21話
「ふふ、ふふーん。うーん、やっぱり塗れた髪にドライヤーをかけるのって気持ち良いよね?」
血や肉片が飛び散った部屋の中でドライヤーを掛けている、新品のワイシャツ姿の女がそこにいる。鼻歌を混じらせるその姿はどこか艶やかで、可愛らしく、何よりおぞましい。
海水が染みた上着は、畳んで部屋の隅に置かれていた。どうやら、着ているワイシャツは部屋に備え付けられていた物の様だ。
「ふふふ~~ん、ふふ~~」
大きめの鼻歌が響くその部屋は、エドワースが船の中で最初にMr.スマイルとして行動した場所、つまり、エドワース自身の部屋だった。
そんな血みどろの場所で鼻歌を吹く女など、一人しかいない筈だ。そう、今はカナエと名乗っている、エィストである。
彼女はケビンから言われた通りこの部屋に来ていた。話の通り荷物はそこに置いてあり、話の通りであればその中に彼女の着替えも入っているのだろう。
「それにしてもボスも人が悪い、いや、私が悪いのか」
自分で言った言葉を、自分で訂正する。
恐らく、あのトイレで最初にカナエとして話をした時点で事前にエィストの荷物も用意していたのだろう。用意の良いボスに対して、カナエは嬉しそうに笑う。
海水よりは血液の方を疑っていたのだろうが、どちらにせよ服が塗れる事は予想していたに違いない。妙に勘の効くケビンへ尊敬の念さえ浮かんで来た。
「……あ、本当に用意してたんだ」
そんな気持ちでカナエは荷物の中を探る。すると、自分の着替えはすぐに見つかった。ご丁寧に名前まで書いた箱に入っているのだから、分かりやすい物だ。
箱の包装から感じられるケビンの善意を胸にして、カナエは隠しきれない期待を露わに箱へ手をかけた。
「わぁ……! ボス、ありがとうございます」
箱を開けた途端、カナエの表情が瞬く間に輝かんばかりの笑顔になり、心が溶けているのではないか、と疑いたくなる程の喜びが体から放出された。
中に入っていたのは、栗色のセーターとジーンズ。それにマフラーだ。
いかにも手編みといった風情を醸し出していて、中々良い素材を使っているのだろう。触るだけで、ふわふわとした心地良い感触が伝わってくる。
肩や横腹に当たる箇所や、ジーンズの太股に当たる部分には可愛らしい、デフォルメされたマスコットの刺繍がある。そのデザインに、カナエ、いやエィストは心当たりがあった。
「これっ……ああ、私が欲しいって言った奴だ……! ボス、覚えててくれたんだ……! 嬉しいなぁもう!」
宝物を貰った子供の様な笑みを浮かべて、服を抱きしめる。血が付いた部分には絶対に振れさせず、なおかつ凄まじく丁寧な手つきで扱う辺り、服の繊維一つにすら傷を付ける気も、ましてや血や海水で汚す気も無い様だ。
余りにも嬉しそうなその表情は、まるで世の中の幸福を全て受け止めたかの様だ。見る者まで巻き込んで幸せにしてしまいそうで、それがどこまでも美しい。
服を抱き締める彼女は明るい笑みを浮かべている。だが、それと同時に服に何かが仕掛けられていないかを確認もしているのだ。何かがある、そういう直感が彼女の中にはあった。
「ん……やっぱり」
ジーンズの方に手を伸ばした彼女は、生地の上を何度か触っただけでポケットの中に何かが入っている事を察し、手をそこに入れる。
感触だけで、彼女はそれが紙だという事をすぐに理解出来た。そうと分かれば話は早い、何の抵抗も無くポケットから紙は取り出される。
折られた紙は何の変哲も無い物で、変わった点はどこにも無い。素材自体には何の意味も無い事は明らかだったので、彼女は紙を開く。そこには、予想通りの事が書かれていた。
「何々……? 『上等な服を汚したくなかったら、派手に暴れるな?』 ……ボス、分かってるよ」
関心した様な声を出しながらも、紙に書かれた文章を見て彼女はしっかりと頷く。文字だけでも十分に伝わってくる意志と汚すにはもったいない服が、彼女の動きを制限する役に立っているのだ。
