11話
「ふんふん、で? これか? この白い粉が例の薬って認識で良いのか?」
自分のボスであるアールが奇妙な女と出会って、面倒そうに眉を顰めているなどとは知る由も無く、サイモンは倉庫の中に居て荷物を探っている。
その手の中には、幾つかの袋があった。中には粉が入っていて、少し怪しげだ。
しかし、その粉を見たもう一人の男、コルムは恐る恐ると言った体でサイモンへ近づき、彼の視界に入った事を確認すると軽く首を振ってみせた。
「あー、いや。そいつはカモフラージュの小麦粉です」
「……ああ、そうなのか。じゃあ本命はどこだ? というかな、そういうのは先に言えよ」
袋の中身が小麦粉だと告げられたサイモンは、残念そうに袋を箱へ戻す。何故か名残惜しそうにしている辺り、小麦粉が好きなのだろうか。
そんな事を思いながらも、コルムは部屋中にある荷物の中から幾つかを指さしてサイモンに見せる。サイモンの目的は、この倉庫に隠されている薬だ。
『兵隊』達の制御に必要な強力すぎるその薬を手に入れて、サイモンはジェーン達の凶行を食い止めるつもりで居た。どの程度の被害であれ、抑え込んで置かなければプランク達との関係に完全な対立が産まれてしまうかもしれないのだ。
だからこそ、彼は第一に見つけたコルムを拉致し、ここまで連れて来たのだ。奇跡的な事に、顔を後一歩でも前に出せ居たジェーンには気づかないままで。
激しい戦闘の気配が、彼にジェーンが居る事を悟らせなかったのである。だからこそ、本当は終わっていた筈の物語はまだ続いているのだ。
「……本当なんでしょうね?」
まだ半信半疑と言った様子でコルムが声をかけて来た。拉致してこの場まで連れこんなサイモンは、話しておくべき大抵の事情をコルムに話したのだ。
その中には、『兵隊』達の正体に関する情報の他に、自分がサイモンという名前のホルムス・ファミリーの幹部だと言う事なども含まれている。確かに、たかが一船員が名乗るにしては信じ難い肩書きだ。
「ああ、信じろ。あの中毒者共をコントロールするには、お前のボスが持ってる薬が、つまりこの船で運んでいる薬が……重要なんだ」
しかし、サイモンは相手を一切疑わせない様な強力な笑みを浮かべて、コルムの疑問を吹き飛ばす。多少脅しめいた雰囲気を放った為か、コルムは少し後ずさりした。
「……いや、その……」
「別にいい。それより、薬がどこにあるかだけを教えろ」
何やら言い訳の様な物を口にしかけたコルムの言葉を遮り、重要な部分だけをぶつける。彼が探している薬の場所を、幸運にもコルムは知っている。どうやら一度この倉庫を見て、薬が隠される所を見たらしい。
この時ばかりは、サイモンは自分の運の良さに感謝した。
それなりに数の居る売人達の中から比較的こちらの言葉を信じやすく、しかも目標の在処を知っているコルムを見つける事が出来たのは、船内に入ってから最も喜ぶべき幸運だろう。
「……で? お前の指定したこの箱にはどんな意味がある?」
サイモンは部屋の中にあるコルムが指定した荷物の側に居た。全てが木製の箱に納められていて、手元に運ぼうとしたが、溶接されている為に移動させる事は出来なかった。
その荷物だけなのかと思えば、この倉庫にある荷物は全て箱が溶接されている。箱ごと中身を持っていく事は不可能だろう。
しかし箱を開けるだけならば、大した事ではない。床との溶接と比べて蓋はそこまで厳重に閉じている訳ではなく、むしろ緩い程だ。
「その箱の、荷物を取り出して、蓋を開けてください。二重底になってます……」
