8話
「……今、何か……気のせいか」
爆発が起きたその瞬間、男は自分の優れた感覚に衝撃の類が伝わってきた事を認識して周囲を見回し、何も起きていないと確認してまた歩き出していた。
気のせいと断じてはいるが、彼の感覚は正しい。それなりに離れた場所ではあっても爆発は実際にあった物だ。微かな物でしかなくとも、彼は気づいている。
しかし、気に留めずに動き出してしまうのでは折角の優れた五感も第六感も、無意味な物だ。そんな間抜けな失態を犯したサイモンは、通路を苛立ちを込めて歩いていた。
まだ、ジェーンもパトリックも、彼にとってのボスも見つけられていない。それどころか、この状況の協力者になりうる人物すら発見出来ないで居る。
あったとしても、死体だけだ。そして、また足下に死体が転がっていた。
「……違うな」
仰向けに倒れる死体を機械の様な正確さで蹴り転がし、顔を確認したサイモンは安堵と落胆の混ざる溜息を吐き、また前を向く。
先程から彼は同じ事を繰り返し続けていた。通路を歩き、転がる死体を見えジェーンやアールでは無い事を確認し、また歩く。何の成果も得られてはいない上に、退屈極まる作業だ。
時折、『兵隊』達が彼を見つけては銃撃を繰り返してくるが、もう敵ではない。
「……またか」
今も、また『兵隊』達がサイモンを発見して来た。三人組で、船を捜索していたのだろう。動きやすい軽装を纏っている事がそれを感じさせる者達だ。
虚ろな目をしてサイモンを見つめている。無害な様に見えて、いつかの瞬間には即座に銃を構えて撃つくらいの事は可能だ。
その瞬間、彼らには明確な隙が出来る事をサイモンは知っている。身体能力が化け物の様に高められた訳ではない彼らは、銃の反動で微かに動きが鈍るのだ。
特に、側に居る三人の『兵隊』は挙動こそ手慣れた殺し屋の様でも、その肉体は鍛えられている訳ではない一般的な物だ。勿論、挙動だけで十分に脅威になり得るのだが。
「未完成品を使うとは……あいつめ、焦ったか。それとも思考も出来なくなったのか」
呆れた様にサイモンが呟く。『兵隊』達にはまだまだ多くの改善点が、門外漢の彼にすら分かる程多く存在した。
その一つが、今彼が見抜いた物だ。
ここまでの思考と独り言に、彼は二秒もかけていない。この『思考』を手放す、という事自体が、『兵隊』にとっての最大の弱点に感じられる。
近くで三つの銃口が向けられているというのに、サイモンは全く動揺していなかった。むしろ先程よりもずっと余裕が表情に現れていて、不審に見える。
『兵隊』達に人間としての真っ当な思考力があれば、この時には既に危険を感じて逃げているか、相手に策があると見て警戒するか、そうではないにしても相手の余裕の理由を考えるくらいはする筈だ。
実際にはどれでも無く、『兵隊』達は虚ろな目をしている。
機械的すぎるのだ、命令に反しないという意味では信じられるが、機転も何も無い彼らに行動させる事は余り良い結果を招かないとサイモンは感じていた。
「……」
その場に銃声が響き渡る。
サイモンがそんな事を考えているとは知る由も無く、『兵隊』の一人が黙ったままで銃の引き金を引く。すると他の二人も追従して引き金を引いたのだ。
思考が無い彼らには、サイモンの行動に対する警戒が無い。機械的に銃弾を放ち、相手の体を蜂の巣にする事だけが彼らにとっての正解だ。
しかし、銃弾はサイモンの体を貫く事は無く、代わりに三人の『兵隊』の一人から血を吹き出す結果を作り出した。
「……?」
残った『兵隊』は何が起こったのかを判断し、対応しようとする。彼らが撃った銃弾が弾かれた、というあり得ない可能性は頭に浮かばない。
サイモンが何をしたのかは『兵隊』達にとってはすぐに理解出来る事だ。何せ、彼らは視覚情報でサイモンの行動を記憶していたのだから。
普通の人間であれば呆けた声を上げて起きた事を処理する事に時間が掛かってしまっただろうが、そこは驚愕という感情など既に消滅した『兵隊』達だ。状況を飲み込む事などたやすい。
「やっぱり、内外に信頼されないっていうのは不味かったか……売人連中に会ってもこっちが初めから薄汚いクソだと思われるなら、交渉の余地も無いよな」
声が、『兵隊』達の側面、海が見える窓の向こうから響いてくる。そこには、窓の枠を腕の力だけで掴んで『兵隊』達へ声をかけるサイモンが居た。
どうやってそこに行ったのかを『兵隊』達は知っている。銃弾の引き金を引いたその瞬間、サイモンは凄まじい速度で窓へ体を突っ込み、ついでとばかりに拳銃で一人の頭を撃ち抜いたのだ。
普通であれば、そのまま海へ落ちて死んだと判断しても仕方の無い技だ。生きている筈が無いと機械的に考えた『兵隊』達の予測を裏切って、サイモンはそこに居る。
「でもな、こういう時を考えてなかった俺は馬鹿だ。そうだよ、そう思われても仕方が無い」
窓枠に掴まった腕の力だけでサイモンは体を持ち上げて、壁を蹴り上げて体を浮かせる。一瞬の浮遊感と友に笑みを浮かべたサイモンは、静かに『兵隊』達を見る。
