15話
Mr.スマイルが醜悪かつおぞましい声を発していた頃、そこでは美麗かつ美しい、ただし無意味に明る過ぎる声が響いていた。
「やあ! みんなそこに居る? 居るんだよね? じゃあさじゃあさ! ちょっと来て欲しいの」
そこに居るのは、一人の女。彼女は広い船室にたった一人で立っていて、その存在を誇示している。
最早隠す必要も無いだろう。カナエこと、エィストだ。船に唯一備え付けられた衛星電話に耳を付けて、底抜けに明るく楽しそうな声で喋っている。
聞く人を明るい気分にする調子の一方で、言葉の奥にある物はどうしようも無い恐ろしさと異様さである。それが同時に遣って来るのだ。
何となく、他者を奇妙な気分にさせている。しかし、電話の相手に限っては平気で彼女と会話をしている様だ。早く電話を切ろうとしている様にも聞こえるが。
『……脳髄に甘く熱く恐ろしく響く、この声は間違い無くエィストの物だ。奴め、一体何を考えている。脳裏に警戒すべき何かを感じた私は、相手が本題に入る前に受話器を置き-----』
「待って待って! いや、船。今、私が、おっと違う。今、ボスが乗ってる船、色々ピンチでさ」
『……この女が言っている事は恐らく事実なのだろう。だが、信じたくはない。とても面倒な事が起きる事が分かっている。周りに居る仲間達も電話の相手がエィストだと知って早く切れと催促をしてくるのだ』
「船の場所は大体……くらいの所かな。死体が一杯夢一杯、命が安くてたまんないんだよ。助けて欲しいな」
奇妙な口調の男が電話に出て、即座に受話器を置こうとしてエィストに止められる。すかさずエィストは話を続かせ、話が終わらない様にした。
備え付けられた計器を見る事も無く、エィストは船の大まかな座標を告げていた。声の中には確信が含まれていて、その言葉が正しい事を見せつけている。
言葉の中に物騒な内容が含まれている事を知った電話の相手は、どこか疑問を持った様子になっていた。
『あのお、んな……? が助けを求めて来る。考えは読めない。しかし我らのボスの命の危機となれば、我々は死んでも駆けつける。そういう物なのだ。しかしどうにも、私はこの女? を助ける必要性が感じられないで居た』
「私を助けに来るんじゃなくてね、そうする事が多くの人の命を救うんだ。私だけじゃないぞ、リドリーやエドワースの命だって」
そんな相手の疑問に答えながら、カナエは笑っている。相手との会話が純粋に楽しい、そう考えている事が表情だけで分かるのだ。
『受話器に耳を付けたまま、私は自然と首を傾げる。声の女が言っている事が理解できなかった。先程も言ったが、ボスが危険ならば助ける事は当然だ。リドリーも仲間である、だが、どうにもこの二人が同時に危機に立たされる状況が想像出来なかった』
「分かるよ、うん。心配される程ボスは弱くないからね。リドリー君も多分大丈夫だけどね、馬鹿だから……」
『……この何者かに馬鹿にされるリドリー、確かに彼は恐ろしい程妙な人物だ。だが、この声の主に比べればまだマシな馬鹿さ加減だろう。そう考えて、私はこっそりと会話に耳を傾ける仲間達の同意と共にそれを声にする』
「む、酷いなぁ。私は馬鹿じゃない、愚かなだけだよ、って、皆聞いてるんだ」
クスクスと笑う彼女の声からは、相手に対する親愛の気持ちと、愉快な存在に接する楽しげな感情が滲み出ている。
その姿はどこか親しい友達と話す少女の様で、同時に契約を持ちかける悪魔か何かの様にも見えた。電話の相手は彼女のそんな一面を理解しているのか、警戒と親愛を同時に含ませている様だ。
「あは、君も凄い口調だね。ふふふ、君みたいな子は大好きだよ? リドリー君には負けるけどね、でも大好き。君達は……だぁい好き」
安っぽい言葉使いで告げられた『大好き』も、彼女が言えば素敵な愛おしさと嘘くささが同居する奇妙な言葉に変わっていた。
そんな声に電話の相手は悪戯心を刺激されたのか、電話越しでも伝わる真剣な様子になると、心の底からの本音と思われる言葉を発する。
『私も、あなたの事が大好きだ。愛している』