罠の可能性を感じた為にサイモンは触れなかったが。コルムが言うにはその中の荷物を取る事が大事らしい。嘘ではないかと少し睨んだが、怯え以外には何の反応も無い。
コルムが話す内容が真実だと認めると、サイモンは警戒を続けながらも箱へ手をかける。怪しい雰囲気が漂っている事は間違いなく、コルムに黙ってプランクが何かを仕掛けている可能性も考えられるのだ。
----思ったより、あっさり行ったな。
箱の蓋を外しながら、サイモンはそんな事を考える。コルムに対して自らの身分を証明する方法を持たなかった彼は、暴力と恐怖に訴えてでも情報を聞き出そうと覚悟していた。
相手方の構成員に対してそんな事を働けばプランク達と明確に敵対してしまう。そんな気持ちから最後の手段として考えた物ではあるが、それでも覚悟はしていたのだ。
それくらい、説得は難航するだろうとサイモンは睨んでいた。
そもそも、口頭で『自分は大組織の幹部で、あの兵隊達を止める方法を持っているから君らの運ぶ商品の在処を教えてくれ』などと言った所で、誰が信じると言うのだろう。
----あのコルムとかいう男、警戒心に乏しい間抜けか? 間抜けを構成員にするとは……いや、人の事は言えないか。
しかし、コルムは半信半疑程度の物であるとはいえ、信じた。普通はあり得ない事だ。少なくとも、真偽を確かめる程度の事はするだろう。
サイモンにしても、『あの』組織のボスの手紙を受け取った時も、ある程度のエドワースの身辺調査くらいは行っているのだ。それに対して、コルムは先程まで自分を羽交い締めにしていた男の戯言を信じてしまった。
余りにも、警戒心が無さすぎる。ぼんやりとサイモンはそんな事を考えた。するとコルムは怪訝そうな声で彼に話しかけた。
「あの、荷物を取り出さないと薬は入ってないんですが」
「あ、ああ。そうだったな、いや、随分簡単に信じてくれたなと思ってね」
言葉を受けて見ると、サイモンの手は蓋を外していた。中には衣類などの見るからに分かる旅行用の荷物が入っていて、それだけであれば人畜無害に見える。
しかし、荷物の奥から感じられる怪しい気配が全てを上書きしていて、何かがあると思わせるには十分過ぎる雰囲気を放っていた。
コルムの言う通りに、荷物を放り出してみる。それらはどう見ても危険性の無い物だ。罠が仕掛けられている訳でも無く、銃か何かが入っている事も無い。
素早い物で、彼は一分もすれば全ての荷物を取り出す事が出来た。大きめの箱に乱雑に詰められた衣類の山は確かに取り出し難い物だが、サイモンにとっては有って無い様な物だ。
隣に積み上げられた荷物の山の存在を認めながら、サイモンは箱の底を見る。何も無い。しかし、コルムの言葉からそれが二重になっている事は知っている。
「二重底、だったな?」
「は、はい。二重底です、外すのが少し面倒ですけど……」
「問題無い、だが邪魔はしないでくれ」
確認を取ると、サイモンは背後のコルムが何かをしないかを警戒しつつ箱の中へ身を乗り出す。少々の威圧を籠めて釘を刺した為かコルムはその場で完全に固まっていた。
二重底を外した瞬間に箱に仕掛けられた罠か何かが起動する、という可能性も念頭に置きつつ、サイモンは箱の底も調べる。
触ってみた限りでは怪しい所など何一つ無い。罠どころか、二重底になっている事すら確認出来ない程だ。
しかし、底を叩いて見るとその下に何かがある様な音が響いて来た。少なくとも二重底自体は何の嘘でも無い様だ。コルムが嘘の情報を与えられている可能性も考慮していたのだが、今の所、嘘ではない。
----こういう、重要な情報をあっさり漏らす奴にこの手の情報を教えるとは、プランクは何を考えているんだ?
