7話
Mr.スマイル達が戦いと呼べるのか疑問が残る戦いを繰り広げているその時、この部屋では二人の男と一人の女が相対していた。
「……あー、その。初めまして」
「うん、はじめま……あれ? 何日か前にプランク君の前で会ったよね?」
小首を傾げた様子で、カナエは返事をしてきた。無駄に可愛らしい。恐らく小動物的な愛らしさを振りまこうと努力をしているのだろうが、外見が外見だ。あまり似合ってはいない。
そんな事よりも、二人の男達は自分の予想が外れた事により驚愕を強めていた。女はカナエの姉妹でも何でもなく、本人だ。素の調子で疑問を口にするカナエを見て、二人はそう確信していた。
だからこそ、彼らは少し不自然ながらも初対面の相手に向ける眼差しと言葉を向けたのだ。しかし、答えはこの通りだ。
「あ、ああ。えっと、な。こんな状況だろ、ちょっと頭がパニック起こしてて、な。仕方ない、だろ?」
慌てた様子で背の低い男が弁解を口にする。情けないくらい警戒し、距離を取ろうと後ずさりを続けていた。コルムに傷を負わせたその姿を、誰が忘れると言うのか。
「ん……じゃ、仕方ないよね」
しかし、カナエの方は気にした様子も無く軽く手を振り、彼らに危害を加えない意志を見せてくる。だが、あまり信頼出来る物ではない。
むしろ、この世の物とは思えない程に美しい食人花が誘い込んでくる様に見えて、二人は内心の震え上がる様な恐怖を押し殺しながらカナエを見る。
「むむぅ、警戒されてるかなぁ。手を出すつもりは無いんだけど……よし」
自分を化け物か何かの様に見てくる事に、カナエは当然ながら気づいている。これが常人に向けられた物であれば失礼極まると不快な思いをさせてしまうだろうが、彼女はどこかそう扱われる事を喜んでいる様に見える。
しかし、二人に警戒され続けているのは彼女にとってもあまり歓迎したく無かったのか、すぐに二人が安心出来る様にと----一瞬にして、二人の目の前まで距離を詰めた。
唐突に目の前にカナエの顔が広がった事への驚愕と恐怖で、二人は叫び声を上げながら逃げてしまいそうになる。
だが、彼らが声を上げる寸前でカナエは二人の口を手で塞ぎ、行動を封じた。
二人の動きが恐怖に支配されている事を見て取ると、カナエは悪戯っぽい顔で言葉を告げる。
「私がちゃんと喋れる事はプランク君には内緒ね? そうしてくれるなら、君達の事の首には新しい口が出来る事は無いんだよ? 分かった?」
何やら物騒な事を言われた二人の男は、カナエの中にどんな恐ろしい物を見たのか身体が思い切り震え出す。最後の言葉が耳に入った瞬間からは、何度も何度も頷いていた。
少し哀れすぎる姿だ。悪戯にしてはやりすぎた事を認識したカナエは、すぐに柔らかい笑みを浮かべて彼らの口から手を離す。
「冗談だよ冗談っ、ごめんね。でも本当に、プランク君には言わないでね?」
急に手を離された二人は思わずよろけたが、すぐに体勢を立て直して安堵の息を吐く。カナエから感じられるのは狂喜やおぞましさでは無く、多幸感と喜びだ。
全身から危害を加えない事をアピールするその姿を見て、二人の男はようやくカナエが危険の無い存在だと理解する事が出来た。勿論、警戒心は残っているが。
「も、漏らすかと思った」
「ああ、ヤバかったな……」
それでも先程までよりはずっと気が抜けたらしく、強がる様子も見せずに思い切り安堵している。弱味を隠す余裕すら無い様だ。
それは逆に言えばカナエを前に隙を見せられる、という意味にも取れる物で、遂に相手が自分を信じた事を確信してカナエは楽しそうに笑う。
少女の様な明るい笑みの中にはどこにも、数日前見たあの恐ろしくおぞましい色が無い。そこに気づいた二人は、カナエの凄まじい演技力に戦慄する。
最初に見た時は、彼女がこんな風に喋るなど想像も出来なかったのだ。異様な程に美しく歪んだ人形、そういう表現が一番近いと思わせる程だった。
「すっかり騙された。まさかお前がちゃんと喋るなんて思わなかったぜ」
「はは、そうかな? そうなら嬉しいが……」
「ああ……とんでもない演技力だよな……ん?」
あの場に居る全員が、彼女に騙されていたのだ。そう考えた背の低い男がカナエを見てみると、すぐに気づいた。隣に居る背の高い男を、カナエがじっと見つめている。