それと同時に窓枠を引っ張る様に腕に力を入れて、体を無理矢理に引き寄せた。まだ、一瞬の時間も経っていない素晴らしい程の早さが『兵隊』達の反応を許していない。
船の内側まで体が近づいた。その瞬間にサイモンは窓枠を蹴り上げ、『兵隊』の一人に体当たりをしながら船内に戻って来た。
「なあ、そう思わないか?」
相手の体を叩き伏せたサイモンは足で踏みつけて立ち上がり、顔を蹴り付ける。どこか自分の苛立ちをぶつける様な動きで、威力はさほど大きくない。
その為に気絶しなかった『兵隊』は踏まれながらも、銃口を向けて銃撃する。その横に居る残った一人もまた銃撃し、サイモンを迎撃した。
無駄な事だ、と言わんばかりに強烈な嘲笑を浮かべたサイモンは流れる様に体を動かし、自然な動きで射線から逃れる。
だが、別方向から放たれた二つの軽機関銃の弾を避けるなど不可能だ。数発の銃弾がサイモンの体を掠る。
致命傷になる事は無かったが、危険性はある。そう認識したサイモンは一瞬の内に舌打ちを一つして、凄まじい早さで立っていた『兵隊』の後ろに回り込み、盾にした。当たる筈だった銃弾は『兵隊』の一人の体に当たり、致命傷を与える。
頭に穴が開くと同時に力を失った『兵隊』の体を盾にしつつ、サイモンは『兵隊』の腕に握られて硬直していた機関銃を掴み、先程踏みつけた方へと向けた。
銃を向けたサイモンは、静かに呟く。
「そう、思うだろ?」
言葉から受ける印象とは違い、声音では同意を求めている訳ではない事がすぐに分かる。ただ、独り言を呟いていただけだ。その証拠に、サイモンは相手の反応を見る事もしないままで引き金を引いていた。
銃弾は容赦無く『兵隊』の体を撃ち抜き、一瞬の内に相手の体を蹂躙して破壊する。痙攣する様な動きと共に穴が増えていき、既に命を失った者の形を損なわせる。
そこまで行った所で軽く溜息を吐いたサイモンは引き金から指を離し、自分の行いに対する苦笑を浮かべた。
「思うよな?」
肩を竦め、また一言だけ呟く。我ながらやりすぎた、彼の顔はそんな感情を露わにしていて、自分に呆れている事がよく分かる姿だ。
言いながらもサイモンは倒れた『兵隊』達の装備を手に取る。が、数秒もすれば残念そうに武器を海へ投げ込み、不満そうな顔を浮かべた。
彼の服は船員の物だ。変装の為に着込んだのだが、着替える時が無かった為にそのままの格好で通路を歩く事になっている。そして、船員の服には、機関銃を仕舞う場所も隠す場所も無い。
頼もしい武器があるというのに運べないという事実はサイモンを面倒な気持ちにさせた。
思わず、サイモンは死体に一度蹴りを入れていた。
「……思えよ」
静かに一言を告げて、サイモンはどこかの部屋から奪ってきたシーツで血を拭き取っている。血は体の至る所に付着していたが、血飛沫を浴びたという程に致命的ではない。
意識的に、血が当たらない位置へ動いていたのだ。怪しまれない為の措置である。
「……」
----これから、この船はどうなる?
丁寧に自分の体を拭きながら、サイモンは今後の事を考える。この船の上で何が起きているのかの全てを彼が知っている筈も無い。
パトリックが『Mr.スマイル』という名前の入った血の書き置きを見つけていても、リドリーという名前の男が歌い始めてジェーンが面倒そうな顔をしていても、それは彼の知る所ではないのだ。
しかし、何とか予想しようという気持ちは本心から存在する。船のこれからを予測出来れば、誰よりも素早く行動して対策を練る事が出来るだろう、と。
真剣そのものの表情でサイモンはその場に立つ。そんな彼の耳に、とある声が聞こえてきた。
「急げ! もし移動したら、見つけられなくなる!」
「そんなのは分かってるんだよ! こっちは銃持ってあのゴミ共が居ないか確認してるんだ! 文句を言うんじゃねえ!」
少し離れた場所から届いたその声はサイモンにとって聞き覚えのある物ではなかった。しかし、深刻さと命の危機を感じている事がしっかりと伝わってくる声なのは明らかだ。
思わず、サイモンはその声が聞こえた方向に意識を向ける。それまで考えていた今後の予測を一旦止めてそちら側で何が起きているのかを考え、音も無く移動する。
少々の距離はあるが、それくらいは彼にとって大した物ではない。恐らく、声の主達は『人間的で真っ当な』身体能力の持ち主なのだろう。
すぐに走っている者達の近くまで追い付く事に成功したサイモンは、素早く身を隠して様子を窺った。
----こいつらは……この船の……
気づかれない程度に視線を急ぐ者達へ向ける。彼らの格好はサイモンにとって記憶に残っている、いや、『今も着ている』物だ。相手の素性を理解するのに時間は必要無いだろう。
そう、今の彼と同じ船員の服に身を包んだ者達である。恐らくはサイモンとは違い正規の職員なのだろう。自分を偽っている様には思えない。
彼らを本物の船員と見たサイモンは、続いて彼らが何を急いでいるのかを予想する事にした。
----確か、この船はプランク達が共同で所有する物の筈だが……なら、あの連中もプランクの?
