24話
たった一つの拳が彼女の腹へ突き刺さる様に叩きつけられていた。
「ぐっ……く……ううぅ……」
その細身には似合わない程の尋常ならざる剛力を行使する事も出来る筈だというのに、もしかすると腹部だけを鋼にする事も出来たかもしれないのに、彼女はまるで相手の感情と拳を自分の体というクッションで受け止めたかの様な姿勢になっている。
下方から思い切り突き上げる様に放たれた一撃を、彼女は一切避けなかったし、防御もしなかった。ただそれを受け止めて、衝撃で浮きそうになる体を足で押し留めただけだ。
強烈な一撃によって腹部は押し上げられ、拳の主の脳に柔らかい肌と内臓の感触を届けていた、その部分を殴る事で得られる物の中では最も致命傷に近い一撃である。
しかし、普通なら起きあがる事も出来ない攻撃を与える事に成功したMr.スマイルの口から出ていたのは余裕や達成感ではなく、驚愕だった。
「な……に! 何の……何の、つもりだ……!?」
彼女に内臓があった事を驚く程の余裕はMr.スマイルには、いやエドワースには無い。頭の中に広がる疑問と疑念と不思議さが、冷静な思考を奪い取っていた。
いや、誰が想像するのと言うのだろう。
彼女は『服を少したくしあげ、傷一つ無い腹部に拳を直撃させている』のだ。そんな予想の範囲外の対応を読める程、エドワースは人の気持ちに詳しくない。
唖然としたエドワースの腕が自然に力を失って、エィストの体から離れた。仮面の奥の顔は疑念一色に包まれていて、今ならどんな素人の攻撃でも受けてしまうだろう。
もっとも、ここには目の前に居るエィスト以外には誰もいないのだが。
「……ぁ、うぇ……せ、せいこぅ……服は、ぶじ……」
エドワースの拳という体の支えを失ったエィストの膝は力無く崩れ落ちて、そのまま口元と腹部を押さえる。倒れてはいなかったが、蒼白に近い顔色だ。
その中にある安堵の色をエドワースは耳聡く聞き取っていた。どうやら、彼女はボスからのプレゼントされた服を守る為にあえて自分の体を犠牲にした様だ。
恐らくは『死ぬ』という可能性すら分かった上でのその行い。同じ状況なら迷わず自分を選ぶエドワースは、思わずエィストの正気を疑った。
が、そんな物は無い事にすぐ気づいて疑う事をやめた。
「ぇあ……な、なん、だろ……すごぉぅ、うぇ……く馬鹿に、された、うぅ、感じ……?」
吐き気と苦痛に悩まされている途切れがちな声だったが、彼女はまたエドワースの心を読んだかの様な言葉を発して来た。
普段の不敵で誰も到達出来ない存在という印象とは異なり、今の彼女は弱々しい。まるで病に倒れた薄幸の美女の様だ。口元に隠しきれない笑みは残り、全身からの楽しげな気配が微塵も衰えてはいないのだが、それでもだ。
今にも血と一緒に胃の中身を吐いてしまいそうな顔をする彼女に、エドワースはポリ袋が周辺に無いかを思わず探してしまいたくなった。しかしエィストの目はそれを許さず、彼の視線を自分へと固定させる。
どうしても、苦しむ自分の姿を目に入れさせたい様だ。嫌がらせか何かのつもりなのだろうか。エドワースはそんな事を思いながら、彼女を見つめる。
ふと、彼女に一撃を叩き込んだ時の衝撃が頭に蘇った。
----最高の、感触だったな……
彼女の肌はこの世の物とは思えない程に『殴り心地』の良い物だった。引き締まった細身の肉体やエドワースのナイフを掴んで離さなかった力からは想像出来ないほど、柔らかかった。
言葉に表せない事こそがその感触を表している、とでも言った所だろうか。まさか体まで演技という訳は無いだろうが、この日の為に体を絶妙な殴り心地になる様に作り直したのかもしれない。
バカバカしいと思いながらも、エドワースは彼女を殴った自分の手の平を見つめる。腕にはどうしようもない感触の良さと、何より罪悪感が残っていた。
エドワースは奇妙な性格をした彼女が今は苦手ではなく、吐きそうな顔で口と腹部を押さえる弱々しい彼女を見ていると、好意を抱いてしまう程に魅力的に見える。
