1話
「か、金っ、金出せよっぉぉ!」
とあるコンビニのレジの前で、一人の男がナイフを片手に泣き喚いていた。そう、見ればよく分かる通りのコンビニ強盗である。
特に有名という訳でもない店の中には男以外にはレジに居る人物と、一人の客、後はレジの中に居る一人の女性が佇んでいるのみだ。
物騒どころではなかった十数年前のこの町ではありえなかった光景である。女は特に何かの格闘技の専門家という訳でも無く、腕は銃を持ち上げる物ではない事が一目で分かる。
今、この町がある程度は平和になったという事なのかもしれないが、この時に限って言えば最悪の環境と言えるだろう。たった一人の客も我関せずと雑誌に目を通していて、助けに行く様子もない。
「あ、あの……どうしてお金が?」
そんな絶望的な状況にも関わらず女はどこか惚けた様な声を上げて、不思議そうに返事をしていた。
ナイフを向けられているというのに危機感の一つも覚えず、のんびりとした平和な空気を放つ姿は、少し異様だ。
しかし、濁った目をした男にとっては女の反応などどうでも良く、結局の所は金さえ得られれば何でも良いのだろう。ひたすら喚くだけで、声を聞く様子すら無い。
「うるせぇ! かか、か、金が要るっ! 金が、金が! 金! 金だよぉぉ!」
「あの、ですから……お金が必要なら、どこかで借りてくれば良いではありませんか。こんなコンビニを襲っても、良い事なんて何もありませんよ? それに見た所、警察の方に賄賂を渡すアテがある様には思えませんが……もしかすると、どこかの大物の親戚か何かでしょうか?」
思った以上に平静に、女は諭す様に話しかける。ナイフを突きつけられ、いつ刺されるか分からない状況だと分かっているのだろうか、本当は分かっていないのかもしれない。
「う、うううるせぇぇぇぇぇ!!」
そんな彼女の声が馬鹿にしている様に聞こえたのだろうか、男はナイフを女に向けて突く。間一髪と言った所か、震える手では女を刺す事など出来なかったのだろう。腕を掠っただけで、見事に外れていた。
「……っ! 人生で一番、愚かな選択だと思いますよ、私は」
自分の腕から一筋の血が流れる事など気にも留めず、女はゆっくりと、しかし明確な呆れと微かな憐憫らしき物を込めた視線を送る。
それは男がどの様な状況にあるのかを理解した上での言葉だった。男の哀れな程に壊れた人格を見ればすぐに分かるだろうが、明らかに何らかの危険な薬物に手を出し過ぎたのだろう。
直に人格が腐れきって行き、最後には死んでしまうに違いない。少なくとも、今の男が正気ではない事は確かだ。
ひたすら金を要求する男の行動が、金銭欲から来るではない事は明らかである。何せ、理性も知性も消えかけているのだから、金が必要だからと言って強盗をするという発想すら浮かばない筈だ。大方、何かの脅迫観念に駆られたのだろう。――少なくとも、この店に居たもう一人の客はそう考えていた。
自分が観察されているなどとは知らない男は、言語すらまともに話せなくなった舌で叫びながら、今度こそ女を刺し殺そうとナイフを振りかざした。
「か、っかかかかか金か金が要るんだあああああああ! こ、このこのこのこのみみみみみ店を襲わなきゃ、こここころされれれれれるるるる!!」
「おっと失礼、クレームなら後にしていただけませんか? 第三者の私としては、先に会計を済ませたいのですが」
しかし、その腕は女の顔に届く前に横からやって来た手によって掴まれ、状況を把握するよりも早く突き飛ばされて商品の棚に体を突っ込んだ。
男を突き飛ばした客は、何事も無かったかの様に商品をレジの前に置いた。それに対して店員の女はやはり何事も無かったかの様にレジを操作する。が、少しだけ戸惑った顔になっていた。