船員達が急いで動いている理由を、サイモンはプランクの命令に寄る物と見た。そして、その判断は間違ってはいない。彼らは、プランクの書いた紙の届け先を探しているのだから。
視線の先の者達は如何にも余裕が無さそうに周囲を警戒し、移動を続けている。
大した早さではない。サイモンであれば容易に、尾行にも気づかせずに近づく事が可能だろう。現に、一定間隔の距離を取っていれば船員達は気配にすら気づく事はないのだ。
余裕の生まれたサイモンは船員達の中の、特に一人の雰囲気を観察して、ふと思った。
----あの様子だと我慢の限界で走るな、間違い無く。
サイモンが注目したその一人は、緊張感と苛立ちと焦りが頭の中が混ざり合っている事がすぐに分かる顔をしていた。あのままでは、すぐにでも一人で前に出てしまうだろう。
----情けない奴だ……いや、しかし……
冷静さを欠いたその船員に対してサイモンは呆れを覚えていたが、しかしこの状況が自分にも有利に働く事を考えて無意識の内に一度だけ頷く。
さりげない動きで彼らを追い越しつつも、サイモンは考えていた。あの船員達は間違いなく何かの目的があって、どこかへ向かっているのだ。それも、恐らくはプランクの命令で。
それがどの様な命令なのかを知っておく必要があると判断し、サイモンは彼らを追いかけたのだ。場合によっては、かなり危険な内容である事も予想した上で。
----さて……緊急で何か命令するなら……恐らくは……
少々の不安が籠もった思考を続けながらも、船の案内図を覚えているサイモンはあっさりと彼らを追い越し、先回りをする事が出来ていた。
同時に、通路の向こう側から声が響いて一人の男がサイモンに向かって飛び出してくる。相手は誰かが居るなど予想もしていなかったのか、そのままサイモンと衝突した。
「うおっ!?」
声が上がり、男はそのまま倒れて尻餅を付く。サイモンとしては、殆ど予想通りの状況だ。残った船員達が追い付いて男に呆れた顔を向ける所まで、完全に。
「おお、大丈夫ですか? 随分、派手に転んだんですね」
友好的な対応をする事に決めたサイモンは手を差し出し、相手を起こそうとする。足を捻ったのか立ち辛そうにしていた男は、彼を不審に思いつつもその手を取る。
自分が怪しまれる風貌をしている事など、サイモンは百も承知だ。だが、止める気は無い。ルービックキューブも『必要だからこそ』持っているのだ。
「あ、ありがとよ……」
「まったく、今度からは気を付けて欲しいな」
助け起こされた男は姿勢を整えて礼を言いつつ、怪しい物を見る目を向けてくる。後ろの二人もだ、あからさまに怪しんでいる。
船員達に察知されない程度に、サイモンは溜息を吐く。怪しまれる雰囲気と、疑われる言動は彼が好んで見せる『自分』の一種だ。この怪しさこそ、仲間達の結束を後押しするのである。
ただ、この時ばかりは隠しきれない自分の怪しさが厄介な方向に働いていた。船員達は完全に疑いの眼を向けていて、今にも敵と見なされてしまいそうだ。
だからこそ、船員達に敵だと見なされる前にサイモンは聞きたい事を聞いてしまう事を決めた。
「ああ、ところで……」
努めて友好的に話を進めようと少し帽子を上に上げて顔を覗かせ、柔らかい調子で話し出す。だが、それは少々遅かったらしい。
言葉は途中で強制的に止められる結果となった。友好的な様子に安堵の様子を見せていた船員達はサイモンの顔を見て、再び顔を強ばらせたのだ。
----しまった、そういう『教育』をやってるのか……
サイモンは、自分の失敗を悟った。
それなり以上に数の居る船員達がお互いの顔を全て把握している筈が無い、そう思っていたのだ。その為、警戒を解こうと顔を少しだけ見せたのだが、完全な悪手だった。
サイモンが船員では無い事を見抜いたのだろう。二人の船員達は勢い良く懐から銃を取り出し、一人は暴徒鎮圧用のショットガンを構える。
だが、失敗を悟ったサイモンの動きはそれ以上に早い。相手の武器が何であるかを即座に悟った彼は這い蹲るくらいに腰を落とし、彼らの視界を一瞬だけ騙す。
それで十分だ。相手が困惑した瞬間に、サイモンは船員の二人を気絶させる。
残った一人が驚愕と恐怖に歪んだ声と顔を見せるが、サイモンは気にもしなかった。頭に入っていなかったスイッチを押したのだ。サイモンは、先程までより過激な方法に転換する事を決めた。
しかし、攻撃という形を選んだサイモンも船員達を『質問』するつもりは無い。彼の狙いは、紙にある。
そう、船員が宝石の様に大事に手に持つ紙だ。間違いなく、何らかの命令か重要な情報が書き込まれている。それを奪う事でプランクの意図を予測する狙いが、彼にはあった。
+
「新聞記者さんに会えるなんて思ってなかったんで、良い話の一つも用意してなかったんだよなぁ、ああ、もっと面白い話を考えておけば良かった」