どこか惹かれる物でも感じているのか、熱っぽい様子だ。視線は唐突で、何の前触れも無く理由も感じられない。そもそも、どうして背の高い男へそんな目を向けるのか、誰もが疑問に思うだろう。
視線に嫌な物を感じたらしく、背の高い男はカナエを意識的に視界から外しながらも困惑している。すると、カナエはまた唐突に男へと接近した。
男の視界はカナエで一杯になり、距離を取ろうとしても壁が後ろにあってこれ以上は動けない。何より、カナエの視線が男の動きを制限する。
困惑した男が、引きつった顔で声を上げた。
「お、おい何を……」
「……体格は君の方が若干上、身長は同じくらい、匂いは……」
言うなり、カナエは背の高い男へ更に顔を寄せて、匂いを嗅ぐ。首筋の辺りに口が付きそうになり、魂を揺さぶる香りが鼻についた。
頭を揺さぶられる様な感覚を覚えながらも、男はぼんやりと不安を覚える。何を考えているのかが分からない事が余計に混乱を誘うのだ。カナエが危険の一つも無い顔を浮かべていなければ、気絶していたかもしれない。
暫くの間、カナエはそのスーツの匂いを嗅ぎ続けた。一分程も続けてようやく満足したのか、両手で肩を掴んで目映い笑顔を向けてくる。
「ちゃんと消臭、してるんだね」
うんうん、と頷きながらカナエは背の高い男から距離を取る。何を考えているのかが分からない。背の低い男が哀れむ様に隣の男を見ている事が、その場で一番分かりやすい物だ。
カナエは、じっと背の高い男を見つめ続けている。何やら迷っている様だ。絶対に禄な事ではあるまい、そう感じた二人の男は一体何を言われるのかと身構える。
数秒間も何かを考え込んだカナエが、少し遠慮がちに口を開いた。
「えっと、さ。悪いんだけど……そのスーツ、貸してくれないかな。ほら、この服ちょっと血がさ」
言いながら、自分の服を摘み上げる。その服にはまるで血みどろの死体を抱きしめたかの様な血が付いていて、端から見ると恐ろしい事この上ない。
これで残酷な笑みの一つでも浮かべていれば、まさしく恐ろしい快楽殺人鬼だ。実際に浮かべているのが柔らかで人生を楽しんでいる笑みなのだから、その血は不気味さを覚えさせている。
カナエの表情は、少し恥ずかしそうだ。背の低い男はそこでようやくカナエが何を言っているのかを理解した。
「悪いが、このスーツは渡せないな」
背の高い男も、カナエの意図を理解している。だが、理解した上で首を横に振り、自分のスーツを守る様に握り絞めた。
断られたカナエが眉根を寄せて、困り顔になる。全く予想していなかった返答を聞いた背の低い男は、隣の男が斬り殺されるのではないかと慌てた。
「お、おい……」
「良いだろ。俺はコイツをくれてやる気は無い」
背の高い男は眉を顰め、自分の意志を絶対に曲げないと見せつける。それでも恐怖を覚えているらしく、スーツを握る手は僅かだが震えている。
無理をしている事は明らかだ。背の低い男が止めた方が良いと視線を向けるが、その意図は隣の男へも伝わった様だが、改めようとする様子は無い。
カナエは困り顔で背の高い男を見る。しかし、断られる事も考えていたのか、すぐさま明るい笑顔に戻って言葉を続けた。
「むむぅー……じゃあ私の服と交換じゃ、ダメ?」
「ダメだ」
「むー……セットで、今なら君達が助かる方法を教えてあげるけど、やっぱりダメ?」
「ダメだ」
男は頑なにカナエの提案を却下する。一切の迷いも躊躇もない。カナエが言う度にそれを切り捨てている状態だ。
これだけ見事に断られれば残念そうに諦めるか、不機嫌にでもなる所だろう。少なくとも背の低い男はそう思ったらしく、今にも隣の男が身ぐるみ剥がされると警戒しきっている。
しかし、男の予想とは異なりカナエは気にした様子も無く、むしろ断られる事を楽しんでいるかの様に笑っている。
いや、次の瞬間には何故かもじもじと恥ずかしそうな様子で顔を赤くして、男の胸に飛び込んだ。
「じゃ、じゃあ……恥ずかしいけど、私を……あ、あげるっ……!」
「クソ要らないから返却したいねっ……!」
飛び込んできた女を、男は若干慌てた様子で叩き返す。殆ど突き飛ばす様な動きだ。女は受け身を取る事も無くそのまま床へ倒れ込んだ。