商品を出した男はそこで初めて後ろを向いて、棚から転げ落ちた無惨な商品の山を見ると、まるで他人事の様な小さな溜息を吐く。
「……ああ、棚の商品が無茶苦茶ですね。いや、私はただの第三者ですから、関係ありませんが……分かりますね?」
「あの……突っ込んだのはあなたでは?」
「分かりますね? 私は関係ない、関与しなかった、唯の客、分かりますね?」
「……」
「分かりますね?」
礼を言うのも忘れて思わず心に浮かんだ事を口走った女に対し、男は金を出しながらも言い聞かせる様に声を発して、相手の言葉を封じる。
一方的に無関係を主張された女の方は、その目論見通り黙り込んだ。勿論、金を受け取ってレシートと商品を手渡す事は忘れない。
「う、ぐ……」
そうしている間に、背後の男が起きあがって来た。叩きつけられた衝撃からか、濁った目の中に少しだけ理性が戻っている様だ。しかし、相変わらず体の動きは安定しておらず、幾ら理性が戻っても目の焦点は合っていない。
その上、立ち上がるのが精一杯なのか全身から力が感じられず、今であれば幼子に体当たりをされただけで簡単に気絶する事だろう。
半ば無力化されたに等しい状態だった。
「おや、随分と危険な薬をやり込んでいますね。とすると……ああ、我々の売った物でしょうか、こんな所で見るとは、ふむ」
男は、相手の事を何とも思っていない様な冷たい目を向けて観察している。どうも背後に居る者をこんな状態にした薬に心当たりがあるのか、心なしか呆れた様子だ。
「な、なななんだテめぇはぁぁぁ!?」
そんな事がこの男には関係がある筈も無く、少しだけ戻った理性と爆発するかの様な本能の力で何とかナイフを構え直す。相手と自分には圧倒的な身体能力の差があると理解する知性すら残っていなかった。
無謀も良い所な行動を起こした男は、ナイフを突き立てようと振り回す。
「店内で流血騒ぎは止めてくださいね」
女は思わず客へ声をかけていた。本人は気づいていない様だが、ナイフを持つ男の手は小刻みに震えていて、動きも全く素早くない。
先程よりもずっと弱々しい姿だ。薬の症状などではなく、本当に体がまともに動かなくなる程の怪我を負っているのだろう。間違いなく、客の男に返り討ちに合う。誰でも分かる事だ。
「おや、何の事か分かりませんね。私はこのまま店を出ていくだけですよ?」
釘を刺された男は、本当に何の事か分かっていない様子で惚けて見せた。その背後ではナイフが踊っていて、今にも男を突き刺しそうになっていても、この反応だ。
この男はもしかすると、世界が滅んだ時も同じ顔をするのではないか。そんな妄想まで浮かんできてしまう程に冷たい目をしている。
「じねええええぇええええ!」
女が目の前の客が恐ろしい存在である事を再確認したその瞬間、持っていたナイフが遂に標的を定めたらしく、背中を向ける男へ飛び込んでいった。
雄叫びを交えながら近づくその姿は鬼気迫る物があり、どこまでも哀れだ。しかし、この場に居る人間は男の事を哀れだと思う程、優しくは無い。
優しくないのだ。
「よっ、と」
つまり、そんな軽い声と共に投げられたとしても、男へ何らかの情を抱く者など居ないのだ。
またナイフを持つ手を取られた、と感じる暇すら無かった。そういう感触を抱く前に『ただの客』である男は掴んだ腕にかけられていた自分へ向かう力をそのまま横へ逸らし、男を投げ飛ばす。
自分の力をそのまま利用された男は、相手の投げる力も相まって勢いよく店頭のガラスへと突っ込んだ。
痛みを感じる間も無く体は店の外の地面に叩きつけられ、体に刺さったガラスが血を吹き出す。男がやっと苦痛を覚えたのは、余りにも痛々しい姿となった自分を確認した時だった。
「お、お、おぉ……」
