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キラーハート The Killer In Smiling MAN S  作者: 曇天紫苑
The Killer In Smiling MAN S 大笑編
29/77

5話



「……ああ……ボスに殺されるな、俺は」


 同じ頃、一人の男が溜息混じりに自分の思考を呟いていた。困った様に頭を掻いている姿は大した能力など感じられず、暗すぎる顔をしている。職を失った中年男性でもまだ明るい顔だ。

 それだけを見ると、彼が優秀な情報収集能力と身体能力、そして強固すぎる程に強固な忠誠心を兼ね備えた男だなどと、ましてやとある大組織をたった一人で回し続ける事が出来る程の男だなど、とてもではないが想像出来る筈も無い。


「ジェーンめ……何故動いたんだ、あいつめ。クソッ……どうして行動したのか……どうなるかなんて分かるだろうが……ああいや、あいつはボスが死んでると思ってたか……」


 そう、そんな情けない顔で溜息を吐いているのはサイモンだった。通路の端に寄りかかりながら肩を落とす姿には何の力も感じられず、ただ疲れた姿だけがそこにある。

 彼が危惧した最悪の事態は、既に起こっている。ジェーンは中毒者の一人から聞いた通り、彼らを連れて船に乗り込んでしまったのだ。

 行動を始めてしまった事に気づいたサイモンは心から面倒さと疲労感を覚えた。その為、彼は今ここで壁に体を預けているのである。


「……Mr.スマイルの奴が、両方の恨みを買ってくれれば良いんだがな……」


 落胆しながら溜息を吐いている間にも、サイモンは今後どうするべきか考える事を忘れた訳ではない。頭の中には、先程見たMr.スマイルと、ジェーンが操る『兵隊』達が浮かんでいる。

 彼は、Mr.スマイルに『兵隊』達の拠点と思わしき船室を教えた。

 何故知っているのかと言うと、まだ正気だった『兵隊』を言葉巧みに騙して情報を吐かせたのだ。その中毒者は恐らく集団を抜けようとしてジェーンに殺されただろうが、サイモンは気にもしていない。

 その情報で、サイモンは今何が起きているのかを正確に把握出来ていた。同僚でありボスの娘であるジェーンが暴走し、中毒者とパトリックを連れて船を襲撃したのだ。

 少ない情報の中から、ジェーンは売人達に疑いの眼を向けたのだろう。


「ミスかな、俺の。ジェーンの奴を誘導出来なかったんだからな」


 思わず呟いて、頭を掻く。Mr.スマイルの正体を教えていればその方向へ復讐心を誘導する事も出来ただろうが、そちらへ向けさせるのはある意味で売人達全員を敵に回すよりも恐ろしい状態になってしまうのだ。

 何せ、Mr.スマイルの正体たるエドワースは、今はケビンと名乗る男の部下である。二人のボス同士が喧嘩別れして、サイモン達と戦争寸前の状態になった組織なのだ。特に、相手の支配領域で麻薬を売った時からは。

 下手に行動させれば、山の様な火薬と液体燃料と可燃ガスが充満した空間で火を灯すよりも明らかで危険な爆発が起きてしまいかねない。そう判断したサイモンは、あえてジェーンに何も教えなかった。


「その結果が、これか……ボス、ジェーンがMr.スマイルに殺されたらどうなってしまうのやら……これも、奴の狙い通り……まさかな」


 手紙の主、つまり『あの組織』がジェーンの行動まで全てを把握している筈がない。自分の妄想に軽く肩を竦めて、苦笑する。

 頭の中にはMr.スマイルに対して『兵隊』達の拠点を教えてしまった後悔と、同時に自分の行いが正しいという確信が見えている。

 ジェーンがその部屋に居ない事など、サイモンは計画の情報を聞く前から解っていた。拠点で大人しく『兵隊』達に支持を渡して満足する様な『淑やかな』少女ではないのだ。

 むしろ、『兵隊』達はMr.スマイルを炙り出す材料でしか無いのだろう。自分か、パトリックの手で復讐を遂げたいと考えているに違いない、それはサイモンにとって殆ど確定事項として存在している。