「いえいえ、あなたの昔話だけで十分に価値のある内容ですよ、不安に思う事はありません」
そんなサイモンのボスであるアールは、隣で楽しそうに懐かしそうに話す男へ世辞を述べつつも、前方を歩く女へ時折目を向けていた。
隣に居る男の名前はコルムと言って、感じられる気配も格好も軽薄そうなチンピラの一言で表せてしまう者だ。何らかの重要な情報を握っている様にはとても思えない。
代わりに、なのか、前方を歩く女はアールにとって見覚えのある者だ。それも重要な人物として記憶に残しておいた存在でもある。
アールがこの二人へ接触する事になった原因、女にあった。船内とジェーンの情報を求めていた彼の視界に入り込んだ彼女は、一つの想像をアールに与えたのだ。
「それでよ、俺達は機関銃を持った連中に追いかけられたんだけどな、もう、必死で他人のフリをしながら逃げきったんだ」
「ほうほう、それはまた凄い。しかしどうやって他人に?」
「そりゃもう! 近所の店に駆け込んで、如何にも無関係な感じで雑誌を読んだのさ。連中は一般人のやってる見せに銃弾をぶち込む勇気は無かったみたいで、ちょっと中を除いて他を探しに行ったよ」
『どうでも良い話』に相槌を打ちながら、アールは女へと目を遣る。彼女は『カナエ』という名前を使っていたが、それが偽名である事は即座に見抜く事が出来た。
何せ、彼女自身から自己紹介を受けた事があったのだ。どれほど異常な振る舞いで誤魔化そうと、その異常すぎほる程に整った顔立ちが正体を明らかにしている。
----お前は……エィスト、だろう?
頭の中だけで、確認の言葉を呟いた。隣にコルムが居なければ声に出していただろうが、実際にはそれだけだ。
しかし、カナエ、いやエィストには視線と共に意志が伝わったのだろう。コルムには見えない角度で振り返り、にこやかな微笑みを向けて来た。
心が読まれた様な気持ちになって、アールは心臓を鷲掴みにされた気分を味わう。予想していなかった訳ではないが、どうやらエィストはアールの正体にも意図にも気づいている様だ。
「あいつら、中途半端に良い奴等でな。俺達には容赦しないのに、よくある『無関係な連中まで皆殺し』って奴はしなかったんだよなぁ……」
そうしている間にも、隣のコルムは話を続けている。懐かしそうな声音と共に発せられる昔話だが、実の所、アールはその話を眉唾物だと感じていた。
もしかすると過去にそんな経験をしたのかもしれないが、実際よりも危険な目に遭うという脚色が加えられている事は明らかだ。
「そんな調子でよくあの時代を生き抜きましたね……」
思わず、本音が混じった言葉を漏らしていた。その中には、『こんな安っぽいチンピラがあの時代を生き抜いた事への一応の感嘆』と、『全てが嘘じゃないのか』という疑念が混じっている。
コルムの外見はそれなりに若い。十数年前の頃に危険な目に遭い続けた男としては、若すぎるのだ。もしかすると、当時は子供だったのかもしれないと考えもあるが、同時に違う気もした。
「俺も自分が生き抜いた事にはビックリさ。仲間内でもよく話題に挙がった二人……いや三人? 知らないけど、そんな凄い連中ならまだしも、こんな俺が生き残れるなんて思って無かったね……あれ? どうしたんですか、記者さん」
「え? ああ……いやぁ、貴重な話を聞けたなぁと、嬉しい事です」
無意識の内に明後日の方向を見ていたアールに不審な物を感じたらしく、コルムが声をかけてくる。それを聞いたアールはすぐに目線を戻して笑みを作った。
その『二人』というのが誰を指すのか、すぐに分かる事だったのだ。十数年前に町で活動していた『二人、または三人』と言えば、『自分、相棒、時々は部下』の三人以外には無い。
思っても見なかった場所で自分達の過去の話を聞かされ、アールは少しだけ感傷的な気持ちになっていた。先程までの憎悪と憤怒に染まった顔とは、大違いだ。
地獄の悪鬼すら必死で逃げる殺気と、『元相棒がこの船に乗っているかもしれない』という期待と懐古。それらは混ざりあって、彼にそのくらいの余裕を生み出しているのだ。
「そういえば、その三人……一人だけ、どこの組織も顔すら掴めなかった奴が居たと聞いた事がありますね?」
話を合わせようと、アールは昔の事を思い出しながら話す。ここで『ボロ』を出せばコルムが嘘を吐いていると判断する、そういう意図も当然の事ながら存在した。
警戒混じりに話しかけられているとは思っていないのか、コルムはまた楽しそうにアールの声へ相槌を打つ。そして、次に話した内容はアールの顔を強ばらせる物だった。
「ああ、記者さんも知ってるか? そいつの住居を探った奴が無惨な死体になって川に浮かんでたとかそういう話」
「……初耳ですね」