自分なら、絶対に教えない。偽の情報で誘導して、何か失敗でもすればすぐに粛正する。それくらいの扱いをする筈だ。
サイモンは二重底を外す方法を探しながらコルムを内心で馬鹿にする。何せプランクの部下でなければ見向きもされない三流の悪人以外の何者でもないのだ。
「……どこで開けるんだ、これ?」
軽い疑問の声がサイモンから漏れ出た。二重底を開ける事は存外に難しい。何せ、開ける為の場所が見当たらないのだから。
コルムからも答えは無い。どうやら何も知らないのか、俯いているだけだ。開け方が分からなければ、真っ当な方法で箱の底を見る事は出来ないだろう。
そう悟ったサイモンは無理矢理その底を開けた。拳銃を取り出して、ごく自然な動きで撃った。コルムが驚くのも無理はないのだが、サイモンの顔は何も感じさせない。
銃弾によって箱の底には穴が空いている。その奥を少し覗くと取っ手が出来たとばかりに指を入れて、サイモンは底の板を思い切り引っ張る。
木製の箱がその力に耐えきれる筈も無く、数秒もすれば板は勢いよく外れて指に挟まっていた。その板は用事が無いとすぐさま床に捨てられ、荷物の山の一部となる。
「……ん?」
ようやく開いた二重底の中身を見て、サイモンは疑問の声を上げた。そこには、薬らしき物はどこにも入っていなかったのだ。
代わりに、そこには腕時計が入っていた。幾つもの腕時計が箱の底に丁寧にはめ込まれていて、その周辺を札束で埋められている。
メーカーの名前にサイモンは詳しくはないが、それなりに良い値のする腕時計なのだろう。他の荷物との扱いからして雲泥の差だ。大事にされている事が分かりやすい。
「あー……それは、プランクさんの好きな腕時計です。おっかしいなぁ……薬を此処に入れてたのを俺はこの目で……」
疑問の声を上げたサイモンが気になったのか、コルムは荷物の山の辺りまで近寄って箱の中身を見て、納得しながらも疑問を口にする。
サイモンは思わずその顔へ銃口を向けていた。瞳には一見して分かる激しい怒りが籠められていて、下手な事を言えばその場で銃殺されてしまいそうだ。
「……嘘を吐いたのか?」
「い、いや。俺はちゃんと見ました。この箱に薬を詰めている所を、確かに、見ました……その、銃は勘弁してください」
至近距離にまで詰めていたコルムは自分の額に接触した鉄の感触を明らかに恐れている。だが勿論、サイモンに彼を射殺する気は無い。
よく見れば分かる事だが、今持っている銃は箱の底を打ち抜いた物とは違う。さりげなく弾の入っていない別の銃を持ち出して、向けているのだ。
この場で撃ち殺しても、サイモンと組織にとって良い物は何一つ無い。むしろプランク達との対立が深刻な物になるだけだ。
だが、銃弾が入っているかいないかの差がコルム程度の男に見破れる筈が無いとサイモンは判断して、脅す為に使っている。
「ほ、本当ですって。撃たないでくださいよ」
銃を向けられ続けて弱気になったコルムの声が耳に届くも、サイモンは無視をする。薬の場所を知らないのであれば、喋る事すら面倒だと考えている。
邪魔な障害物か何かだと思われているなど知る由も無く、コルムは自分へ向けられた銃へ恐る恐る目を向けた。
「分かった。お前が何も知らない事は理解できたよ、邪魔だからそこから動くなよ」
努めて怒っている様に振る舞い、サイモンはコルムの動きを止めておく。余計な事をさせない為の行動で、本当に怒りを覚えている訳ではない。むしろ、コルムに全てを教えていなかった事に安堵した程だ。
しかし、薬が無くては話が進まない。サイモンは内心では少し困った様子で首を傾げていて、倉庫の中を見回す。
目の前にある箱の中には腕時計と金が詰め込まれていた。あるいは、他の箱の中に薬があるのかもしれない。
そう思ったサイモンは、部屋中の箱の数を数えてみる。二十を越えた辺りから、面倒になって止めた。コルムが先程指さしていた他の箱が気になりはしたが、徒労に終わる可能性の方がどう考えても高い。
「腕時計では、な……これが中身だとすると、本当に丁寧に運ぶじゃないか」
もう一度腕時計を見て、溜息を吐く。クッションになる物を大量に詰めて、何と箱を船に溶接してまで腕時計に傷を付けまいとしているのだ。
「……いや、待てよ?」
