「その子に……その子に、何をしたんですか!?」
「あ、何もしてないよ? ちょっと怖い思いをさせちゃったみたいで、ほら」
そう言ってカナエは壁の横に転がる男を指さす。要するに、『この男に襲われたショックで気絶した』と言いたい様だ。それ自体は間違っていないが、見事な擦り付けである。
横から聞いていたプランクが隠れて肩を竦めたが、面倒事を避けたかったからか特に否定する気もなかった様で何も言わない。
「……そう、なんですか?」
「ええ。彼女が襲われたその子供を守ってくれて、しかし、余程恐ろしかったのか……この通り、ですよ」
一応の説得力のある嘘だったからか、女はプランクに確認を取る。
勿論、プランクもそれを肯定した。守ったのは本当で、恐ろしさの余り気絶したのも確かで、嘘は言っていない。ただ、少年が倒れている理由がカナエにあるというだけで。
「そうですか……ありがとうございます。あの、この子はこちらで預かりますね?」
カナエの事は信じられずともプランクは信じられると感じたのか、女は一度礼を言って少年に近づいていく。
また異様な雰囲気を放つカナエを構う様子が無いくらい、少年が心配だったのだろう。明らかに何らかの深い関わりがある事を示す姿だ。
少年の側に寄り、軽く息をする姿を見て安堵を覚えても、女はカナエを恐ろしい物の様に見る事は無い。むしろどこか慣れた様子すら窺える。
「……?」
それを見ていたプランクの心が少しばかり驚きを覚えた。女の反応はかなり珍しい部類に入る物で、『あの様な』気配を発するカナエに遠慮無く近寄れる人間はそうは居ない。
だが、危険な中毒者がナイフを持って脅しに来たとしても何一つ恐怖を抱いた様子を見せなかった女だ。もしかすると、そういう感情が麻痺しているのかもしれない。
女がカナエと何事かを話している間、プランクはそんな事を考えていた。勿論、自分自身の感情が凍っている部類の物である事を自覚した上での思考である。
「ん……運べる? 良かったら……」
「あ、いえ。大丈夫です。自分で運びますから」
話を終えたのかカナエから少年を受け取って、女はそのまま少年を背に乗せる。気絶している人間を運ぶのは中々骨の折れる作業だからか、辛そうだ。
見かねたカナエが助け船を出そうとしたが、女はそれを拒んだ。声の中にはどこかカナエを不信に思っている事が伝わってくる色が含まれている。少年をこれ以上、カナエに任せたくないのかもしれない。
そんな女は少年をおぶさったまま歩いて、プランクの前を通る。ついでなのか、女は軽く会釈をした。
「では……ありがとうございます。保険に入っているので、ガラスの修理はご心配なく」
「私はただの客ですよ。ただ買い物をしていただけで、彼が勝手にガラスに飛び込んだんです」
「……ふふっ、そういう事にしておきますよ。助けて貰いましたから、ね」
微笑を浮かべた女は、軽快な口調で返事をした。
明るく、楽しげな反応である。だが、それは今までとは少し違う態度だ。少なくともプランクが最初に受けた印象とは全く異なるが、むしろこちらの方が女の素に思える。
何か、ある。そう思ったプランクは、去り行く女の背へ目を向け、そこにいる少年を見た。
「自分自身はカナエの事を何とも思っていなくとも、この子が関わるのは嫌だ」
これまでの女の行動からそんな気持ちを見て取ったプランクは、そこに『何か』の正体があると見て、少年の顔を思い浮かべる。少し、引っかかる物があった。
「……今の子供。どこかで見た様な……」
「気のせいじゃない?」
頭に浮かんだ小さな違和感を言葉にしたプランクの隣に、いつの間にかカナエが居て声をかけて来ていた。
「やっほープランクさん。奇遇だね」