それは恐らく、Mr.スマイルという方向性であれば、少しズレてはいるが正しい感情なのだろう。だがエドワースとしては----いや、恐らくは正しい筈なのだ。
「……否定、しない……だよ、ね?」
また、エドワースの心の中を見透かした様にエィストは声を届かせる。
言葉としての意味はよく分からなかった物の、エドワースの心には『自分を否定しない方が良い』という感情が沸き上がって来た。
そう、彼女が言いたい事の意味をその様な概念として心の奥で受け止めている事を表しているのだ。
「へへ…………私の言葉、届いたんだね?」
心の機敏を知るエィストの声が、嫌に耳に付く。まるで彼の心を握っているかの様だ。エドワースは一瞬だけ、彼女の手の中に自分の魂が捕まれているというおぞましい想像をして、身を震わせる。
それはともかく、エィストの顔はエドワースを見つめていて、その心の底を、たった今自分が発した言葉の返答を求めて読みとっていた。
「……」
散々背筋が寒くなる思いを味わったエドワースは、軽く頷く事で肯定の意志を見せる。そんな物は見せるまでも無く知られていると分かっていた為に、これは一種の意地だ。
そして、エドワースの首肯を見たエィストは軽く、ふわふわとした笑みを浮かべたかと思うと、口を開いた。
「ふふ、そっか。それにしても、凄いパンチじゃないか。私じゃなかったら今頃内臓がミンチになってるかもしれないよ、いやぁ、痛かったし苦しかった。でも君のだから許す!」
口から出た物は血でも胃の中身でも無く、紛れもない彼女の真っ当な、いや真っ当ではないがまともな声だった。
まるで殴られた事など無かったかの様に、平然と直立して平気な顔でエドワースの仮面を見て話すのだ。
わざとやっているのか、死体が動き出す以上に凍り付く程の不気味さを覚えさせる雰囲気である。殴り付けたエドワースはその感触や威力を知っている分、余計に不気味さを覚えてしまう。
一方で、Mr.スマイルは平気そうな彼女を見ていると頭の中に危機感が舞い戻ってくる事も感じていた。彼女を倒せなければ、自身の正体が組織内部に公開されてしまうのだ。
そんな事をした所でもう遅いのだが、彼はそれを知らない。
「どしたの? いやぁ、才能あるねエドワース君。もしかするとリドリー君よりも私寄りの才能を持ってるのかもよ?」
彼の心の機敏を知っている筈の彼女は無遠慮にエドワースに近寄っていく。まるで警戒心の無い人懐っこい動物の様だ。これで放っている気配が異様でなければ良いのだが、残念ながら、である。
殆ど零距離まで近づいた彼女の顔が、興味と好奇心と楽しさで一杯になる事がよく分かる。やはり警戒という言葉は抜け落ちていて、隙しか無い。
だが、無理に攻める事は出来ない。罠か何かだった場合、危険に陥る可能性もあるのだ。いや、確実に危険だ。
「ねっ? 私を殴った感触は気持ちよかった? ああ、責めてる訳じゃないんだよ、君は本当に、君になれるのかが知りたくて」
何もせずに直立するエドワースの顔、いや仮面に彼女の手が触れる。
からかい混じりではあるが長年の知人でも撫でる様な愛おしさの込められた手つきであり、やはり目の奥には好奇心が見え隠れしている。どこからどう見ても、やはり隙しか無い。
「……」
「ねーねー、答えて? 気持ちよかった? それとも苦しかった? さあ、どっち?」
本当に、警戒の欠片もしていないのではないだろうか。彼女の姿を何度も観察し何度も思考したエドワースは、そう結論付けた。確かに彼女は無防備で、今なら倒せてしまいそうだ。
彼女が本気で隠せば見抜く事が出来ない事を知りながらも、エドワースは自分のが正しい事を信じた。信じた彼は、行動に移す事を決めた。
「ああ、爽快感抜群……だったよ!」
彼女の質問に答えると同時に、垂れ下がった両手を全力で、全速力で動かして、すぐ側に居るエィストの首へ持っていく。
だが、それだけでは終わらない。それだけでは彼女を倒すには全く持って不十分だ。その為にエドワースは足を使う事にした。
----そういう意味の倒すじゃないんだがな!