急激に心から怒りが漏れ出しそうになって、アールは一瞬黙り込む事でそれを抑え込んだ。コルムへの返事通り、そんな話は始めて聞いた。だが、それを成したのが『誰なのか』など、考えるまでも無い。
いかにも『彼』がやりそうな事だ。いや、実際にやっていてもおかしくは無い。目を瞑れば、素性を探ろうとした者をあっさりと殺して川に捨てる姿が目に浮かぶ程だ。
「……なんでそんな怒った感じになってるんだ?」
「いえ……何でも……」
急に雰囲気が変わった事に疑問を抱いたコルムが声をかけてくる。しかし、自分の部下が知らない場所でやっていたかもしれない事を考えた彼には返事をする気がない。
ただ、何となく不快そうな雰囲気を放っている事から察するに、話の内容に気に入らない点があったのだろう。
それを知りつつも、コルムは話を止めなかった。
「あー……他にもどっかの組織の命令でカメラで顔を撮った奴は眼球の代わりにそいつを拷問した写真を詰められて死体で帰って来た、とかは?」
「……それも、初耳ですが」
アールは更に嫌そうな顔をする。恐らく、本当に『彼』はやっているのだろう。あくまで噂だと分かっていても、それを否定出来る要素はどこにも無いのだ。
目を細め、軽い溜息を吐いた。昔から『彼』ことサイモンは過激さ大げさな行動が目立つ男だった。だが、そこまでの事をしているとは聞いた事も、考えた事も無かった。
その辺りに自分の甘さがある気がしたのも事実だ。サイモンへの監督不行き届きを感じながら、そんな事も考えた上でも溜息である。
「ああ、ちょっと疲れたのか? ま、あんたはただの新聞記者だからな」
顔を覗き込むくらいに近づけて、コルムは言う。心配していると言うよりは、荷物にならないかと懸念している風だ。冷たい様だが、その反応は当然だろう。自分の命がかかっているのだから。
当然、只の新聞記者では無いアールはこの程度では疲れない。だが、そういう事にしておいた方が良いかもしれないと考えて、頷いた。
「ええ、まあ……こんな船ですからね。地方新聞の記者には荷が重すぎます」
ある意味、嘘ではない。確かに『地方新聞の記者アール・スペンサー』としては、この船内で起きている事は手に余る物だ。ホルムス・ファミリーのボスとしては、そうではないだけで。
「俺だって怖いね、あんたもきついだろうけどな。こっちも『こういうの』は出来るだけ避けて行きたいのさ」
「確かに……荒事は勘弁して欲しいですね」
どうやらアールの話を信じたらしく、コルムは何度も頷いて同意を得ようとする口調で話しかけてくる。アールにしても後半は同意出来る物だったので、すぐに返事をする事が出来た。
コルムは全く彼の正体に気づいていない様だ。アールも伊達で新聞記者を演じている訳ではない。憤怒や憎悪を隠してしまえば、ただのチンピラに気づかれる心配はまず無いだろう。
適当な相槌を打ちながらも、アールはそんな事を考えている。その中で、彼はふとカナエ、エィストの方向へ目を向ける。
話しかけるタイミングを探ってはいる物の、コルムの前ではエィストは喋る気は無いらしく、不気味な笑顔を浮かべたまま、ひたすら前を向いて歩いていた。
「……? コルムさん、あの、彼女が……」
「ん? どうした……あ?」
しかし、視界の中に入ったカナエはこちらへ目を向けていた。不気味だ、首が回転して後ろに行った訳でもないというのに、どこか恐ろしい。
真実味のある恐怖、それはまるで白昼に明確な形で現れた悪鬼悪霊だ。
ただ、アールの目には彼女がどこか無理な演技をしている様にも感じられた。記憶の中の、恐らくは『素』であろう感情豊かで妙な性格をした女とは違い、目の前の女は自然体では無い気がした。
「お、おい。どうしたんだよカナエ……?」
当然、そんな事にコルムは気づいていないだろう。急に二人、いやアールを見つめて来たカナエに対して、恐怖が滲み出る様な声を出している。
彼がカナエに何をされたのか、それはアールの知る所ではないが、禄な事ではないのだろう。彼の表情を見ていれば誰でも分かるのだ。
「……」
カナエはただじっとアールを見つめるだけで、何も言わない。そこには悪意も善意も無く、ただおぞましさを感じさせる笑顔だけがあった。
背筋が凍る気持ちを味わいつつも、アールはその視線の理由を探ろうとする。彼女がエィストであれば、何かの意図がある筈なのだ。
だが、エィスト本人からは何も感じられない。ただ恐ろしいだけだ。何の意味も無く、ただアールの顔が見たいだけだと判断してもおかしくは無いだろう。
「……」
「あー、記者さんよ。怖いと思うけど、我慢してくれ。逃げないでくれよ、俺が殺されるかもしれないからな」
しかし、アールはそこでは終わらない。コルムが何かを言っている気がしたが、耳には入ってこない。
彼女自身に何かがある訳ではない。そう理解したアールは周囲を見回してみる。誰もいない、これでは無かった様だ。