もう実行してしまった物は別として、なのだが。
実際、彼はどこまで予想していたのだろう。そんな事を彼女は思う。服を見る限り、何かが起きて彼女が暴れる事くらいは分かっていたのだろう。
船で何が起きるのかは分からなくとも、何らかの騒動が起きてしまう事と、船に派手な被害が及ぶ事は把握していたに違いない。
「まあ、もう遅いけどね」
『船に派手な被害を及ぼす』物に心当たりがあったが、もうそれは彼女の手の中から離れてしまっている。今更言った所でもう遅い。
苦笑を浮かべた彼女は、紙を丁寧な手つきでポケットに戻す。すると次の瞬間には自らのボスに釘を刺された事など忘れたかの様に、また心が溶けている様な顔をした。
そのままの笑みを浮かべた彼女は備え付けのクローゼットからシーツを取り出し、ベッドの上に被せる。乾いた血が付着していたベッドはそれだけで上辺だけは新品同様の姿に戻り、そこだけは綺麗になった。
満足そうにベッドを見た彼女は何度かシーツを撫で回したかと思うと思い切り寝転がり、服を抱きしめてベッドの上をコロコロと転がりだす。
「えへへっ、えへへっ……」
上機嫌を通り越した幸せを感じさせる顔つきだ。とろけきっている事がよく分かる物だ。
そんな風に転げ回っていた彼女は一分程それを続けたかと思うと、とうとう着替える気になったのかワイシャツのボタンに手をかける。
鼻歌混じりにボタンを外していく姿は見る人の脳を恐ろしいまでに魅了し、心を溶かして融解させてしまいそうだ。人の気持ちを狂わせてしまいそうな、姿である。
しかし、彼女は三つ目のボタンを外す途中で手を止める。目は勝手に扉の方を向いていて、手がボタンに触れたままだ。
じっと扉を見つめた彼女は、緩い笑みを浮かべたまま口を開いた。
「乙女の着替えを覗くなんて、酷い奴らだね」
言葉が音として室内に現れた瞬間、扉が開いて十数人の人間が部屋に飛び込んで来た。虚ろな目をした者達は成人した男が大半であるが、その中にはそうではない者も居る。
しかし、虚ろな目をしている事と武装をしている事、そして腰に見覚えのある薬を持たされている事は完全に共通している物だ。
そう、この船の中でMr.スマイルの餌になり続けていた『兵隊』達である。薬を渡された彼らはどこかの部屋でそれを使う為に、偶然この部屋を選んだのだ。
そして、偶然が起こした結果として目の前に彼女が居る。
「やぁ、こんにちは」
ワイシャツのボタンを半分まで外した彼女は、朗らかな調子で挨拶をする。返事など来ない事は承知の上だ、それでも非常に上機嫌な彼女は気にせずに会釈する。
それを見た『兵隊』達は、手に持った銃を勢いよく持ち上げる。
特に優先すべき相手という訳ではないが、彼らの微かに、本当に微かに残った本能が危険を訴えているのだ。命令を、覆す程に。
しかし、全ては無駄だった。
「殺さないよ、安心してね」
優しげな声で、カナエが語りかける。その瞬間だった、声が彼らの耳に届くのとほぼ同時に----彼らは、倒れた。
何の脈略を感じる事も無く、ましてや彼女が何かをした事を認識する事すら出来ずに、『兵隊』達は体に力を失って倒れ伏す。
一瞬で倒された為に、彼らは何が起きたのかを認識する事すら無かっただろう。ある意味で、それは幸福な事だ。彼女の異質さや異様さを感じる事が無かったのだから。
「……ふふっ」
武装した集団を一瞬で気絶させた彼女は、自嘲する様な声を上げた。何故かは分からなかったが、そこに誰かが居れば確実に寒気を覚えさせる筈だ。
倒れ伏す者達の中に目立った外傷は無く、心臓の止まった者も居ない。恐らくはもう、この世に戻って来る事は無い筈だ。
凶悪な薬を使い過ぎた彼らは、魂すら落としてしまったのだから。
「よしっ」
意を決した様な声を一つ上げると、彼女はもう倒れる『兵隊』達の事など忘れたかの様に着替えを再開し始める。
ワイシャツを脱いだ彼女は、ゆっくりと服の素材を確認する様に撫で回した。嬉しそうな笑みを浮かべる姿からは、たった今『兵隊』達を倒した者の雰囲気は伺えない。