コートを彼女に被せてしまった以上、防御は無い。捨て身の特効に近いが死んでも倒す、そんな気合いを込めて足払いをかける。
「お、おお?」
予想よりも簡単に足払いは成功した。彼女は戸惑いとも驚きとも、はたまた喜びともつかない声を上げて姿勢を崩し、転けそうになった。それはまさしく、エドワースが期待していた事だ。
エドワースは姿勢を崩した隙を付いて遠慮無く体を前に押す。浮きかかっていた彼女の体はそれだけであっさりと後方に倒れ込み、エドワースに押し倒される形となった。
「え、え? わ、わわ……あの、倒すってそういう事じゃなくて。で、でも、でもエドワース君になら……わ、私……」
「気持ち悪いんだよ、お前の存在が!」
倒れた瞬間にわざとらしく体をくねらせたエィストをこれ以上無い程不気味に思ったエドワースは、感情をそのまま言葉にしながらも馬乗りになって、首を絞める。
何故か抵抗は無く、思い切り彼女を椅子にする形で圧し掛かるエドワースの体重に言及する様子も無い。奇妙な程に上手く行きすぎて、それが逆に不安を煽った。
だが、そうも言っていられないとエドワースは首にかける腕の力を強めた。彼も一度首を絞められた事があるが、あれは辛い物だ。
意識が一瞬で朦朧となり、それを覆ってしまう程にとてつもなく苦しい。生理的な反応としても感情としても、絶対に抵抗はしてしまう物なのだ。しかし、エィストは楽しげに首を絞められている。
苦しくない、筈はない。確かに苦しそうな顔をしているのだ。だが、雰囲気と目は堪らない程楽しそうで、余計にエドワースの不安を煽る。
「ふ、ふふ……よりにもよって、君が私を気持ち悪いって? ……君は、ばーかだねぇ……」
声が聞こえて来た。
苦しそうな声だ、確かに首を絞める事には成功している。だが、普通は呻き声か唸り声の類しか出ない筈だ。周囲が普通という認識から外れる者ばかりだったエドワースですら、驚きを隠せない。
「たしかに君はおくびょー、で、そんな、そんな自分を嫌悪していたのだろぅけれど……私に言わせれば、それもまた人が人故に生まれる楽しさ、だよ」
驚くエドワースを余所に、エィストの声はどんどんきちんとした声音になっていく。まるで彼女の体は人体ではないのではないか、と思ってしまう程に、平然とした声だ。
何故か聞き逃してはいけないと思わせる色が声の中には含まれていた。確かに彼女はそんな気持ちを含ませているのだ。首に全力で力をかけたままのエドワースが、思わず耳を傾けてしまうくらいに。
「そうさ、臆病がどうした。私みたいになりたいんだろう? リドリーみたいになりたいんだろう? なら、君は君である事をまず受け入れないといけないんだ。そうじゃないと、Mr.スマイルはただの仮面になってしまう」
どこか説教臭さも混じる彼女が話す内容が、やはりエドワースには理解できない。だが自分にとって重要極まる事だと、それだけは理解できた。
自分の言葉が伝わった事が嬉しかったのか、エィストが喜ばしげに微笑んだ。どうも穏やかで、首を絞められているとは思えない。
しかし、そんな彼女の顔は少しだけ困った様な物に変わる。自分の言葉の意味をしっかりとエドワースは理解していない事を見抜いたのだろう。不満そうでありながらも、それが当然だと納得している様に見える。
「君はまだまだ中途半端だから、難しいかな? まだ気づいていない、まだ分かっていない。どうして? 簡単さ、君はまだ知らないんだ。『私達』が、笑う事の意味をね」
まるで先行く者としてMr.スマイルを指導する様な声音だ。エドワースは薄ぼんやりとした思考でそんな事を考えながら、彼女の言う事を理解しようと努力する。
自分がその彼女の首を絞めている事など、二の次だ。
だがそれでも理解できた様子はない。それを見て取ったエィストは納得した上で優しげに微笑み、また仮面を撫でて、言った。
「やっぱり、実物を見るべきかな? うん、私は君の夢を応援したいんだ----だから、見せてあげよう」
彼女がそう言った瞬間、彼女は笑みを崩した。無表情、と言って差し支えないだろう。演技らしさの欠片も無く、同じ組織に所属していたエドワースですら知らない表情だ。
「……君がMr.スマイルだと分かった時、私は悲しかった! 君はとても臆病だったけど、悪い子じゃないと思ってたのに!」
----ふふ、あはははは!
