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キラーハート The Killer In Smiling MAN S  作者: 曇天紫苑
The Killer In Smiling MAN S 大笑編
36/77

12話


「……よし、薬を全部見つけ終えた訳だしな、約束通りこっちのボスと会って安全を保証して貰え。お前のボスも文句は言わないだろうさ」


 話に上げた自らのボスがそんな精神状態にあるとは知る由も無く、サイモンは腕の中に大量の薬を抱えて達成感に満ち溢れた表情をしている。

 隅に転がされたルービックキューブに見つめられながら、サイモンとコルムは次々に薬を取り出していった。溶接された箱の様に見せかけた物だと一度気づいてしまえば、薬を見つけるのは簡単だ。

 倉庫中の箱を開ける必要も無い。コルムが実際に薬を仕舞う瞬間を目撃しているのだから、その通りに開けていけば良いのだ。


「しかし、この荷物はどうするんですか?」


 恐らく全ての薬を見つけ終えたにも関わらず、コルムの表情は余り嬉しそうではない。

 その視線は、山の様に積み上げられた荷物に向けられていた。箱に見える物の奥から薬を取り出す為に、そこに入っていた全てを放り出したのだ。

 山には価値の有りそうな物から逆に何の価値も無さそうな物まで種類を問わず雑多に積み上げられている。

 強いて言えば旅行を装う為なのか衣服が多いが、それも共通した点は特に無く、高級そうな物から如何にも安物に見える物まで、様々だ。

 コルムが困り果てた顔をするのも無理は無い。これだけの数だ、そのままにしておくのが正解なのだろう。が、彼はプランクの部下である。後からこの惨状を発見した者に叱咤されるのは彼だろう。

 軽い溜息を吐くコルムの姿からそんな印象を得たサイモンだったが、特に何かを言うつもりは無い。確かに荷物の山を作ったのは彼自身とコルムの二人ではあるが、その部分にまで気を向ける事はしなかった。

 プランクはそんな事を気にはしないだろう。そんな予想があったのだ、それに気持ちを向けるくらいであれば、行動した方が早い。


「いや、でもよ……交渉、するんだろ? だったら、乱暴にでもさ、できるだけ良い印象があった方が……いいんじゃないですか?」

「む……」


 尤もなコルムの言葉に、サイモンは少し悩んだ。彼の信条としてはそんな事をしている暇は無いのだが、確かに言っている事は正しい。

 彼が予想するプランクの姿は、あくまで予想だ。それに、この事を元に交渉が不利になってしまう恐れもある。


「……分かった、分かったよ。確かに、俺の焦りすぎだな。お前の所のボスの事は、部下の方がよく分かるか」


 少々不本意な気持ちになりつつも、サイモンはコルムの言葉に従う事を決める。プランクの事をよく知っているのは、サイモンではないのだ。

 あからさまに安堵する吐息がコルムから漏れだしているが、サイモンは彼の反応は気に留めない。彼の頭の中で、コルムという個人の優先順位は相当に低い位置にいる。


「さあっ、片づけると決めたからにはちゃんと片づけましょうよ……おっと、コイツは女物の下着か。あのクソ『兵隊』共のだな」


 そんな扱いをされていると知ってか知らでか、コルムは山積みになった荷物に手をつけて、時折あの中毒者達の着ている服を掴んでは乱暴に箱に放り込む。


「どうして分かる?」

「え? ああ、今日、この船に乗ってる仲間は皆男だ……男だからです」


 言い直しながらも手が止まる気配は無い。衣服や装飾品の類はやや乱雑に、しかし、腕時計だけは一応は丁寧に仕舞い込んでいる。

 その手の雑用は得意の様だ。手を貸さなくとも数分もすれば片づけてしまいそうなくらいには、動きが早い。無意味な様で、思ったより役に立つ特技を身につけているコルムを、サイモンは少しだけ見直した。

 もちろん、サイモンも荷物を片づける事を忘れていない。手を付ける動きはコルム以上に素早く、その動きの凄まじさはまるで、手と体が別々の意識を持っているかの様だ。


「あ、それスーツか……あいつのだな、汚すとヤバそうなんで、ちょっと丁寧にしまってください」


 恐ろしい動きの中でサイモンの手によって放り込まれそうになるスーツを寸前で掴み、コルムはそれを別の箱の中へ出来るだけ素早く丁寧に箱に入れる。一瞬の間に畳んでいるのが、なお凄まじい。