痛みが酷すぎて、声が出ない様だ。呻く音だけが口から漏れだしていて、男が受けた衝撃の強さを物語っている。
いきなり店のガラスを破って飛び出して来た男に対して、通行人達はゴミでも見るかの様な目を向けて、後はもう無視するだけだ。
それに対して、男は反応すら出来ない。体が動かないのだ。その代わり、男はある程度の理性を回復していた。
自分が何故こんなコンビニを襲ったのかと男は疑問を抱き、内心で疑念に首を捻っていた。やらなければ自分の『家族』が危険に晒される、そんな気持ちがあった様な気もしたが、薬で朧気な記憶ははっきりとしていなくて、思い出せない。
「どうやら、頭が冷えた様ですね」
男の頭上で、声が聞こえてきた。それが自分を投げた者なのだと、男はすぐに理解出来た。
理性が消し飛んでいた時は抱かなかった物が男の心に沸き上がって来る。殺される、殺される。それは感情を取り戻した男にとって気絶する程の恐怖だ。
男は頭を上げ、何とか震える足に言う事を聞かせて立ち上がろうとする。ガラスの突き刺さった体は血塗れで見るも無惨な姿になっているが、男は気に留める余裕すら抱けなかった。
「それで……どこで買ったのですか、あなたの使っている薬は」
起きあがった男を待っていたのは、冷たい目と冷たい声だった。答えなければもう一度ガラスに体をつっこまさせられるのではないか、と思う程に。
しかし、男は答えられなかった。声を発する意志すら消し飛んでいた。相手の目を見た瞬間から、男の体は固まっていたのだ。
そう、余りにも冷たすぎる。生き物や道端のゴミに向けて良い様な視線ではない。見られているだけで感情も意志も砕け散ってしまいそうだ。
これは、男が薬の禁断症状から来る恐怖と相手の冷たい目を混同した為に抱いた感情だろう。しかし、男にとっては関係無い。恐ろし過ぎる程に恐ろしい――恐ろしいのだ。
「う、うう、うううううわぁぁぁぁああぁ!!」
正気に戻った男は薬の影響でおかしくなった声を共にして叫び、必死で逃げ出した。
本当は動かない筈の足は恐怖が無理矢理操られ、手に持つナイフは血が出そうな程に握り締められていた。
+
町の片隅には、どこか時代に置いていかれた様な公園がある。
元々は十数年前に何者かによって破壊され尽くした誰かの家だったらしいが、当時を知る者は揃って口を閉ざす為、若い者達はそこが誰の家だったのかを知らない。聡い子なら、壁の弾痕で分かるだろうが。
だが大抵は知らないからこそ、そこでは子供達が駆け回り、隅の机に座ってゲームに興じていたりと、思い思いに遊ぶ事が出来ている。
どうも子供達には、行動に遠慮が見られない。大人達は基本的にこの場所を恐れている為、余り近寄らない。いや、近寄れないと言うべきか。ともあれ、そういう場所なのである。
親としては複雑な物だろう。自分の子供が誘拐される心配は無いが、自分の子供が馬鹿な遊びをして怪我をする心配はしなければならないのだから。
「あははっ、おねーさんが怒ったぁー! 殺されるぅー!」
「こらー! 待ちなさーい!」
そう、今逃げている少年もまた、馬鹿な遊びをして今まさに怪我をさせられそうになっているのだ。
少年は全力で、ただし楽しそうに笑いながら逃げていた。まさに悪戯小僧である。
そんな顔からは危機感は欠片も見えてこない。が、しかし、少年を追っている者を見て、もしそれが『彼女』の事を知っている者であれば、顔色を失うだろう。
「もー! おばさんって言わなかったから、殺さないであげるのにー!」
物騒な事を言いながら少年を追いかける女は、絶世という言葉すら置き去りにする程の美貌の持ち主であり、視界に入れただけで魂が凍り付く程の異様さを醸し出す『何か』でもある。