血の流れ出す片手を軽く上げて、カナエは挨拶する。明らかに酷い怪我だが、やはり気にする様子は無い。むしろ自分の血を楽しげに眺めていて、少し異質な空気が漂っている。
「まったく、そんなに辛そうな……ところで、血の臭いがしませんね」
「それは、仕様って奴ですよ? あ、味を確認します? 心配しなくても、病気が移ったりはしませんよ。健康には自信がありますから!」
「…………遠慮しておきます」
カナエは手を突き出すと、まるでドリンクの飲み比べでもするかの様に血を差し出す。当然、プランクが返すのは拒否しかない。それでも少しだけ迷ったのは心の中での秘密だ。
返答を聞いた彼女は残念そうに手を下げる。
どうやら、本当に飲んで貰おうかと思っていた様だ。いい加減彼女にも慣れているプランクだったが、それでも呆れた表情を禁じ得なかった。先程までの少年への疑問がカナエへの感情に上書きされていたが、本人は気づいていない。
「まったく……いえ、それよりその手、とりあえず応急処置をして病院へ行きましょう」
一頻り呆れたプランクは、改めてカナエの手を確認して心配そうな顔をする。本人がどれほど平然としていても、心配な物は心配なのだ。
あの無感動なプランクであれば、あり得ない姿である。いや、今でもカナエ以外に対しては同じ様な物なのだが、彼女は別の様だ。
特別扱いされるのは気分が良いのか、カナエは嬉しそうに、しかし軽く手を振って血を散らせながら、心配いらないと微笑んだ。
「家で治すよ。救急セットくらいならあるから」
「私がやりますよ、そんな手でやるべきじゃありません」
カナエの手を掴んで、プランクがそう言う。まるで手を握るかの様な動きだったが、微妙に位置をずらす事によって傷口に触れない様にしている様だ。
自分の手が触れて、雑菌でも付いたら嫌だと思っているのだろう。普段のプランクを知る者が見れば目が飛び出して体が爆発しそうな程に、あり得ないくらい珍しい言動だ。
「前まで、私に酷い薬を注射してたとは思えない優しさだね。アレはさ、後の中毒症状が酷くって辛かったなぁ……普通なら自害しそうなくらい酷かったんだよ?」
気遣いの籠もった手の熱さを感じて、カナエは思わず皮肉げな事を口走った。ちなみに、嘘が混じっている。彼女は薬の中毒症状に悩まされた事は無い。何故なら、彼女はカナエであり、エィストだからだ。
それが分かっているのだろう。プランクも軽く困った様な顔をするだけで、強いて謝罪の言葉を入れる事は無い。そんな物は無意味だとお互いに分かっていた。
過ぎた事だ。二人の意志は一致している。しかし、それよりもカナエの手の治療だ。そう考えていたプランクの方が動き出すのが早い。
「家に救急セットがあると言いましたね?」
「……え? ああ、うん。私が使う訳じゃないんだけどね。ほら、リドリー君とかに使う為に買ったんだ」
カナエから確認を取ったプランクは、数秒間考える。もう少し色気のある話の時に言いたかったが、このままのカナエを放っておくのは嫌だ。迷うのは数秒だけだった。
「家、この近くでしたよね? 私がやってあげます。何なら、縫ったりも出来ますよ? ともかく、あなたの家に行きましょう」
それだけ言うと、プランクは有無を言わさずカナエの手を取った。勿論、無事な方の手だ。それを握りしめると、プランクは彼女を引っ張りながら路地を出ようとする。
少年達の事も、彼女にナイフを刺した者の事もプランクの頭の中には既に無かった。
「ちょ……え?」
「行きましょう」
急に強引になったプランクの行動に戸惑ったらしく、カナエが声を上げる。しかし、プランクはその声に構わない。手から血を流す彼女をこれ以上見たくは無いのだ。
そんな意志が伝わったのかカナエは少し照れくさそうに顔を赤くさせつつも、大人しく手を引かれていく。
が、路地から出て数秒もするとカナエの顔は疑問一色に染まった物に変わっていた。