「ふぇ!? う、その……えっと……」
『う、ぐ……この言葉を口にした瞬間から、私は自分の舌が、肺がおぞましい事を言ってしまったと痙攣している事を自覚する。単なる冗談の類でも、彼女にその様な言葉を告げる事は命取りになってしまう様だ』
「な、なんだ。冗談か。良し、それなら良いんだ。本気だったらビックリだよ、まあ即却下だけどね」
『外見ならば本当に物語の中の姫君か女騎士か絶世の美しさを持つ邪神と呼べるのだが、女の性格を知り、言動を知ると、そうも行かない物だ。私はそう考えながらも、即座に却下された事に隠しきれない安堵を覚えた』
奇妙な口調を聞きながら、エィストは安堵の息を吐いて電話の相手と話している。少し顔が赤いが、これは恥と言うよりは興奮の方が近いのだろう。
これから先に起きる出来事を全力で楽しもうとする意志を見え隠れさせた声だ。高揚感に至っては、隠す気も無いらしい。
『……』
だが、その奥にはきちんと真剣な意志も存在する事が分かって、電話の相手は数秒間、考える。
その周囲で電話を盗み聞きしていた者達も一斉に話し合いを始めたのか、カナエの耳に届く声が複数になった。
「迷うのは良いんだけど、割と緊急なんだよね。私だって正直……ねぇ?」
急かす様に、カナエが言う。やはり楽しそうで、彼らが電話の向こうで何時間議論して、何時間悩んだとしても同じ様に楽しそうにするのだろう。
だが、その中にあるほんの少し、ほんの少しだけの『焦り』を見て取った電話の相手は、僅か数秒で決断した。
『周りの皆が頷いている。今までは女への呆れに包まれていたと言うのに一瞬で心を決めて見せた様だ。素晴らしい仲間だ、何と頼りになる……ちょろい仲間達なのだろう、私は騙されやすそうな彼らの将来を案じいぅおっ!?』
『悪い、だが……今回は信じてやる』
奇妙な口調の男の声が軽い打撃の音と共に止まると、別な男の声が電話から響いて来た。
鋭い声だ、エィストの事を信じていると言うよりは、幾ら警戒してもボスや仲間の危機となれば、と考えているのだろう。
資金を心配して船には乗らずとも、彼らの心は共にある。それを知っているカナエは軽く微笑んで、電話越しに暖かい感謝の気持ちを込めて頷いた。
自分が信じられていない事など、百も承知だ。『そんな彼らだから彼女はこの組織に所属しているのだから』。
「……うん、分かった。ありがと。じゃ、すぐに来てね、出来るだけね。ああ、そうだよ……この船は多分この世から消えるから、急いで来てくれ」
彼女にしては珍しい素直な感謝の気持ちは向こうにも伝わったのか、少しだけ黙り込むと次の瞬間には了承する意図の籠もった声が帰って来る。
「あ、忘れてた。船に来たらさ、ちょっとやって欲しい事があるんだ。うん、君等は内部で、他の連中は外でね…………大丈夫大丈夫、君らなら平気」
言いながら、彼女は手早く手順を説明した。
至極簡単そうに凄まじく難しい注文をして見せる場面もあったが、電話の向こうでは何の問題も無いとばかりに説明を聞いている様だ。
「……後、他の人に替わってもらえる? そう、あの人」
説明を終えたカナエは、次にそんな事を言って別の者を呼んだ。その人物が電話に出ると、カナエはまた楽しそうに、しかし少しだけ申し訳なさそうに頼み事を告げる。
『……何だ?』
「うん、真剣に頼みがあるんだ。君、確か結構モーターボートとか得意だったよね? それでね----」
何やら頼み事を言って、カナエはまた微笑む。周辺には誰も居ない、それを分かっているからこそ彼女は隠す事も無く話している。
相手は、どうやら了承した様だ。カナエは明るく礼を告げて、電話の向こうに居る相手へ頭を下げた。
相手は余程の無理難題を押しつけられたのか、不満そうな色が電話越しに漂っている、のだが、エィストはそこには言及しなかった。
「ありがとう、みんな。楽しくなるよ、きっとね」
『楽しくなる、その言葉の裏にどれほどの悲しみと犠牲があったのだろう。彼女の言う通りに緊急で準備をしつつも、我々はそんな考えを振り払えない。それでも、急いでいる為にここで話している訳にも行かないのだ。さっさと、電話を切りたい』