ただ、今の彼女はどう化粧をしたのか『思わず見惚れる』程度の美貌になっていて、異様さも、視界に入れた者が『思わず看取られる』くらいに抑え込まれていた。
そんな彼女は体中を水浸しにして走っていた。少年に水をかけられたらしく、公園の隅に転がっている蛇口には、子供でも買えそうな安っぽいホースが繋がれている。
酷い悪戯、とまでは行かないかもしれないが、怒るには十分な理由だろう。しかし、彼女の正体を知る者達が見れば蒼白になり、少年を抱えて逃げ出す筈だ。
そう、彼女の名前は――エィスト。とあるギャング組織に所属する、『生粋の変態及び奇人』である。
「逃げるなーっもう!」
「へへへっ! イヤだね、絶対逃げる! 捕まえたかったら追いかけてこいよー!」
そのエィストから逃げ続ける少年は、何やら挑発紛いの事を言って彼女の怒りを煽る。
若さ故の無謀と言うか何というか、少年はエィストの立場も、凄まじい身体能力も知らない。
近所でも評判の悪戯小僧である、このくらいの事は日常茶飯事だ。相手がここまで『アレ』な人物だというのは、流石に初めてだろう。
勿論、この町の住民として見知らぬ人間を怒らせる事の意味くらい少年は理解している。それでも彼が行動したのは、ちょっとした苛立ちから来る物だった。
少年は友達――いわゆる悪友とこの公園で落ち合う約束を立てていたが、一時間くらい待っても来る気配が無かったのだ。約束を破られた事への怒りを発散する場所が欲しかった少年は周囲に居る人間の顔を観察し、何故か自分をじっと見つめる女に気づいたのである。
完全に赤の他人ではあるが、無防備に自分を見つめる姿は悪戯がしやすい。実際に、成功もした。
そんな相手の様子が何やらおかしな方向に変化していても、少年はそれに気づいていなかった。
「ふーん、逃げるんだ。へぇ、逃げちゃうんだぁ?」
「追いかけてこないじゃん、じゃあ、今度は泥でもぶっかけてやるから楽しみにしてろよ!」
「いや、そうじゃ無くてね……ふふ、ふふふふふふふふふ」
「……え?」
やっと女の雰囲気が変化した事に気づき、少年が戸惑いの声を上げていた。
少年はエィストの正体を知らずに悪戯を成功させたのだ。だが、エィストはどれほど意表を突かれても水くらいは簡単に避けられるし、また少年を捕まえるのは呼吸をするよりも自然に行える。それを少年は知らなかった。
そして、そうしないのはエィストが少年を追いかける事を自分なりに楽しんでいる証拠となるなのだ。頭の中が『楽しい』で一杯の彼女は、そういう人物なのである。
「逃げろ逃げろー! 捕まえたら消毒しちゃうぞー!」
「う、うわぁぁ!! 助けてぇぇぇぇ!」
故に、少年はこの瞬間からとてつもない恐怖を感じて、気づいた時には声を上げて必死で逃げていた。
二人は既に公園から飛び出ていて、市街地を走り回っている。周囲を通る人々は助けを求める少年を無視し、避ける様に歩いていく。
まさしく絶望的な状況だ。自分の行いで起きてしまった危機に対して、少年は反省すら吹き飛ぶ程の恐怖と絶望に晒されて、涙さえ浮かんでしまう。
心の底から感じる危機感と苦しみが体を動かしていた。本能的な恐怖は少年の足を酷使し、体力は既に限界を迎えていた。無理もない。どれほど走れたとしても、少年は何の訓練も積んでいないただの少年なのだから。
「あれれー!? 足、遅くなってるよー? どーっしたの、かなー?」
「う、うあ、うああああああああああ!!!」
すぐ後ろから声が聞こえて来たと同時に肩へ手を置かれた少年は、断末魔の様な悲鳴を上げてその手を振り払い、思い切り逃げた。
足は震えていて、体は力がどんどん抜けていくが、頭は恐怖一色に染め上げられているのだ。追いつかれれば、言語に出来ない様な苦しみの果てに殺される。そんな妄想が頭に纏わり付いてきて、止まらない。