「……あれ? 何で私の自宅を知ってるの?」
「……」
予想していなかった問いに、プランクは思わず沈黙した。
それが、答えだった。
+
「いやぁ、リドリー君と連日96時間耐久映画マラソンとかやってるから、あんまり家に帰らなくてね? あ、ちなみに先にダウンしたのはリドリー君だったよ」
そんな事を言いながら、エィストはプランクに手を引かれながらも歩いていた。
現在、二人はエィストの自宅の目の前に居る。そこは三階建ての建物の二階部分で、そこに彼女は間借りしているのだ。三階は別の住人が居て、一階はこの家の所有者が寝泊まりしている。
その辺りの情報をプランクは既に持っていた。彼女の正体に気づいた時に自宅の場所などは既に調べ終えているのだ。しかしその事実をカナエに知られると、今更だが妙に居心地が悪い気分になった。が、それはまた別の話である。
「あ、しばらく帰ってなくてさ、ちょっと汚れてるかもしれないから……幻滅しないでね? 君に嫌われたらショックで倒れちゃうかも?」
「嫌いにならないし幻滅もしませんよ、ご心配なく」
何やら不安そうなカナエに、プランクは軽い調子で声をかけた。しかし彼女の言葉も、態度も全て本心でありながら同時に演技でもあるのだ。分かっていたが、それでも声が出てしまう。
家の内部がゴミ溜めになっていても、死体が転がっていてもプランクは予想の範囲内として納得出きる自信があった。むしろ、彼女の家が普通だという方が不自然だと思えた。少しくらい無茶苦茶で予想の斜め上を行っていた方が、彼女らしい。
「……む、プランクさんが何か失礼な事を考えている気がする」
まるで心を読んだかの様に、カナエが顔に不満気な色を浮かべる。じっとプランクの目を見つめるその姿は、少しでも嘘を言えば一瞬で見抜いてしまいそうだ。
下手に嘘は言えないと思ったプランクは、即座に素直に答える事を決めた。
「まあ、その通り。どうでも良い事でしょう? ええ、そうですとも。で、そろそろ入りませんか?」
軽く自分の思考を認めたプランクは、そこで話を打ち切ってまた手を引く。彼女の部屋の扉はすぐ側だ。少し強引に引っ張れば、後はもう中に入るだけである。早くカナエの手を治療したかったのだ。
実際、引っ張られたカナエは拒絶する事なく、少しばかりプランクの言動に舌を巻きつつも大人しく付いていっている。もしかすると、普段は自分が押しているだけに押しが強い相手への対応が苦手なのかもしれない。
それすらも一種の演技だと認めながらも、プランクは頭の片隅でそんな事を考えた。
「ん、鍵開けるね」
自分の部屋の前まで来たカナエは、プランクに握られていた手を軽く解いて懐を探り、鍵を取り出す。簡素な作りの鍵だ、素人目にも複製が簡単に出来る事が分かる。
そんな鍵を使うという事は、家に進入されても特に惜しい物が無い証だ。強盗の類をやった経験は余りないプランクだったが、それでもカナエの家に進入する旨味が無いと理解出来た。
勿論、プランク個人としては別なのだが。
一方、カナエは鍵をドアノブに差して回そうとしていた。だが、その瞬間に何事かを理解した様で、すぐに鍵を抜き取ってノブへ手を回していた。
「……開いてる」
小さな声で呟かれた声をプランクの耳は完全に聞き取っていた。すると、彼の体は勝手にカナエを庇う様に前に出ていて、怨敵でも見る目でドアを見つめる。
「……開いていますか」
「うん。私が居ない間に誰かが入って、鍵を閉めるのを忘れたみたい。でも、もう中には居ないね」
それは根拠の無い言葉だったが、同時に確信の籠められた声でもあった。少なくとも、プランクは彼女の言う事を飲み込んで、部屋の中に今は誰も居ないと信じている。
だから、なのか。プランクは躊躇無くドアノブに手を伸ばしていた。
