1話
数日後
街の墨にある、海沿いの小さな倉庫群。特に港があるわけでもなく、普段は人気も殆ど無い場所だ。主に違法な取引や賄賂の受け渡しなど、隠し事に用いられるそこへ、今は何十人もの人間が集まっていた。
老若男女、様々な人間がそこに居る。彼ら彼女らは一様に同じ方向を向いていた。そう、海に佇む船に。
「へぇ……思ったより、大きい。これだと……ああ、やっぱり沈みそうだ……美女との出会いは無さそうだけどな」
「本当に縁起が悪い……そんな事言ってると本当に沈むから止めてくれ」
「いいじゃないか、沈んだら沈んだ時だ。その時はまあ、俺が何とかしてやるさ」
大勢の人間の中で、妙に浮いた雰囲気を放つ三人の男達が居た。エドワースとリドリー、そして彼らがボスと慕う存在だ。
黒いスーツに身を包み、サングラスをかけた三人は周囲から浮いている事を自覚しつつも、改めるつもりは無いらしく瞳はただ船を見ていた。
「なんで俺達こんな格好してるんだ? どう考えても観光客にしちゃ怪しまれるし、危ないと思うんだが……サツに目を付けられたらどうするんだよ……」
「エドワース、コイツの趣味だ。形から入った方がカッコいいんだと」
「へへ。エドワースはよくぞ聞いてくれた。この服装はだな、ある映画で銀行強盗が揃って着ていたのさ。なんていうか、大物っぽいだろ?」
「往来でこんな格好でこんな雰囲気の三人組を見たらマヌケだと思うんだが」
改めるつもりがない、というよりはリドリーが乗り気ではない他の二人にこの格好を押しつけたらしく、リドリーだけが妙に喜んでいる姿が見受けられる。
それを知っているボスと呼ばれる男は、警察の影に怯えているエドワースの方を軽く叩きつつ、大きなため息を吐いた。
「それにしても……俺を入れて四人しか付いてこないとはな。どうも……船は嫌いかあいつら」
その場には、先日集まった者達の殆どが居ない。その時の状況をボスと呼ばれる男はよく覚えていた。全員が全員、「資金の節約」と言って船の旅を拒否したのだ。
勿論、彼らもこの集団が湯水のように金を使える訳ではないと理解しているからこその言葉なのだろう。が、男の表情は優れなかった。
「まったく……乗りたくない奴は乗らなくて良いと言った俺が悪いんだろうが……どうせなら全員で行きたかったな。……なぁ?」
男は二人へと話を振る。だが、その二人は同意するでもなく首を傾げ、目を疑問で一杯にしていた。
「……あの、四人?」
「ああ、俺達には見えない人が見えるんだねぇ。きっとそいつは死んでいるんだ、おお、心霊アドベンチャー大作が始まるぞ」
エドワースが疑問を男に投げかけたのとほぼ同時にリドリーが適当に何かを言っている。何を言おうとしているのかは分かるが、あまりきちんと返事をする気にならない言葉だ。
それでも、男は質問に対する答えを用意していた。確かにこの場には三人しか居ない。が、人数を数え間違えた訳ではないのだ。
「いや、ある意味死人同然だが……エィストさ。あいつ、どうやらこの船に乗るらしい」
エィスト、その名前が出た瞬間からエドワースは疲れた様に肩を落とし、リドリーが複雑そうな表情で、だが愉快そうに頷く。
彼らがその『エィスト』という存在をどの様に考えているのかが、一目瞭然となる反応だった。
「ああ、これは本当に沈むね。沈む。間違いなく船は沈没客は全滅。あぁ、俺達の人生も此処までか……それも良いな、うん。とすると俺が先か誰かが先か。ラストはどうなるのかねぇ、『ストーリー』に俺は絡めるのかねぇ」
何かを悟った様に、リドリーが独り言を呟く。余りにも縁起の悪い言葉だ。小さい声では無かった為に周囲にも聞こえたかと様子を伺う。が、どうやら聞こえていなかったらしく少し遠くで周りを歩く人間は笑みを浮かべ、何やら雑談をしながら船に上がっていく姿が見られた。
