10話
「ここにも、居ないか……こんなゴミを処理した所で、残るのは虚しさだけなのだが……」
カナエとリドリーがまだ戦っていた頃、『兵隊』の頭を踏み潰したMr.スマイルが、あまり楽しそうな雰囲気をまき散らす事無く血を部屋にまき散らしていた。
室内は血みどろで、家具をひっくり返した痕跡が残されている。明らかにこの場で猟奇的な犯罪、または激しい戦闘が起きたのだと示している姿だ。
そんな剣呑さしか感じられない場所を、Mr.スマイルは鼻で笑う。
仮面の奥にある顔は苛立ちの籠もった不機嫌な顔をしているのだろう。外見や雰囲気はMr.スマイルの仮面が誤魔化しているが、中身はとてもそんな気分では無いのだ。
それでも楽しさを閉じこめた一撃で、『兵隊』の体を潰して、感触を楽しむ。既に死んだ命であっても、Mr.スマイルは体を破壊する事で悦楽を覚える事が出来た。
「この連中ではジェーンの居場所など知っている筈も無いか……残念だ」
しかし、それだけでは気持ちが晴れないとその声が言っている。彼は何も、意味も無く『兵隊』達を襲った訳ではない。
何とかして理性の残った者が居ないかと探し、彼らを制御するジェーンの居場所に到達しよう。そう考えたのだ。 だが、それは無駄足に終わった。どの『兵隊』も理性の欠片すら残していない上に、どこからもジェーンの居場所を探る方法が見えてこないのだ。
まるで、ジェーンは今まさに移動しているかの様だ。動き続けているのであれば、彼らが知らないのも無理はない。
手がかりになる部屋には既に調べている。そう、今、この瞬間にMr.スマイルが居る場所こそ、先程サイモンと接触した『兵隊』達の拠点なのだ。
ジェーンの手がかりを求めて再びこの部屋に訪れたMr.スマイルだったが、結果は空振りで何も見つけられてはいない。一部、彼の後に誰かがこの部屋に来たのだろう、家具の位置が移動しているが、殆どは気にならない。
少しだけ気になった一点を思考の隅に置きつつも、Mr.スマイルは本来考えるべき事を優先する。
「……動いているのであれば、どうだ?」
独り言として口に出しつつ、Mr.スマイルはジェーンが移動している可能性を考える。どうして移動するのかも、頭の中には浮かんでいた。
----自惚れるつもりは無いがね、やはり、私が狙いなのだろうな。
激怒と憎悪をこちらに向けるであろう少女の姿を思い浮かべながらその顔を絶望と苦痛に歪ませる瞬間を想像して、Mr.スマイルは少しだけ機嫌を良くする。
ジェーンの居る組織を無茶苦茶にした事はMr.スマイルの中でも一番に大きな『楽しさ』を覚える物だった。殺し損ねた者が居るという事実もその楽しさを助長する。
憎悪を跳ね返し、地獄を叩き付けた瞬間の少女の顔はどれほど面白いか。期待に胸が膨らみ、待ち遠しい気持ちになった。
----しかし、ジェーン・ホルムスを待つだけ、というのはまずいか
一方で、Mr.スマイルはジェーンの事を警戒しても居た。彼女自身ではなく、厳密には彼女を『連れているかもしれない』人間に対して危機感を覚えていたのだ。
「……集団の奥か、一人か、それとも凄腕の助っ人か何かの側か……凄腕は、厳しいか」
『兵隊』達の集団と共に居るのであれば、ジェーンまで辿り着くのは簡単だ。当たり前だ、そんな集団が船を歩いていれば、目立つ。
『兵隊』達がMr.スマイルに虐殺される程度の力しか持たない為に、発見してからジェーンを捕まえる事も片手仕事だ。『兵隊』達を倒していく事でジェーンを徐々に追いつめていく快感を得られそうな事も含めて、一番望むべき展開と言えるだろう。
しかし、現実には『兵隊』達は明らかに戦力を分散させて、船中を荒らし回っている。その可能性は無い。ならば一人か、『凄腕の誰かの隣』、そのどちらかだろう。