 だからこそ、サイモンは彼らの拠点の船室を教えた。拠点を破壊して『兵隊』達の動きを抑制する為に、Mr.スマイルを利用したのだ。

 例えジェーン達が居たとしても、恐らくは教えたのだろうが。


「……さて、俺はどうするべきだ」


 Mr.スマイルの正体を確認した今、サイモンがやるべき事はMr.スマイルへの報復と、ボスを宥めて組織を再編成する計画を立てるくらいである。

「ボスに連絡入れる方が、先だな」

 一度軽い息を吐いて、サイモンが壁から離れる。頭の中にはボスであるアール・スペンサーを探して、現状を報告する事だけがある。

 しかし、Mr.スマイルの正体を教える気はほぼ無いに等しい。かつての相棒である男と明確に敵対させる気は無く、彼らと戦争状態に持ち込むつもりも無かったのだ。


----勝てる気が、しないしな。出来る事なら避けたい


 確かに、相手は小規模組織である。しかしながら構成員の中にはとても人間とは思えない身体能力や考えたくない精神構造をした者が居るのだ。規模は関係無く、勝てるとは思えない。

 先程、顔を隠してエドワースの様子を窺っていた時に会った二人の顔を思い出す。片方は、ボスであるアール以外には本名を知る者が居ない男だ。もう片方は映画好きの化け物として名前を耳に挟んだ事がある、リドリーだ。

 リドリーの事はよく知らなかったが、もう一人の事は昔から知っている。ジェーンの『兵隊』達では絶対に勝てない実力を持っている男だ。

 彼らが、『兵隊』達に殺される事は無い。同時にそれは、恐らくエドワースであるMr.スマイルも『兵隊』達では傷一つ負わせる事は出来ないという事実を表す物でもあった。


「……Mr.スマイルのまま死んでくれれば、彼を怒らせる事も無いのでしょうが、期待出来ませんか」


 軽く溜息を吐いて、歩き出す。懸念は多く、不安要素も多い。しかし、組織とボスを守りきろうと言う意志は一切歪んでいない。ある意味では歪みきっていたが、その気持ちには全く変化が無い。例え、自分の命やジェーンの命を捨ててでも、彼はその気持ちを貫き通すだろう。





+




 そんな気持ちを向けられているとは知らず、アール・スペンサーは通路を警戒しながらも堂々と歩いていた。まるで、自分の敵など居ないとでも言うかの様だ。

 実際、そうなのだろう。彼の通り道には敵が居ない。そう、敵は居ないのだ。床に転がっている『兵隊』達は、敵ではない。ある意味味方であり、ある意味では忌々しい邪魔者である。


