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キラーハート The Killer In Smiling MAN S  作者: 曇天紫苑
The Killer In Smiling MAN S 大笑編
37/77

13話

 Mr.スマイルと離れてから数分後、カナエとアールの二人はまだ静かに歩いていた。と言っても、カナエが静かかと言われれば否だ。鼻歌混じりにアールと無理矢理腕を組む彼女は、何やら上機嫌である。

 二人の外見的な年齢の差から考えると、腕を組むその姿を端から見れば親子か何かに見えるだろう。恋人同士、と言うには少し離れている。

 カナエに関して言うならば、自分達が傍目からそう見える事を自覚しているらしく、努めてそう見える様な挙動で振る舞っていた。

 だから、その場の静けさを作り上げているのは彼女ではない、アールだ。彼は、お世辞にも機嫌が良いとは言えない顔で歩いていて、時折カナエへ鬱陶しそうな視線を向けている。

 しかし、そんな事を続けている訳にもいかない。アールはエィストから告げられた言葉を忘れていないのだ。

 彼自身の感情を整理する意味もあってMr.スマイルから距離を取る事は重要だったが、もうその存在は視界の中にも、感覚の中にも入ってこない距離まで遠ざかっている。

 もう、落ち着いてエィストの言う『提案』を聞く事が出来るのだ。


「……それで? 提案ってのは何だ?」


 カナエが一向に話を切り出さず、偶に聞いて欲しそうな顔をしている事に気づいたアールは、不本意ながらも彼女の意向に従って尋ねていた。

 聞かれたカナエの表情は瞬く間に満開の花の様な明るい笑顔になり、よく聞いてくれたと組んでいる腕から体を更に接近させて来る。

 同じくらいの背を持つ二人の肩がぶつかり、それに次いで彼女はアールの顔を覗き込んだ。唇が触れ合ってしまいそうな距離にあって、しかし、実際にそうなる事は無い。


「顔が近い、良いから本題に入ってくれ」


 あらゆる喜びを濃縮した様な香りが入り込んで来るが、アールはそれを邪魔な物として跳ね退ける。急接近したカナエの顔を指一本で押し出して、眉を顰めていた。


「むぅ、ちょおっと大胆なスキンシップくらいのつもりなのに……」

「俺がやる事はMr.スマイルとやり合う事じゃないって言ったのは、お前だぞ」


 思ったよりも冷徹な声が出た。どうやらアール自身も意識しない内に苛立ちが籠もっていたらしく、自分の口から出た声に彼自身が一番驚いている。

 無論、カナエにもその苛立ちは感知出来ている。彼女にぶつけられた感情なのだから、当然と言えば当然だ。しかし、彼女の表情に変化は無い。距離を遠ざけられた事を不満に思いながらも、それすら楽しんでいる様に見える笑みだ。

 それはどこか違和感のある笑みでありながらも、見る人を魅了する。あらゆる物事を無条件で楽しもうとする姿勢は少しだけ羨ましい。そんな気持ちがある事も、アールの心の事実だ。

 エィストと会ったのはこれで二度か三度と言った所だが、彼女は何時、如何なる状況でも笑っていた。喜怒哀楽を全て楽しいという感情で纏めるなど、アールには真似出来ない事だ。

 カナエの笑みの質は殆ど変わっていない。彼女の素と思わしき素直で穏やかな物のままで、アールに対して次にする『提案』とやらがどんな物であれ、彼女はそのまま笑うのだろう。

 そんな和やかで優しい笑みを見ていると、どんな残酷で恐ろしい提案であっても大した事では無い様に思えてしまうかもしれない。


「……まあ、そうですね。こほん、では私からの提案をさせて戴こうか」


 少し、心の中でアールが不安な気持ちを覚えている間に、カナエの印象がまた変わっていた。

 今までの少しスキンシップが大げさで底抜けに明るい女性の印象から、鋭利な刃物を思わせる雰囲気を纏った強さを感じさせる印象へ、一瞬にして切り替わったのだ。

 まるで人が変わったかの様に声音も音調も変わる。これで、彼女がこの手の見せるのは何度目だったか。アールが抱いたMr.スマイルへの憎悪を消し飛ばした時にも、彼女はこんな風に変わっている。