もし、隣に『凄腕の誰か』が居れば面倒という話ではない。エドワースにとってのボスやリドリーが相手では、例えMr.スマイルでも厳しい戦いになる事は避けられないのだ。
そして、Mr.スマイルは何となくの直感で、ジェーンが凄腕の誰かの隣に居る事を理解していた。
彼の直感は、当たっている。彼女は今もリドリーと行動を共にしていて、ある意味では絶対に安全な立場に立っているのだ。
自分の中に芽生えた途方も無い嫌な予感を、Mr.スマイルは素直に受け取る事にする。そう、ジェーンの側には、自分ですら手こずる程に強力な力を持つ者が付いているのだと。
「……気に入らないな。私とボス以外で私以上の力を持つなど」
Mr.スマイルの中のエドワースはそれが誰かは分からずとも、姿すら知らない相手へ嫉妬めいた感情を向ける。彼は仮面を被る事でやっと強者の側に回っているが、普段は臆病者で有名な自他共に認める弱者だ。
それを嘆いて、彼はMr.スマイルになる事を決意したのだ。自分より優れた存在への嫉妬心は人一倍である。
「おっと、いけないね。私は今、Mr.スマイルなのだ。この様な醜い感情は捨ててしまうに限る」
嫉妬の余り拳を握りしめていた事に気づいたMr.スマイルが、エドワースとしての自分の気持ちを黙らせて笑い声を上げる。少し、無理をしている様にも聞こえた。
しかし、Mr.スマイルはそんな自分を馬鹿にして一笑すると、拳を開いて力を抜く。
一瞬の事だ、まるで別の人格が入れ替わる様に仮面の奥にいる男が沈黙し、仮面が作り上げている嘲笑だけがそこに残った。
「ふふ、だが面白い。ジェーンは何処へ行ったのか、誰と共に行くのか? 恋人か? これからはつまり……くはははっ! やはり面白い!」
臆病で嫉妬狂いのエドワースを黙らせたMr.スマイルは、再び楽しそうに笑い声を上げている。まるで悪鬼悪霊の類が人を虐げる事を喜ぶ様な声だ。
人間が出せる笑い声ではない。いや、声自体はくぐもっていて正体を隠しているだけだが、その中に含まれている物が人間だとは思えないのだ。
耳が塞ぎたくなる程のおぞましさですら、そこには含まれている。雰囲気は完全に歪みきっていて、やはり彼がエドワースと聞かされても信じる者はそうは居ない筈だ。
何も意識する事も無く自分の正体を隠蔽して見せるその姿は、彼自身が綻びを見せなければとてもではないが見通せる物ではないだろう。
「くはははははぁっ! よしよし、面白い! さあ私に姿を見せてくれ、可愛らしい少女のジェーン!」
楽しさが極まりすぎたMr.スマイルは、自分が潰した『兵隊達だった物』を両手で一つずつ担いで、窓へ近づいていった。
そして、Mr.スマイルはゴミでも捨てる様な気安さで『兵隊』達を窓へ投げ込む。武装した人間の体だった物は確実に窓を突き破って飛んでいき、途中からは力を無くしたかの様に落ちていく。
異様な光景、ではない。彼にとっては先程も行った、単なるゴミ掃除だ。余計な大きい肉塊を廃品として捨てている、程度の認識しか彼は持ち合わせていない。
では何故----Mr.スマイルが、窓を割った瞬間から動きを止めたのか。
それは、何とか残っていた部屋の防音効果が窓を突き破る事で消え去り、ある笑い声がやっと彼の元へ届いた為だった。
「ははは、はあぁはははああああは、くふうふあぁああぁあああぁ!!!」
異様すぎる笑い声が、彼の耳へ通って鼓膜と精神を揺さぶる。耳を塞ぎたくなるどころか、耳を潰したくなる程の恐ろしい声だ。
しかし、そんな笑い声に対してエドワースは嫌そうに眉を顰めるだけに止まって、それが終わると困った様な顔を浮かべていた。
「……あの変態は何をやってるんだ」
透き通る様な『おぞましい声』を耳に入れたMr.スマイルが困惑した様子で溜息を吐く。声の主に、彼は心当たりがあったのだ。
