17話
「……どうするんだ?」
「どうもこうも……なぁ?」
その頃、血と肉片に包まれた一室では背の高い男と背の低い男が困り果てた様子で顔を見合わせて、何度も溜息を吐いていた。
彼らは、騒動が起きてからずっと移動せずにこの場所に居た。外では様々な事が起きていたが、何故か彼らにその被害が及ぶ事は一切無い。
カナエが部屋に現れたからのその部屋は、肉片と血と死体に目を瞑れば平和そのものと呼べる状態になっている。
無事を喜ぶべきなのだろうが、その間に背の高い男が象徴とも言えるスーツをカナエによって半ば強引に奪われてしまった為か、今はどこか元気が無い。
代わりに彼女が着ていた服を着せられている、その為か、背の高い男の顔は複雑な感情に包まれていた。
「っていうかな……これ、無駄に良い香りがするんだよ。香水とか洗剤とかの類じゃない、あの人自身の匂いだぞ」
自分の着ている服を摘み上げ、『心の底から幸せだが気持ち悪い』という感情が同時に伝わってくる表情を男は浮かべている。
隣に居る背の低い男にも、その服がどんな香りを放っているかは感じる事が出来た。
鼻孔に入るだけで魂まで汚染されてしまいそうだ、それが悪臭であれば抵抗する気の一つも沸くのだろうが、こう良い香りであるとそれすら出来ない。
「頭がおかしくなりそうだ。あの人は本当に……」
カナエの言う通りに身の安全が保証されていても、彼らの顔はどう見ても嬉しそうではない。むしろ、不気味に思ってしまう。
自分達が知らない間に関わってはいけない物に関わってしまったのではないか、という恐怖すら浮かぶ。とはいえ、『兵隊』達に殺されかけていた状態よりはまだ良いのだが。
「みんな生きてると良いんだがな」
「カナエみたいなのがもう一人居たら、間違いなく無理だろ」
体が安全な状態にあるからこそ、彼らは仲間達の安否にも気を払う事が出来た。プランクの事は心配していないが、他の者達はあっさりと殺されている。そんな想像が彼らの頭の中には浮かんでいる。
もし、たった今船の裏側に到着した売人達の生き残りが彼らの頭の中を覗き見る事が出来たなら、失礼な、と彼らの頭を何度も叩いていただろう。
むしろ、生きる術が見つからないのはこの二人の方だ。
外の様子の変化、例えば『兵隊』達はもう彼らを殺さない事などには一切気づかず、外に出て脱出の方法を模索する事も出来ない彼らこそ、逃げ場の無い状況に立たされているのだ。
「もしかしたら、俺達しか生きてない……って事は無いよな?」
「い、いや。大丈夫だろ、うん、多分、きっと」
そんな自分達には気づかず、二人は部屋の隅で縮こまって、場を保たせる為の会話を続けている。そうしなければ、二人は血と肉片だらけの部屋で理性を保つ事が出来ない様な気がしているのだ。
部屋の惨状を出来るだけ見ない様にしながらも、二人は漂ってくる悪臭に時折眉を顰めている。同時にカナエの着ていた服の香りが混じり合うのが余計に不快感を煽っている。
二人はどうも自分が危険な目に遭うとは思っていない様だ。
心のどこかでカナエの言った言葉を信じきっているのだろう。それを信じる価値を見いだしてしまう程度には、彼女は『らしい』雰囲気を放っていた。
「助け、来るのかな。俺達はこのまま船が到着しても忘れられてそうだぞ」
「全くだ……いや、あの人が言うなら……」
「お前、本当にあの女に何をされたんだよ……」
心がカナエに信頼を向けてる事など気づいてもいない背の低い男が途方に暮れた声を上げると、背の高い男が彼女の言葉を信じるかの様な事を呟く。
背の低い男が絶対に目を向けなかったカナエの『何か』を思わず見てしまった彼は、その時からカナエが絡む話をする時はどうもおかしな雰囲気を漂わせる様になっていた。
彼が何を見たのかは背の低い男の最も気になる所ではあったが、詳しく聞けば自分も同じ顔をする羽目になると理解して、早々に聞く事を止めている。
だが少なくとも、カナエが真っ当な女ではない事は二人の共通認識になっていた。
「まあ、あいつの事は置いておくとして……本当にこのまで良いのか? 俺達、此処に居ても……」
「……さあ、な。あのよく分からない人が『助けが来る』と言ったんだから、多分そうなんだろうが……いや、待てよ」