「開けてみましょう。何があるか分かりません、気をつけてください」
全身全霊で部屋の内部へ警戒を注ぎ込むプランクの頭には、ドアを開けた瞬間に作動する何らかの爆発物が仕掛けられてる可能性も考えられていた。だが、プランクは自分の身の安全を気にしていない。
普段は全てを平等に、自分自身すらどうでも良い物と扱っている彼だが、カナエはどこまでも特別扱いの枠に入り込んでいる。まだまだ自分の感情を完全に理解した訳ではないが、プランクもそのくらいは理解できているのだ。
「まあ、大丈夫だろうけど……もしかすると危ないかも? 私が開けた方が良いかもね」
その為、背後でカナエが何事かを言ってきても聞く耳は持たない。プランクは勢いよくドアノブを捻り、最初から開いていたドアを開けた。
「……何もありませんね」
部屋の内部が見えた瞬間、プランクは全ての事象を見逃すまいと集中した。だが、それらは全て無駄な行いだった様だ。少なくとも、玄関付近には二重の意味で何も――いや、一つだけある。
玄関の隅に、大きめのダンボール箱が転がっていた。これが何らかの罠かと思ったが、少なくとも機械音や人が潜んでいる気配は感じられない。
さて、どうした物か。プランクがそんな風に迷っている間にカナエがダンボールを見つめ、眉を顰めていた。
「ちょっと、退いて」
それだけ言うとカナエはプランクの前に出て、ダンボールを開け始めた。凄い剣幕という訳でも無い一言だったが、何より圧倒的な気配が見え隠れしていて、プランクは黙って彼女の動きを見守る事しか出来ない。
プランクが静観している間にもカナエは静かにガムテープを引き剥がし、ダンボールを開封する。無駄に素早い動きは見切る事が難しい、目にも止まらない早業だ。
凄まじい早さでダンボールを開けて、その中身を見たカナエは困惑する様でいて最初から分かっていたかの様に呟いた。
「子猫……だね?」
中には、一匹の子猫が入っていた。生後、一ヶ月程だろうか。小さな布でくるまれていて、ダンボールの中で軽く震えている。
「あ、可愛い」
「どうしてまた、猫が……?」
「うーん、知らないけど……………………へえ、なるほどねぇ」
猫が入っていた事にプランクが驚いている間にカナエは子猫を抱き寄せ、数秒ほど臭いを嗅ぐ。
そんな趣味があるのかとプランクが戦慄しかけたが、その前に彼女は子猫から顔を離していた。彼女は何やら納得した様に呟いていたが、プランクの耳には届いていない。
白と茶色の混じった体毛の子猫はカナエに抱かれた瞬間から、怯える様に鳴いている。だが、鳴き声は余りにも弱々しく、聞こえるか聞こえないか、と言った程度の物だ。
明らかに弱っている。放っておけば死ぬかもしれない。プランクは気づいていたが、どうでも良かったので何も言わない。しかし、カナエは違った様だ。
「って、ああ、死にかかってるよ!?」
今気づいたとばかりに抱き寄せた子猫を見つめて、カナエは慌てた様な声を上げる。それが聞こえたのか、衰弱した子猫は更に震えて鳴き声を上げた。
彼女が抱いていると余計に辛いのではないか、とプランクは思ったが、やはり口には出さない。カナエは猫が好きだという事実以外の事は、やはりどうでも良い。
「えっと……子猫、子猫……毛布と、ミルクと……ああっ! 私の血を飲ませればきっと!」
「落ち着いてください。何に改造するつもりですか」
しかし、どうでも良いとは言っても妙な事を言い出したカナエを止めるくらいの行動はするのだ。瞳の中で何かを蠢めかせながら血を飲ませようとするカナエを、プランクは背後から羽交い締めにして押さえた。
一瞬、何かしらの抵抗を試みたカナエはすぐに動く事を止めて大人しくなる。流石に血を飲ませる、というのは混乱から来る物だった様だ。