その声は彼がエドワースとして組織の中に居る時によく聞いた、耳に入れただけで心を侵略する感触を与える恐ろしい声だ。
普段から過度なスキンシップの多い女だけに、エドワースも背後から抱きしめられながら耳元で言葉を囁かれ、その日は臆病さが普段より数倍になった記憶がある。
悪戯好きで顔は笑顔、面白い事に目が無く、悪人と呼ぶには優しげで、善人と呼ぶにはおぞましすぎる。そもそも人間扱いしたくなくなる、『変態』と呼ぶのが最も似合う女。
それが彼女----エィストへの、仲間達の正しい評価なのだ。
「……関わりたくないな、ああ、例え私がMr.スマイルであっても、関わると禄な目に遭わない事が見えている」
笑い声を聞いた瞬間から、Mr.スマイルの声の中には楽しそうな物の他に面倒そうな色が混じり込んでいる。
彼にとって、エィストは恐れる対象では無い。臆病なエドワースをからかう素振りはあったが馬鹿にはしなかったし、危険な目に遭った時は助けてくれる。時折鬱陶しい事と自らの内側から来るよく分からない不快感に目を瞑れば、むしろ仲間達の中でも信頼出来る程だ。
しかし、エドワースは彼女を苦手としている。自分の非力さを見せつけられるから、ではない。人間らしくない彼女の雰囲気は、妬む気持ちすら抱かせないのだ。だから力は関係無い、そもそも性格が苦手なのだ。自分に足りない物を見せつけられているかの様で。
「ああ、まったく。私だってエィストは苦手なのだ。関わりたくない、関わりたくないぞ」
独り言を呟きつつ、Mr.スマイルは部屋の中を何周か回る。その姿はとても嫌そうで、同時に迷う様な色が存在している。
実際に、彼は迷っているのだ。確かにエィストは大の苦手で、関わりたくない存在である。しかし、接触する事には大きな利点が存在する事は確かだ。
何でも知っている様に振る舞い、実際に大抵の事を把握している彼女は時に知る筈の無い情報までどこかから手に入れている。
超常的な力でも使っていると言われた方が納得出来る。そんな彼女に、Mr.スマイルは期待しているのだ。
「あの人ならば、ジェーン・ホルムスが今どこに居るのかくらい知っていそうな物だが……」
彼女であれば、ジェーンの居場所を知っているのではないか、と。
信頼性の無い勘の様な物だが、彼はエィストがどれほど多くの情報を持っているのかをよく知っている。例え、船内で移動し続けるジェーンが今、どこで、何をしているのかを把握していたとしても不思議には思えない。
だからこそ、Mr.スマイルは迷う。
ジェーンをすぐに捕まえ、今日の苛立ちも喜びも全て彼女で使い果たす代わりに、エィストと接触する。もしくは、接触しない代わりにジェーンを自分で探す。
どちらも、余り嬉しくない選択肢である。エィストと接触すれば面倒な事になるのは目に見えている。
何より、彼女は『エドワース』をよく知っている。一見しただけでMr.スマイルの仮面の奥を見抜かれてしまうかもしれないという不安も、あるのだ。
「……だが、もう知っているという可能性もあるか」
自分の中の不安を嘲笑しながらも、Mr.スマイルは別の可能性を考えている。
そもそも、エィストは自分の正体を知っているのかもしれないのだ。いや、異常な程の情報量をどこかから手にしている人物だ。その方が不思議は無いだろう。
組織の他の仲間であれば、Mr.スマイルの正体を知った瞬間にボスに伝えるに違いない。しかし、先程出会った亜『ボス』は自分をエドワースとは見ていなかった。
エィストが自分の正体を知っている可能性と、知らない可能性。明らかに、知っている可能性の方が高い。そこまで考えて、Mr.スマイルは少し期待を寄せる声を漏らした。
「つまり知っていて、誰にも言っていない。そういう事だと思って良いのだな」