「待て待てー! 待てー……」
その恩恵なのか、背後の気配は少しずつ遠ざかっていった。危機感と本能の恐怖は少年の身体能力をこの場限りで常人からかけ離れた物にまで昇華した様だ。
いや、あるいは女が自分を追いかける事を止めてくれたのかもしれない。少年は自分の悪戯に対する後悔も無いまま、そんな事を考えた。
彼女をよく知る者の一人であれば、『大丈夫かな、と思った時に一気に来るんだよねぇ、ほら、ホラー映画によくあるだろう?』とでも言ってむしろ警戒を強めるだろうが、少年はそんなエィストを知らない。
「……もう、追ってこないかな」
少年は、体力が限界に来ている事を感じて足を止めた。もつれそうになる程酷使された足は小刻みに震えていて、少年が感じた恐怖の大きさを物語っている。
足を止めた瞬間から、そのまま地面で眠りたくなる程の疲労が今更に少年に襲いかかって来た。常人を遙かに凌駕する走りを行った代償は、冗談では済まない程の苦痛である。
「あ……はぁ、はぁ……あいつが、あいつが約束放り出したから悪いんだからな……喉、乾いたなぁ」
全身で疲れを表現しながらも、少年は全ての責任を約束を守らなかった少年へ擦り付けた。
独り言を呟く度に、喉が苦しくなる。体中から流れる汗は間違いなく大量の水分を求めていて、水を飲まない事にはもう一歩も動けそうにない。
どこかに水道の一つでも無いか、と少年は周囲を見回した。
そこは町の中でも裏通りに面する場所で、薄暗い。犯罪の発生件数も多いが、少年にとっては庭の様な物である。だからこそ、その場に水道が無い事をよく知っていた。
「……あ、あそこがある。でもうまくやれるかな……」
水道が無い事を知る少年は、すぐにそれに代わる水分補給の方法を思い出した。この通りから路地を抜けた先に一軒のコンビニがあるのだ。
十数年前は屈強そうな男が店員をやっていて、万引きでもしよう物なら殺されてしまいかねない雰囲気が漂っていたらしいが、最近ではその娘らしき若い女性が一人で居る事が多い為、比較的物を盗りやすい場所だった。少年の友達も時折そんな事をして成功させていたので、よく覚えていた。
余り怒らない類の、しかも子供好きな女性らしく、少年も何度か菓子を盗んだ事があったが、少し怒られただけで最後には許された事をよく覚えている。噂では、父親はとあるギャング組織の一員だったらしいが、女性からはその様な恐ろしさは欠片も感じられない。
甘い奴だと頭の中で嘲笑したかどうかは別として、そんな女性が一人で経営する店だ。喉を枯らした子供が入ってくれば水くらいは貰えるだろうし、帰り際にジュースの一つでも盗むくらいなら許して貰えるだろう。
全く自分の行いを反省していない打算にまみれた事を考えながら、少年は今居る場所からコンビニへの一番の近道を思い浮かべようとして――
「ふふ、万引きなんてしちゃいけませんよー? 優しい優しいお姉さんだって、時々は怒るんだよ?」
背後から聞こえてきた声に、思わず体を硬直させた。
「逃げられる、なんて思ったんだ? あはは、甘いね。私から逃げられる、本当にそう思った? 思ったんだね? 思ったなんて……」
「う、や、うあ……」
すかさず話を続ける声は、紛れもなく先程振り切ったと思い込んでいた女の物だった。やはりすぐ後ろに居る事がよく分かる距離から声が来ていて、恐ろしい気配は微塵も薄れていない。
背後に居ると思わしき女は、少年の肩に両手を置く。どうも優しい手つきに思えたが、それが何より恐ろしい。少年の体は勝手に震えだし、怯え狂った心は悲鳴を上げていた。
それを見たエィストは少年の恐怖を飲み込む程楽しそうに笑い、両手を少年の肩から胸元まで持っていき、後ろから抱きしめる様にして耳元へ口を寄せた。