ならば、と周囲の気配を探る。それなりに近い場所で誰かが戦闘を行っている事は理解できた。が、あまり関係があるとは思えない、勘だ。
一体、何を考えているのか。そう考えている間に、カナエはまた前を向いて歩きだしていた。
「あ、おい……何だったんだ?」
カナエの行動が読めなかったコルムの疑問の声が響いてくるが、アールは気にしない。無意識の内にまた足を進める。まだ周囲を探っている為に歩幅は狭く、遅い。
ゆっくりと進んでいくと、コルムが前を歩く様になった。少し緊張した様な表情を浮かべているのは、カナエの意図が理解できなかったからだろう。何をするのかが分からずに、混乱しているのだ。少なくとも、そう見える事は確かだ。
頭の端で考えつつも、アールは足を進め続ける。
そうしていると、十字路の様になっている通路が見えてきた。だが、どうでも良い事だ。とりあえずエィストに付いていこうとだけ考えて、そこで終わるくらいの事だ。
----だからこそ、通路の右側の彼方に居る人間を見たアールの驚愕は大きな物となった。
「……!!」
言葉にはしない、態度にも出さない。しかし、声にならない驚きはほんの僅かに漏れ出てしまう。本当に小さな物だった為に、コルムには気づかれた様子は無い。
勿論、エィストには気づかれてしまっただろう。だが、彼女は足を止める事もしないままに通路の正面へ歩いていく。
コルムもまたエィストへ付いて行っている。彼女の挙動に注意しているのか、アールの足が止まった事には気づいてもいない。あのおぞましい気配を放つ者から目が離せないのは仕方のない事だろう。恐らく、それが目的なのだろうが。
足を止めたアールは右側の通路に居る人間をじっと見つめていた。それなりの距離があり、見えているのは微かに覗く背中と、靴くらいの物だ。
それだけで誰なのかを見分ける事は困難だと思われる。だが、アールにとってはそれだけで十分に判別する事が出来た。その背中は見慣れた物だったのだ。何度も何度も困らされて何度も何度も助けられた、頼もしい背中である。
----やはり、来ていたか。頼りになるよ、お前は。
安堵している間に、コルム達は進んでいく。カナエは何を考えているのか剣呑な気配を放ち始めていて、それを警戒したコルムはアールが立ち止まっている事には気づいていない。
そして、カナエ達が背後から消えた事を確認すると、アールは物音を立てない様にしながらも凄まじい早さでその方向へ向かっていた。
奥に居た人物はそこで彼の存在に気づいたのか壁に隠れた。明らかに警戒し、迎撃が可能な姿勢だ。隠れた片手には拳銃か何かが握られているに違いない。
素早く近づく存在の素性を確認しようとしたのか、その人物は微かに顔を出して、様子を窺ってくる。
だが、警戒と共にそれが行われた瞬間、その人物は警戒も何もかも全て解いて、友好的な笑みを浮かべて壁から体を飛び出させた。
そして、アールはその場所へ辿り付いた。
「ボス!」
「サイモン! やっぱり乗ってたんだな!」
そこに居たのは、アールにとって良く知っている人物。サイモンだった。船員の服装を身につけていて顔を隠しているが、それくらいでは彼の正体を誤魔化せないのだ。少なくとも、アールにとっては。
「ああ、お前も乗ってるよな。分かってたよ」
嬉しそうに笑みを浮かべるサイモンへ、静かに声をかける。彼にとって、サイモンが居た事は全く驚くべき事ではなかった。この船の情報を彼に話した男でもある彼が、乗っていない筈はない。
新聞記者の格好をした男と、船員の格好をした男は互いの本来の口調と雰囲気を隠す事も無く露わにしている。
サイモンは敬意に溢れた顔付きで男を見ていた。受け慣れた視線ではあるが、それでも少しくすぐったい感覚がアールの背を走る。
「……お前、俺の顔を探った奴を『処分』していったんだってな」
そんな気分になりつつも、アールは先程聞いたばかりの噂の真偽を本人に訪ねてみる事にする。『本当に聞きたい事』とは違う物だが、それもまた気になっていたのだ。
話の内容が意外だったのか、サイモンは少し目を見開いて見せた。だが、次の瞬間には特に何とも思っていない顔付きで頷いて見せた。
「ええ、ボス。何か問題が?」
悪びれる様子も後悔も無い。むしろ自分は正しい事をしたという誇りすら感じられる物だ。
やはり、知らない場所で過激な事を続けていたらしい。それを知ったアールは小さく溜息を吐く。が、行動を改める様には言えなかった。言って聞く相手ではないのだ。
時々自分の制御を離れて暴走するサイモンに注意した事はもう何度か忘れてしまう程、行った。だが、結果はこの通りである。
「大体、どこで聞いたんですかそんな話……まあ、顔がバレると暗殺の危険性が跳ね上がりますからね。それより、この紙を見てください」
