4話
----うーん、空も地球も青かった! 良きかな良きかな!
同じ頃、カナエと名付けられたエィストは満足そうな顔で船の通路をゆったりと歩いている。
試しに空や海を見ようと船の頂上に登ったカナエは、思ったよりも美しかったそれらに対して確かな満足感を覚えている。背後の船着き場でジェーン達が話す内容は耳に届いていたが、彼女は気にもしない。
ただ、快晴の美しさと太陽の光で反射する海の色だけが彼女の頭には残っていて、それ以外の事など気にもならなくなっている。
----ふ、ふふっ……幸せな予感がする。こんな幸せな予感がするって事は……ああっ……!
気にもしなくとも、耳に届いた言葉の内容くらいは理解できている。それがジェーン・ホルムスという少女の声だという事もだ。
この船で、何かが起きる。彼女がプランク達の内部に入り込んでから、ホルムス・ファミリーの情報を彼女は耳にしていないのだ。
----あえて知らないのも、宝箱を開ける気持ちになれて良い物だね……
何でも知る事が出来た時に比べて、今のカナエは何も知らない。ただ予想する事は出来る。まるでプレゼントの中身をワクワクしながら考えている子供の様だ。
顔が緩んで、幸せな笑顔を浮かべる。絶世という言葉すら通り越す絶世の美女の笑顔は、それだけで見る人の魂を引き寄せてしまうかと思われる。
しかし、実際に浮かべている笑顔はどこまでも不気味で醜悪な物だ。見る人に嫌悪感を呼び込み、距離を置きたくなる。
本来なら心が温かくなる筈の笑顔が地獄の悪鬼でも浮かべられない様な笑みになっている。わざわざそんな顔になっている理由は一つ、すぐ後ろに一人の男が歩いている為だ。
「俺が若い頃はさ、町は腐りきってて、道端には物乞いが居て路地には売春婦や殺人鬼が居る事がもう当然だったんだよな」
独り言の様な事を言ってくる男が、後ろに居る。女がどんな笑顔を浮かべているかはその場からでは見えないのだろう。何か調子に乗る様な声で自慢げに話している。
その男は、カナエによって首筋へ一本の線を作られてしまった者だ。コルムという名前をした男である。
彼の首筋に斬りつけた時の事をカナエはよく覚えている。自分の異常さを見せつける為とは言え、怖がらせてしまったとカナエは少しだけ負い目を感じていた。
「路地に一歩入れば麻薬中毒者と機関銃を持った連中がウロウロしてたんだよな。でもまあ、そんな時代を潜って俺は生きてる訳だ。凄いだろ?」
何やら自慢げに喋っては居る物の、コルムは絶対に女の顔を見ようとはしない。言葉の中にも自然体ではない雰囲気が含まれている。
----演技、か……うーん、怖がらせてしまったかなぁ。
努めて恐れない様に、刀の標的にならない為にと軽い雰囲気で話すコルムの声はどこか無理がある。
カナエは少しだけ悲しくなった。演技の為に必要な行動ではあったが、流石に怖がらせすぎてしまったらしい。
コルムの話す内容は昔の話だ。カナエがまだ少女だった時代と認識しているのだろう。昔の懐かしい話でもするかの様な色が見て取れた。
「命の危機だって色々あったんだ、だが俺は生きてる。運が良かったのさ、目を付けられなかった」
----それにしてもコイツ、思ったよりよく喋るね
恐怖を誤魔化す為とはいえ、コルムは思った以上に喋っている。
これが顔を見て、自分をアピールするかの様に喋っているならば『口説いている』と判断しても良い所なのだが、絶対に顔を見ようとしない辺り、違う様だ。
それほど自分は恐ろしい顔と言動だったのかとカナエは振り返り、その通りだったので少し落ち込んだ。
「昔と言えば、Mr.スマイルってのも知る人ぞ知る伝説だったな、あんたみたいな若い奴は知らないだろうが、昔からあったんだよ、Mr.スマイルの噂って」
話はいつの間にか別の方向に飛んでいる。昔の話と言えば昔の話だが、今現在起きている事とも関係がある内容だ。
『Mr.スマイル』の名前が出た事で、カナエはもう少しコルムの話をきちんと聞く姿勢を作る。言葉の中には真実味が感じられ、懐かしむ態度には嘘が無い。
しかし、カナエの中には疑問が一つあった。
----というか、コイツ一体何歳? 見た目より年寄りみたいだけど……若作りも大概にしておいた方が良いと思うなぁ
男の姿を横目で少し見て、女は微かに首を傾げる。軽薄そうな顔や格好の男は若く、そこから考えると当時はまだ子供だった筈だ。
しかし、側に居る男はまるで見てきたかの様に当時の町の様子を振り返っている。子供が昔の町の路地裏を通るには、完全武装の護衛を数人用意しなければならない程だったというのに。
「……」
「おっと……勘弁してくれ。これ以上近づかないでくれ、後、その物騒な物を視界に入れないでくれ」