 今度の変化は、真剣であるという意志の現れの様だ。直感でそう判断したアールもまた、真剣に耳を傾ける。


「私と一緒にね、船員達が固まってる部屋に行かないか?」


 口元を歪ませて、彼女はその提案を始める。悪意や善意は感じられない。ただ『そういう手がある』と紹介している事がよく分かる姿だ。

 しかし、彼女の提案の意味がよく分からなかったアールは内心で首を傾げる。そんな心の機敏を見て取ったカナエは自信の有る様子で話を続けた。


「あそこには通信機があるんだよ」

「通信機? ああ、プランク達の仲間でも呼ぶのか?」

「いいや、私の仲間を呼ぶ。ウチの連中は今回無傷で、動きの良い小型船を今すぐレンタルするくらいは出来るんだ、君らと戦争にならなかったから金が余ってね。あの中毒者達も、私の仲間にかかれば簡単に片づくさ」


 今度は、隙間が無い状態のアールの心の中に刃物を突き込んで意志を流し込むかの様な声音だ。

 しかし、声の中に仲間への隠せない程の信頼が感じられる為か先程よりも心に入り込む衝撃は強くない。むしろ、彼女のかろうじて理解出来る部分を見て嬉しくなるくらいだ。


「ははっ、お前……仲間を、信頼しているんだな、ここへ来ても無事に生きて戻る事が信じられる程度には」

「さて? 信頼してるし好きなのは好きさ、それは確かだが……私のこの気持ちは、一体どこに分類される愛情なのだろうね?」

「くっ……照れるなよ、顔が赤いぞ?」

「……うう、ちょっと、恥ずかしいんだからやめて?」


 少しだけ見直したとカナエに告げると、彼女の顔は少し赤くなって、視線を逸らしてくる。小さめに疑問の声を上げるのも、照れ隠しの一種に思えた。

 それを指摘すると、彼女は声音を元に戻して恥ずかしそうに頬に両手を当てて小さな息を吐いている。

 アールは、内心で安堵していた。

 溢れる親愛の類が見え隠れする部分は、アールにも理解出来るのだ。自分の組織の人間に慕われる資格があると思える程度には、アールも仲間達を愛している。

 だからこそ、怒りはより強い物になったのだが。


「まあ、何だ。それで? お前が仲間達の事を憎からず思っているのは分かった。だが、奴らを呼ぶなら私は必要じゃないだろう? 言っておくが、お前のやった事を自分の功績にするのは断るぞ」


 釘を刺しておくという意志が明確に見えている口調でアールは話す。

 彼女の提案がどういう物なのかはもう理解できていた。要は、『仲間を呼んで事態を収拾するついでに、船員やプランクの部下達を助けて恩を売れば良いんじゃないか』と言っているのだ。