「怖いんだ、分かるよ。うん、そんなに震えちゃって……ふふ、悪い子にはお仕置きが必要だね」
お仕置き。その単語を聞いただけで、少年は狂ってしまった方がマシだと思える程に恐怖した。
だが、少年の体は動いていた。一体、何をされるのかと身構えるよりも、恐怖で身を固めるよりも何よりも早く、体はエィストの手を振り払おうと暴れていた。
そんな少年に対して、エィストは予想に反する行動を見せた。手を退けて、少しだけ少年から離れたのだ。
そして、やはり少しだけ冷静になれた少年に対して、エィストは笑いながら言った。
「ほらほら、逃げても、良いんだよ?」
まるで、人間を動く射的の的にでもするかの様な目が、少年に向けられていた。余りにも凄惨なその瞳は本気を感じさせ、少年の心を凄まじい勢いで乱す。
パニックを起こした少年は、声にならない悲鳴を上げて飛び上がった。頭の中にはこの恐ろしい女から逃げるという思考だけが吹き出していて、一も二もなく走らせる。
体は限界を迎えていても、少年は恐怖という意志で無理矢理動かす。足は再び常人のそれを上回る物になり、少年はそのままの勢いで路地に飛び込んだ。
「イヤだ、嫌だ! 厭だぁ! いやだぁぁぁぁ!」
悲鳴の様な声が漏れて、少年の足はより早くなる。すぐ後ろにエィストが居る気配が何よりも背筋を凍らせ、またどれほど走っても付いてくる気配はおぞましく、悪寒を感じさせた。
路地の向こう側にコンビニがある事を少年は知っている。微かに残っていた思考で、少年はそこへ逃げ込む事を考えた。このおぞましい『何か』から逃げられるとは思わなかったが、せめて知り合いに助けを求めたかった。
今なら自分の悪事を何もかもを洗いざらい白状して、コンビニのお姉さんに抱きついて震える自信がある。冗談でも何でもなく少年はそう考えて走る。
しかし、そんな少年の思考は路地の向かい側からやって現れた者によって中断させられた。
「ぐ、げはあっ! クククククククククソそそそそそ、クソぉおおおおおおお!」
向かい側から、ボロボロになった男が呂律の回らない声で叫び、よろけながら走って来る。まるでガラスに体を突っ込んだかの様に傷だらけで血を流していて、目は血走っている。
明らかに何かヤバい薬をやってしまった姿だ。しかし、少年は男の事を不思議と怖いとは思わなかった。むしろ、同情心が沸き上がってくる程だ。
男の手にはナイフが握られていたのだが、それでも恐ろしいとは思わない。今も背後に居る女に比べれば、刃物如きが何だというのか。
確かに刺されれば痛く、苦しく、もしかすると死んでしまうかもしれないが、それだけだ。背後に居る、自分の存在自体が砕け散りそうな圧倒的な『何か』に比べれば、道端の小石程度の驚異である。
だが、男の方はそうではなかった様だ。慌てて逃げようとする男は路地の反対方向に居る少年を邪魔だと感じたのか、全く余裕の無い様子でナイフを構えた。
「どどどどどげげげどけっけけけけけけ! どげぇぇぇぇぇぇ!!」
自分と同じ様な恐怖と悲鳴混じりの叫び声を上げて、ナイフをこちらに向けたまま突進してくる男を見て、少年は心底同情したい気持ちになった。
だが、どれだけ退けと言われても、殺されても退く気は無かった。もしも足を止めてしまえば、背後の女に何をされるかが分からない、その気持ちは自分の命よりも重かったのだ。
少年はナイフを持つ男と同じ、いやそれ以上に必死の顔付きで走る。男とナイフはそのまま、少年の体に向かっていき――
60kbくらいの中編です。今回は、エィストとプランク以外は出しません。というか最近、映画を余り観ていないのでリドリーが出せません。