ほんの一秒も無い間の接触だったが、魂を揺さぶる程の、凡そ人語では表せない程の美しさは確実に精神を貪りに来ていた。そこに、男の理性が拒絶を示したのだ。
「あはは、ごめんね。ちょっと楽しかったからさ、からかっちゃった」
そんな反応が来る事はカナエにとって当然の様に織り込み済みの事だったらしく、悪戯っぽく笑って起きあがる。
怒って何かをしてくるのではないかと顔を青くしていた二人の男は、思わず息を吐いて緊張を解く。そして、カナエはそんな心の隙を狙っていたのかもしれない。
「よし、じゃあもっと上等なスーツを買ってあげるよ? それ、親の形見とかそういうのじゃないよね、私には分かる」
「…………いや、それは……」
そこで初めて、背の高い男は迷う様な声を上げた。女の言う通り、彼が着ているスーツはただ気に入って自分で買った、というそれだけの物である。
彼なりの拘りがある為に服を渡す事は拒絶したい事だ。しかし、より良い物を渡されるならば文句は無い。そして、カナエの目からは嘘が窺えない。
そこで、『自分が彼女を突き飛ばした』事への混乱が無ければ思い出しただろう。カナエの演技を、自分が見抜けなかった事に。
男が迷っている事を読みとったカナエは、更に話を続ける。
わざと突き飛ばされたのは、相手の反応を誘って話を円滑に進める為だ。『もっと良いスーツを渡す』という言葉には一分の嘘も無い。
「凄く良いのだよ、オーダーメイドの。君の麻薬仕事でも手が届かない様な超一流で……」
カナエが更に、相手を誘惑する言葉を吐く。今度は即座に拒否が返ってくる事は無い。
「今ならおまけでもう一着……」
「……あぁー、分かった分かった! 返さなくて良いから持って行けクソ女! だけど絶対にもっと良いスーツを寄越せよ!?」
とうとう男は諦めて声を上げ、上着を投げつける勢いで渡す。自棄になったのかズボンまで脱いで投げつけ、思い切り悪態を吐いた。
何の恥ずかしげも無く服を脱いだ姿に、カナエは少しだけ目を逸らす。顔がわざとらしく紅潮していて、恥ずかしがっている様に見える。
ようやく、一本取った。そう理解した男は余裕を取り戻して笑みを浮かべた。
「代わりの服くらいあるだろうな」
「え、ええっと……あの、二人ともさ。その、ね。後ろ向いててくれる……かな?」
服を手に入れて満足そうにしていたカナエは、男の要求を聞いて顔を真っ赤にする。同時に状況を楽しんでいる笑みが浮かんでいるが、誰も気づいていない。
彼女が何をするつもりなのか、二人の男はすぐに察する事が出来た。慌てて二人が後ろを向いて、絶対に見る事が無い様に目を瞑る。
「見ないでね……ね? お、お願いだよ? 見たら……見たら……ふふふっ、どうなっちゃうだろうね?」
それを確認したカナエは、恥ずかしそうに告げる。だが後半の言葉はどこか震え上がってしまいそうな恐ろしさと、楽しそうな意志が含まれていて、二人の男は目を両手で塞いだ。
すると、男達の耳に布が擦れる様な音が聞こえてきた。二人は耳に届く音の意味を理解した瞬間に両手を耳を塞ぐ事へ使い、両手を固く閉じた。
十数秒経っただろうか、少しでも身動きすれば死ぬとばかりに部屋の隅で壁を向いてじっとうずくまっていた二人の肩に、指で二回程つつかれた感覚が響く。
「あは、もう見て良いよー? くふふふ……」
思わず耳から手を離すと、何やら胡散臭い声が聞こえて来た。聞いた瞬間、どう考えても、今振り向いてはいけないと二人の頭が泣き喚く。
しかし、本能が出す危険信号を二人はあえて無視した。振り向かなければそれはそれで、恐ろしい目に遭う気がしたのだ。
「で? 俺のスーツの着心地は……どう……」
先に振り向いた背の高い男が、まるで怪物に睨まれて石化してしまったかの様に動きを止める。隣でそれを見た背の低い男は、後ろに何があるのかと震え上がる思いをした。
「う、うぅ……やぁ……やだよ……」
声が聞こえてきた。弱々しく、怯える少女の様な口調である。しかし、完全に体の固まった男へ追い打ちを仕掛ける意図が見え隠れしているのが声だけでも分かる物だ。
恐らく、カナエはうるうると瞳から涙を溜めているのだろう。まるで無理矢理服を奪われてしまったかの様に、震えているに違いない。