それでも落ち着きとは程遠い精神状態なのか、カナエは振り向いて勢いよくプランクに質問した。
「プランクさん! こういう時の対処方法は知ってる!?」
「いえ、知りませんが……部下の誰かなら知っているかもしれませんね」
猫の飼育方法は知らないプランクだったが、心当たりが無い訳ではない。部下達の中には犬や猫や鳥や兎、蛇を飼っている者も居る。誰かが知っているという確信はあった。
そういう意味であれば変人と凄腕しか居ないカナエの仲間はワニや象、更に『人間』を飼っていそうだと思ったが、そこはわざわざ言葉にはしない。
「じゃあ、連絡お願い! 私はとりあえずどうにかするから!」
それを聞いたカナエは家の固定電話をプランクへ投げ渡し、自らは子猫を連れて部屋の中へ入っていく。
勢い余って子猫を死なせてしまいそうだと思ってしまう程素早かった。が、床に滴るカナエの血を見た事でプランクは一時的に忘れていた問題を思い出し、慌てて彼女を呼び止めた。
「ちょっ……と待ってください。手の怪我はどうするんですか」
そう、今も彼女の掌からは血が溢れだしていて、とても痛々しい傷を晒している。それが見ていられないという気持ちから治療をかって出たプランクにとっては、子猫の命よりも彼女の体が大事なのだ。
本来の彼であれば子猫も人間も大した差が無いと言い放つ所だろう。が、何度も言うが彼女は特別である。
「そんなのは後回しです! 可愛い子猫をかわいいーかわぃぃーするのは、世界を滅ぼすよりも楽しいんですよ!」
「……そうですか」
特別であるが故に、冗談めかしながら心から本気の言葉を吐き出すカナエをプランクは恐ろしく思いつつも、受け入れ、あるいは受け流す。
呆れはあったが、嫌悪は無い。むしろそんな彼女の性質を許容して、その上でプランクはカナエの事を――になったのだ。理屈ではなく、その存在という単位で。
絶対に叶わない物だと分かっていても、気持ちは変わらない。自分の感情を確認しながら、プランクは電話を操作する。
「……あぁ、私です。唐突な話ですが、猫、特に拾ってきた子猫の育て方を知っていますか?」
彼女の頼みを拒絶する気がないプランクは渡された固定電話で部下に連絡を入れた。相手は唐突に切り出された意味不明の質問に首を傾げている様で、戸惑いの声が電話越しに聞こえてくる。
思わず同意したくなるそれに対して、プランクは何も思わない。ただ、「カナエの美的センスは普通に人間的なのか」。という呆れ混じりの思考だけが浮かんでは消えていた。
+
数時間後
「ん、くっ……も、もうちょっと優しく……ね?」
「あれだけ撃たれても殴られても平気な奴が今更何を言ってるんですか」
「ひゃ……! でも痛い、今更ながら痛いんだってばぁっ……」
何やら痛みを堪える様な声を漏らしたカナエの懇願を、プランクは冷たい口調で斬って捨てた。すると、カナエは頬を紅潮させて苦痛に耐え始める。
彼女も分かっているのだ。プランクは既に、十分過ぎる程に優しい手つきで――自分の手に包帯を巻いてくれているのだ、と。
部屋の隅では暖かそうな毛布にくるまった子猫が小さな寝息をたてている。この状態になるまで、随分と時間がかかった事は二人にとって共通の認識だ。
盛大に混乱したカナエと、中々猫の育て方を知っている部下を見つけられなかったプランクの二人。やっとの事で子猫を動物病院に運び、体調を整えさせて、その他様々な事を終えた時にはもう月が出ていたのだ。
プランクがカナエの手の治療に取りかかったのは、もう夜になってからの事だった。
「本当に、傷が塞がってますね。本当に人間ですか?」
「さあ、どうでしょう? 痛っ、冗談だって」
カナエの手をじっと見つめたプランクは、呆れ混じりに声を上げて包帯をきつく締める。