心配そうに語る男に対して、背の高い男が安心する様に話そうとして、途中で何かに気づいて止めていた。
男はまるでこの世の絶望か何かに直面してしまった様な顔をしていて、余程の恐ろしい事に気づいてしまったという事が誰の目を通しても明らかだ。
「な、なんだ? どうしたんだよ?」
背の低い男にもその感情の動きは伝わっている。急に態度の変わった男の様子にとてつもない嫌な予感を覚えた彼は心から冷や汗をかいている。
だがそれも、背の高い男からすれば生易しい反応だ。彼がカナエの言葉の中から恐ろしい意味を勝手に受け取った瞬間は、思わず気絶したくなる程のおぞましさが体を駆け巡ったのだから。
隣の男にも、その気持ちを味合わせたい。そんな気持ちが彼の頭の中に現れたかと思うと、言葉が口から勝手に漏れ出ていた。
「…………俺達が生きている間に助けが来る、なんて一言も言わなかったよな?」
「……!? お、おいそれ、それは……! あ、ああ、ああぁあ!!」
背の高い男が言った内容を隣の男が理解するのには、数秒の時間を要した。だがその意味は伝わって来ると、震え上がる程の苦しさが身を焦がすのに時間は要らなかった。
カナエと男の会話を横から聞いていた彼は、確かにその言葉が正しい事を知っている。
『助けが来る』など、信じられない事だと考えていた。例えあったとしても、『手遅れ』という単語が頭に響く状況になっているのではないだろうか。
元々疑っていた彼女の言葉が、此処に来て更に胡散臭く感じられて、背の低い男は思い切り冷や汗を流す。悲鳴混じりの怒声が勝手に口から漏れるのも仕方が無い事だろう。
「畜生! そうだよな、俺達に助けを寄越すって言ってもな! どこに居るんだよそんな奴! プランクさんは俺達を助ける程優しい人じゃねえんだよ!」
全身から溢れる不安と恐怖を隠そうと、背の低い男は思い切り叫ぶ。防音効果のある部屋だから良いが、そうでなければ即座に居場所を知られてしまっただろう。
予想通りの反応に、背の高い男は俯いた。今、着ている服は彼女の物だ。彼の好みのスーツは交換させられてしまっていた。
拘りがある訳でもないので彼女が本当にもっと良いスーツを寄越すのであれば何の不満も無いが、もしも彼女の言葉が予想通りの意味であれば、助けは来ないのだ。
そういう意味でも、彼は大きな溜息を吐いている。気づいても動こうとしないのは、半ば人生を諦めているからだった。
「こ、こうしちゃいられない。逃げるぞ、とりあえず、外の様子見てくるから、ああ、逃げるぞ」
だが、隣に要る背の低い男はまだ諦めた様子は無く、命の危機に対して必死に対策を練ろうとしている様だ。
男は扉に近づいていった。窓や、銃弾が貫いた床など他にも外を見る方法はあるのだが、混乱している男にはそれを考慮する暇は無いのだろう。
勢い良く、扉が開かれる。そしてそこには----彼らが知らない、だが話の中だけでは知っている存在が立っていた。
「……あ?」
「……何?」
その人物を見た二人の口から、唖然とした響きの声が漏れ出る。
仕方が無い、彼らはよりにもよってこの存在が近くに、それもこの部屋を目指している事など、知りもしなかったのだから。
「…………おや?」
相手も、二人の姿を見て声を上げていた。それは純粋に驚きを示していて、噂で聞いた様な残虐な雰囲気は----手で掴んで引きずっている死体を除けば、見当たらない。
それも僅かな間だけの事だ、数秒もすれば、仮面を付けた何者かは殺気と狂喜の混じり合った恐ろしい雰囲気を纏って、人を怯えさせる凶悪かつ邪悪な声音で二人に話しかけていた。
「ふ、ふふ……何という幸運だ。ああ、助かったよ。苦痛と苦悶を味合わせても意味の無いゴミと、戦い難い者達とばかり接触して来たのでね、ああ、嬉しいのだ」
隠しきれない喜びを垂れ流し、仮面の存在、Mr.スマイルは二人に告げた。まるで、死刑宣告だ。ただの売人である二人には縁の無い物だとばかり思っていた重すぎる罰に、心が悲鳴を上げる。
それが嬉しかったのか、Mr.スマイルは引きずっていた人間らしき物をゴミの様に背後へ放り捨てる。生きている者を見つけたからには、もう必要無いのだ。