戸惑うエドワースの耳に、笑い声が響いて来た。どこから聞こえてきたのかと思わずエィストの口元を見るが、そこから出ているのは全く違う意味合いの言葉だ。
それはエドワースが聞いてもすぐに分かるくらいに間違いなく出鱈目で、どこからか響く笑い声が真実を表している事はすぐに分かった。
「嘘だと思いたかった! でも……でも! 君は、本当にMr.スマイルだったんだ! 私は、そんな。そんな現実が----」
----くく、ひひゃあひゃひゃ!
狂った様な笑い声が響いて来る。だが、エィストの口から出た物ではない。口から響く声はやはり人間味のある深い悲しみを発している『様に聞こえる』。
しかし空耳、とも言えない。確かに聞こえるのだ。凄まじい笑い声が。
なら、天をも引き裂き世界すら蹂躙してもなお余りそうな、このおぞましい声はどこから聞こえたのか。
「楽しかった! ……あ、ごめん。take2! ……そんな現実が----苦しかった!」
----ははははははははは!!!
何やら最後の台詞で本音が出てしまったらしく、不覚とばかりにエィストは肩を竦める。何とも締まらない台詞である。
が、そんな声が聞こえた瞬間、エドワースのあらゆる感覚は、理解していた。
彼女が足場にしているこの船も、海も、視界に広がる空も、そしてその先にある物もそれ以外も全てが----笑っている。
何もかもが笑っている。世界全て、いや世界以上の物ですら笑っている。幻聴を疑いたくなる程の、笑い声だ。
それを受け入れたエドワースは余りにも自分の物とは違う規模に、性質に、何より純粋さに呆然とした。
----まさか……いや、そうか、そうなんだな……!?
しかし、同時にそれが、それこそが自分の追い求めるMr.スマイルの最果てなのだと理解していた。いや、『させられた』。
先行く者として彼女は出来る限りの物を見せた、聞かせたのだ。
「あーくるしー、ちょっと意識飛んじゃいそう」などと漏らしている姿からは想像も出来ない程、凄まじい。
----行ってみたい! 俺は、彼女の場所まで、『Mr.スマイル』にまで行ってみたいんだ!
彼女を『そういうもの』だと認めた彼は、相手を同じ人間だと思っていた時には出来なかった、とてつもなく素直な羨望を心に浮かべた。
彼がMr.スマイルという仮面を付けて尚、到達出来ない極地、彼では残虐な行いの優越感でしか作り上げられなかった、笑い。所詮、人が仮面を付けた所でそれはそこまでなのだ。
それを彼女は何の障害も無く作り上げて見せた。弱みも強みも、勇敢さも臆病さも飲み込んで、現実も仮想も取り込んで、世界も宇宙も喰い尽くして、そうでありながら、それでいて全てを楽しむその、笑顔を。
エドワースの手が、彼女の首から勝手に離れる。もう力を入れておく事も出来なかった。
解放されたエィストは水を得た魚の様に元気そうに飛び跳ねて直立し、すぐエドワースへ目を向けて、どこか残酷な笑みを浮かべる。
「うん、分かってくれたね。よしっ! じゃあ、手始めに、押し倒してくれたのと、首を絞めてくれた分のお返しをしないとっ!」
妙に楽しげだが冷たい声が聞こえて来たかと思うと----気づいた時には、エドワースの体が後ろ向きに倒れていた。
「な……あ!?」
何が起きたのか、何をされたのか。どうやって自分は床に叩き付けられたのか。五感のあらゆる機能と第六感の全てを駆使しても、ほんの一片すら理解できない。ただ、結果だけが伝わった。
彼に出来たのは、驚愕の声を上げる事だけだ。それ以外は何も出来ず、何をしようとも思えないのだ。
それに追い打ちを仕掛けるかの様に、続いてエドワースの意識は朦朧とし始めた。やはり、何故そうなるのかは分からない。だが、自分は気絶するのだろうな、という結果だけは何となく分かった。
「ね、私は自分がおかしな事を言っているって自覚がある、誰かに理解して貰おうとも思わない。君もそうだろう? でも、けれど……」
----楽しい、楽しい楽しい!