「ちゃんと、返さないとね……うふふっ」
海水に濡れたスーツへと目を遣った彼女は、そんな事を呟きながらセーターを身に纏う。保温効果のある良質な素材が肌に心地良い感触を与える事で、彼女はより幸せそうな顔をした。
いつの間にかジーンズとマフラーは身につけられていて、端から見るとセーター以外は着替えた事を認識出来ないまま『服が入れ替わった』かの様に見えるだろう。
「うぅーーーん、あったかぁい。しあわせぇ……」
とろけきった笑みを浮かべて、自分の体、いや着ている服をまた抱き締める。それだけやっても皺が出来る事は無く、どれほど丁寧に扱っているのかが見て取れる。
幸せ、幸せ、幸せ! そんな空気を全身から表す彼女。一体何が彼女をそうまでして幸せにしているのか。誰も分からない。
しかし、そんな彼女の幸せそうな顔に向かって、銃弾が扉を貫いてやって来た。
「おっと! むう、ヒドいじゃない。私の大事な服に傷が付く所だったんだよ?」
あっさりと銃弾を『視認してから避けた』彼女は、不満そうに眉を顰める。
服にも顔にも掠る事すらなかった銃弾だが、彼女が動かなければ服ごと体に穴が空いたに違いない。その事実が、彼女にちょっとした不満を覚えさせる。
「……おっと、刀は無いんだっけ」
眉を顰めたままの彼女は静かに刀を手に取ろうとして、船に突き刺したままだという事を思い出して肩を竦めていた。心なしか寂しそうなのが目に付いた。
しかし、次の瞬間には少し真剣な様子で何故か頷くと、呟いた。
「……ふぅ……じゃ、『カナエ』に戻ろうかな、しっかりと、きっちりとね」
そう言うと、彼女は思い切り深呼吸をする。息を吸った瞬間から彼女の表情は少しずつ変化していき、吸いきった時には雰囲気が血を求める何者かになる。
そして、何かを決断するかの様に息を吐き始めた時にはまさしく別人と言った体に変じていて、終わった頃には、血に狂う女の笑みが浮かんでいた。
「……く、ひひ……ァヒャヒャヒャ! エィストにさようなら! 血に狂ったカナエちゃんいらっしゃい! あひゃひゃひゃアアァァァ!!」
言いながら、扉を持ち----力任せに押し出して、そのまま盾代わりに突撃して行く。迷いも無く、戸惑いも無い。
数十秒後、彼女が飛び込んでいった先の部屋は爆発し、彼女はMr.スマイルと共に、船の最上部へ行く事となった。
+
この船の中でケビンと名乗っている男は、エィストとリドリーの前から姿を消して、たった今甲板に向かっていた。
急いでいる様子は特に無く、慌てている風でもない。しかし足は止まらず、勝手に前に進むかの様に前方の甲板に近づいている。
歩く姿からは心配そうな気配など微塵も見えてこない。ただ、近寄り難い何かを発している事だけは事実である。その理由を、ケビン本人は知っている。
恐らくはエィストも気づいているのだろうが、彼女ほどケビンは割り切れる、いや、『楽しめる』性格をしていない。
動き自体は自然だが、頭の中身はそうでは無い様だ。その場に他の者が居ないからこその思考なのかもしれないが、強い雰囲気はその場に誰かが居たとしても目を逸らさせてしまうに違いない。
「……Mr.スマイル、か」
ケビンの頭に浮かぶ仮面の男は、その場にじっと立ってこちらを見つめて来る。その視線がどうも鬱陶しく、彼は首を振る事によってその幻影を振り払う事にする。
頭の中の幻想はそれによって見事に消えた様だが、ケビンの顔はお世辞にも良いとは言えない。無論、足は止まっていないのだが。
その足がどこか苛立っているのは気のせいでは無い。それでも周囲への警戒は怠っておらず、まるで周りにある全てに目があるかの様だ。
「……? 何だ?」
そんな警戒網に一人の人間が入り込んで来た事を察知して、ケビンは声を上げる事で意識を外界へ戻す。Mr.スマイルに関する思考は四散し、目が周囲に向けられる。