『兵隊』を投げ捨てたMr.スマイルは飢えた獣の様に彼らの恐怖を味わい、恐らくは恍惚とした表情で二人に更なる宣告を告げた。
「こんにちは、明確な意識と感情と痛覚のあるお二人、そして、これからが君達にとっての……本当の苦しみだ」
狂喜の殺意を向けるMr.スマイルに対して、二人には逃げ場など無い。そもそも、逃げられる気がしない。
絶体絶命の二人に、Mr.スマイルの手が迫って来た。
+
「お久しぶりです……今は、何と?」
一隻の船の上で、一人の男が向かい側にある船の上に立つ人物に対して敬意の籠もった声を向けていた。
まるで自らの主に接する様な態度だ。だがそれを改めさせようとする者は一人も居ない。逆に、声をかけられている方の男がそんな態度を向けられるべき存在なのだと完全に理解した者達が緊張を強める程だ。
「アール・スペンサーだ。今の所は表向き新聞記者をやってる」
そんな男ことアールは、自らが船に殆ど接触していると言って良い距離で身を隠す様にそこに居る船に対し、隠しきれない懐かしさを感じさせる表情で声をかけている。
今まで先導して来た船員や売人達は皆が皆その船に視線を向けている。向こう側の船には何人かの男が立っていて、全員が全員、それなりの実力を持っている様に思えた。
しかし、船の規模とその場に居る人間の数が合わない。明らかに少ないのだ、それに気づいた船長が首を傾げているが、疑問に答える者は居ない。
向かい側の船の男は彼らの視線や疑問を無視して、アールに対して誰かの口調を真似する様な声を上げた。
「『アール・スペンサー。その名前に俺達は聞き覚えがある。Mr.スマイルの事を記事にした奴で、どこの記者が嗅ぎ付けるよりも早く事態の大まかな部分を知っていたらしいな。だが、彼の正体がホルムスのボスであれば、納得できるよ』……ちょっと違うが、あいつならこう言うだろうな」
「ああ、彼のあの話し方は治る兆しも無しか、あいつも苦労するだろうなぁ。ん? まだ彼は来ていないのか?」
「いや、まあ……」
アールと相手の男は共通して知っている者の事を頭に浮かべて、微妙な顔をする。
アールに関して言えば、その男の妙な口調に『元相棒』が頭を抱えていた事をよく覚えていて、相手の男は同僚である者の居場所に対して口を濁す様に話していた。
それの反応に少しだけ怪訝そうな顔をするアールだったが、すぐにエィストが何かを企んでいた事を思い出して追求する事を諦める。
「あの……」
その中で、船員の一人が遠慮がちにアールへ声をかける。向かい側の船こそが彼らを救援に来た者達だと言う事は分かっている様だが、どうやら何か疑問がある様だ。
安全性を気にしているのだと判断したアールは努めて優しい笑みを浮かべ、安心させようとする。
「ああ、彼らが救出に来てくれた連中だ。良い奴らだから信用しても大丈夫だぞ、他ならぬ俺が保証する」
「いや、そうではなく」
『元相棒』の部下達への信頼を言葉に乗せて、深い自信と共に告げられた言葉を聞くと、船員の一人は首を軽く振って見せる。
どうやら、聞きたい事はその点では無かった様だ。読みを外した事にアールが少し落ち込んだが、そうとは気づかない船員は聞きたかった事を口に出す。
「えっと……あなたの部下では無いのですか?」
船員がそれを言うと、周囲に居る他の者達も興味深そうにアールを見つめた。
エィスト、いや彼らにとってのカナエが『元相棒』の部下である事や、助けに来る者達の出自を彼らは聞いていない。複雑な話をして、それを納得させる時間が惜しかったエィストとアールはその点をあえて端折る事に決めたのだ。
ただ、この状況で疑問に思われるのであれば話しておけば良かったのかもしれない。アールはそんな事を考えながらも、再び自信の有る口調で胸を張った。
「その通りだ。まあ、今も言ったが良い奴らだ。安心しろよ」
心からの信頼が感じられる言葉に、向かい側の船の男が照れる様な顔をする。これが演技であれば、迫真の物と言って良いだろう。
二人の顔を見た大半の船員達は彼らを信じる事を決めたのか、軽く頷いて肩の力を抜いている。実の所、此処まで付いてきている時点で信じる以外には無いのだが。
「信じて貰えたならそれで良い! とりあえず、ロープを降ろして置いたからそこからこっちに来てくれ!」