「……」


 その『兵隊』達は、つい先程彼の手で気絶させられた者だった。接近して襲撃しに来た彼らは一瞬で腕を捻られて押さえつけられ、虚ろな目を晒すだけで何も出来ずに倒された。

 だが、その行動だけでアールは彼らの正体を八割方察する事が出来た。人間をそんな状態にする薬が存在し、そんな薬を自分の娘が買っている事を、彼は知っていたのだ。

 やはり、ジェーンは行動してしまったらしい。大方予想も覚悟も出来ていたとはいえ、本当に起きてしまった時の心の衝撃はサイモンのそれを大きく上回る物だ。


----こんな事になるなら、ジェーンを麻薬部門に置くべきではありませんでしたね……


 頭の中の思考も新聞記者としての自分にして、平静さを保とうとする。激情と悲嘆が同時にやってきて、複雑な混乱を彼に与えようとしているのだ。

 それくらいでパニックを起こす程弱い精神をしているアールではないが、しかし辛い気持ちなのは確かだ。自分の娘が客船を襲撃したと知って、喜ぶ親は居るまい。

 少々の八つ当たりを込めて、軽く壁を叩く。凄まじい憤怒は変わらず心の中にあるが、しかし今はこの衝撃が心の中での最優先事項になっている。


「ふむ……どうしたものでしょうか」


 皮肉にも、ジェーンの愚かな行動はアールに確かな理性を取り戻させていた。怒りも憎悪も、抑え込める程度まで減退させる事に成功したのだ。

 重く暗い気分になってしまうのは仕方がないとはいえ、サイモンにとっては行幸だろう。本人にとっては、あまり嬉しくない事だろうが。


----プランクさん、でしたか。ジェーンが彼らに酷い被害を加える前に、止められれば良いのですが……


 未だMr.スマイルの正体も知らず、それどころかエドワース達がこの船に乗っている事も知らない彼は、ひとまずプランク達と合流する事を考える。

 一度会った限りだが、アールはプランクの性格をある程度は理解できていた。印象的なのは冷たい雰囲気と、人を何とも思っていない目付きだ。

 それが他者だけに向けられる物であればただの冷徹な男だが、自分自身にも向けられているという点が強く心に残る。

 信頼するにはかなり難しい相手だが、何にも、恐らくは自分の利益にすら価値を見い出さないその姿はある意味では信頼出来る。

 彼は例え部下の命が奪われても、アールとは違い冷徹に対応するだろう。表面上は、怒るのだろうが。

 どこにプランクが居るのか、そんな事を考えている間に一人の女が通り過ぎる。しかし、アールはそれを視界に入れただけで何とも思わず、思考に埋没する。

 この船内のどこかに居る事は間違いない。しかし、船は思っているよりも広く、思ったよりも解りにくい。偶然でなければ、出会う事は出来そうにも無い。

 どうした物か、とアールは考える。視界に入った女の外見的特徴は思考の端で拾っていた。絶世という言葉すら置き去りにする美女で、それを台無しにするおかしな笑い声を上げていた。

 そんな事は気にもしなかったアールはプランクが居る可能性が高い場所、そして会った場合の対応を考える。女の姿は微かに心の中に入ってきているが、優先順位は遙かに低い。

 暫く考えている間に、女が通った道を一人の男が同じ様に歩いていく。時折、キョロキョロと周囲を見回しているのが印象的だ。アールの事は見えなかったらしく、少し困った顔で通り過ぎる。

 今度は、プランクの事よりも優先される物が一つ浮かび上がって来た。ただのチンピラにしか思えない男の存在が鍵になって。

 男の方は、少し気になった程度でしかない。だが、その男が『誰を探しているのか』を頭の隅で予想した途端、女の印象的な外見が頭の全体に広がったのだ。


----……? どこかで、見たような……


 先程はプランクの事と、今でも湧き出る怒りと、ジェーンへの心配と不安が入り交じっていて女の事など気にもならなかった、だが、今は違う。

 女の顔が頭から離れない。見目麗しい外見の仕業でも、醜悪な笑い声の仕業でもない事はすぐに分かる。『そんな物』に騙される程、彼は甘く無い。

 何より、その顔には見覚えがあったのだ。かつての相棒の仲間として、誰よりも得体の知れない笑みを浮かべた、心に残る女として。

 恋人の様に腕を組もうとして鬱陶しそうに跳ね除けられていた様子を、忘れる事は永遠に無いだろう。当時、そんな事を考えたのが記憶に残っている。

 そこで、アールは気づいた。彼女が船に乗っているという事は、あの『元相棒』もまた、船に乗っているのではないか、と。


「……まさか!?」

----乗ってるのか、あいつが!?


 後半は言葉には出さなかったが、心の中で受けた衝撃はジェーンが行動を起こしてしまった時よりも遙かに大きく、魂を揺さぶる物だった。

 彼にとって、『元相棒』は特別な存在だ。同じ目的の為に立ち上がり、町を共に駆け抜けた相手だ。

 方向性の違いから今は敵対しているが、再会すれば何の迷いも無く和解出来る。いや、和解する必要も無く、『元相棒』は『相棒』に戻る。そんな確信がアールにはあった。

 サイモンやジェーンよりも、遙かに長い付き合いだ。現在の状況も二人にとっては所詮、長期間の大喧嘩の様な物である。

 そんな男が、船に乗っているかもしれない。いや、間違い無く乗っている。アールはすぐに男の存在を確信した。証拠の一つも無いただの勘だが、何よりも大事にするべき物だ。

 プランクと会う事を切り上げて、アールは即座に男と再会する方法を思い浮かべようとする。この状況を打破する意味でも、彼の力は必ず役に立つのだ。

 人間離れした身体能力と、アールと同様に仲間や仲間の家族を大事にする人格。それに何より、協力が見込める限りでは最高の『頼りになる』人物なのだ。


「……追う、か」


 数秒考えて、アールは今通り過ぎていった男を追いかける事にした。その男を追えば、あの『エィスト』に辿り付き、最後には『相棒』に再会出来る。そんな予感が頭の中に浮かんだのだ。