思わず、男はため息を吐く。そんな時だった、異様な雰囲気で周囲から遠ざけられていた三人に、近づく影が見えたのは。
「大丈夫ですよ、この船は結構頑丈なんです。船中が爆破でもされない限り、早々沈んだりしませんから」
目の前まで来たと思うと、三人に向かってその人物は言いながら一礼した。男達は服装からその人物がこの船の船員なのだと気づき、軽く息を吐く。
「おお、それは安心だ。で、知ってるかい? そういう『絶対に沈まない』とか何とか言うと……」
「荷物をお持ちいたします」
リドリーの馬鹿にする様な声から回避すると、船員はやや強引な調子で、三人から荷物を受け取る。言葉を交える隙が無いほど、素早い動きだ。
軽い感動を覚えて、リドリーが口笛を吹く。それを賞賛と受け取った船員は口元に笑みを浮かべ、三人に背を向けた。
「では、お部屋まで。……中身を見たりはしませんからご心配無く」
背後で、エドワースが船員を追う様に一歩動いた事が見えていたのか、そう言って足を止めさせると船員は口笛混じりにその場から去っていった。
その背中を見ながら、男は呟く。
「変わった船員も居るんだな……ルービックキューブをやりながら接客する奴なんて始めてだ」
船員の手の中にルービックキューブと言われる色を合わせる四角のパズルがある事を男はしっかりと認識していた。
普段ならそこまで詳しく観察する事は無いが、その船員は明らかに奇妙だったのだ。
「顔、見えなかったな」
エドワースの小さな声が船員の奇妙さを表していた。そう、その船員は帽子を目深に被って顔を隠していたのだ。ただの船員だとは、思えなかった。
だがその疑問は長く続かなかったらしく、三人は荷物が無くなって軽くなった体を動かし、船の見取り図を見つめる。
----娯楽施設もそこまで多くは無いが、一応はあるらしい。
そう考えながらボスと呼ばれる男が見ている間、リドリーはただ一点を見つめている。どこを見ているのかは、すぐに分かった。
「へぇ……ここ、小規模な映画館があるらしい。ボス、行ってくる。何をやってるのか気になるし……ああいうのは基本、そういう場所で起きる物だしねぇ」
『ああいうの』が銃撃戦やパニックなどの状況である事を理解している男とエドワースは嫌そうにリドリーを見た。
が、もはやこれから行く映画館にしか意識が行っていないらしく、リドリーは輝く様な目で案内を見ている。
「じゃあ、俺はその、不安なのでやっぱり荷物の見張りに行きます。大丈夫そうなら寝ておきますから」
それに疲れたのか、エドワースは肩を竦めつつ部屋に向かっていく。ボスと呼ばれる男は事前に全員分の部屋を予約していたが、彼らが使うのは人数分だけだ。
予め部屋の番号を知っているのだから、間違える筈もない。
「リドリー、エドワース」
それを分かっている男は「行ってこい」と言わんばかりに頷きながら、真剣な表情で二人を呼びかけた。
当然の様に、二人は進めていた足を即座に止めて男の方を見る。
「……何故か、嫌な予感がする。お前等も気を付けろ」
男の視線は、船の外に居る他の乗客達に向けられていた。特に怪しい所を感じられない、ただの、普通の乗客達に。
何かがある、そう思わせるには男の表情は十分な程真剣だった。
「……ははっ、望む所だね」
「俺にとっては望んでない所だよ……」
それでもリドリーは楽しそうに。エドワースは顔を青くして歩いていった。
別々の方向を行く二人の背中を眺めつつ、男は呟く。
「……何だ? この、違和感は?」
男は乗客達の凡そ七割程度に、違和感を覚えていた。まるで生身の人間を使った人形劇でも見せられているかのような、違和感を。
+
「何やら、嫌な予感がしますね」
三人しかいない集団の中でボスと呼ばれた男の言葉を繋ぐ様に、プランクは周囲の様子を探りつつも呟いていた。