 アールにとっては、余り嬉しくない提案だ。

 彼にはエィストや元『相棒』の手柄を奪う事など、出来ない。サイモンに『手柄を半ば強引に渡される』事はあるが、彼は本来、その様な事は出来ない類の人間である。


「それが、そうも行かないんだ」


 彼のそんな性格を理解しているカナエは軽く微笑んで、言葉を続ける。どこか困っている様に見えるのは、彼の協力を得たいからなのだろう。


「……いや、ね。正直な話、私は血みどろ変態女を演じていたから、多分信頼は得られない。でも、新聞記者のあなたは、どうだ?」

「……ああ、そうだ。そうだったな、お前はそんな奴を演じていたんだったか」


 この時ばかりは、彼女の意志に心から同調する事が出来た。プランク達を前にした彼女は、素のエィストよりはマシとはいえ、かなり壊れた性格を演じていたのだ。

 今も握っている物騒な抜き身の刀も、あの狂笑を共にするとより危険な物に思えてくる。

 そんな女が一応は真っ当な顔をして『通信させてくれ』などと言った所で、誰が信じると言うのか。少なくとも、アール自身の様に彼女の正体を知る者でなければ、無理だ。

 その為、アールは自分が必要だと言う言葉の正当性を理解する。偽りとは言え新聞記者、本来は彼らと取引を行っていた組織のボスだ。


「……分かった。ああ、確かに分かったよ」


 納得して、頷く。するとカナエの顔は今までよりも更に明るい笑みを浮かべて顔を近づけ、またアールの指に押し戻される。


「むむ、ありがとうっ! あはは、受けてくれなかったら困ってた所だったよ!」


 押し戻されて距離を取られたと認識したと同時に、カナエは両手をしっかりとアールの手に重ね、強く握手をする。掴んだ腕を振り回す姿はまるで子供だ。

 演技なのか素なのか、どちらにせよ真に迫った動きは、アールの記憶の中にあるもっと幼かった頃のジェーンを想起させた。

 だからこそ、そのまま自分の手を引いて行こうとするカナエの手を振り解く気にはなれなかった。


「ほらほら! 早く早く! 遅れちゃうよ!」


 カナエが少し強引に引っ張って来たが力加減は絶妙で、痛みも不快感も無い。

 恐らく、彼女の技術の一つなのだろう。が、振り解く気にならなかった彼は、それが分かっていても抵抗する気にはなれないのだ。

 自分が部下でもない女に振り回されている事を自覚して、この緊急事態の中にあって彼は苦笑している。どうも、彼は『元相棒』が絡む相手には、弱い。


 ふと、彼女であれば言葉で人を操る事が出来て、そもそも自分が行くまでも無く船員達に言う事を聞かせる事くらい出来るのではないかとも思ったが、恐らくやる気が無いのだと判断して聞く事はしなかった。





+


「う、うまく行ったんですね……」


 相変わらずの薄暗い倉庫の中で、コルムの声が安堵の一色に染まっていた。

 彼の視界の先には、数人の武装した人間が直立している。まるで電源の落ちた機械の様に一切動かず、何かを待っている。心臓が動いているのかすら怪しく思える姿だ。

 それらに対してコルムは最大限に警戒した目を向けている様だ。

 当然かもしれない、彼らはこの船の上で『兵隊』または『機械』と呼ばれる、薬物によって作り上げられた軍団なのだ。それも、Mr.スマイルとプランク達を攻撃する意味で作り上げられたという経緯を持っている。


「心配するのは分かるがな、こいつ等はもう、お前を襲う事は無い」


 『兵隊』達を警戒する姿を見せたコルムへ、声がかかる。薬を持って彼らを見事に押さえ込んだサイモンだ。彼は床に転がしていたルービックキューブを拾って、適当に動かしている。

 彼の目は既に『兵隊』達を見ていない。若干の掠り傷を負った事に少しだけ不機嫌な気分になっているが、それだけだ。それ以上には何も感じていない事がよく分かる。

 しかし、彼の手は煩雑な様子で直立不動の『兵隊』達に薬を大量に渡していて、彼らを視界に入れるだけで嫌そうな顔をする。組織に多大な迷惑をかけた者達だ、利用法が無ければ即座に始末していた所だろう。


「……お前等、これ持って他の連中にも配るんだ」


 ほんの一瞬の嫌悪感を消し去ると、サイモンはそれだけ言って彼らから背を向ける。だがまだ本題を終えていない、それに気づいたコルムが怪訝そうな顔をする。

 サイモンもその視線の意味は分かっているが、『兵隊』達を視界に入れるとどうも動きが鈍ってしまいがちだ。ジェーンが作り上げた、中毒者。何故作られたのかは、想像が付く。

 何時、如何なる時も父親の事ばかり考えている少女だ。その彼女がこれらを作り出す理由はただ一つ、父親の『保有』する『兵力』を無駄遣いさせてはならない。その気持ちだけだろう。

 それが、どうしてかこうなってしまったのだ。


「……皮肉と言うか、何というか……」

「はい?」

「いや、何でもない。それより、命令か」


 無意味な思考だと判断したサイモンは考える事を中断し、もう一度『兵隊』達の顔を見る。嫌な気持ちにはなるが、彼らを動かす為には必要だ。


「全員に通達、命令変更、船内の人間を殺すな、ジェーン以外のホルムスの人間に攻撃は禁じる。攻撃するとしても無力化まで。最優先事項として、ジェーン・ホルムスを生きたまま捕獲しろ……分かったか? 分かったなら薬を持って失せろ、さっさ、と行け!」