それだけ考えて、サイモンは頭の端で疑問が浮かんだ事を自覚する。腕時計を運ぶだけであれば、もっと良い場所がある筈だ。他ならぬプランク自身の手元に置いておけば、盗まれる危険は今よりも下がるだろう。
実際、二重底である事に気づけば無理矢理中身を見る事は簡単だ。木製である事も引っかかる、銃撃したくらいで簡単に底が外せるのだ。
まるで、初めから中身を見られる事を想定している様だ。そう考えたサイモンは、気づいた。
「ああ、嘘ではない……か」
思わず言葉が漏れて、サイモンは一度大きく頷いた。そこに想い至る事が出来れば話は早い。勢いよく腕時計を取り外すと、とりあえず荷物の山の上へ置く。
それを見たコルムは少し慌てる。手つきそのものは丁寧だが、あまり良い扱いとは言えない。
「ちょ、ちょっと!?」
「大丈夫だ、これも計算通りなんだろうよ。やっと気づいたけどな」
慌てた声に対して、サイモンはあくまで冷静なままに返答をする。彼自身も確信は無かったが、言葉の中には疑いようの無い確信が放たれている。
腕時計が入っていたクッションを外したサイモンは、詰められていた札束をより煩雑に扱う。とりあえずコルムに渡しておく辺り、偽札だとは思っていない様だ。
瞬く間に、箱の中身は空になった。箱の本来の底が見えていて、まさしくただの空箱だ。いや、サイモンはその奥から、改めて怪しい気配が漂っている事を感じて、身構える。
だが、体の動きを止めた訳ではない。警戒を強めながらも腕は箱の底に触れていて、何かを調べている事が分かる。
何も無い箱を調べている様子は、どこか幻覚でも見ているかの様だ。実際にはそうではなく、サイモンは『別の可能性』を頭に浮かべただけなのだが。
「……コルムだったよな、ちょっと手を貸してくれ」
何故か箱の底を掴んだサイモンが、コルムに声をかけている。
言われた通りにコルムが近づいていくと、やはり箱の中に身を乗り出したままのサイモンはその気配を察して、箱の中に入り込んでいた顔を少しだけ上げる。
「ちょっと、一人じゃ無理がありそうだから引っ張ってくれ」
自分の立ち位置を少しずらして箱の中に丁度二人が入れる程度の空間を作ったかと思うとコルムに対して手で近づくように指示し、自分はまた箱の底へ手を伸ばす。
サイモンの側に寄ったコルムは改めて箱の中を見る。
人一人くらいは簡単に入ってしまいそうだ。まだ利用価値があると認識されている為に有り得ないと思いながらも、薬の場所を見つけた途端に自分が箱の中に放り込まれる気がしてくる。
「……」
「どうした? さあ、この底を引っ張ってくれ」
そんな不安要素はあったが、結局、コルムは促されるままにサイモンと同じ様に底へ手を伸ばす。
彼の両手が箱の底を掴んだ事を認識すると、サイモンは静かに独り言の様な言葉を口にする。それは同時に、コルムへ事情を説明しようとする意図も見え隠れしていた。
「……思ったんだよ、幾ら気に入ってる腕時計だからってこんな辛気くさい倉庫に隠すか? そもそも隠す必要があるのか? 隠すにしても溶接する意味は無いんじゃないか?」
「……腕時計を傷つけない為、じゃないんですか?」
「違うね。気に入ってる腕時計を守る為だけにこんな事をする必要は無い」
首を傾げるコルムの言葉を、サイモンは冷たい雰囲気で一蹴した。
売人達を仕切っているプランクという男は、部下の命も自分の命も、それどころか金銭上の問題ですら対して気に留めない類の人間である。しかし、冷静にトラブルに対応する姿や売人達に指示を与える姿は彼らの主と呼べるのだ。
麻薬の売買という金が明確に絡んだ組織の頂点でありながら、金に対しても誰に対しても冷たい男。そこから転じて『売人達のボスという立場を演じている様に見える』とまで言われた態度はサイモンの情報網にも入り込んでいる公然の事実だ。
そんな男が、腕時計の一つや二つの為にこんな事をするとは思えない。ましてや札束を入れてまで守るなど、有り得ない事だ。
『カモフラージュ』『囮』そんな単語が頭に浮かんで来るのは、半ば当然の事だろう。
「だからな、これを引っ張れば、恐らく……」
頭の中で浮かんで来た想像をそのまま告げると、コルムは納得した様で頷いた。彼もプランクという男をよく知っている。同じ結論に至る筈だ。
反論の類が来て話が長引く事を懸念していたサイモンは、相手がそんな事を言わなかった事を内心で安堵していた。