 集中しているからか、何も見ずに箱へ放り込んでいたサイモンとは違って動きがよく見えていた。

 雑用に命でも賭けているのだろうか、普段のコルムとは違う真剣な様子で部屋の箱の位置と、投げ込む服の位置を見事に合わせている。

 思わず、サイモンは口笛を吹いて賞賛の言葉を漏らしていた。


「ほう……そんな特技があったんだな、お前にも」

「ま、雑用係で入った様な物ですからね……これくらい出来ないと」


 特に気負う雰囲気など欠片も無く、素早い動きで箱に荷物を積めていく。あれだけあった山がもう殆ど無くなっていた。

 確かにコルムの動きはサイモンよりもずっと遅い。だが、荷物を見分ける勢いは凄い物だ。余程そればかりやって来たのだろう。


「……他の連中と同じ仕事だってしてますからね、俺だって。幾ら何でも、雑用しかやってないってのは無いでしょ」


 そんな視線に気づいたのか、コルムが不満そうな顔をしてる。かなり慣れたのか、サイモンを前にしても恐怖の色はかなり薄まっている。

 いや、一時的に抑え込んだのだろう。恐らく、これが終わればまた怯え出すに違いない。自分の世界に入り込んでいるコルムを見て、直感する。


「……ん?」


 恐れられても怯えられても問題は無いと考えながら、荷物を元の場所へ直していたサイモンは、山の中の最奥に偶然手が入り込んで、そこで気づいた。

 何か、おかしな物が荷物の中に含まれている。それは今しがた働いた直感の残った物が動いた事によって脳に入り込んで来た物だ。


「……どうしたんですか? 手が止まってますけど」

「ああ、まあ……何だ。ああ、これは……そうか」


 コルムの言葉に適当に応じながら、サイモンは手の感触を確認する。

 今、触れている物が直感が告げる物なのだ。と、彼の感覚が告げている。その声は決して大きな物ではないが、小さいとは言い難い。

 無視は出来ない。長年使い続けた確かな感覚がそう命じているのだ。それは三人の少年達を襲った者達を容赦無く撃った時にも感じられた物で、今でも彼はその選択を正しかったと思っている。

 つまり、今自分が掴んだ物はその類だ。そう感じたサイモンは、数秒だけ迷って山の中から腕を引き抜いた。

 勢い良く腕が山の中から現れて、それと同時に手の中から何かが飛び出してくる。

 手の中にあったのは、棒状の何かだった。コルムにはその正体がよく分からなかったのか、首を傾げている。無理もない、鍵穴とボタンが付いただけの簡素な作りがそれの正体をかろうじて機械だと示しているが、それ以上は分からない筈だ。


「そいつは……?」

「……」


 しかし、サイモンは知っている。かろうじて人間の意識が残っていた中毒者から聞き出した情報の中に、それは有ったのだ。この船を、沈めてしまう可能性を持つ物として。

 それは、ジェーンが持っている筈だった。少なくとも、これを奪われてしまえば船内に居る全ての人間が危険に晒されると、彼女も、それに付き従うパトリックもよく理解している筈なのだ。

 だが、実際にその棒は----船中に仕掛ける予定の爆薬の起爆装置は、薄暗い倉庫に居るサイモンの手の中にある。

 この瞬間、サイモンは痛感した。ジェーンとパトリックがボスが死んだと聞かされてどれほど『イかれた』のかを自分は読み違えていた、と。


「な、なあ。どうしたんだよ。黙っちまって、答えてくれ、いや答えてくださいよ。何なんですか、それ?」


 サイモンの全身から広がる異様な雰囲気に、コルムが怖がりだす。しかし、彼にはそれを納める心の余裕は無かった。


----ジェーンが殺される? そんな事言ってる場合か!? ヤバい、これは……ボスと俺の命にも関わる!


 嫌な汗が全身から吹き出して、悪寒が全身を支配する。手の中にある物がこの船の運命を決定するのだ。

 多くの人間の命運を背負う事などサイモンは気にならないが、たった一人、自らのボスの命運を背負う事だけは絶対に出来ない。サイモンは、そういう男だ。

 それを手にしてしまった事に、サイモンは心の底から焦りを覚えていた。


 だが、それだけではなかった。



「……あれ、これって……?」


 ふと、様子の変わったサイモンから目を逸らしたコルムが疑問の声を上げる。焦りと悪寒を覚えたサイモンとは正反対で、コルムから危機感は余り感じられない。

 サイモンに対する警戒はあるが、それだけだ。しかし、コルムのまるで状況を理解していない声は更なる悪寒を呼び寄せて来た。


「どうした、何があった?」

「いや、その……これは……」


 自分の中の焦燥を隠してサイモンが恐る恐る尋ねると、コルムは黙って山だった荷物の奥を指さす。

 サイモンが腕を引き抜いた時に出来た穴はまだ塞がっていない。だからこそ、コルムにもそこにあった物が見えたのだ。



「……Mr.スマイルの、仮面と服?」




+





 Mr.スマイルは驚いていた。


「やーMr.スマイル。君を見てるとお腹がぎゅーってするんだよね? これって初恋の痛み? うーん、どっちかって言うと不快感? 下腹部からぞわぞわきゅーって、来るんだ」