少々楽観的だと考えたが、Mr.スマイルにはその方が自然に思えた。何せ相手はエィストだ、自分だけ知っている重大な事を周囲に隠すくらい、何時もの事である。
そこまで考えて、Mr.スマイルは部屋の中を回る事を止めた。仮面の奥の顔はまだ迷っている様だったが、既に何かを決めた様だ。
そんな雰囲気を漂わせて、部屋の扉を開ける。
笑い声は聞こえなくなっているが、方向は覚えていた。それなりの距離はあるが、少し急いでいけば大した時間を消費する事も無いだろう。
エィストに接触する事を決めたMr.スマイルは、部屋から出ていこうとする。そもそも、どうやって彼女から情報を聞き出すのかは考えていない。『聞けば答えてくれる』と期待している風にも見える。
Mr.スマイルは扉を開けて、一歩踏み出した。しかしすぐに立ち止まると、何か忘れ物でもしたかの様に部屋へ戻る。
「……その前に、やっておくべき事があったな」
一言呟くと、部屋の家具のあった場所へ向かう。そこには幾つかのモニターがあったが全て壊されていて、文字が書かれている。
Mr.スマイルがそこに居た事を示す内容が書かれていて、肉片混じりの血文字は如何にも彼らしさを演出していた。
それを見たMr.スマイルは何を思ったのか、血文字を消す。そして先程自分が捻り潰した『兵隊』達のまだ暖かい血を手に塗り付けると、同じ場所に指で文字を描いた。
『次も、その次も、その次もお前達だ Mr.スマイル』
思った以上に読みやすく、綺麗な字で描く事が出来た。それに関して満足感を覚えたのかMr.スマイルは軽く笑い声を上げ、今度は振り返る事も無く部屋から消えていった。
この船に乗っているのが、エィストであってエィストではない者----『カナエという役を演じているエィスト』である事を、彼は知らなかった。
勿論、大した差ではないのだが。
+
「あぁー、痛い! 辛いねー、苦しいかも! 悲しい? 眠いかも、ううん、眠いけど……寝たらそのままな感じもするね」
一方、Mr.スマイルに苦手意識を抱かれているとは知りもしないカナエは、とある場所に掴まって船にしぶとく残り続けて何やら妙な調子で呟いている。
そう、彼女は自分のボスに合図して撃たれはしたが、船から滑り落ちては居なかったのだ。体中から血を流していても、腕はしっかりと船を掴んでいた。
だが、普通は落ちている筈なのだ。体を何度も銃弾によって貫かれて、船の手すりから落ち、海には落ちていない。どう聞いても無理がある。
「あはは、うーん。痛い痛い、ボスもさ、ちょぉーっと痛くない場所を狙ってくればねぇ」
不思議な事に、口に刀をくわえているというのに声はその場に響いていた。
彼女は痛みに眉を顰めながら、それでも楽しそうに笑っている。愛する人を見つけた時の様に幸せを心から見せつける姿からは、とてもではないが怪我を負っているとは思えない。
カナエは上機嫌な様子で自分が感じる痛みとこの状況を楽しんでいる。そう、船の手すりに掴まっている、この状況を。
そこは、彼女が船から滑り落ちた階から見て『上』の位置だ。何故、落ちた筈の彼女が上に登っているのか、誰もがこの疑問を抱くだろう。
実際、落ちてはいたのだ。だが、落ちたと同時に船の微かな突起を見分ける視力と脚力だけで彼女は壁を『走って』幾つか上の階にまで辿り着いて見せたのだ。
登りきらずに手すりに掴まる所で止まってしまったが、それはまさしく人知を越えた動きと言えるに違いない。
しかし、そんな技を成し遂げた事への達成感など欠片も無く、カナエは楽しそうに何事かを呟いている。
「ともあれ、ちょっと考え事に走っちゃうのはまずかったかな。ちょっと『素』が出ちゃったし。うん、後でリドリー君にはお詫びをしないとね」
笑顔を見せながら、ほんの少しだけ困った風な顔付きになる。彼女は本心からリドリーとの『アクションシーン』を楽しんでいた。少なくとも、最後までそこは変わらない。