しかし、それも一瞬の事ですぐに箱の中に意識を戻すと今までより強く箱の底を掴む。コルムもそれに習って同じ様にしている。合図があればすぐに行動を開始するだろう。
早い方がいい。そう考えたサイモンはすぐに合図の言葉を放った。
「よし、じゃあ……引くぞ!」
「おお!」
言葉と同時に箱の底を掴んだ腕に思い切り力を入れ、思い切り体重をかけて引っ張る。
手が滑ればそのまま後方の床へ頭をぶつけてしまう程だ、しかし、サイモンの握力がそれを許さない。コルムも滑り落ちない程度の力はあるらしく、箱から離れない。
そんな二人が思いきり引っ張った為に、箱の底は耐えきれずに勢い良く外れる。それを見て取ったサイモンは即座に手を離して体重を床に戻し、姿勢を安定させた。
コルムはそう行かなかった様で、慌てて引っ張りすぎたのか思い切り体をよろけさせ、不安定な姿勢で荷物の山の中へ倒れる。
運が良かったのか、床へ体を打ち付ける事だけは避ていた。
「おいおい、大丈夫か。ま、服がそこにあって良かったな」
半ば予想していた動きにサイモンは軽い笑みを浮かべて、コルムへ手を伸ばす。外れた箱の底にあった物を見た時から彼の顔は上機嫌そのものだ。
迷わずサイモンの手を取ったコルムには、その機嫌の良さが伝わってくる。どうやら、彼はこの場での目的を果たす事が出来たらしい。
「薬があったんですか?」
「ああ、見てみろ」
聞いてみると、サイモンは嬉しそうに箱の底を指さして見せた。
「……なるほど、プランクさんはこんな感じで」
「お前の所のボス、馬鹿なのか、天才なのか、どっちなんだろうな」
その中を見たコルムが、納得して声を上げる。
サイモンの声はそれとは血色が違うが、一点だけは別だ。双方共にどこか呆れの色が混じり込んでいるという点だけは、完全に一致しているのだ。
そう、二重底になった箱の底、の更に底には、ある意味で驚くべき光景が広がっていた。
「あの箱は箱なんかじゃなかったんだな。いや……薬が入って無いのはちゃんと箱としてここに溶接したのか」
箱を何度か叩いて、サイモンがその中をもう一度見る。視線の先には大量に薬が詰め込まれていて、目的の物である事はコルムが頷く事で保証していた。
だが、彼らの呆れは薬自体に向けられる物ではない。薬の『隠し場所』に対して、彼らは軽い溜息を吐いたのだ。
薬は、厳密に言えば箱の中に隠されていなかった。箱の形をした物は、箱ではなかったのだ。
「箱に見せかけた、船の一部だ」
そう、サイモンの視線の先にある箱に見える物は----船自体に開けられた物を隠す穴を更に隠す為にはめ込まれた、箱型の船の一部なのだ。
+
船の通路の端の端で、波の音と海を進む船の音を背景に、顔を真っ赤にした女が座り込んでいた。何やら余りにも恥ずかしい事があったのか伏し目がちで時折小さく唸っている。
一方で、表情自体は笑顔だ。少し困った様な雰囲気を纏っているとはいえ、基本的にその顔が浮かべているのは笑み以外の何物でもない。
生命体とは思えない程美しい女の挙動は、その全てが人の魂を揺さぶり、どこか知らない場所で引きずり込もうとしている様だ。目の前でその姿を観察している男は、彼女から出るそんな空気に眉を顰めていた。
「あ、あはは。はずかしぃ……こ、こんにちは。今はアール・スペンサーって呼べば、い、いいの?」
男、いやアールの視線に気づいたのか、困った様に頬を掻きながら女は挨拶をする。変わらず顔は赤く、声の中には羞恥が見え隠れするのだが、その態度自体がどこか胡散臭い。
信頼が置ける類の人間ではないと、アールは相手を認識する。そもそも人間なのかどうかすら疑問なのだが、相手の性格は疑問を上回る程に奇妙だ。
しかし、挨拶をされたからには返事をしなければならない。相手がこちらの正体を知っていると確信した上で、男は口を開いた。
「……久しぶりか? 確か、あいつの紹介で一度会っていたよな、エ」
「私はカナエだよ。この船の上ではね」
名前を呼び終える前に、凄まじい勢いでカナエが訂正する様に言ってきた。その部分だけは楽しそうにしながらも明確な意志が見えていて、怪しさは他の部分よりは薄い。
「……分かったよ、カナエ。で? さっき見かけた時から思ってたんだが……お前がどうして此処に居る?」