 自分の予感に従って、アール・スペンサーは走り出す。頭の中の心配は吹き飛んでいた。彼がまだ相棒と共に居た頃、世の中に怖い物は無かったのだ。

 頭の邪魔な憤怒が再会の喜びに屈する事を自覚して、アールは口元を歪ませる。理性は戻ってきていた、サイモンがどこに居るのかと考えられる程度には、戻ってきていた。

 しかし、アールは男を追い続ける。サイモンが自分を探している事には気づかないまま、男を、それが探す女と会い、相棒と再会する為に動いていた。

 勢いこそかなりの物だが追いつく事は無く、付かず離れずの位置を維持している。勢い良く動いているというのに物音は全くと言って良い程に小さく、視界の先の男が気づく様子は見られない。

 男には用は無い。どこの誰なのかは知らないが、小物の雰囲気以外には何も感じられなかったのだ。接触する必要性は無いと判断した。


----エィストがあそこの奴と行動を共にするなら、話は別だがな。


 頭の端でそんな事を考えつつも、アールの動きは止まらない。

 余計な思考が出来る程には余裕が見え隠れしている。そんな事が出来る程度に思考を取り戻す事が出来たのは、とても良い事だった。


 誰にとって良い事なのかは、別として。







+




「船ってのは良い物だな……人を捨てても、海が受け止めてくれる。まあ、他の奴への警告が出来なくなるが、汚いゴミを貰ってくれる母なる海には感謝の念さえ浮かぶよ」


 同じ頃、Mr.スマイルは楽しそうに死体へ語りかけながら、同時に死体を海へ放り込んでいた。

 落ちていった死体はスクリューに巻き込まれたか、魚の餌になるか、ともかくもう浮かび上がってくる事は無いだろう。

 死体を残さない、という意図から来る行動ではない。彼は自分の殺人が明らかになる事よりもずっと、見せしめにして人を恐怖させる事の方が優先出来る存在だ。


「いや、君達は実に哀れだね。心は薬によって理不尽に破壊され、体は私によって理不尽に壊され、最後には遺体を棺桶に入れられる事も無く海へ沈む。なんと面白い哀れさだろうか」


 嘲笑と冷笑を籠めながら、Mr.スマイルは人だった物を海へ放り込んでいく。その場から海まではそれなりに距離がある筈だが、彼は何の問題も無くそれらを海へ放り込む。

 人が人を投げられる距離ではない、筈だ。しかし、現実にMr.スマイルは海に投げつけて、確実に海へ沈めていく。

 顔は窺えないが、仮面は変わらない嘲笑を浮かべている。恐らく、その下も同じ表情をしているに違いない。誰が見たとしても、そんな確信を得る事が出来るだろう。

 地獄の悪鬼ですらまだ控えめな顔にしか見えない。そんな顔をした人型の何かが人間だった物を遠くまで投げている、常人が見れば気絶するか、恐慌でも起こしてしまいかねない光景だろう。