 女が軽く手を挙げ、片手で下腹部を押さえて苦しそうに、嬉しそうに告げて来るのだが、そこはMr.スマイルにとって予想が出来ていた事だ。何せ、彼女の声を聞いて来たのだから。

 しかし、彼の体は震えを隠そうと必死になっている。たまらなく恐ろしい気持ちを味わい、エドワースとしての魂が怯え狂う。

 その原因は、女、エィストの隣に立つ男にある事は明らかだ。そちらを見ない様にと目を逸らしている姿を見れば、誰でも分かる。


「うっふっふ。Mr.スマイル君にこんな所で会えるなんて。嬉しい様な嬉しい様な、ああ、やっぱり嬉しいや」

「私は、嬉しくないがね。君はどうやら奇妙な人物の様だ」


 相手が何か異様な反応をしている事に気づきながらも、カナエはどこかふざけた様子で話しかけている。

 心から嬉しそうな言葉は彼女の本心を表していて、天井知らずの明るさが見慣れたエドワースの気持ちを明るくしようと働きかけて来る。

 だが、エドワースの気分は少しも良くならなかった。凄絶な程の殺気と怒気と憎悪が体に突き刺さり、そのまま肉体を貫いてしまいそうな視線をぶつけられている。

 エィストの隣に立つ、新聞記者としてはアール・スペンサーと名乗っている男の強烈で圧倒的過ぎる雰囲気が、エドワースを飲み込んだのだ。


「んむむむぅ、アール・スペンサーさん? ちょっと、怖いよ?」

「……おい、Mr.スマイル」


 困り顔でカナエがアールの服の裾を掴んで、幼子の様な目で見つめる。普通であればその子供っぽい雰囲気に呑まれてしまう所だが、効果は無い。

 どうやら、彼はカナエの言葉も行動も認識してすらいない様だ。恐ろしくも圧倒的な気配が通路に充満し、世界が揺らぐ。


「うむ、彼はちょっと……ぶちキレてて話にならないかな、ごめんね」

「ふむ……その様だな。悪い事をした、邪魔をしてしまったな?」

「いーんだよいーんだよ。気にしないで」


 そんな恐ろしい状況に置かれていても、エィストの態度は普段通りの物だ。Mr.スマイルの中身であるエドワースは変わらない彼女に安堵を覚えていた。


「……おい、Mr.スマイル」


 しかし、安堵した側から放たれた更に強い気配が、エドワースに安らぎを与えない。膨大な、夥しい、強烈な、それらの単語が安っぽく思える程の力が彼に突き刺さっている。

 もしもそれが現実の刃物として存在したのであれば、瞬く間にMr.スマイルも、エドワースも引き裂いてしまった筈だ。


「わぁー、この人怖い。気持ちは分から無くも無いけどね」


 そうならないのは、エィストの存在が大きい。彼女から発せられる異様な雰囲気がアールのそれと拮抗する事で、エドワースに届く殺気を減退しているのだ。

 妙な気遣いが感じられる態度に、エドワースは「ひょっとするとMr.スマイルの正体に気づいているんじゃないか」を感じたが、言葉に出して墓穴を掘る程愚かではない。


「このおっかない彼は一体、どこの誰かな? 見覚えが無いのだが、知らない間に彼の家族でも殺してしまったか?」

「……お前が、それを言うか……!!」


 あくまでアールの顔を知らない事を強調して話すと、強烈な地雷を踏まれたアールは更に怒りを強めた。Mr.スマイルの言う通り、彼は目の前の存在に『家族』を殺されているのだ。