だが、途中から視界の端で起きた事に気が取られてしまった。その瞬間から、彼女はリドリーとの楽しい行為に集中が出来なくなってしまったのだ。
相手からすれば、気を悪くしてしまうのも無理はない。それを申し訳無く思ったからこそ、彼女は少しだけ俯いている。
十秒と少しくらいはそれが続いた。
しかし、その後はまたすぐに明るい笑顔に戻り、今度は疑問に首を傾げる。まかり間違ってリドリーを殺していたとしても、同じくらいの時間で同じくらいの顔をしていたに違いない。
手すりに掴まってぶら下がっている状態で首を傾げる姿はとても器用だ。そんな動きをする事は難しいが、豊かな感情表現が疑問を抱く彼女の姿を見せつけている。
「……それにしても、コルム君なんか連れて……あの人は何をしでかすつもりなんだろう」
疑問の内容は、リドリーとの戦いの間に視界に入った男がカナエ以外には誰にも気づかれず、何故かコルムを背後から拉致していったという事実から来る物だった。
通路の曲がり角に居たコルムを背後から拉致した男は、激しい戦い『の様な物』から逃れる様に逃げていった。ジェーンの存在にも、気づく事は無い。
その男の顔と名前を彼女は知っている。だが、どうしてそんな事をしたのかという一点が気になって、それ以外の情報は頭に浮かべる事すらしない。
「んー……分からないなぁ。プランクさんならともかく、あんな人を連れていったって……」
暗にコルムを馬鹿にした内容を呟きつつ、やはり彼女は器用に疑問を顔に出す。
その顔はまるでルービックキューブの様に様々な色を浮かべ、時には一つの感情だけになる。海と船以外は、誰も彼女を見ていない。だというのに、彼女の表情は本当によく変わった。
疑問と享楽が混じった顔はどこか神秘的でもあり、中身が考えている事を探らせない。そういう意味でも、彼女のこの外見は大いに意味のある物だ。
「……むむ、コルム君に用事があるんじゃなくって、プランクさん、いやプランク君の方が良いかな。まあどっちでもいいけど、あの人の部下に用事があったのかも」
俯いて見せた時間と同じだけ考え込み、彼女は答えを出す。
それは、半ば当たっていた。コルムを連れ去った男、サイモンは『麻薬の売人達に薬の場所を聞き、ボスに会わせてプランクと交渉が出来る様に動かす』為に、そんな行動に出たのだ。
「これ、正解かなぁ。どう思う? うーん、思わない。近いけど、正解じゃないって気がしなくもない。そうだ、それだね……うん、これでいいや」
自分の中に居る自分と会話でもしているかの様な話し方である。盛大過ぎる独り言とでも呼ぶべきだろうか、楽しそうに自分と話す姿は少し変人の様に見えるとはいえ、先程までの狂気を充満させた『カナエ』とは大きく違う。
あの狂笑と人斬りが得意技と言っても過言ではないカナエに慣れていれば、むしろ今の彼女の方が異様なくらいだ。外見が同じでも、雰囲気はまるで別人である。
「よしよし、正解っぽい答えも出た事だし……そろそろ登るべきかな? もしかして降りるべきかな? ボスとリドリー君はもう居ないみたいだし……」
そんな彼女は自分の疑問に一旦蓋をして、自分の上方と下方へ目をやった。
下の階は、彼女自身が先程まで居た場所だ、彼女が落ちたフリをしてから少しの時間が経っている、リドリーとジェーンとケビンは居ないだろう。
対する上の階は、誰が居るかなど想像も出来ない。もしかするとそこには彼女を海へ叩き落とす程の実力者が居る、かもしれないのだ。
慎重な判断が必要だが、運が最も大事な要素になるだろう。
だがどちらにせよ、彼女は確認する気が無かった。腕の力だけで顔を上に運んでそこを覗く事も、壁を這う様に動いて下を覗き込む事も出来るが、彼女はそれを実行しない。