アールの心の動きを感じつつも、サイモンは構わず一枚の紙を差し出した。自分の残虐な行動よりも、ずっと優先すべき事があるのだ、と。
それに気づかないアールではない。紙を受け取ると、即座にその内容へ意識を移す。もう、サイモンの行動を追及する気はどこにも無かった。
紙の内容に目を向けていく内に、アールは今までよりも一層深刻さを表した顔色になっていく。そこに書かれていた事は、彼らが心配していた事だったのだ。
数秒もすれば、アールは紙を読み終える事が出来た。だが、その内容を飲み込むのには一分程度の時間を要した。信じたくない気持ちが、強かった。
「……この紙に書いてあるのは」
「本当、みたいですよ? 持っていたのは船員達でした」
小さな呻きを上げるアールへ、気持ちは分かるとばかりにサイモンが答える。彼も、その紙の中身を見た時は同じ様に頭を抱えて溜息を吐いたのだ。
アールの動揺は隠す必要が無くなって再び吹き出している憤怒と憎悪が揺らぐ程だ。いや、この反応も当然だろう、『娘の命が危機に瀕している』のだから。
二人の主従は、同じ疲労感を覚えつつも口を開いた。
「……やっぱり、ジェーンがあの『兵隊』を動かしていたんだな」
「しかも、売人の方々に気づかれてしまいましたね」
彼らは、特にアールは寸前の所で知る事が出来なかった。たった今話に上がったジェーンは今、リドリーの隣でカナエとコルムに出会っているのだ。
もしも、アールがサイモンに気づかなければジェーンは父親と再会し、瞬く間に計画を終了させていただろう。本当なら、此処でジェーン達の物語は終わる筈だった。
だが、そうはならなかった。
それはまるで、カナエが、エィストがまだ彼女達の話を終わらせない様にし向けた様だった。
アールとサイモンが再会した頃、一方でカナエは奇妙な気配を放ちながら通路を進んでいた。背後のコルムは警戒と困惑の混じり合った視線を向けてくる。
特に気にした様子は無い。向けられ慣れている物だ、失礼だとすら感じる事すら出来ない。
----さて、リドリー君? 君と私はどうすれば良いかな?
そんな事よりも、彼女にとってはリドリーとの接触の事が大事だった。まだ視界に入っていない彼がどうして近づいているのか分かるのかと言うと、それは音だ。
歌声が、耳に届いているのである。コルムには聞こえていない様だが、それなりに優れた聴覚を持つ彼女はそれがリドリーの歌声だと聞き分ける事が出来た。
そして、歌声が聞こえてきた距離がかなり近いという事も彼女には分かるのだ。だからこそ、彼女はリドリーとの接触を楽しみにしている。
----多分、この状況を楽しんでるんだろうなぁ。うんうん、会うのが本当に楽しみっ!
この場にコルムが居なければ彼女は自分の体を抱き締めたり、その場で何度も回転して嬉しさを表していただろう。気が合う仲間ではないが、彼女はリドリーをとても気に入っている。
ある意味では、エィスト以上に強烈な性格をしているのだ。一切曲がらずに『この世は映画だ』という考えを貫く姿勢は彼女ですら感嘆する程である。
まだ、リドリーと接触はしていない。背後に居るコルムは相変わらず警戒の表情を向けていて、当たり前だが気を許す雰囲気は無い。
先程までコルムの隣を歩いていた男がそこにはもう居ない。それは確認するまでも無く、カナエには分かっている事だ。
----……ふふっ、私の行動は正解かな? 不正解かな? どうだろうね
静かに、コルムに見られない様に笑みを浮かべる。彼が彼女を知っていた様に、彼女も彼の事を当然知っている。一応は面識があるのだ、人に覚えられない事を目的とした様な地味な顔を彼女ははっきりと覚えていた。
そして、彼女は彼、アールがこの場を離れる様に誘導したのだ。
理由は、彼女にもよく分かっていない。ただ、『このまま一緒に行くとあまり面白くない結末になる』という漠然とした予感が頭をよぎったという、ただそれだけの事だ。
その行動が良い結果を招くか悪い結果を招くかは彼女にも分からなかったが、特にそれを気にしていない。
先程まで居た男の事を考え終えると、カナエは軽く深呼吸をする。心の準備だ、アールの事を考えながらも彼女はリドリーへの対応を考える事を止めず、結論を出していた。
後、少し歩けばリドリーと接触する。その段階になって、彼女は口元に本心からの楽しそうな笑顔を消し去り、醜悪な、リドリーが見れば明らかに演技だと分かる顔をもう一度浮かべる。
----ふふ、たまには彼とぶつかって見るのも悪くない。
表面上の笑顔とは違い、心の中で浮かべる笑みは本心からの物だ。隠しきれない程楽しそうで、愉快そうで、面白がってる事が明らかに分かってしまう。
「……そうだよねぇ、やっぱり、こういう『ストーリー』にはライバルが、殺し合いになる相手が居ないと、成り立たない」