彼らはその三人が船内に入ったのとほぼ同時にこの倉庫群に辿り付いている。まだ船の中に入っていないのは、人数が多い為だ。
「プランクさん? 嫌な予感、とは? まさかサツが……」
「ああ、いえ。多分、気のせいでしょう」
耳聡く、プランクの言葉を聞いていたのだろう。周囲の人間の一部が心配そうに見つめて来る。それをプランクは軽く片手を上げて制し、感情を制御して自身の不安を消し去る。
急に表情が変わったプランクを見ても、周囲の人間は誰も驚かない。そのくらいの感情を制御する技能を----張り付いた笑顔がある為に余り使わないにせよ----プランクが持っているのは、周知の事実だった。
それでも、周囲の不安は拭えなかったのだろう。隠してはいたが、プランクには見破れるくらいの物だ。
「大丈夫、船員は全員こっち側の人間ですよ。客も内三割は我々の側です」
内心で息を吐きながら、プランクは周囲を安心させる為にこれまで何度も話してきた事をもう一度告げる。
船の中に居る人間はかなりの数が、プランクの部下だ。船員に至っては船長から荷物運びまでの全てが彼の息がかかった人間なのだ。そうでなければ、彼も『一部にしか需要が無い』とはいえ薬を船で運ぶなどという行為には及ばなかっただろう。
その言葉でようやく安心したのか、男達は納得した様に頷き、船を見る。だが、甲板の先に立っていた者を見て、彼らは少し顔を青くした。
すぐ下で、困り果てた様な顔を晒すコルムの姿には誰も触れなかったのだが。
「おや……」
プランクもまた、彼らと同じ場所を見ていた。だが、その反応は大きく違う物だ。
「大丈夫。ええ大丈夫ですとも。カナエも暫くは大人しくしてくれる事でしょう」
甲板の先で静かに海を眺めている存在----カナエを、プランクは頼もしそうに見つめていた。背を向けている為に目は窺えなかったが、恐らくは虚ろな目をしているのだろう。
そんな想像をしながら、プランクはカナエから視線を外す。そこには、見知らぬ人間が立っていた。
「すみませんが……写真を一枚、良いですか?」
カメラを持った男が目の前に居たのは、少なからずプランクを驚かせた。が、それを表情に出す彼ではない。即座に返答を思いつくと、その通りに言葉を発した。
「新聞に載るなら、お断りですよ。それに、名乗る方が先だと思いますが」
軽く拒否して、男を引き離そうとする。しかし男はどういうつもりなのか名刺を取り出して、プランクの言う通りに名乗りを上げた。
「ああ、申し訳ない。私はアール・スペンサーと言うもので……」
男は一礼し、名刺をプランクに押しつける様に渡す。地味な印象を与える風貌の割には強引な男だ、面倒な相手だと感じたプランクは適当にあしらって、男を遠ざけようとする。
が、男の名前が聞いた事のある物だった事を思い出し、言うつもりだった拒絶の言葉を飲み込んで、自身の頭に浮かんだ人物なのかを確認する事に決めた。
「……確か、Mr.スマイルの記事を書いた方ですね?」
プランクがその男の名前を見たのは、数日前の地方新聞に載っていた記事の最後にある、記者名の部分だ。そう、Mr.スマイルがホルムス・ファミリーを壊滅させた、その時の。
「おや、ご存じで! 私の記事を読んでくださって……いや光栄です!」
嬉しそうに、やはり地味な印象とは違う調子でアールと名乗った男は話し、かなり強引にプランクへ握手を求める。
声を聞いていたプランクの周囲に居る人間達は微かに騒ぎ出した。が、プランクが握手を返しながら軽く手を振ると全員が別々の会話を始める。
何らかの集団である事を悟らせない様に、プランクは慎重な動きで部下達に『他人のフリ』をさせているのだ。それに気づいていないのか、男は嬉しそうなまま話を続けていた。
「いやぁ、あの記事を書いたらもう……ウチは売り上げがあがってましてね! ただ……」