魂まで固まった様に微動だにしない背の高い男の視線は、カナエに向け続けられている。
視界に入っている物を脳が処理出来ていないのかもしれない。そんな事を考えながら、背の低い男は自分の体型がカナエとは相当に異なる事へ感謝した。
カナエは、そんな固まる男へ更なる攻撃を加えようと言葉を続ける。
「み、みないで……? こわいよぅ……い、やぁ……と、まあ一度やってみたかった事も終わったし、ありがとう。服を貸してくれてさ」
途中で、カナエの声は完全に別の調子に変わっていた。全く雰囲気の違う柔らかな言葉だ。思わず、背の低い男は振り返ってしまう。
我に返った瞬間、自分の不覚に罵声を浴びせたくなったが、そこに居たカナエは予想とは違う格好をしていた。スーツ姿のカナエが、そこに立っていたのだ。
異常な程よく似合っている。元が隣の男が着ていた物だとは思えない程だ。銀幕の中の麗人の様な、誰かが演じている様にも見えてしまう。
「……似合ってるかな?」
「あ、ああ……不気味で怖いくらい似合ってる、人間とは思えない」
背の低い男は思わず本心から言葉を放ってしまう。慌てて止めようとしたが、もう彼女の耳へ届いた後だ。にこやかな、しかし恐ろしい顔をした彼女の耳へ。
一瞬、カナエは少しだけ、少しだけ笑顔の様子を冷笑の様な何かに変える。その笑顔を見ていると、訳の分からない、少なくとも人ではない何かがカナエと名乗って人間の形を作っている様な、そんな気がした。
「ふふ、ありがとう」
しかし、嬉しそうに礼を言う彼女の姿には、もうそんなおかしな何かは見えてこない。
気のせいかと背の低い男は安堵する。カナエが口の中だけで彼が見た笑顔を続けていた事には、気づいてもいない。
「ああ、あ……く、はぁ……で? 俺達はどうすればいいと思うんだ?」
黙ってカナエを見つめていた背の高い男が、何とか現世に戻ってきたとばかりに思い切り息を吐いていた。相変わらずカナエから視線を外していない。
先程の本当に石にでもなったかの様な意味の無い視線ではない。明確な意味を持ち、意志を感じさせる目がそこにはある。
その目は一度見ただけではっきりと分かるくらいに女を人間扱いしていなかった。この世の何よりもおぞましい、言語では到底言い表せない何か。それを見てしまった哀れな人間の怯えが見えるのだ。
何とか口振りに出ないようにしているのだろうが、無駄な事だ。明らかに分かってしまう。
一体、背の高い男は何を目撃してしまったのか。背の低い男は興味を持ったが、そこに触れてはならない物だという認識が頭から離れず、ただ黙ってカナエを見つめる結果だけを作り出している。
「ここに居ると良い。絶対に安全だし、助けも来るから」
背の低い男がそんな疑いの眼でカナエを見ていた時、彼女はとても軽い調子で背の高い男の強がりから来る言葉に返事をする。
その中には軽いながらも真剣な様子が現れていて、冗談として言っている訳ではない事がすぐに伝わって来る。
「……どうしてそう思う?」
何の根拠も説明も無く告げられたその一言に疑念を抱いた背の低い男が、それを言葉にしてカナエに向ける。隣では、また男が石になったかの様に固まっていた。
「どうしてって言われると、困るけど……私を信じなさいな。こういう嘘を吐く程悪趣味じゃないからさ、君達の安全は保証するから安心して? ね?」
暖かく微笑みながら、まるで安心させようと気遣う様にカナエが言う。
その姿は慈愛の女神か何かにすら思えるが、同時に人に災悪を振りまく悪魔の様にも見えた。姿から見えてくる物は全てに於いて善意だが、纏う空気は悪意そのものが現れるかの様だ。
二つの相反する雰囲気を楽しそうな気配が纏め上げている。そんな彼女の言葉は背の低い男をどこまでも不安にさせる一方で、どこまでも安心させてしまうのだ。
「お、おお……そうだな、ああ、貴女、いや貴様が言うなら……正しいんだろうな」
背の高い男が、また体の硬直から舞い戻って声を上げていた。何故か、男は一度呼んだ丁寧な呼び方から、侮蔑が籠もった敬称に言い直す。
その意味は分からずとも、その意志は完全に伝わってきた。男は、カナエの言葉を全てに於いて信じているらしい。ある意味で、それは絶対的な信頼よりもずっと重い感情に見えた。