 空間が歪む程の殺気を放つアールの顔は、怒りが強すぎて逆に笑みを浮かべている。歪みきった笑みは、嘲笑を象ったMr.スマイルの仮面と何故か、似ている。


「ほう、どうやら私が殺した者の親族か何からしい。安心したまえよ、君を殺す気は無い。私が悪人以外を殺すなど、『事故』以外では有り得ないよ」

----もっとも、悪人を苦しめて殺す為であれば、罪の無い人間の一人や二人は問題ではないのだがな。


 心の中で自分の残虐さに酔いしれるエドワースの気持ちは、ほんの少し良くなっている。相手が恩人である事は承知しているが、何とか気持ちを切り替える。

 そうする間にもカナエがアールの肩を掴んで引き寄せようとして、微動だにしないアールに対して不満そのものと言った表情になった。


「アールさん? ……えっと、Mr.スマイル? あのね、この人はね」

「……俺は、ホルムス・ファミリーのボスだ!」


 エィストの言葉を遮る形でアールは叫ぶ。気圧される程の威圧感と共に投げつけられた言葉だが、エドワースは逆に嬉しそうな顔をする。

 これで、彼は視線の先に居る男の事を『見知らぬ誰か』と扱わずに済む。例え、彼の大切な人々を虐殺していてもMr.スマイルは気にしないが、エドワースは恩人を知らない人と扱う事は出来ないのだ。


「……それが、どうしたのかね。ああ、君が私の殺してきた連中の何であろうと、私に関係があるのかな?」

「本気で、言ってるのか……!!」


 何とか気分を整えたMr.スマイルの冷笑がアールの視界に入り込み、両者は一気に圧倒的な殺気を向け合う。

 Mr.スマイルが圧されている様にも見える。だが、それは彼がエドワースだからだ。エドワースとしての情感を封じ込めた様でも、相手が相手だけに彼本来の怯えと尊敬する人物への敬意がMr.スマイルに全力を出させない。


「……」

「……」

「はいはい、二人とも抑えて抑えて。ほら、アールさん。そんなに怒っては心臓に悪いですよ? 頭に血が上っちゃたらダメですからね?」


 凶悪な殺気を飛ばしながら見つめあっている二人の間に、カナエは割り込んだ。両者の強烈な視線が襲ってくるが、彼女には微かな怯みすら見て取れない。

 両手を広げて微笑む彼女の顔は場を和やかにしようと精一杯頑張っている事がよく分かる。しかし、空気は良い物にはならない。


「……」

「……」

「むむ? 君らね、人を無視しちゃいけません、って!」


 二人は視界に入り込んだエィストを完全に無視して、彼女の向こう側に居る相手の姿を見ている。カナエが不満そうな顔をしているが、どちらも気にしていない。

 互いに、ある種の二人だけの世界に入り込む。殺気と嘲笑だけが充満し尽くした恐ろしい世界。そこにカナエが入る余地は無く、時間だけが過ぎていく。


「……あーもう! しょうっがないなぁ!」


 無視されて、時間を無駄にして、我慢の限界だったのだろう。そんな恐ろしい世界の中へカナエ、いやエィストは躊躇無く飛び込んでいった。


「……!」

「……!?」


 二人の驚愕によって作り上げていた世界が一瞬にして崩れさったかと思うと視界の中にエィストの体が一杯に広がり、奇妙な違和感と圧倒的な存在感が思考を埋め尽くす。

 体中が驚きに支配され、瞳が危機感を覚えて瞼を閉じようとしたが意志の力で抑え込んだ。だが、だからこそ二人はエィストが視界から消えた瞬間に、それまで以上の驚愕に身を包まれる事になった。


「二人とも少しは仲良くするべきですよ。立場的に、あなた方が敵同士で居るのは、少し……ええ、少し、残念です」


 カナエが、二人の手を掴んでいる。だが二人の驚きの元はそこではない。


「失礼。仲良く、握手でもした方が良いと思いまして」


 彼らが目を見開いたのは、『カナエに掴まれた片腕が、いつの間にか目の前に居た相手と握手をしていた』という、その一点だ。

 ほんの少しだけ悲しそうな顔をしたカナエの両手が二人の片腕を掴んで、無理矢理に握手をさせている。何とか動かそうとするが、想像よりも遙かに強い力に押さえつけられ、数ミリすら動かす事が出来ない。

 何時からそんな状態になっていたのかを、二人は認識する事すら出来なかった。

 それでも、二人の男は相手への殺気を飛ばす事は止めていない。むしろ目の前に来た事で感情が激化したのか、アールがMr.スマイルの手袋ごと手を握り潰そうとする。

 しかし、その動きはあっさりと止められる。エィストが軽くアールの手を撫でただけで、彼の腕から力が抜けたのだ。


「両名とも、冷静にお願いします」


 自分の目の前に来た二人に対して、カナエが冷徹さすら含まれた声を漏らす。あしらう事も無視する事も不可能な強烈極まる雰囲気が二人へぶつけられ、その場の一切の感情を消し飛ばした。