「……ただ?」
急激に疲れた様な顔になって、男はため息を吐く。だが、急に変わった姿をプランクが不審そうに見ている事に気づいたのか、男は慌てて首を一度振って笑みを戻した。
「ただ、私自身の収入があがった訳じゃないんですが……いやむしろ、下がって……ああ、失礼。初対面の方に話す事ではないですね」
笑みを浮かべながらも、やはり心の底では疲れを感じているのだろう。男は先程より外見相応の地味な声で愚痴まがいの事を話し、まるで目の前のプランクを忘れていた様な態度で呟く。
とても面倒な相手だ。そうプランクは感じて、新聞記者から離れる事を決めた。
「……では、失礼」
軽く会釈して、プランクは男から離れようとする。しかし、男はそこでようやく我に返って首を何度も振り、プランクへ申し訳なさそうな顔を見せる。
しかし、男の足はプランクから離れる気がないのかどんどんと近づいて来た。
「ああ、止めてしまって……おや、良い腕時計ですね」
プランクに距離を取られるまいとしているのか、男は無理矢理に話題を作ってきた。目はプランクの腕時計へ向けられている、ブランド物の時計だ。
近寄られた事には眉を顰めて嫌そうな顔をしつつも、どこか上機嫌になった。腕時計に関して声をかけられた事が嬉しかったのだろう。少し腕を上げて時計を見せると、得意げな顔をする。
「おや、コレに言及した方は久しぶりですね。まあ、昔から使っているんですよ。良い値段がしたので、買い換えるのがもったいなくて」
「成る程……ちなみに、幾ら程で?」
「自分で調べてください。そこそこ、いえ、かなりの値段ですよ」
値段を聞かれたプランクは誤魔化す様な口調で返事をしている。先程よりも機嫌は良かったが、やはり目の前の新聞記者の相手をするつもりは無い様だ。
すぐに距離を取ろうと動き出したプランクに対して、記者はまた近づこうとする。鬱陶しい、そんな雰囲気がプランクから漏れてしまった。
「そうだ、もう一つ……」
「楽しい事が聞けましたよ。では、また機会があれば」
記者が何かを言おうとしたが、その前にプランクが言葉を割り込ませて黙らせる。
その間にもプランクは自然に、だが素早く距離を置きつつも、男が自身を追ってこれない様な位置を歩くように部下達へそれとなく指示を送る。
プランクの指示を、部下達は素早く的確な動きで遂行した。あまりにも自然すぎて、第三者にはプランクと彼らが同じ集団である事など伝わりもしないだろう。
新聞記者は、追ってこなかった。
当然の事としてそれを受け入れつつもプランクは部下から離れすぎないくらいの歩幅で進み----ふと、背後へ振り向く。
新聞記者は、もう見えなくなっていた。部下達が壁になったからではなく、既に居なくなっていたのだ。
「……ただの、記者という訳でも無さそうですね」
そこでようやく、プランクは新聞記者が現れた時のおかしな状況を思い出し、眉を顰める。
彼の周囲は、部下がそれとなく集まる事で部外者が近づけないようにしていたのだ。だが、アール・スペンサーと名乗った新聞記者は何の疑問も抱かせる事無く、プランクに接触する事を成功させた。
あまりにも自然に近づき、あまりにも素早く去る。地味で印象が薄いのも、何かの裏があるのかもしれないと考えさせる程だった。
実際に、ある一点を除いてプランク自身がその顔をあまり覚えていないのだ。
「……嫌な予感がしますね、どうにも」
自分の腕時計を手で弄びながら、プランクは男からはっきりと感じる事が出来た一点を頭に思い浮かべた。そう----何かを底に溜め込んだ様な、歪んだ笑顔を。
+
「うーん、私達の兵隊じゃないのって、船内に三割とちょっとも居るんだよね……」
船の乗客達が粗方乗り込み、倉庫群の前が静かになりかかっていた頃。最後にその場へ到着した二人の内、少女の方が何やら眉を顰めて呟いていた。