 言いながらやはり薬を押しつけた。

 彼一人では、全ての『兵隊』に命令をするのは無理がある。端から命令変更など考えていなかったのだろう、明らかに不完全で、欠陥だらけの兵器である。

 そんな欠陥と欠点ばかりの『兵隊』には、サイモンも何の期待もしていない。精々、ジェーンを見つけて捕まえてくれるなら万々歳と言った所だ。

 その場から去っていく『兵隊』達の背を見つめながら、サイモンはぼんやりとそんな事を考える。彼にとっては、それこそ『兵隊』がボスに手を出さなくなったというだけで上出来だ。それ以上を望むのは贅沢と言う物だろう。

 無意識の間にルービックキューブを何度も何度も回転させているが、それでも一つの面も揃わない。揃いそうになる寸前で、また変えてしまうのだ。


「あ、あの……そろそろ、行きませんか?」


 倉庫の中で立ち止まっていたサイモンに、声がかかって来た。少し臆病な色が見え隠れしたその声の主は言うまでも無く、コルムだ。

 この場での用事を全て終えたと知っているコルムはもうここから出たがっているのだ。予想通り、山になった荷物を片づけた後はまた、サイモンに対して不審感と恐怖を抱いている事がよく分かる顔をしている。


「そう、だな。そろそろ甲板に行かないと、ボスが待っているかもしれない」


 そんな表情はひとまず無視する事にして、サイモンは先へ進む事を決める。コルムが抱いているのであろう恐怖を取り除く程、サイモンは彼に対して注意を払っていない。

 最優先事項である、ボスとの合流の方が遙かに重要だ。勿論、コルムをそこに連れて行かなければならないのだから、逃げられない様に見張る必要はある。


「しっかりしろよ。ここまでやってしまった以上、何も収穫が無ければお前はプランクに殺されるんだからな」


 脅す様な一言だったが、そのまま行けば恐らくはそうなる。という程度には想像出来る光景だ。プランク自身は気にしないだろうが、部下への見せしめでコルムを撃ち殺す姿が脳裏に浮かぶのも確かである。

 その一言にコルムは恐れの見える顔付きで数歩後ずさったが、そんな事をしても倉庫の壁にぶつかるだけだ。壁に当たった体はそれ以上逃げる事も出来ない。


「……い、いやその……分かってます、分かってますよ」


 自分に言い聞かせる様に口から言葉を漏らして、コルムはまたサイモンの側に近寄る。恐れはまだ見え隠れするが、逃げようと言う意志は無い様だ。

 それを確認すると、サイモンはコルムの言葉に返事をする事はせずに歩き出した。

 頭の中には、彼のボスの姿が浮かんでいる。今頃、予定通りであれば甲板の上に居る筈だ。しかし、どうもサイモンはそうだとは思えずに居る。

 何らかの不足の事態が起きたか、それとも『元相棒』絡みか。もしかするとMr.スマイルと出会ってしまったのかもしれない。どれが起きるにしても、結局甲板に来ないという結果は変わらない。