「ん、分かった。じゃあね」
『エィストが電話を切ろうとしている様だ、それに気づいた私は、何故か彼女よりも早く受話器を置いた』
電話の向こうに再び現れた奇妙な口調の男の意図を的確に見て取ったエィストは、彼らの邪魔をしない様に静かに受話器から耳を離す。
その為に彼女は気づかなかった。彼女の受話器が置かれるよりも早く、電話の向こうの相手が凄まじい勢いで電話を切った事に。
「ふぅ……くふふ、来てくれるんだね、楽しみだね、嬉しいね、喜ばしいね」
受話器を置いたカナエは堪えきれなくなったのか、腹部を抱えて笑い声を上げた。余り大きい声ではないのは、彼女なりに配慮しているのだろう。
誰に配慮しているのかは分からないが、とにかくそういう物の様だ。少なくとも、彼女の背後に居るアールはそんな風に受け止める事を決めた。
「何を笑っているんだ?」
「うまい事行ったなぁって思ったんでっすよう」
いつの間にか背後に居た彼の存在に、カナエは一切驚く様子を見せなかった。最初から気づいていた様だ、彼女の優れた感覚であれば、常人には見えない動きも見えるのだろう。
全くブレない女の姿を見て、アールは少し呆れた顔をする。彼女が繰り広げていた電話の会話を、アールは聞いていない。何を考えているのかも、読めないのだ。
奇妙な程上機嫌で、鼻歌さえ交えるエィスト。その姿は彼女が言った計画が上手く行った事を表していて、それはアールにとっても喜ぶべき事だ。
「上手く行ったなら文句は無い。話の内容まで聞く気は無いさ」
「助かるよアールさん。いや、……さんかな? まあ、どちらでも良いか。それより彼らは?」
アールと呼ぶ代わりに届いた名前を聞いて、男の顔が複雑な何かを帯びる。強烈な雰囲気を放出しながらも怒っている訳では無く、郷愁めいた気持ちが見え隠れしていた。
数秒間、アールは黙り込んでエィストの顔を見る。呼ばれた名前は、彼が本来名乗るべき物なのだ。
少しくすぐったく、同時にエィストにその名を呼ばれるのは、何故だか不思議と忌避したい気持ちが沸いて出てしまう。
「その名前で呼ぶな……彼らなら、外で不安そうな顔をしているよ。いや、疑っているからなのかな、あれは……どうして、あいつらを追い出したんだ?」
そんな気持ちを言葉に乗せつつ、エィストの疑問に答える。先程までこの部屋に居た船員や売人達の生き残りは、今は全員がすぐ外で待機している。
アールとエィストによる、威圧感による脅しも含めた説得。それに抵抗出来る人間は居ない。というより、彼らもその場から逃れる手段を欲していたのだ。
藁をも掴む気分。それを彼らは利用し、見事に説得を成功させる事が出来た。
そして、彼らが納得した事を確認したエィストは、「電話をかけたいから」と言って何故か彼らをこの部屋の外へ追い出したのだ。
言葉を聞き入れ、護衛として彼らと共に大人しくすぐ外で待機していたアールも彼女の謎の行動に疑問を抱く事は止められなかった。
だからこそ彼は部屋の中へ戻り、丁度、電話を終えたエィストの背中に立ったのである。
そんな彼の疑問に対して、彼女は思ったよりずっと素直に答えていた。
「んー、それは、その……実はね、ジェーンちゃんの事なんだ」
「……どういう事だ?」
彼女の口から出てきた意外な名前を聞いて、アールは思わず目を丸くした。だが、次の瞬間には真剣そのものと言った顔付きになってエィストの言葉に耳を傾ける。
急にそんな顔をしたアールにやはり驚きを覚えたらしく、カナエもまた同じ様に目を丸くする。こちらは真剣になる様子は無く、少し戸惑いがちに言葉を続けた。
「あ、えっと、さっきね。ジェーンちゃんを見かけたんだ、ちなみに私の仲間と一緒だった。で、君が此処に居るって言う事は……そういう事なんだろう?」
ジェーンの姿を確認した瞬間から、彼女はもう予測を立てていた。
あの少女が麻薬に関わっていて、なおかつ、少女が抱く組織、厳密には父親への狂っていると言って良い程の愛情を知る者であれば、『兵隊』達が彼女の差し金だと言う事はすぐに理解出来るのだ。