「その三割こそ、我々が倒すべき相手でしょう?」
「まぁ、ね。条件は確かに圧倒的だけど……やっぱり、覆されるのは怖いよね?」
二人は、自分達の復讐の対象が乗っている船を眺めていた。
三十代後半の男と、十代中頃の少女。話の内容や、互いが向けている感情を確認していない者がこの二人を見れば、親子だとでも思う事だろう。
だが、それらを確認出来たならすぐに分かるはずだ。この二人が上下関係で----それも、少女の方が上である事に。
「それより、兵隊連中はうまく誤魔化せましたかね。俺は心配ですよ」
「大丈夫だよ、確認したから……勘の良い奴なら、あれが仕込んだ動きだって事に気づくかもしれないけど」
そんな少女、ジェーン・ホルムスは男、パトリックの耳元で囁く。会話を聞かれない為の行動だ。特に親愛を感じさせる物ではないが、遠目にはそう見える事だろう。
ジェーンが語っていた内容は、自分達が作り上げた『兵隊』の事だ。彼女の考えの元、危険極まる薬物によって作り上げられた機械の如き人間達は、一般人『らしい』行動をする様に教育が施されていた。
その技能を使い、彼女の兵士達は自然に無害な一般人を装って船に乗り込む事に成功したのだ。
「武器は……荷物に紛れ込ませたんでしたっけ?」
「うん、検査が杜撰で助かったね。ちょっとお金を出したら何も疑われる事無く荷物を入れてくれるんだから」
「ウチの組織の人間ならまずやらない馬鹿らしく愚かな行為ですね。まあ、お陰でこっちは仕事がやりやすい訳ですが」
二人は小声で物騒な会話を繰り広げながら、船に近づいていく。周囲に人間が居ない為か、大胆にも関係性がある事を隠していない。
「それで……パトリック君はあの作戦で大丈夫なの? 死んじゃだめだよ?」
朗らかに物騒な事を話し合っていたその中で、ジェーンが唐突にパトリックの顔を覗き込んだ。
心配そうに見つめられて、パトリックは少し居心地が悪そうに身じろぎする。だが、その心配も尤もな話だ。ジェーンが立てた作戦は、彼をかなり危険な目に遭わせてしまう物なのだから。
「あー……大丈夫です。生き残るだけ生き残って見せますよ。知ってるでしょう? 危険を感じたらすぐに逃げますから」
言いながら、パトリックは腰や袖、そして懐に隠した銃をジェーンに見せつける。口元は不敵な笑みを浮かべていて、目は言葉通りに生き残ろうとする輝きを表していた。
「……そう?」
目の輝きを見て意志を受け取ったジェーンは不安そうな顔を消して、恋人か親にでもするかの様にパトリックの腕に抱きつき、距離を縮める。
見せつけるように親愛をぶつける行動にパトリックは慌て、離れる様に言おうとする。が、その前にそれまでとは違う少し暗い声が耳に届いて、口を閉ざす事になった。
「でも、本当に……駄目だからね。あなたが死んだら、ファミリーで信頼出来る人が居なくなっちゃう」
声は暗い物だった。ジェーンという少女の内面を表すように細い腕に力が籠もり、絶対に離れない様に思い切り抱きついてくる。
今度は、パトリックも引き離そうとはしなかった。彼女らが立てた作戦ではこの二人に関わりがある事を他の乗客乗員に知られてはいけないのだが、構わない。
何故なら、パトリックもまた同じ事を考えていたのだ。『生き残ったファミリーで信頼出来るのは目の前の少女だけ』なのだと。
数分後、ようやく二人は数歩だけ距離を取って気まずそうに見つめあっていた。
とはいえ、二人が心の中で考えている事は少し違う物だ。少女は、弱みを見せてしまった事に。男は、少女の弱みを見てしまった為に気まずい空気を放っている。
二人は沈黙して、船の方へ目をやる。幸運にも視線は無く、この二人の関係性は誰にも知られていない。その、気まずい空気も。