自分の身の安全を守る意味がある筈だが、もちろん彼女はそんな事を気にしない。『開ける前にそれが宝箱なのかゴミ箱なのかを確認するのは野暮だ』。それだけの意志で、彼女は安全策を選ばない。
「どっちが、良いかな。どっちかがより面白い結果を招くと思うんだけど、どっちだろうかな」
首を何度も上下させながら、カナエは迷っている。どちらの通路に誰が居るのかを確認する気も無いらしく、気配すら探っていない。
ただ、中身が分からないプレゼントを貰った少年の様に目を輝かせていて、幸せに満ち溢れた雰囲気を漏らしている。
本当に迷っている事がよく分かる姿だ。おぞましい笑顔ばかり浮かべているよりは彼女の自然体に近く、子供っぽい様子がよく似合っている。
一分くらい、そんな状態を彼女は続けた。リドリーへの申し訳ない気持ちやコルムを拉致した事への疑問を処理する時間よりも遙かに長い。それは、カナエがより興味を持っているという意味だ。
「……よし、上にしよう」
唐突に、カナエは決めていた。何をどう考えていたかを周囲に見せる事も無く、どちらかと言えばその場の気分で決定した様だ。
「考えてみたら、さっき下には行ったんだよね。じゃあ上の方が良いや……内装は同じだから装飾品を楽しんだりは出来ないね」
しかし、彼女にも『上』を選んだ理由が少しだけあった。本当にくだらない、適当極まる理由ではあったが、確かにあった。
それは、彼女がこの決定をさほど重要視していないという意味でもある。よれよりは決定する前を楽しんでいた様だ。現に、迷っている時の方が彼女は面白そうに見えている。
風に髪をなびかせながら、彼女は微笑んでいる。目はもう下も上も見ていない。決定したのだ。カナエは、少し腕に力を入れた。
「……そうと、決めたらっ!」
手すりを強く握りしめたカナエは掛け声と共に壁を蹴って、両手以外の体を空中に浮かせた。
リドリーが投げた爆弾から身を守る時と同じく、彼女の体は中に空気が詰まっているのかと思う程にあっさりと浮き上がって、船に対して垂直になる辺りで止まる。
ここからは、爆発から逃れた時とは違う動きだ。カナエはあえて体を中途半端に浮かせていた、そのまま、彼女の体は重力に任せて落下していく。
完全に体が浮き上がった訳ではないのだから、当然だ。しかし、カナエは手すりを掴んでいた為に海へ落ちる事は無い。代わりに、体は『船の壁へ落ちて』いく。
これこそが、彼女の狙いだ。壁に勢い良くぶつかった足はその衝撃で背後へ向かって浮き上がる。そのままではただ船から飛び降りているだけだ。
その動きから船内に戻るとすれば、体が完全に浮き上がってから飛び込むしか無いだろう。しかし、カナエはそんな常識的な動きはしない。前へ、前へ行って船の中へ、彼女はそれしか考えていなかった。
「ここで、こうやってぇぇぇぇー!」
壁に足が追突する寸前、彼女は声を上げて足に力を入れた。すると、彼女の足は脚力によって動きを捻じ曲げられたではないか。
後方へ行く筈だった体は、足の微妙な位置を変える事で方向性を意図的に変えられ、船の内側である前方へ向かう事になった。
もう、船の中は目の前だ。彼女は体が再度浮くのと同時に手すりを掴んでいた腕を放して、そのまま船内に飛び込んだ。
一瞬だが、異常な動き。傍目には、彼女が船を引き寄せた様に見えたに違いない。
「くぅぅうう! 成っっ功! うん、ちょっと面白かったかな!」
通路に着地した途端、カナエは思わずガッツポーズを作って自分の体を祝福する様に抱きしめる。口には相変わらず刀があるが、やはり声はこの状況でもよく響いた。
「一回もやった事無かったんだよね、上手く行って嬉しい! ご褒美に撫で撫でしてあげる!」