偽装である新聞記者の格好をしているが、アールは部下であるサイモンに対する様に自然体の口調でカナエに話しかけている。彼にとって、目の前の女はそう扱うべき相手なのだ。
『相棒』の部下でもある彼女はまだ少し恥ずかしそうにしているが、恐らくはそれも演技なのだろう。興奮混じりの吐息を口から漏らしながら返事を送って来た。
「あはは、実はプランクさんの所に入り込んでいて。あの変態的な言動は頭がイっちゃってる事のアピールなのさ」
言いながら、彼女は一瞬だけ歪みきった残酷な笑みを浮かべる。それが『カナエ』という名前の人物の自然なのだろう、一切の違和感も無く視界に入り込んできて、かと思うとすぐに消え去る。
一瞬で人格も挙動も取り替えて、一瞬で元に戻したカナエは相変わらず楽しそうだ。それ以外のどの感情が揺らいでも、それだけは小揺るぎもしないに違いない。
何時如何なる時でもその態度を崩さない姿はある意味で賞賛にすら値する物だ。
同じ様に『新聞記者』という別な人間を演じながらも、底の部分では成り切れていない自己を認めているアールにとっては、ほんの少しだけ羨ましい。
「お前が変態的なのは演技じゃないだろう? じゃあ、何だ。あいつは乗っていないのか?」
そんな気持ちを覚えながらも、アールの口調の中には敬意の欠片も無い。幾ら自分より演技が優れているからと言って、彼女の様には成りたくないのだ。
殆ど同時に、アールの口からは疑問に思った言葉が飛び出ていた。そもそも彼女と接触しようと考えたのも、彼女の『ボス』が乗っていないかを確認する意味があった。
『相棒』としては乗っていて欲しいが、『ホルムス』としては乗っていて欲しくない、そんな複雑な気持ちになっていたアールだったが、それを聞いたカナエの返答はあっさりとした物だった。
「ボス? ああ、乗ってますよ?」
何を当たり前の事を聞いているんだ、と言いたげにカナエは肯定する。
「……そうか。乗っているのか、あいつ」
アールは自分の心の中が少しだけ明るい気持ちになった事を自覚して、思わず嬉しそうな声を上げた。やはり、どんな場所であっても元『相棒』が居るというのは嬉しいのだろう。
一時的な物ではあったが、アールの内部から湧き出ていた憎悪や殺気、怒気の類が薄れている。サイモンの言葉とカナエの言葉が彼の感情に根を張るそれらを排除していたのだ。
「どうしてまた、お前が呼んだのか?」
冷静になる事が出来たアールは、そこで初めて疑問に思った。
彼の相棒がこの船に乗る動機が分からない、プランクと接触するだけであれば、カナエを通じて誘導するだけで十分の筈だ。
そして、彼がそんな疑問を抱く事はカナエにとっては予想通りの物だったのだろう。何か隠し事をする様な笑みを浮かべたかと思うと、アールにとっての驚くべき事を告げた。
「実は、あなたもご存じの『あの』組織から船への招待券が届いたらしくて」
「……奴、か」
『あなたのご存じのあの組織』。その言葉を聞いたアールの反応は強烈な物だった。その組織が何を指すのかは考えるまでも無く一瞬で理解できたのだ。
十年程前に彼らが町から追い出した組織は壊滅した訳ではない。今でも彼らは彼らの勢力圏内を支配していて、拡大を続けている。
その情報を耳に挟んでいたアールの体から少々の威圧感が漏れた。彼にとって、いや彼の相棒にとってもその組織は最大の敵だったのだ。
最後まで手を汚さず、顔すら出さずに舞台から消えたその組織のボスの事は一生忘れられないに違いない。当時、そんな事を思ったと、彼は覚えている。
「……」
「あのー? アール・スペンサーさん? ……ああ、やっぱりあの組織はあなた達にとって最も警戒すべき相手ですか」
だからこそ、アールは黙り込んだまま思案する。目の前に居るカナエの事すらその時ばかりは思考の端にも入らず、ただあの組織の事だけを考える。
相手の組織は巨大だが、個人単位では彼らと正面切って戦う程の実力は無い。サイモンや他ならぬアール自身が超人的で恐ろしい技量の持ち主だけに、彼らを襲撃して暗殺する事は殆ど不可能だ。
ならば、狙われる対象はそれ以外に違いない。そう考えたアールの頭の中に、昔戦った『海の向こうの組織』とは関係無いと判断していた存在の姿が浮かんで来た。
彼とサイモン以外の幹部は、特に超人的という訳ではないのだ。
----そうであれば、Mr.スマイルとは……!