「後は移動しながらだ、『兵隊』を見つけたら、片っ端から薬で操るぞ」


 そうならない事を祈りつつも、サイモンは独り言の様に話しながら進んでいく。足に迷いは無い、『兵隊』達の操作に成功しても、まだ安全ではないのだ。

 ボス、アール・スペンサーが甲板に居る場合と居ない場合の事も考えて、ぼんやりとだが居て欲しいと願う気持ちを抱いている。

 しかし、倉庫から出て『兵隊』達の残骸が転がる通路に戻ると、彼の意識は血の臭いと船内の空気によって殺伐とした気持ちに戻っていた。

 協力な意志の力が体から溢れる事を自覚したサイモンは、コルムに見えない様に自分への呆れを覚える。

 甲板に誰も居なかったとしても、その時はコルムを置き去りにしてボスを探しに行くだけなのだ。

 居なければ、探しに行けばいい。開き直りに似た事を考えたサイモンは、そのまま足を早めた。


----そうだ。例え、例えボスがそこに居なくとも……

----私は、動くだけだ。それが、組織の、ボスの為になる



 暫くした後、ようやく甲板に辿り着いたサイモンは、コルムを置いて船に戻る事になった。

 コルムからは見えない位置にあるサイモンの顔がやはり開き直りを見せていたのか、それとも覚悟を決めた顔になっていたのか、それは、本人すら知らない事だった。




+


 ある船室の一つの中には、二人の男が居た。片方は上半身の服を脱いで自分が受けた傷を治療していて、もう片方の男は部屋の隅に転がって、気絶している。

 室内にある薬棚やベッドや、そもそもの雰囲気、何より自分の体に応急処置を施している男の姿を見れば、その部屋が何をする為の場所なのかは簡単明瞭と言っても良いだろう。

 そう、医務室である。その中で自分の体に治療を施している男の顔はどこか楽しそうで、腕に受けた傷を愉快そうに眺めている。

 全身から幸せそうな雰囲気を放出する彼を見ていれば、人によっては不快感を、人によっては好感を抱くに違いない。


----流石リドリー。あれくらいの傷は特殊メイクと変わらないか。


 そんな男こと、リドリーの姿を眺めて、Mr.スマイルは彼へ尊敬と侮蔑の混じり合った感情を覚えていた。

 部屋を覗き込む目には、欠片の殺気も感じられない。気配を出来る限り殺していて、リドリーに気づかれない様に全力を尽くしているのだ。

 隠れる場所は限られている。彼が身を隠した場所は、ある意味で最も分かりやすく、最も分かりにくい物だ。つまり、窓の外である。

 縁の部分に手を絡めてぶら下がり、時折微かに部屋の中を視界に入れる姿はある種、分かりやすすぎると言って良いだろう。それでも見つからないのだから、凄い物だ。

 何故、彼がそんな事をしているのか。それは、ある意味とても恐ろしく、しかし冷静で臆病な理由に依る物だった。


----エィストの奴め……リドリーが一緒なんて聞いてないんだがな……


 そう、彼が此処に居るのはエィストの助言が原因なのだ。先程、アールを見事になだめて見せた彼女がMr.スマイルに言った言葉は、彼の行動を止めようとする物などではなかった。

 むしろ、それを煽る様な物だ。この船で、あの町で残虐に人を殺めてきた彼の背中を押す者など、彼女しか居ないだろう。

 エィストが一瞬の間に接近して、Mr.スマイルに告げた言葉は、此処へ行く様に指示する意図を持つ物だった。たった一言ではあったが、エドワースには無視出来ない物だ。


----『医務室へ行け』か、エィストめ、どこでジェーンの行方を知ったのか……


 内心で、エィストの情報収集能力に----元々その情報を知っていると期待していたとはいえ、畏怖する。

 彼は知らないが、今回に限って言うならばその情報はカナエの勘と予想に依る物だった。リドリーへ確かな傷を与えた彼女は、その次に彼が何をするかを読んでいたのだ。

 傷を負った『登場人物』が戦闘を終えた後に行く場所など殆ど一つしか無い。リドリーは『登場人物』である事に何の疑問も持たない類の人間の為、奇怪な言動に目を瞑れば、実はある程度読みやすいのだ。

 そうとは知らないエドワースは、この船の上であっても『何でも知っている』エィストに、確かな恐怖を抱いていた。


----あいつめ……随分、恐ろしい強敵と戦ったのだな


 もう一度腕に力を入れて体を持ち上げ、室内を視界に入れる。部屋の隅で転がっていた白衣の男がリドリーに叩き起こされたのか、不満そうな顔になっていた。

 腕に応急処置を施したリドリーは面白がっている様で、普段通りの彼の姿はエドワースにとっては呆れる物で、Mr.スマイルとしては厄介だ。

 何せ、相手は超人染みた身体能力の持ち主が多い彼らの組織で、ボスである、今はケビンと名乗る男すら上回る程の人物だ。

 Mr.スマイルの彼はリドリーと戦う事が出来る。もしかすると勝つ事も出来るかもしれない。

 しかし、本気で戦えば結果がどうあれMr.スマイルは数日行動が出来なくなる怪我を負う事は分かっている。下手な動きは出来ない。

 リドリーは怪我を負っている様だが、それでも五分五分と言った所だろう。その点が、Mr.スマイルに行動を躊躇わせる。

 彼の目的はリドリー自身ではなく、その先にある物だ。彼と相打ちになる事には意味が見い出せない。


----奴を倒して、ジェーンに……行けるか?