信じ難い事だが、夜になってやっと彼女の手を治療しようとした時には、その手の傷は塞がっていたのだ。思わず瞬きをして目を擦ったが、現実は変わらなかった。
止血から縫合まで全てこなすつもりだったプランクとしては信じられない様な、手間が省けて良かった様な、少し落胆した様な、そんな複雑な気分にさせられた。少しだけ包帯の巻き方に力が入っているのはその為である。
本来であれば包帯を巻かなくても大丈夫だとすら思ったが、そこはプランクとしても半ば意地で、殆ど無理矢理手を出させた形だ。
「綺麗な手ですね」
「ふぇ!? え、え、うん。あ、ありがとう」
悪戯混じりに手を褒めると、カナエは照れる様に顔を赤くする。『彼女のボス』から聞いた話によると、基本的に自分が褒められた時の彼女の反応はこの様な物らしい。
つまり、彼女にとっては何ら特別な反応ではないのだが、中々嗜虐心をそそる慌て様だ。更に悪戯心がせり上がってきた事を自覚したプランクは、今日一日彼女に付き合わされた事へのお返しとばかりにゆっくりと傷口に指を這わせた。
「ぅ……!!!」
「おっと、すみませんね。触れてしまいました。偶然ですよ偶然」
すると、カナエは悶絶したと同時に飛び上がる様に口元を押さえ、呻き声を押さえ込む。体は痙攣している様に見える程震えていて、瞬間的な凄まじい痛みを感じた事を表している。
軽い調子で謝ったプランクは、特にやりすぎたと感じる事も無く丁寧に包帯を巻き続ける。手の自由が利く程度の物で済ませる為に、それほど厚く巻く訳ではないのだ。
本当に痛がっているのであればプランクとて本当に謝罪の言葉の一つでも告げる所だが、生憎と彼女の隠された口元が笑みを作っている事を見逃す程、彼は甘くない。
実際、痛かろうが悶絶しようが子猫が瀕死になろうが彼女は『楽しい』笑顔を崩していないのだ。たった今の悶絶も数秒後には無かった事になり、カナエは平気そうな笑顔で包帯を巻かれながら礼を言っている。
「いつつつ……でも、ありがとうプランクさん。私一人じゃ、あの子は死んでたかも」
「嘘を言ってはいけませんよ。私が居たからこれだけ時間をかけた癖に。さて、包帯、巻き終わりましたよ」
冗談ではないと言いたげな顔をしたプランクは包帯を丁寧に優しく締めて、包帯を巻き終える。
自分が居なくとも彼女は子猫を助ける事に成功していたという確信がプランクにはあった。むしろ、自分の存在は邪魔なくらいだったのだ。何でも出来る様に見えるカナエは、いやエィストは、実際に何でも出来るのだから。
衰弱した子猫一匹、彼女であれば助けるのに片手も要らないだろう。
「買い被りさ、動物には好かれなくてね。私一人じゃ、この子は呼吸を自分で止めていたかもしれない」
自分の手に巻かれた包帯を嬉しそうに眺めながら、カナエは子猫を毛を撫でている。慈しむ様な表情をした彼女は、プランクの背筋すら凍らせる程に幻想的な物だ。
そして、少なくとも動物に好かれないというのは本当なのだろう。彼女が撫でると、子猫は苦しそうな鳴き声をあげたのだ。
「……ほらね」
やはり、動物に嫌われる類の人種である。慣れているのか当然だと思っているのか、はたまたそれすら楽しいのか、エィストは笑っている。
『動物に嫌われる』。その中に『人間』も入っているのか、プランクは無性に聞きたくなった。だがそんな疑問は飲み込んで、プランクはカナエの顔をじっと見つめた。
「あなたが誰に嫌われようと、少なくとも私は……」
「おっと、恥ずかしい台詞は禁止だよ」
言葉を言い終える前に、カナエの指がプランクの唇を塞いでいた。僅かに顔の赤い彼女はそれ以上顔を赤くしたくない様で、困った様にプランクを見ている。
「……直球過ぎてそろそろ慣れて来たからさ、うん」
少し顔の赤い彼女は、伏し目がちにプランクへそう言った。その証拠なのか、最初の頃よりは顔の赤色は薄い物だ。どこまでも強がりにしか見えないのだが、そういう物なのだろう。