もうすぐ、その人間が視界に入る。それに気づいたケビンは目を細くして感覚を集中させて、呼吸音の一つすら逃すまいと耳を澄ませる。
音の流れが何となく伝わって来て、息が理解できる様になる。極限の集中が記憶の中にある同じ息遣いの人間を一瞬にして照合し、その正体を明らかにした。
肩すかしを受けた様な、それでも警戒しなければならない様な気分になりつつも、ケビンは呟く。
「……何だ、サイモンか」
「おっと! ……さんではないですか! 急いでいるので失礼!」
呟いたと同時にそのサイモンが飛び出して来て、声を上げたかと思うと凄まじい勢いで走り去って行こうとした。
しかし、本名を呼ばれたケビンは逃がさないとばかりに去り行く腕を取り、無理矢理に引き寄せる。予想外の事だったのかサイモンは思ったより簡単に姿勢を崩したが、何とか足と息を整える。
何をするのか、と言いたげにサイモンはケビンを睨み付けたが、ケビンは何ら怯む様子も無く言って見せた。
「ケビンだ、ケビン・ミラー」
「……は?」
「だから、今の俺はケビンだ、そう呼べ」
思わず呆けた声を上げるサイモンに、ケビンは訂正を促す口調で告げて来る。
どうやら、偽名で呼んで欲しい様だ。二人は本名を知り合っている間柄で、特に偽名を名乗る理由も無いというのに、偽名で名乗る様に促す。
----あなたも、あなたの仲間に負けず劣らず大概の変人じゃないですか。
「分かりましたよケビンさん、分かりましたから、急ぐので行かせていただけますか!? エィストの奴に話が! 奴を放っておくと、ボス……いや船に危険が!」
そんな事を考えたかどうかは別として、サイモンは諦めた様子で本名を知る男の事をあえてケビンという偽名で呼ぶ。ケビンの腕の力が、少し緩んだ。
構っている暇は無い。そう考えた彼は動こうとして、また失敗する。腕の力は緩んでいたが、それでも彼の動きを止めるくらいの力はあったのだ。
振り向いて怒気を発したが、ケビンの顔は平気そうで動揺した様子は無い。その反応も予想した通りだった様だ。
「大丈夫だ、釘は刺してある。心配しなくても、危険な事は起こさないさ……手遅れじゃなければな、手遅れなら、仕方ないだろう?」
腕の力が緩んだのは、エィストの名前が出た為の様だ。しかしケビンが思い切り太鼓判を押す姿を見て、サイモンは少し安堵の気持ちを籠めて息を吐く。
少しだけ落ち着く事が出来た。エィストの事は欠片も信じられなくともケビンの事であればある程度は信じられるのだ。
「……ああ、分かりました。分かりましたよ」
軽く息を吐いた彼はケビンが何となく話をしたそうにしている事に気づいて足を止める。何より、足を止めなければ追ってきそうな雰囲気が見て取れたのだ。
だが、ケビンを信じるとしても、手遅れになっていればどうした物か。そんな事を考えながらの行動である。
サイモンが足を止めた事を見たケビンはゆっくりと腕から手を離し、軽い、しかし警戒の混じった笑みを浮かべていた。
「お前、さっきのMr.スマイルの格好はどうした?」
「……ああ、あれならボスに渡しました」
何の気も無い様子で尋ねてきた言葉に対して、サイモンは何故気づいたのかと驚きながらもきちんと真実を告げる。
嘘を言っても仕方がない、というのもあったのだが、何より『元相棒』である彼にアールがMr.スマイルであると誤認させる事は耐えられない事だ。
ケビンもある程度は理解していたらしく、軽く頷いて見せる。だが、次の瞬間には真剣そうな表情に戻った。
「そうか。正直、偽物みたいだったぞ? ……よし本題に入ろう」
言葉を終えたかと思うと、強烈な気配を発してケビンはサイモンの顔を覗き込む。心の底から強い様子で、彼の目は観察する様な物だ。
少しだけ、サイモンは怯みかける。しかし、彼も弱くはない。即座に態度を立て直して視線を合わせ、睨む様にケビンを見た。
それを見たケビンはじっとサイモンを見つめて、嘘を見抜く目を共にして告げた。
「お前、Mr.スマイルの正体を知ってるだろ」