「ふふ、反応が期待出来ないのは楽しくないが……魂を失った肉体をさらに苦しめるのはやはり……悪くない」


 おぞましい笑い声を上げながら、独り言を呟いている。

 言いながらも腕は勝手に『兵隊』達を放り捨てている、情も何もない。性別、年齢、あらゆる物が別々の彼らの中には、放り投げる事を躊躇させる者も混じっている。

 仮面を外したエドワースであれば、そうやって人を捨てる事自体に怯えるだろうが、仮面を付けたMr.スマイルはそうではない。思いとどまる程の人らしい感情は、無い。

 『兵隊』達の差など、彼にとっては投げやすい物と、投げにくい物があるという程度の違いに過ぎないのだ。

 むしろ、自分の残虐さに酔っている様にすら見える。次々と、死体が殆ど無くなってくる事を気にもせずに、まるでボールをゴールに導く様な動きで海へ投げ込んでいた。

 そんな時、死体の山が置かれていた場所を見てMr.スマイルは眉を顰める。


「……む。少し、調子に乗りすぎたかな」


 困った風な装いで頭を掻き、Mr.スマイルは反省を籠めた笑みを浮かべる。死体が、殆ど無くなってしまったのだ。

 実は、全てを捨てるつもりはMr.スマイルには無かった。多すぎて邪魔になった為に捨てていたのが、途中で楽しくなってきてしまったのだ。

 残っているのは、僅かに数体だけだ。見せしめにして船中を血みどろにするつもりが、自分の享楽に任せすぎて失敗してしまった。

 Mr.スマイルは肩を竦めて、残った数体へ手をかける。まずは一体目だ。彼にとっては残念な事に、派手に反撃してしまった為に死体の損傷は激しい。

 使い物にならない、そう判断したMr.スマイルはまた死体を海へ投げ込む。今までとは違う、残念そうな手つきだ。

 次の死体に手をかける。結果は同じだ。また海へ放り込む事になる。三体目、四体目、とどんどん続くが結果は同じで海へ投げ込む事が続く。

 段々と、Mr.スマイルは不機嫌になっていく。だからこそ、残った一体が真っ当な姿形をしていた事は彼にとって喜ばしい物だった。死体にとっては、不幸極まる事だったのだろうが。


「ふ、ふふ、むむ……やっと見つけたぞ。どうやって壊してやれば良い物か……迷うな」


 喜びを抑えきれない口調で、Mr.スマイルが呟く。死体は何も答えない。ただ、哀れにも彼の前にその形を晒しているだけだ。

 すぐにでもバラバラにして船中に張り付けたい気持ちが心の底から沸き上がってくる物の、それは海へ投げ捨てた者達でも出来る事だ。Mr.スマイルが考えているのは、もっと恐ろしい行為である。

 Mr.スマイルは嬉しそうに鼻歌を交えながら死体の眼球に手を近づける。潰すのではなく、抜き取るつもりの様だ。それを口の中に入れるのか腹を開いて内臓に詰め込むのか、Mr.スマイルの中でもまだ迷いが出来ているが、どの道その目を取り出す事には違いない。

 指が眼球に触れる。死体の目には何も写っていない。元々虚ろな目をしていたが、今ではもうそれすら無い。血も、通っていない。


「……ふはは、面白い。苦しみが面白いではないか。どうせ死んでいるのだ、君はどんな目に遭っても良いのだろう? 何? 死体はちゃんと埋めてくれ? いや、そんなもったいない事はしないとも」


 まるで死体と会話でもするかの様な態度でMr.スマイルは死体の頬を慣れ慣れしく叩き、友人にでも接する様な口調で話しかけている。当然ながら返事は無い。しかし、Mr.スマイルはそれで満足しているのだ。明らかに楽しんでいる事が分かる。

 一度、眼球から離して頬を叩いていた手を、また眼球へ戻す。何度も何度もその眼球を触っているその姿はおぞましい事この上ない。

 十回程度はまだ入っている眼球を弄んだだろうか、そんな時、Mr.スマイルはいよいよ行動を開始する事を決めた。


「さて、そろそろ……お楽しみと行かせて貰うよ。ああ、手加減はしないとも」


 少しずつ、指を眼球に入れていく。その度にMr.スマイルの口からは享楽に溺れる様な吐息がこぼれ落る。顔は窺えないが、恐らくは心から蕩ける様な表情をしているに違いない。