体から手を離した彼女はその場に座り込み、次いで自分の足を撫で回し始めた。まるでペットか何かでも扱う様な、自分の体を自分の物だと思っていない様な雰囲気が出ている。
両手で両足を撫で回した彼女は、ひとしきり撫で終えると片手でもう片方の手を撫で始める。そこはリドリーの投げた爆弾による火傷の痕がある為なのか少し優しく、労る様な手つきだ。
どちらにせよ、明らかに自分の体を自分の体として見ていない。どちらかと言うと、成功が困難な技を成し遂げたアスリートを労る様な扱いである。
数秒もすれば、彼女は自分の体を撫で終えた。満足そうな顔だ。しかし、何かを思い出したかの様に自分の口元に手を近づけた。
「あはは、ごめんね。忘れてたよ」
そこにあった物を確認して、カナエは口にくわえていたそれを手に持ち変える。抜き身の刀だ、煌めく刃には一片の曇りも無く、切れ味が落ちる様子も見られない。
だが、何故かその刀を見ていると、不機嫌さが伝わってくる様な印象が伺える。まるで、刀が意志を持っているかの様に。
「あーもう! だからごめんなさいって! 今度、今度船から落ちた時は君を使うからさ!」
刀に詫びを入れながら、カナエは刀も撫で回す。刀身に思い切り振れているというのに不思議と彼女の体に傷は付かず、まるで刀が渋々と納得している様にも見えた。
だが、そう見えるだけだ。刀はただの刃物であり、カナエにはその意志か何かが見えている訳ではない。当たり前の事ではあるが、彼女を見ているとそんな気がしないのだ。
それはまるで心を刀に宿そうとしている様で、一方ではただの人形遊びにも見える。彼女はそのまま刃にキスをして、丁寧に床へ置く。
鼻歌混じりで体の血を吹き払い、そっと髪に触れると不満そうに頬を膨らませる。流れる様な黒い髪には赤い血が多量に付着していて、髪を赤黒く変貌させていた。
「むむぅ、リドリー君めぇ……髪に血がついちゃったじゃないか。これ、セットするのは大変なんだぞ?」
リドリーへの文句とも言えない何かを呟きながら軽く自分の髪の毛を撫でて、カナエは軽く笑い声を上げた。
赤黒い血と一体化した黒髪からは怪しげな雰囲気が漂っていて、見る人が見ればもしかすると妖艶に感じられるのかもしれない。
恐らく、意識的に自分の雰囲気を変えているのだろう。他者に見せつける様な動きからは、彼女自身が自分の外見の凄まじい美しさを認めている事がよく分かる。
外見とは見合わない言動を取っているのも、それが分かっている為の筈だ。見た目の印象を台無しにする事を楽しんでいる。
まるで、自分自身の身体を『意図的に作り上げた人形か何か』の様に扱う姿は、誰がどう見たとしても異様に見えた。
「ふふ、やっぱり……気分良いね。楽しいや、気持ちいいや、嬉しいね。青年の時も良いけど美女の時もまた良し!」
心から人生が楽しくて仕方が無いという笑顔を浮かべたカナエは、見る人の心を和ませるかもしれない。周囲を意図的に幸せにする態度からは、危険な色はどこにも無い。
「さって、と! そろそろ楽しい時間に戻りたいな。よし、そうと決まれば!」
カナエは、休憩時間を終えるかの様に立ち上がった。膝の辺りに着いていた埃を払い、彼女は楽しそうに笑い続ける。それ以外の表情など知らないと言わんばかりに。
彼女はもう、あの血に狂った女ではない。明るく元気な雰囲気を纏った少し変わり者の美しい女性、そんな人間を『演じている』。
奇妙な様で自然、自然な様で不気味。彼女の正体がそういう物だと見せつけている様にも取れる姿だ。
「……なあ」
そんなカナエの目の前から、困惑した様な声が届いて来た。いつの間にかそこに居た男の声は、しかし自分の世界に浸りきった彼女に届く事は無い。
男は面倒臭い物を見てしまったと溜息を吐いている。カナエが何者なのかを確実に知っている態度だ、だが、彼は『エィスト』のボスに当たるケビンでも、『カナエ』のボスに当たるプランクでもない。