「……そうだ、ちょっと、提案があるんですけどね」
強烈な予感が、彼の頭を走る。しかし、その思考が言葉になって表に出る寸前で、カナエが声をかけて来た。
「何だ、エィ……カナエ」
また彼女の名前を本来の物で呼びそうになるが、寸前で彼女の目に危険な色が帯びた事を察して、望む通りの声を上げる。
アールの脳裏にあった思考が、カナエに対応する為に一時的に動きを止める。それでも心の中に残る疑念と疑惑は一切消えず、彼の中でMr.スマイルへの憎悪とジェーンへの心配に次いで大きな感情に成っていく。
どうしても気になっているのだ、Mr.スマイルが『何故』暴走したのか、と。
「あのですね、プランクさんとそちらは多分、平和的な交渉がしたいでしょう?」
「……ああ、それで?」
静かな調子でアールが返事をすると、カナエは何事かを企む様子で微笑んだ。背筋に寒い物を覚えたアールは微かに身じろぎするが、特に言葉には出さない。
そうするまでも無かったのだ、カナエの体から発せられる『何か』が、自分の提案が有効である事を示しているのだ。それ以上に感じられる奇妙な雰囲気は、別としても。
少々の怪しさを覚えつつも、アールは大人しく話を聞く事を決めた。
「ん、まず、あなたの名前を出し、そう、その威圧感を……あ」
幸せそのものと言うべきカナエは、唐突に声を止めた。視線は急にアールの背後へ向けられていて、何やら重要な過ち、『分かっていたけど話に夢中で忘れていた』という顔をしている。
自分の背後に何かがあると理解したアールは、とても振り向きたくない気持ちになる。エィストがこの様な反応をするのだ、禄な物ではあるまい。
「どうした? 俺の後ろに、誰かが居るのか?」
「ん、んー。居ると言えば居るんだけどさ、うん、振り向かない方が良いよ? ちょっと、ヤバいから」
急に口調が変わった彼女に反応する事も無く、「言われるまでも無い」とアールは頷く。彼が理解した通り、見てはいけない『何か』がそこにはあるのだろう。
しかし、もしもそれが彼にとって重要な意味を持つ存在で、もしも彼が知っておかなければならない物だった時の事を考えると、嫌がる自分を振り切ってでもその『何か』を見ておかなければならない気がする。
だからこそ彼は微かに、本当に微かに視線を背後へ遣った。後ろの様子をほんの少しだけでも見ておこうという義務感と、少しの好奇心がそうさせた。
そして、アールは自分の行動が間違いであった事を確信した。
「……ああ、確かに、俺が振り向くと……ヤバい」
「……あーあ。私、知らない、っと」
彼の口から自然に納得する声が漏れて、カナエの表情が苦虫を噛み殺した様な『楽しそうな物』に変わる。心の何処かでは、この状況を期待していたに違いない。
背後に居た者は、確かにアールにとって禄でもない存在で、同時に見ておかなければ危ない存在で、何より----捜し求めていた、存在でもあった。
時間の経過とジェーンの行動によって少しは薄まったと思っていた感情が再び彼の体から夥しい程の規模で吹き出し、周囲にまき散らされる。
その力は圧倒的過ぎて、彼自身も、カナエも、そして視界の先に居る存在ですら圧されている。
相手のあらゆる挙動が、怒りを誘う。
例え本人にはそのつもりが無くとも、関係無い。アールは地獄の底ですら味わえない様な濃密な殺気を飛ばして、それを、恐らく動揺しているであろう相手の『仮面』へぶつけた。
「よう、Mr.スマイル……」