 Mr.スマイルは静かに自問自答する。

 そう、彼にとっての目的とは勿論、ジェーン・ホルムスの事だ。惨たらしく殺す為に彼女を追い求めた彼は、遂に少女のすぐ近くにまで接近している。

 情報を得た彼は急いで医務室へ向かい、奇襲を仕掛ける為に窓から外へ出ていたのだ。尤も、白衣の男が倒れているのは、彼の仕業ではない。いち早くサイモンに操られた『兵隊』達の行いである。

 これ幸いと窓の外から室内の様子を窺っていたMr.スマイルは、見たのだ。予想通り現れたジェーンと、それを守る様に立つリドリーの姿を。

 船内でMr.スマイルになってからは一度も見ていなかった仲間の姿に、仮面の奥に居るエドワースは表に出なくとも酷く混乱し、同時に危機感も覚えた。

 そうしている間に、リドリーは傷の処置をする為に上着を脱いで、それを見て蔑んだ目をしたジェーンは部屋から出て行ってしまったのだ。

 何とか混乱を押さえ込んだMr.スマイルはそれを認識して、ジェーンを捕まえる為に思考を巡らせる。

 医務室のすぐ外に居るであろうジェーンに直接接触するという考えも浮かんだが、無意味な事だ。間違いなくリドリーに気づかれるのだから、まだ自分から挑んだ方がマシと言う物だろう。

 だから、彼は迷っているのだ。

 Mr.スマイルは別に自分の力を過大評価している訳ではない。それどころか、自分はまだまだ強いと呼んで良い次元に居ないとすら思っている。

 比較対照がエィストやリドリー、そしてケビンなのだから当然なのだ。それでも、エドワースは彼ら、特にエィストとリドリーに対しては苦手意識がある。


----リドリーさえ居なければすぐにでもジェーンを叩き潰す所だが……


 少々の気疲れを覚えつつ、また窓枠に体重をかけて部屋の様子を窺うとリドリーは白衣の男に睨まれ、怒鳴られながらも、面白がって笑みを浮かべている。

 男は何かを探している様だ。慌てて薬棚を探っていて、その目は明確な必死さを感じさせている。


----くっ、これを、お探しかな?


 Mr.スマイルは、懐から一つの薬瓶を取り出す。それは白衣の男が気絶しているのを良い事に、彼が棚の中から探り出した物だ。

 この手の人間がどこに物を隠すのかは理解出来ていた為に、簡単に見つける事が出来た。そして、それが何であるのかも大まかに察しが付いている。

 怪しげな薬を所持する、白衣の男。それだけで、Mr.スマイルにとっては殺すに値する人間だ。ジェーン達を待つつもりが無ければ、男を叩き起こして地獄の苦痛を与えていただろう。

 そんな殺意を抱かれているとは知りもせず、視界の先の男は殺気が混じった顔でリドリーへ飛びかかろうとして、弾き飛ばされていた。

 どんな運命なのか、男の体はMr.スマイルの潜む窓のすぐ目の前に来ている。それでも彼の存在には気づいていないのか、男はリドリーの方しか見ていない。

 丁度良い所に来てしまった男へ、Mr.スマイルは少しだけ同情する。男はMr.スマイルの殺したくなる範疇の人間なのだ。

 しかし、男の近くにいるリドリーを見ていると、どうも足が鈍ってしまう。

 それも当然の事で、彼にとってリドリーは最果ての様な相手なのだ。エィストよりはまだ人間の範疇とはいえ、勝てるとは思えない。


----出る、か? リドリーの奴と戦って、私は……だが!


 それでも、覚悟を決める。その奥にあるエドワースは臆病な気持ちを変わらず噴出させているが、Mr.スマイルには関係ない。

 Mr.スマイルとは、そういう物なのだ。自分が悪だと思った存在を容赦無く殺し尽くす、独善的ですらない虐殺者。例え中身がどれほど臆病であっても、それは変わらない。



「貴様! ここにあった薬瓶を何処へ遣った!?」



 ただ、エドワースの場合はそれが『ボスと敵対した者』であり、『自分の邪魔をする者』でもあるというだけだ。

 だからこそ、彼はリドリーを殺す気など微塵も無い。エドワース、いやMr.スマイルは、自分の所属する組織の人間を殺す事が出来ないのだ。


----ふふ、リドリー……何とか、出し抜くしか無いか。


「あれが私にとってどれだけ重要な物なのか貴様は知らないんだろうが----ガっ」


 自分自身の大きすぎる弱点を自覚しながらも----Mr.スマイルは、窓際に居る男へ容赦無くナイフを突き立てていた。

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