意識の薄れ行くエドワースに対して、エィストは独り言めいた事を話し始める。しかし、実際に耳に届く言葉はただただ、『楽しい』という意志だけだ。
それを不思議とも思わず、エドワースは大人しく声を聞いた。
「私の言った言葉が理解出来ないなら、君は……本当の意味で『Mr.スマイル』にはなれないんだ」
----楽しい楽しい楽しい楽しい……楽しい!
何を言っていても、その意味が『楽しい』と受け取ってしまう。耳がおかしくなったのかとエドワースは心配になったが、だが心の中にある憧れはそれを上回っている。
「私の道か、彼らの道か。君が、どっちの道を進むのか……楽しみながら待ってるよ。応援してるから、どっちの道であってもね」
----楽しくて楽しいを楽しむの! 楽しいから楽しいのだから、楽しいのだ!
どこまでも『楽しい』という感情を固めた様なエィストは、臆病を脱却する為に残虐さと『楽しい』笑みを作ったエドワースにとっては眩し過ぎる。
例え、他の誰がどう見たとしても邪悪極まる最低最悪の笑みだったとしても、彼にとってはそういう物なのだ。
そんなエドワースの意識が途切れかかっている事を知ってかエィストは軽く片手を上げて別れの挨拶を、エドワースにとっては『楽しい』という意志をぶつける様な声を、かけた。
「じゃ、また後で。……あぁ、私の仲間がこんな奴だったなんて……楽しいと思ってるよ?」
----何もかも全部がっ! 楽 し い の !
----あぁ……こいつの居る場所に到達出来たら……私、俺は、きっと……
何とも締まらない顔で付け足すエィストを見て、エドワースは今にも失いそうな意識の中でこんな事を思っていた。
+
「おやすみ、本当に楽しみにしているよ……さてっ!」
エドワースが倒れ伏した事を確認したエィストは何故か埃一つ付いていない自分の服を満足げに眺めながらも、心機一転と言わんばかりに声を上げる。
そして次の瞬間には今まであった事を全てリセットしたかの様に気持ちを切り替えて、少し真面目な顔をして軽々とエドワースを抱えた。
彼が着ていたコートや山高帽はいつの間にかエィストが着込んでいて、仮面はエドワースの懐の中に隠されていた。力無く抱えられている事も相まって、彼がMr.スマイルだという事を気づく者は居ないだろう。
その場でのやる事を全て終えた彼女はエドワースを抱えながらも、自分達がこの場所に来た理由である爆破された船室の上まで歩いていく。
そして船の縁まで辿り着くと、下を見た。部屋があった場所からは煙らしき物が出ていて、爆発の凄まじさを物語っている。
しかし、エィストの目に恐怖はない。むしろ好奇心に身を任せている様だ。それは飛び降りる様に今居る場所から落ちて、煙を吹き出す部屋に舞い戻った時も変わらなかった。
「おお、随分派手に壊れてるね……これは酷いや」
部屋の惨状を見て、エィストは肩を竦める。余りにも酷い状態だ、家具は殆どが壊れきっていて、一部の無事に見える物もかなり傷ついている。
部屋で起きた爆発の凄まじさを物語る光景を見るエィストの顔は、やはり楽しそうだが、少し心配そうな色も含まれている。彼女にとっての心配事はその部屋自体に向けられる物ではない。
「さてさて、スーツは無事かなっと」
そう、隣の部屋には彼女が先程まで着ていたスーツが有るのだ。相手は自棄になった風に『くれてやる』と言ってはいたが、それを言葉通りに受け取る彼女ではない。
返した上で、弁償もきちんとするつもりだ。彼女はその手の拘りに理解があるつもりである。何せ、服を避けて体に拳を叩き込ませた程だ。
銃弾の類で出来た傷は何とか直すにしても、爆発によって原型を止めなくなっていたら困るのは彼女だ。相手は既に諦めているのだろうが、彼女はそうではない。