船の向こうに居る男が彼らの納得を感じ取ったのか、船体に指さしてそちらへ目を向ける様に指示を出す。
彼らがその方向を見ると、そこには相手側の船とこちらを繋ぐ太いロープがかけられていた。人が乗ったくらいでは切れる気配が無く、見るからに頑丈そうだ。
船員達の側にあるロープは堅く結びつけられていて、二つの船を繋げている。それが有るという事は、つまり向かい側の船から誰かが船に乗り移り、ロープを結んだという事なのだが、船長とアール以外は気づかなかった様だ。
Mr.スマイルに『兵隊』に、そしてプランクと、不安要素が山ほどある船から逃げられる。それは船員や売人達にとって歓迎すべき事だ。
だからこそ、彼らはロープに掴まってすぐ隣の船に乗り移り始めている。やはりまだ疑う気持ちもある様だが、何より相手方の船には数人の人間しか居ないのだ。何かがあっても数で抵抗出来ると考えるのも無理はない。
実際には、簡単に返り討ちにあってしまうのだが。
「……そういえば、この船だけなのか?」
次々と船に乗り移っていく船員達を眺めながら、アールは声をかけた。視界に広がる海には、今の所二つしか船が存在しない。一つは自分の足場であり、もう一つは視界のすぐ先にある。
一隻だけでも十分と言えば十分なのだが、この場の全員に加えて他の者達まで乗るとなると少し手狭だろう。
アール自身は気にしないが、あのエィストがそれを考えていないとは思えないのだ。必ず、船の数もある程度余裕を保たせているだろう。
そんな予想は当たっていたらしく、向かい側の船の男はどこか困った様子で肩を竦め、無理難題を押しつけられたと言いたげに返事をして見せる。
「いえ、この船はあくまで急げってエィストが言うので急遽引っ張ってきた高速船です。他のはもう少し時間が必要ですね……こいつのお陰でウチの財政は最悪な状態ですよ」
「はは、お前等また金が無いのか? 全く、いつでも借りに来て良いって言ってあるんだけどなぁ……」
「まあ、最低限のプライドって奴もありますし、そっちとこっちは今の所は敵対している訳ですから」
どこか愚痴混じりの言葉に、アールは呆れ混じりに答える。一応は敵対しているとは思えない程に朗らかな様子であり、互いに相手の事を信じているのだとよく分かる。
そんな様子を窺いながらも、船員達はしっかりと脱出していく。最後は船長が降りる様で、彼は次々と降りていく者の最後尾に居る。
「ところで……」
男は何やら疑問がある様で、どんどんと船に乗ってくる者達を眺めながらアールに声をかけて来る。
「ん? 何だ、何か用事か?」
何故か船員達から背を向けて船内に戻ろうとしていたアーツは声を聞いて足を止め、振り返ってまた向かい側の船に近づいていく。
どうも、この場での自分の役目は終わったと言いたげだ。男はならばと心の中で思った事を聞いてみる事にした。
「あなたは、乗らないので?」
「いやな、サイモンと合流するって話を見事に放置していてな。はは、こりゃ怒られるぞ。あいつ、怒る時は俺だろうが関係無いしな」
男の質問に対して、帰ってきた返事はどうも困った雰囲気を放つ物だ。しかし、『怒られる』事自体を嫌がっている様子は無く、むしろ自分を恥じている様にも見える。
その理由が少し気にはなったが、男はあえて聞かない事を決めた。
止める理由も無く、その心情に深く入り込むつもりも無いのだ。それは、彼らのボスの仕事なのだから。
「じゃあ、俺は行くが……彼らの事は頼んだぞ。こっちはこっちで色々解決しなければならないからな」
会話が終わった事を認識したアールはそれだけ言うと身を翻し、船内へ戻っていった。男が予想していた様な憎悪だらけの危うい雰囲気も無く、安定した足取りだ。
その事に少しだけ、男は安堵する。もしも強烈な殺気の類を纏っていれば、彼らのボスはアールを殴ってでも止めなければならなくなったかもしれないのだから。
視界から消えたアールの事を考えつつも少し視線をずらすと、殆どの船員達が船から乗り移ってきている。実は、そこに先ほどまでは彼の仲間が座っていたのだ。
船に乗り込んでいった仲間の事を考えて、男はほんの少しだけ、彼らの身を案じている様な顔をした。
「……あいつら、大丈夫かな」