その事実に、二人はほぼ同時に安堵して息を吐く。そして少し感傷的になってしまった自分の身を振り返り、また気まずい感情を覚えた。
「えへへっ、ごめんねパトリック君! ちょっと……寂しかったからさっ!」
しかし、その状態では埒があかない事を知っているジェーンが、パトリックよりも先に空気を変えようと口を開いていた。
その姿は妙な空元気にしか見えないが、それでも感情は伝わり、パトリックは内心の同情心を封殺しつつ、努めて気楽そうに声を返す。
「我らがボスや信頼できる幹部連中が居ないんです。そりゃ、寂しくて当然でしょう? 自分だって寂しいんですからね。だからこそ、こんな計画を立てた訳ですし」
「あはっ。うんうん、パトリック君だって同じ気持ちなんだね……だから、仇を取ってやりたいんだけど」
少しわざとらしいが、空気を変えるだけならば十分だったのだろう。二人の間を通っていた気まずい物は消え、代わりに殺気めいた何かが見え隠れしている。
二人の感情は『復讐』という二文字で一致している様だ。
が、その感情を外に出せば事態を悟られると危惧し、ジェーンは他の話題を振ろうと船の周囲を探って----船の頂上で海を見つめている、一人の女を見つけた。横顔だけでも分かる、強烈な程の美人だ。
「……へぇ」
一瞬でジェーンの頭脳は『パトリックとの関係性を知られたか』と悟られない程度に警戒を始め、口はそれとは別な内容を発する。
「へぇ……綺麗な人。ああいう人を秘書かボディガードにしたら、パトリック君は幸せ?」
「……! それは……!」
それとなく告げられた一言。そこで初めて船の上に居る者に気づいたのか、パトリックもまた一瞬で警戒する姿勢を見せた。が、ジェーンに比べれば警戒が外に現れていて、分かりやすい。
「『そんなにジロジロ見ちゃ駄目』だよっ。パトリック君みたいな男に見つめられたら、きっと女の人は遠目でも『気づいて』、怖がるからね!」
軽い口調で注意を促す。するとパトリックはハッとした顔になり、彼女にしか分からない程度に一礼して警戒心を隠した。
「あはは、そんな事をしちゃいけませんね。捕まってしまうかもしれない。あ、でもボス?」
「ふふ、ジェーンで良いよっ」
苦笑混じりのパトリックの言葉にジェーンは首を傾げ、最後の『ボス』が自分を指している事に気づいてすぐに返事をしていた。
それが、信頼の証だと言わんばかりの声を聞いてパトリックが----女の視界に入らない位置に立ちながら、嬉しそうに笑う。
「ではジェーン様。俺はボスかジェーン様が居ればいつでも最高に幸せですよ」
これからやる事など感じさせない柔らかい声音で告げられ、ジェーンは微かに頬を赤く染める。
「うんうんっ、君のその言葉を聞けば……パパもあの世で喜ぶと思う!」
同じくらい嬉しそうな声を返し、また距離を詰める。
そうしながらも船上の女への警戒は怠らないが、こちらを見ている様子も無ければ何らかの機械で会話を聞いている風でもない。
どうやら、関係性や出自が知られてしまった訳ではなさそうだ。それを理解した二人は安堵の息を吐き、互いの顔を見た。ほとんど、人類最後の二人になった気分だった。
「さて……パトリック君、指揮はお願いね。私には、そういうの無理だから。でも、無理はしない事!」
しかし、そのままそこに居る訳にはいかない。船の出航時間が近づいていて、計画の準備もしなければならないのだ。
それを知るジェーンが腕時計を確認しつつ、パトリックに告げる。
「分かっています。任せてください、絶対に作戦は成功させますよ。では、先に行っています」
勿論、パトリックは事前にそれを知っている為に大きく頷き、行動を始める為に船の方へ向かっていこうとする。
その姿を数秒眺めたジェーンは、何かを思いついたのだろう。慌てた様子で、だが口元には悪戯小僧のような笑みを浮かべて離れていく背を追う。