そしてカナエはアールを見て、その目の奥にある意識を覗き込んで来る。言葉に出来ない不快感に包まれた彼はとっさに目を逸らし、話の続きを促す。
半ば、答えは予想出来ていた。
「……で、ジェーンとお前の企みに何の関係があるんだ?」
「元々知ってたけど……いや、回りくどい話は止そう。あの子は、プランクさんやあなたの組織に殺させるにはちょっともったいないからね」
「今のあの子、放っておいたら殺されるんだろう?」そう続けて、エィストは何がおかしいのかクスクスと笑う。
父親の前で娘が命を狙われている事をそんな風に話す姿は、アールで無ければ本気で激怒していたに違いない。
アールにとってのジェーンは良い娘ではあるが、それでも扱いは『組織の仲間達』と殆ど同等である。血縁に依る感情よりもある意味で固い絆によって結ばれているのだ、彼らは。
だからこそ、アールの口から出ている言葉は簡素だった。
「それだけか」
「それだけさ、逆に言えば、そう扱えるくらいには面白い子だよ。あなたも、あんな子を死なせたくは無いよね?」
言うまでも無く、間違いでも無い事だが、二人の『死なせたくない』には大きな差があるのだろう。目の色や雰囲気がはっきりと浮かび上がっている。
片方は広い意味での家族としての情を持っていて、もう片方は、ジェーンに対して享楽的な何かをくすぐられたに違いない。
「……確かにな。で、具体的にはどうする。言っておくが、あいつ」
そんな決定的に相容れない相手と、議論を交わすには時間が無く、そもそも、そんな事をする気も無い。アールは手早く本題に戻る事にする。
対するカナエも真面目にジェーンの事について話すつもりは無かったのか、それとも先程の会話だけで満足したのか、カナエは緩やかな笑みを浮かべた。
「ん?」
そんな穏やかなのか緊迫しているのかよく分からない空気の中に、一つの音が響いてくる。どうやら、通信機の様だ。
船に備え付けられた物の一つらしく、確かな自己主張のある音が鳴っていた。誰かがこの場所に連絡を入れようとしている様だ。
アールは思わず通信機に近づいて手を伸ばし、相手が何者なのかを確かめようとする。だが、その前に伸ばした手はエィストによって掴まれていた。
「取らない方が良いと思うよ? 誰かも分からないし、何より罠かもしれない」
少し真剣そうな様子で手を掴み、エィストはそう言って来る。
どこか胡散臭い言葉だが、アールは信じるしか無いだろう。下手に反論して動かせば、手痛い反撃を受けるのだ。時間の無駄である。
そうしている内に、通信機の音は鳴り止んだ。
「……で、本題は?」
音が止まったと同時に自分を掴む腕を振り払い、アールが尋ねる。通信機の事は、忘れる事を決めたらしい。
「そうだね……うーん……ジェーンちゃんを助ける案はあるよ。えっとね……」
音が止まったと同時に相手を掴む腕から力を抜き、カナエは返事をする。通信機の事など、最初から無かった事にしている様だ。
彼女は緩やかで、とても人の命が掛かっているとは思えない程に危機感の無い雰囲気で、カナエは話し続けている。悪巧みをする様な声を混じり込ませるのは、恐らくわざとだ。
「……凄まじく、派手だな。そこまでやるか」
そんな彼女ではあったが、案自体は呆れたアールの反応通り、『まともではなかった』。少なくとも、船を凄まじい危険に晒す方法だ。
「第一、それをやるには爆発物が足りないぞ?」
話の中から致命的な欠陥を一つ見つけだしたアールが、その点はどうするのかと呆れながらもカナエに問う。
「え、あー……うん、その……」
どうやら考えていなかったらしく彼女は一瞬だけ目を泳がせると、元々そういう動作をする事を予定したかの様な不自然な動きで軽い溜息を吐いて見せた。
「えー……と、まあ、そこなんだよ……船を一発で沈めるくらいのインパクトがあれば何とか出来そうなのに」
肩を竦めて、お手上げだと言わんばかりの顔をする。何でも出来る様に見えて、カナエに出来る事は超人的な身体能力を振るう事をだけなのかもしれない。
----本当に、船を爆破するアテが無いのか?