何より、彼女も自分が着ていたスーツを気に入っていたのだ。
「……あぁ、良かったぁ」
少しだけ恐る恐るとした様子で向かい側の部屋を見に行った彼女は、思い切り安堵の息を吐いた。スーツは無事だった。
爆発はその部屋までは届かなかったのか、被害は大きくない。一室だけを的確に爆破する様に調整された高性能の爆薬だった様だ。だから、スーツには傷一つ無い。
抱えたエドワースを一時的に床に置いた彼女は、スーツを手にとって微笑んだ。本当に嬉しそうだ、まるで長年の親友に再会したかの様な喜びが溢れていて、とても明るい雰囲気を守っている。
「んっ……ふふ、よしよし……そうだ、ボス達の荷物も持っていってあげようかな」
最高の閃きを覚えたとばかりに一度手を打ったエィストは、スーツを側にある鞄に詰めた。ケビン達の荷物である、彼女にとっては持ち帰らねばならない物である。
しかし、彼女一人がエドワースと荷物を持つにしては少し手が足りない。幾ら彼女がそれらを全て背負っても尚当たり前の様に動きを鈍らせないからと言っても、彼女の手は二つしか無いのだ。
困った様な顔をするエィストは暫くの間、考え込んだ。その気になれば、それらを持っていく事は出来ないでもない。しかし、面倒だ。
「……うーん、やっぱり。持っていくしかないのかな」
肩を竦めながらも彼女の姿は何故か楽しげで、明るい雰囲気を纏っている。果てしない上機嫌さと不機嫌さの合わさった空気が室内に蔓延している。
そして彼女は、小脇に幾つかの荷物を抱えて肩を支えにしてエドワースを片手で押さえた。この状態であれば何とかバランスを保つ事が出来る様だ。人間離れした彼女だから可能な事である。
傍目からは非常に無理のある荷物の持ち方をした彼女は、緩い笑みを浮かべたまま部屋を出た。もう彼女がこの船でやるべき事は殆ど終わっている。
役目を終えた彼女は何かを忘れた様な疑問を浮かべつつも、楽しそうに町へ戻るのだ。
「……おやおや?」
そして、通路に現れた彼女の視界に、とある人物の姿が入り込んだ。それは彼女にとっては味方とは言えないが、敵と呼ぶには無理がある相手だ。
だが少なくとも、彼女にとっては敵意を持って接する相手ではない。
相手も彼女を知っているのか、少し目を見開いて手の中の銃を少し持ち上げる。警戒されている様だ、勿論、彼女に対する物として極めて妥当な反応である。
だが、その視線はエィスト自身よりも彼女が運ぶエドワースに注がれている様に思えた。恐らく、警戒の三割方はそちらに注がれているのだろう。非常に剣呑で、危険な気配だ。
エドワースがMr.スマイルである事を相手は知っている。それを彼女は分かっていた。だから視線の意味にも気づいているのだが、彼女は気にした様子も無く笑っている。
「ああ、いい所に来た! 荷物を持ってくれるかな?」
相手の感情の機敏など分かっている筈だというのに、そんな事は知らないとばかりに軽い調子で彼女は頼み事をした。余りにも明るすぎて頭が痛くなってしまいそうだ。
そんな言葉を聞かされた相手は、予想外の展開に目を丸くした。それだけではなく、口からは唖然とした様な声すら漏れだしてしまった。
「……は?」
自分の口からそんな声が出た事に気づかないまま、サイモンはエィストへ視線を向けていた。
ところで、私はよくある『他人の苦しみが三度の飯より大好きで、自分が苦しめられたりする事が大嫌い』という類のキャラクターを狂人だとは思いません。大なり小なり誰しもそういう所はありますから。むしろ、本当にヤバイと思うのは理屈も過程もすっ飛ばして意味不明な方向に一意専心を決めた何をやっても曲がらないキャラクターですよ。大笑編のMr.スマイルとエィストはそういう位置付けです