声が聞こえてきた。リドリーの物だ、まだ姿を見せていないにも関わらず、そこに誰が居て何をしようとしているのかを完璧に見切っている。
カナエの心に喜びが浮かび上がった。リドリーは、彼女の意図を完全に理解しているのだ。言葉にしなくとも、気持ちが伝わった。嬉しい気持ちの一つにもなろうという物だ。
嬉しさに任せて、カナエはリドリーと、もう一人の少女の前に姿を現した。
「え?」
「ん?」
隣に居たコルムと、少女の口から声が漏れだした時には、カナエの視界に知っているリドリーと『実は知っている』少女が入り込んでくる。
無理矢理に作ったカナエの濁った目が、少女を捉える。こちらに見惚れる様な雰囲気と、同時に『見知った何か』を扱う顔付きだ。
「……ヒひっ」
思わず、悪戯がしたい気持ちになったカナエは少女に向かって笑い声を上げる。意識的におぞましさを数倍にまで高め、人を誘い込む罠に仕立て上げる。
しかし、少女の方は大きな反応をする事が無く、代わりにリドリーが小さな笑い声を上げて数歩程、前に出た。
その動きや立ち位置を見るだけであれば、恐ろしい驚異から少女を守ろうとしている様に見えるだろう。しかし、実際の所は違う事くらい、見抜けないカナエではない。
「くひっ、くくくヒヒヒヒヒヒヒ」
相手の魂を崩壊させる程の笑い声が吹き出して、自然と足が前へ進む。リドリーの姿を見ていればすぐに分かる。カナエからの『挑戦』を受け入れるという姿勢だ。
隣に居たコルムは唖然とした様な顔を見せながらも、リドリーへ視線を向けて様子を伺っている。カナエにはそれがよく分かった。
そんな動きを冷静に観察する余裕を持ちつつも嬉しさは凄まじい勢いで高まって行き、カナエの足がどんどんと弾んでいく。
目に見える部分では僅かな差ではある。相変わらずおぞましい笑顔を浮かべている事も変わっていない。だが、それを見抜いたリドリーは先回りするかの様にスキップで近づいて来た。
鼻歌混じりの姿を見て、カナエの足が目に見える形でスキップを始める。息を合わせている姿はまるで恋人同士であり、宿敵の様にも見えた。勿論、二人はそう見える様に動いているのだ。
同じ様な動きで近づけば近づく程、カナエが浮かべる歪んだ笑顔が強くなっていく。本当は満天の星空より明るい笑みを浮かべたかった様だが、コルムとジェーンの前だ、それだけは抑えている。
----ふ、ふふ。これはスゴい……気分が良くて心がとろけそうだよ……
一歩一歩、進めば進む程カナエの心は高揚していく。近づくだけで二人の心の距離も解け合う様に接近して行った。そのまま進めば溶けて一体化してしまいそうだ。
心臓の鼓動はどんどんと早くなって行き、興奮で体温が上がっている。それを実感したカナエは人間が一生で一度感じられるかどうかという程の強い多幸感に心を震わせる。
そんな気持ちになっても、彼女は表面には出ない様に幸せな笑顔を塗り潰そうとした。その結果、彼女の顔は見る者に恐怖と絶望を与える歪みきった笑顔を浮かべている。
リドリーの顔が目の前にまで来た時には、彼女は痙攣しそうな体を必死で抑えて緩んでしまいそうな顔を笑顔で固定していた。
カナエ程に強烈な歓喜ではなくとも、リドリーも似た様な事は考えていたのだろう。同質の笑みが彼の口から漏れ出ている。
互いに、全神経を相手の挙動に集中させている。まるで、世界には二人以外に誰も居ないと言うかの様だ。
二人は幸せを享受しているが、端から見れば奇妙な光景にしか見えないだろう。これから起きる事が想像出来る者にとっては、理解し難い姿の筈だ。
外野となったジェーンとコルムの異様な物を見る様な目がそれを如実に表していた。
「よう。酷く辛そうな面をしてるじゃないか」
隠しきれない喜びを纏ったリドリーが先に口を開いた。言葉の中にはどこか挑発的な色が含まれている。
外から聞いていたコルムとジェーンには、その台詞の意味が理解できなかっただろう。文面だけで受け取るのであれば、彼女の表情に文句を言っている様に思える程度の筈だ。
しかし、カナエにはその意味がはっきりと理解出来ていた。リドリーの言葉は、挑発だ。『演舞』、または『アクションシーン』の始まりを告げる言葉だ。
だからこそ、カナエは凄まじい勢いと超人的な動きで抜き身の刀を振るい、吹き荒れる風と共にリドリーの体を両断する一撃を放っていた。
『顔が演技臭い、わざとらしいんだよ大根役者』
リドリーの言葉の中には、そんな意味が含まれていたのだ。
『リドリーとライバル同士みたいに戦ってみるのも、悪くない』
そして、リドリーだけが見抜く事に成功したカナエの思考は、余りにも気紛れで享楽的で馬鹿馬鹿しい、そんな程度の物なのだ。
相手がリドリーでなければ、カナエもこれ程楽しそうにはしなかっただろう。
つまり、彼女は何の抵抗も無く、仲間に対して刀を向けたのである。