「ちょっと、待って!」
制止の声が届き、パトリックが足を止めて振り返る。すると----パトリックの頬に柔らかく、艶やかな何かが当たった。
それが唇だという事はすぐに分かった。何せ、ジェーンの顔がすぐ横にあるのだ。背伸びをして、パトリックの隣に立つジェーンが。
「ジェーン様っ!?」
「ふふっ、生きて帰れるおまじない! じゃ、私は映画館にでも行って暇を潰してくるから、勝手にはじめちゃっていいよっ! じゃね!」
狼狽するパトリックがとても面白かったのか、ジェーンはクスクスと笑って、笑いながら楽しそうに船の方へ走っていく。
ついで、とばかりに付け足す様な言葉がその背中から聞こえて来た。
「ああ、『鍵』は私がちゃんと持ってるよ! それで、もう片方はあの場所だから!」
呼び止めようと思ったが、パトリックは呼ぶ理由が無い事を思い出してすぐに口を閉ざす。そうしている間にジェーンは船の中へ入ったのか、もう姿は見えなくなっていた。
しかし、今まで側に居た少女は強烈な印象を持って、パトリックの心と少し湿った頬にその存在を残していった。
「父親想いの良い子、だよなぁ……」
自分の頬を撫でながら呟く。男は、少女が人間を薬で洗脳し、兵隊として扱っている事など気にもしていない。いや、どうでも良かったのだ。
彼の心の中にある『信頼』『忠誠』という感情はファミリーの一員----厳密には彼らのボスとジェーンだけで、それ以外の存在の人生がどれだけ成功しようが失敗しようが何の興味も、無いのだから。
頬に残る感触をジェーンからの信頼の証として受け取り、パトリックは光栄だと感じながらも船に近づき----目を見開いて、船の一室を凝視した。
「……っ!?」
視線の先には飾り気の無い扉が僅かに開いていて、奥は窺えないが恐らくは同じように飾り気の無い、関係者用の通路が広がっているのだろう。
だが、そんな事はパトリックにとっては気にもならない。彼がそこを見つめたのは、視線を感じたからだった。
ただの視線ではなく、ジェーンが危惧していた警戒の視線でもない。喜びや、呆れが籠もった複雑な物が向けられていたのだ。
対して、それを受け取ったパトリックの心に現れた感情は本人にとっても予想外で、理解できない物だった。そう、謎の視線から彼が覚えたのは----敬愛と、喜び。
「何だ、何が……何が居る? あそこに何が居た?」
強い困惑を覚え、パトリックは扉を見つめる。だが、視線の主は離れたのだろう。もうその場に何かが居る様子は無い。
パトリックは、うわ言のような声を発しながら飛び出すように走り出す。警戒と、『まさか』という可能性へ向かって。
「まさかそんな。まさかいや、まさか……まさかボスなのか!?」
思わず、パトリックは自分の首にかかっていた血の痕があるネックレスを握りしめる。
『Mr.スマイル』が行動し、幹部とその家族の殆どが抹殺されたその日、逃げてアジトに戻ったパトリックは生き残っていた幹部の一人に『ボスは死んだ』とだけ告げられたのだ。
それだけで「ボスは死んだ」と思いこんでしまったが、しかし、そうではない事をパトリックは今この瞬間に悟った。
そう、彼や----ジェーンが知っているのはただ聞いただけの情報であり、遺体を見た事は一度も無いのだから。
そして、パトリックが船の中に入り、関係者用の通路を探し始めたその頃、船は動き出す。
倉庫は、静かに船を見つめている。まるで、悪意を運ぶ船を哀れむかのように。
そうそう、パトリックは確か『メイド・イン・LA』のパトリック・ソレンコから取っています。実は『ヒート』はまだ見ていなかったり。
『黒いスーツに身を包み、サングラス』 映画『レザボア・ドッグス』から。タランティーノのデビュー作はやっぱりタランティーノだった。