その二人とも関係はあるが、彼自身は目の前の女を部下にした事は一度も無いのだ。
「さあさあ、次はどうしようかな、どうしようかな? ご飯でも食べる? ケーキとか好き? 私は大好き。甘味は何でも好きだよ! あ、でも……ふふ」
独り言に夢中の彼女は、目の前に誰かが居る事など気づいてもいない。深層意識では気づいている可能性もあるが、少なくとも表面的にはそんな気配は微塵も感じられなかった。
より一層疲れた顔をした男は、カナエの肩に手を置いて揺さぶる。だが自分の頬に手を当てて頬を赤くする思考が行方不明になった女は首を可愛らしく振るだけだ。
「おい」
「んー? いやぁ、あんな凶悪な変態演じてるとやっぱり恥ずかしいかな? でもあれ、スッキリするよ。どんな内容でも叫ぶとストレスって結構消える物なんだなぁって!」
両手で肩を掴んで目線を合わせても、女は目の前に誰かが居る事に気づいていなかった。よく分からない気配を放って、この世ではない何処かと会話でもしているかの様に遠くを見ている。
不気味さ此処に極まれり、しかし恐らくはこの態度すら演技に過ぎないのだろう。彼女の本来の雰囲気を知っている男は冷めた口調で、今度は耳元で声をかけた。
「……ストレスとは無縁の奴が何を言ってやがる」
「あー! 酷いんだぁ! 私だってぇ……ぇえ? う、うぇ?」
そこで、ようやく彼女は男の存在に気づいた様だ。言葉は途中で途切れ、呆然とした様子で隣にある男の顔を見る。
両肩を掴み、耳元へ口を近づけている姿は、見ようによっては抱きしめる前の段階に見えなくもない。そんな状況に自分が置かれている事に気づいた彼女は、より一層混乱した顔になる。
「本当に気づいてなかったのか、全く……さっきから何度も何度も呼びかけたんだがな」
男は彼女の肩から手を離し、少しだけ距離を取る。嫌そうな顔をしているのは、接近し過ぎた事で彼女が発する何かが脳に直接叩き込まれる様な気分になった為だ。
そんな男の顔をまじまじと見つめて、カナエは現実から帰ってきていない表情を続ける。状況を理解できない、そう言っている様だ。
「ん…………ん、んん? んんんん? あ、あれ……君は?」
何も理解できていない声が彼女の口から出て来た。先程までの奇妙な態度は消え去り、頭の処理が追いついていない女だけがそこに残されている。
心の底では絶対に理解していて、なおかつこの状況を楽しんでいるのだろうが、それを指摘するのは面倒なので男はその点に関しては何も言わない事を決めた。
だが、代わりに男は別な言葉を告げる。
「……随分、お前は変な事をしているんだな。何でそんなに、あー、何て言えば良いんだ? 随分、変わってると言うか……」
男の言葉の中には、確かな困惑が見て取れた。
だが、カナエが自分の体や持っている刀を撫で回し、刃にキスをして、さらに妙な独り言を続けるという奇行を近くで目撃していた彼がそんな気持ちになるのは当然と言えるだろう。
困惑と疑問で二色に染め上げられた言葉を聞いたカナエの反応は、見事な物だった。ようやく状況に頭が追いついたらしく、一気に恥ずかしそうな顔をして呻いたのだ。
それは珍しい表情だと直感で理解出来たが、『副業』ですら使わないと判断した彼は写真を撮る事は無い。
無意識の内にメモ帳に手を置いていた男の格好は、彼の『副業』を明確に示していた。そう----新聞記者のアール・スペンサーという、彼の身分を。
そして、『本業』であるホルムス・ファミリーのボスとして、彼はカナエ、いやエィストに会った事があるのだ。
彼女も、当然ながらそれを覚えている。だからこそ彼女は本当に恥ずかしそうになったのだ。
「う、うぁ…………わ、忘れてくれぇっ!」
カナエは、楽しそうなままに顔を真っ赤にした。