 指が沈んでいく。もう少し、もう少しで底まで届いてしまう。恐ろしい姿だ、端から見ているだけでも体が震え上がる事だろう。

 後、一秒もあれば眼球を取り出せる。その喜びにMr.スマイルは体を震わせる。しかし、後僅かという所で----銃弾、何発もの銃弾が床から飛び出した。


「なぁっ……!?」


 自分に銃弾が届く寸前にMr.スマイルは何とか回避する事が出来た。今まで彼の指があった眼球は底からの銃弾に貫かれ、余りの威力に大穴が開く。

 目が無くなったとMr.スマイルが呆然とした顔をする。だが、次の瞬間には死体の体中に銃弾が床から『降り注ぎ』、大量の穴を作る。

 止める暇も、死体の形を保つ余裕も無い。

 自分に当たらない様に避けるのは難しいのだ。通常の銃弾ならば彼に傷を負わせる事は出来ないだろうが、床から現れるのはもっと威力の高い何かだ。

 恐ろしい速度で迫る銃弾から身を守る為にMr.スマイルは壁の近くまで飛び寄り、射線から離れる。数秒もすれば、銃弾はもう床から現れなくなっていた。


「……」


 しかし、銃弾が止まった事は彼にとっては問題ではない。傷を負わなかったのだからそれまでなのだ。Mr.スマイルが呆然とした雰囲気で立ち尽くしている理由は、それではない。

 床を見る。死体は銃弾に貫かれて、大量の穴を作り上げられていた。もう完全な状態ではない、いや、今まで海へ投げ込んできた死体達よりもずっと損傷が激しいのだ。


「……」


 自分の楽しみを台無しにされたMr.スマイルは、黙ったまま穴の方へ近づいていく。一応の警戒は纏っているが、恐らく大した物ではあるまい。

 重い沈黙が部屋の中を包む。Mr.スマイル自身からは何の殺気も怒気も現れてはいないが、恐ろしい重さだけは吹き出し続けていた。

 どうしようも無い。穴だらけの死体では、どうしようも無いのだ。この状態ではどう楽しめば良いのかもMr.スマイルには理解する事が出来ない。

 Mr.スマイルは黙ったまま、床に出来た穴の一つへ目を向ける。死体の穴を作った銃弾は床から来ているのだ。下で何が起きたのかを理解する為には、当然の行いだろう。

 その下にあるのは、シアタールームだ。恐らくはかなり派手な戦闘が起きたのだろう、見覚えのある武装をした者達が倒れ伏しているのが見える。

 真ん中に、一人の男が立っている。その男の顔を遠目に見たMr.スマイルは不満と疲労感を顔に浮かべた。見覚えがあるという次元の話ではない、よく知る人物だ。

 特に、Mr.スマイルの中身のエドワースにとっては、他人とは決して呼べない相手である。


「……あいつか」


 穴から僅かに覗くMr.スマイルは、僅かに怒りを吹き出す。視線の先に居る男に気づかれない為だ。相手がどれほど鋭敏な感覚を持っているのかは、よく知っている。

 何せ、仲間だ。この船に共に来たという意味でも、ずっと昔から知っている、頭のおかしい人間という意味でも。


「リドリーめ……酷い奴だ」


 気配と雰囲気を全力で殺し、頭の中だけの憤怒がMr.スマイルを渦巻く。気配を悟られない様に顔を上げていなければ、それだけで見つかってしまうかもしれない。


「……クソ、お返しをしてやる」


 邪魔をされた事に腹を立てたMr.スマイルは、銃を取り出した。リドリーを殺すつもりは無い。だが、その分の『お返し』はしなければならない、そう考えたのだ。

 そうと決まれば話は早い。勢いよく、Mr.スマイルは立ち上がった。まだ死体には残念そうな目を向けては居る物の、止まる様子は一切見られなかった。

 リドリーにやられた腹立たしい行為への軽い報復、頭の中にはそれだけが広がっている。

 エドワースであれば、リドリーと戦うなど恐ろしすぎて声も出ない事だろう。しかし、おぞましい笑い声を上げるMr.スマイルには、エドワースの臆病さは微塵も見られない。

 むしろ、自分が行う恐ろしい行いを喜んでいる。まるで、その仮面が自分の臆病を隠すかの様に----Mr.スマイルの中のエドワースは形すら見えなかった。

 そして、Mr.スマイルはまだ気づいていない。リドリーの近くに少女が居た事を、そして、その少女をエドワースが知っている事にも。






 更に言うなら、Mr.スマイルが消えていった部屋の中に二人の背丈が違う男が入った事には誰も気づかなかった。

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