「……だが、コイツは俺の……!」

「お願いします」


 アールは消し飛んだ側から怒りを放っていたが。それもエィストの一言によって消火させられた。半ば強制的に感情が切り離される気分に襲われて、男は黙り込む。

 Mr.スマイルに至っては、奥底にあるエドワースが怯え狂って動く事すら出来ない。

 一瞬だった。二人の男達が放っていた殺気も怒気が消え去るまで、ほんの一瞬の時間すら使われなかった。

 圧倒的すぎる力、言葉にすればただ『二人は仲良くするべきだ』という押しつけがましく、互いの関係を無視した意志の力だ。

 二人が大人しくなった事を理解したカナエは満足そうに笑みを浮かべると腕から手を離し、まずはアールの耳元へ近寄って来た。


「おい、何を……」

「……アールさん、あなたがやるべき事は復讐ですか?」


 自らが発した強烈な気配によって微かな精神の隙間を強制的に作り、アールの耳へ言葉を流し込む。諭す様な声が脳に伝わり、頭に直接意志を打ち込むのだ。

 抵抗しようにも、心地良い声と言う名の音色がそれを許さず、心の中にエィストという名の意識が流れ込んだ様に感じられた。

 奇妙な感覚だ、耳元の声と同じ様に心が一瞬にして静かになり、冷静な思考が戻ってくる。

 彼女の、言う通りだ。アールにはMr.スマイルに構っている様な暇は無い。こうしている間にもサイモンは組織の維持の為に命を賭けている上に、ジェーンは復讐の為に戦っているのだ。

 だからこそ、彼は素直に答えた。


「いいや……違うさ。私は奴を叩き潰す為に船に乗ったが……今は、違う」


 頭の中の怒りを吹き飛ばされた為に、彼の声はとても静かで、とても冷静だ。完全に理性を取り戻していた。もう、Mr.スマイルへ意識を送る様子は無い。


----流石、と言っておくべきか。有り難いね、私は、彼と殺し合えないのだからね。


 それをすぐ側から見ていたMr.スマイルは、エィストがアールに何をしていたのかを理解していた。彼女は、音の調子と声の流れで人の感情を操って見せたのだ。

 強い感情の力を持つアールだからこそただ冷静になるだけで済んでいるが、もしも仮面を付けていない素のエドワースがそれを聞けば、数日間は体が動かなくなってしまうかもしれない。


「それに、Mr.スマイル……」


 多大な警戒と少しの感謝が渦巻く彼に、カナエは静かに近づいてきた。

 逃げようにも、腕が掴まれていて動けない。Mr.スマイルであっても、動かす事は不可能だ。逃げる事は出来ない。それどころか、エィストは掴んだ腕を引っ張って、Mr.スマイルの耳元を引き寄せてきた。

 何か、恐ろしい事を言ってくるに違いない。そう考えたMr.スマイルは内心で覚悟を決める。


「あのね……」

「何?」


 しかし、耳に届いた言葉は想像とは全く違う物だった。

 Mr.スマイルは困惑してエィストの顔を見たが、そこにあるのは穏やかで楽しそうな笑顔だけだ。今の言葉の真偽すら、その中には見えてこない。


「じゃあね、Mr.スマイル。また後で、きっと会えるよ」


 そして、彼女自身もそれ以上話す気は無いのだろう。言葉を告げたかと思うとMr.スマイルから距離を取って、代わりにばかりにアールの腕を掴む。


「さっ、アールさんもっ! 提案したい事があってね……!」


 アールが反応するよりも早く動いて見せたカナエは引きずる様に彼を連れて歩く。そこまで抵抗する気も無いのか、アールはされるがままに動いている。

 しかし、アールはMr.スマイルの横を通り過ぎそうになる瞬間にカナエの腕の力に逆らって足を止め、じっとその仮面を見つめた。

 そこには殺気も怒気も憎悪も無い。逆に居心地が悪くなる程、感情の無い視線だ。

 それに何の意味があるのかとMr.スマイルは内心で警戒したが、その答えは、アール自身の口から漏れ出ていた。


「……お前が誰の、どんな命令で動いているのかは知らないが……償わせるぞ、絶対に」

「ほらほら! 何やってるんですか! あなたは生きますよ!」

「……ああ、分かってる。分かってるから引っ張るなよ」


 言葉を終えると、アールはあっさりとMr.スマイルの隣を通り過ぎていく。その顔にはエィストへの呆れだけが含まれていて、穏やかな物だ。


 もう、攻撃が飛んでくる気配は欠片も無かった。

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