「そういう事っ、うんうん。君は分かってる子だね! よし!」
可愛らしくも恐ろしく胡散臭く何度も頷いて、カナエは満開の花の様な笑顔を浮かべる。人を引きつける食人花の恐ろしい笑みとは明確に違う自然な物だ。
違和感と不気味さと、自然さが付いて回る事がそれを表している。きっと、これが彼女の素の笑顔なのだろう。
「ふふ、あいつらもきっとスーツを着て……あ! やりたい事も終わったし、そろそろ戻らなきゃ」
二人の男には理解出来ない独り言を呟きながらスーツの裾をたくし上げ、幸せに浸っていたカナエは何事かを思い出したのか、急に慌てた。
そこからは話が早い。彼女は背の高い男の片手を両手で握りしめ、二人の顔の辺りまで持っていったかと思うと、一度だけ頷いてその手を離す。
「んっ! じゃ、私は行くから君達はここで待っている事! 絶対に助けは来るよ! そういう事になってるから!」
どんな意味があるのかも分からないそんな行動を終えると、この部屋でやる事は全て終わったとばかりにカナエは扉を開いて通路へ飛び込んで行った。
思わず、背の低い男が扉から顔を出す。殆どカナエが出たと同時に外を見たというのに、彼女はもう通路の遙か先にある曲がり角に居た。
そんな距離を一瞬にして動いたというのに、不思議と彼女の足はそれほど早くない。
「じゃぁーねぇー! 約束はちゃぁーんと守るよー!」
かと思うと、挨拶をした途端に彼女はその場から消えていた。恐らくは、二人の男のどちらかが顔を出すと分かっていたのだろう。別れの挨拶をしたかった様だ。
どこまでも享楽的な雰囲気とおぞましさをまき散らしていった女は、そこで完全に彼らの前から姿を消した。
「ハァ……どうするんだよ」
女が居なくなった事を完全に確認した背の低い男は、蓄積された疲労が気が抜けた事によって表に出てくる事を自覚しながら、壁に寄りかかって座り込む。
疲れきった溜息を吐いた男は、部屋の中を一度だけ見回す。相変わらず、血と肉片と死体が目を引く場所だ。しかし、どう言い繕っても理解できなかった女が居た場所でも、ある。
「……言われた通りにしておこうぜ」
彼女は何者だったのかと背の低い男が考えていると、隣から静かな声が聞こえて来た。背の高い男の声だ、先程までの奇妙な様子は既に脱したらしく、理性の感じさせる声音で喋っている。
「やっと戻って来やがったか。全く、ヤクでもキメてたのかよ……お!?」
声を聞いた背の低い男が愚痴を言いながら男を見て、驚いた。
「いつ、着替えたんだ?」
「……知らない」
いつの間にか、カナエが着ていた服を彼が着ている。男女関係なく着る事が出来る類の服だったらしく、特に違和感は無いが、スーツとは全く違う物だ。
彼女の香りが残っていて脳を揺るがしている為に、思考が少し曖昧な物になっている。それを自覚した男は軽く首を振ってそれを払う。
思考力が戻ってきた背の低い男は、疑念を籠めて隣の男を見る。
自分の服装が変わっている事になど彼は既に気づいている筈だ。だが、特に驚いた様子は無い。むしろ、そうであって当然だと思っているかの様だ。
「……何を、見たんだ?」
だからこそ、気になってはいたが聞かない事にしようと決めていた質問が、口を突いて出た。
「………………」
聞かれた背の高い男は、黙り込む。答えたくないのか答えられないのか、それすらも分からない。しかし、これだけは見て取れた。背の高い男の口元が引きつっている。
慌てて、背の低い男は言葉をかけた。
「……いやいや、言い難いなら良いぜ。少なくとも、良い物を見たって訳じゃ無さそうだ」
「…………俺は、何も見てない」
数秒くらい黙り込んだ後、背の高い男は唐突に返事をした。どこか空虚な響きすら感じさせるその声は部屋によく響き、強い印象を与える。
嘘だ。すぐに、背の低い男は理解した。しかし、それ以上何かを聞く事は戸惑われた。聞いても、答えは無いのではないかとすら思えた。
背の高い男は、力無く微笑んだ。圧倒的な何かを見て、それに相対してしまった男の諦観、そんな感情を覚えさせる物だ。
どこか安らぐ様な、ある種の安心すら感じさせる。そんな男は、自分の言葉を確かめる様にもう一度呟いた。
「何も……見てないんだ」