そう、カナエに出来る事『は』。
「……そろそろ、そちらへ戻ってもよろしいかな?」
考えても仕方がない事を考えてしまったアールの耳に、扉の向こうから声が聞こえて来た。聞き覚えのある物だ。
それがつい先程までエィストと二人掛かりで説得した相手だと思い至るまでに僅かな時間を要してしまったアールだったが、所詮、僅かという程度である。
気配を探って見ると、僅かに開かれた扉から覗く幾つかの、目は油断無く二人を見ていた。
しかし、どうやら船長と呼ばれる男が声を上げてから監視を始めたらしく、ジェーン絡みの話を聞いた様子は無い。聞いていればもっと激しい反応をする筈だ。
その事実に安堵しながらもアールはすぐに調子を元に戻して、一つの組織の頂に立てる程の圧倒的な威圧感を体に纏い直す。
しかし、その頃にはカナエが声へ返答を送っていた。
「ああ、ごめんなさい船長! 今からですね、船の丁度裏側にちょっとした船を飛ばす様に指示したのでね、移動をお願いします!」
カナエは目一杯の明るい声で自分が無害な存在であると主張している様だが、どう考えても逆効果だ。
扉の向こうで恐らくこちらを見ているのであろう売人達の生き残りの視線が、不気味で恐ろしい何かを見る様な雰囲気を帯びている。
もしかすると、本当はそれが狙いなのかもしれない。アールはふとそんな事を考えたが、カナエの顔を見ているとそうではない気がして来る。
どこかズレた感覚の持ち主であるカナエに対して複雑な気持ちを抱いたアールは、少し面倒な気持ちになると同時に、そんな者達を纏め上げている『元相棒』を心から尊敬した。
「とりあえず行くぞ。場所は船の裏側だな? そっちにアイツ等を先導すれば良い訳だ、お前も来るよな?」
「それはもちろ……! ……あ、いや、その……あー」
「何だ、急に。行くぞ」
「あ、はい。えっと……行きたいのは山々なんですけどね」
急に、カナエの声が困った様な色を含み出した。一体何を見たのかと周囲を探って見ると、監視カメラのモニターが目に付く。
しかし、一瞥しただけでは全てに目が通せる筈も無く、そんな事をしている時間も無い。サイモンを甲板に待たせてしまっている事を、アールは今更に思い出している。
だからなのか、急ぐ必要がある事に気づいた彼は、思わず子供を連れていく様にカナエの手を取ってしまった。
「わっ! あ、あう、うあうああう……」
驚きで声を上げたかと思うと、たちまちカナエの顔が真っ赤になって唸り声の様な物が口から漏れる。
これも恐らくは演技の内なのだろうが、しかしその反応を見たアールは慌てて手を離そうとして、カナエがその手に抱きついている事に気づいた。
「先に手を掴んだのは俺だが……離してくれ、別の所に行きたいなら、俺が連中を送っていく。だから離せ」
「あ、そう? じゃあ遠慮無く」
顔を赤くしていた事など無かったかの様に笑みを浮かべるカナエが、そこに居る。
それを認識させたかと思うと、からかう様な顔をしたカナエはアールの言葉通りに手を離し、それと同時に体を前へ進ませて半ば突進する勢いでアールに飛び込んで来る。
叩き落とそうとしたが、余りにも早すぎてそれすら間に合わなかった。
「じゃあ……しばしのお別れさ! お別れのキスでも……!」
そう言ったかと思うと唇をアールへ近づけ、言葉とは反して一ミリ直前で逸らす。傍目には、軽く口付けを交わした様に見えるだろう。
実際にはそうではなく、逸れた口はアールの耳元に運ばれていたのだが。
行動こそ遊びに思えるが、決してふざけている訳ではない。そう感じたアールはカナエを突き飛ばす事を全力で堪え、彼女の声に耳を傾ける。