カナエの言葉の意図を理解したプランクは、そんな彼女の余裕を無性に崩してみたくなった。直球が駄目なら変化球だとばかりに考えて、送るべき言葉を選ぶのだ。
そして、言うべき物はすぐに見つかった。
こんな台詞は自分らしくないとプランク自身も少し恥ずかしくなったが、何とか普段の無感動な自分を引っ張りだして感情を抑え込む。
「……カナエ」
「なあに、プランクさん?」
今だけは心を読む気がないのか、それともプランクが何を言うのかを期待しているのか、カナエの表情はただ笑っているだけの物で、素直に言葉を待っている。
これで本当に彼女の余裕を崩せるのか、とプランクは少し不安に思ったが、深く考えても仕方がない。そう思って、自分の中の悪戯心に任せた。
「あなたと居ると……月が、綺麗ですね」
言葉を聞いたカナエの顔が真っ赤になる。それには劣るが、プランクの顔もまた赤い。直球に気持ちを告げない分だけ、恥ずかしさは大きく感じられる物だ。
「そ、そっか」
しかし、カナエの返事はたったその一言である。顔から物理的に火を出しても何らおかしくない彼女が、たった一言だけで黙り込んだのである。
内股で椅子に座り込んだカナエは、恥ずかしそうに俯いて両手を何度か合わせる。何も言わない、余程恥ずかしかったのだろう。
目的を達成したプランクだったが、彼自身にも多大なダメージが有ったのは確かだった。自分がそんな事を言ったと思うと普段の調子も忘れて逃げたくなる程に恥ずかしい。
二人は結局相打ちだったのか、黙り込んで溜息を吐いていた。
「その……」
「いいよ。本当の意味で月はちゃんと綺麗さ、うん」
遂に恥ずかしくなったプランクが謝罪をしようと立ち上がったが、カナエはそれを包帯の巻かれた手で制して、月を見る。雲一つ無い綺麗な三日月だ。
その姿を見ていたプランクの方へカナエは顔を向けて、笑う。
初雪の様な儚さと、業火の様な情熱。それを同時に感じさせ、その奥底に広がるおぞましい『何か』を隠している事がプランクには分かった。勿論、『何か』にまで気づかれると分かった上での行動なのだろう。
思わせぶりで、人の嫌悪も愛情も喰い尽くしてしまいそうな恐ろしさだ。純真な笑顔に見える物は、下手をするとそのまま飲まれてしまいそうである。
「あの、カナエ。いや、エィスト」
「ん?」
「……何でもありません」
決定的な事を言いそうになった自分を全力で殺し、正気に戻れとプランクは自分の頭に強く命令する。
嫌悪を向ける相手にはより一層嫌悪される態度を、愛情を向ける相手にはより一層愛される態度を、彼女がやっているのは、ただそれだけの事だ。
そこに素の、自然な顔をした彼女などどこにも居ない。何せ――自分を好いてくれる他の人間に同じ事を言われたとしても、彼女は似た様な反応をするのだから。
プランクにとってカナエは特別だが、カナエにとってプランクは特別ではないのだ。
「うん、月が本当に綺麗だね……」
カナエの声の中には、月の美しさに見とれる色が含まれている。これは素なのか、そうではないのか。恐らく、両方なのだろう。
色々な意味で、前途は多難だ。心からそう感じて、プランクは溜息を吐いた。
『あなたと居ると月が綺麗』→I love you
まあ、鼎なんて単語を知ってるプランクだから、そういう話も知っているかなって。
キラーハートには猫要素が全く無かったので、ここでの猫です。
ちなみに、私は映画マラソンを10時間しかやった事がありません。5本連続ですね。すっげえ疲れました。ちなみに初期段階では『72時間』の予定でしたが、今は『96時間リベンジ』の放映中だと思い出したので、96時間になりました。ちなみに、『96時間』の方は見ましたよ?