予想通り、カナエは他の者達には微かにも聞こえない程度の声で囁いて来た。
「ね、あの子の事だけどさ。もし、計画が失敗しそうになったらどうする?」
「その時は俺が殺す」
即答だ。本人が思っている以上に冷たい声がアールの口からは発せられていた。
そこには、明確な本気が見て取れる。それを感じ取ったのか、カナエ、いやエィストはより楽しくなりそうな状況に、思わず恍惚とした笑みを浮かべている。
「そっか! じゃ、私も色々用事があってね、消えるとするよ!」
しかし、そんな笑みは再びアールの視界に彼女の顔が入り込んだ時にはもう存在せず、ただの明るい笑顔がそこに残っている。
底抜けに明るい笑みはまるで一度も変化しなかったかの様に固まっていて、それ以外の表情を想像するのが難しかった。
「色々、あるけど! 出来るだけ楽しく終わると良いね!」
不自然な程に明るすぎる笑みを浮かべた彼女は、そのままの顔付きで扉に飛び込む勢いで走っていく。素早すぎるその動きは、誰にも邪魔される事は無い。
開いた扉の先に居た売人達が彼女を避けたかと思うと、もうそこに彼女は居なかった。
「あー……まあ、何だ。嵐か何かだと思って、諦めろ。世の中にはそういう物もある。何せ、俺にもあるんだからな、その方が気が楽になるぞ」
まるで、巨大で素早い竜巻が通り過ぎた後の様だ。ぼんやりとそんな事を考えたアールは、一度大きく首を振ってエィストの存在を一旦忘れる事を決める。
彼女に構っていては、いつまでもサイモンの居るであろう甲板に戻れないのだ。
Mr.スマイルの登場で一時的に消し飛んでいた感情が戻ってくる事を感じながら、まだカナエがその場から消え去った時の衝撃が拭えない船員や売人達へ声をかける。
「あ、えっと……はい。あんなのは天災か何かだと思って、忘れます。はは」
船員の一人が、アールの言葉に対してそう答える。アールは自覚していなかったが、彼の言葉はこの様な状況に慣れない物こそ冷静にさせている。
中途半端に慣れていると、今の状況に余計に対応出来なくなってしまうのだ。それが、売人達の状態なのだろう。カナエに『兵隊』達に、様々な驚異が続き過ぎて彼らは疲れきっている。
「とりあえず、君らは水でも飲んでおくと良い。何にせよ、落ち着かなければな」
それを正確に見て取ったアールは側に置いてあった給水機に水を入れて、売人達に差し出す。
何の躊躇いも無く受け取った彼らはそれを飲み干して、少しだけ落ち着いたのか軽く息を吐いた。
アールの行いによって全員が何とか落ち着きを取り戻していた。だが、船員にも売人にも共通して『不安』が存在している事は変わりない。
「……行くか……ああ、君ら。船の裏の方だ、警戒しながら行くぞ『兵隊』に見つかったら面倒だ……」
それも分かっているのだろう。アールは彼らを言葉によって動かしつつも、全員を勇気付ける為に自分が持てる限りの一組織の主としての圧倒的な雰囲気を発し、なおかつ彼らを先導する為に誰よりも前に立った。
「ははっ、例え見つかっても大丈夫だぞ。戦う気構えすら必要無い。何せ、俺が付いてる」
プランクとはまた違う類の『ボス』に対して、船員や売人は戸惑いと、どこか尊敬に近い感情を抱いて付いていく。
その感情の矛先である、アールは知らない。
カナエは、ジェーンを助けると言ったその口で----側にリドリーが居ると分かっていたにせよ----Mr.スマイルにジェーンの居場所と思わしき場所を告げていた事を。
先程の通信機の相手が、自分やサイモンが交渉して事態を終わらせたいと思っていた相手、プランクだと言う事も。
----何より、監視カメラのモニターの一つにサイモンが写っていたという事実を、知らなかった。