疑問と共に少しだけ近寄ってみると、途端にコルムは数歩下がってカナエから距離を取る。一定以上近づくつもりは無いらしく、視線は抜き身の刀へ向けられている。
自分を殺しかけた物なのだからその反応は当然と言えるだろう。それが分かっていても、カナエは少し寂しい気持ちになってしまう。
本来の『彼女』は誰にでも慣れ慣れしい態度で明るく接する女性だ、逃げられるのは余り好きではない。
「ああ、そうだそうだ。一歩も近寄らないでくれ、頼むよ。殺さないでくれ……」
怯えを感じさせる口調でまた数歩下がり、カナエから距離を取ったと判断した途端に安堵の息を吐く。
余りにも恐れられすぎていて、カナエは逆にからかいたくなった。だがボロが出てしまいそうなので止める事にする。
そのまま黙って前を向いてコルムから視線を外すと後方に居るコルムはまた安堵の息を吐き、少し前まで努めて振る舞っていた軽い調子に戻る。
「まったく、あんた凄い美人なのにな。もったいないよ、理性があったらどんなに魅力的だったか……」
しかし、それまでの昔話をする気は失せたのか、男は溜息混じりに本心からの言葉を漏らす。耳聡くそれを聞き取った女は見えない様に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
----ふふっ、残念ながら理性は無いさ。そんな物は無い。あるのは『楽しい』って感情だけだよっ。
また軽く頷き、一瞬にして正体が知られない様に表情を繕う。おぞましい笑顔がまた戻ってきて、彼女の中にある確固たる思考を読ませない壁になる。
内心の動きや表情の変化があったなど、コルムの方には一瞬の気配すら行かない。本気で隠そうと思えば、人が一生を共に過ごしても見破られない自身がカナエにはある。
しかし、カナエは正体が知られる様な行動を好んだ。見破られても構わないのだ、彼女の仕事は殆ど終わっている、自身のボスである男にプランク達の情報を流した今、彼女には自分を隠す理由が無い。
それでも正体を明かさないのは、一つの予感からだ。
----この船で、何かが起きるとすればそれは……麻薬絡みに違いないよね、プランクさんとの繋がりはまだ切れないかな。
船上での危険な予感を覚える彼女は、まだ『カナエ』だ。『エィスト』に戻る気はない。彼女は今日起きるであろう事の震源に近い場所に居たいのだ。誰の為でもなく、『より人生を楽しみたい』と考える自分の為に。
その為であれば、まだ彼女は『カナエ』を続ける事を戸惑わなかった。
----ん?
そんな時、目的地も無く歩みを進めていたカナエの感覚の中に、少しだけ妙な威圧感が混ざり込んでくる。誰かが誰かと戦闘に及んでいる様な雰囲気だ。
足を止め、カナエはその場でじっと耳を澄ませる。コルムが唐突に止まった女に対して疑問の視線を向けてくるが、彼女は気にもしなかった。
超人的な聴力は、戦闘の音を響かせてくる。
彼女は気づかなかった。というよりも空の青さと海の美しさに陶酔して他の事に気を回していなかったのだが、それは先程からあった物で、感覚に妙な物が混じり込んだのはその戦闘が今度はそう離れていない場所で行われた為なのだ。
ともかく、カナエはその気配に気づいた。誰かが近くで戦闘、いや、殺意と嗜虐心に満ち溢れた殺戮を行っている。
----ふ、ふふ。それは良いや、見に行かないとね!
心の中から享楽的な気持ちが沸き出して、女の背を突いてくる。そこへ行け、その感覚は言いながら足を動かそうとしているのだ。
即座にその感覚に従う事を決めたカナエは、背後に居るコルムへどの様な反応を見せるかを一瞬考える。答えはすぐに出た。彼らの知るカナエになるのだ。
「……きゃは、うっふふ、ひゃはは……あひゃひゃひゃぎゃひゃ!」
意図的に不気味に聞こえる笑い声を、肺の底から取り出してそのまま外へ放つ。それは結果的に耳を塞ぎたくなる様な異常な声になり、周囲におぞましい物を放出する。
そうなる事を理解して笑い声を上げたカナエは、そのままの様子で走り出す。殺戮が行われている大まかな場所は何となく分かる。その場所に、向かうのだ。
「おい、どうしたんだ! ……おい!」
背後でコルムが必死になって自分を追いかけて来るが、カナエは気にもしない。その場所に向かって観戦するという目的の為であれば、躊躇わないのだ。
+
元々、彼は自分が臆病者である事を改善したいと考えていたのだ。彼がそう思い始めたのは、十数年前の少年時代に二人、いや三人の男に助けられた時だった。
当時少年であった彼は、仲間の二人がとある組織の下っ端へ復讐をする。という計画に半ば流される形の乗っていた。
「まあ、私は今も昔も流されやすいタイプさ。仕方ないだろう? そういう人間なんだから」
その下っ端達は彼らの友達を何度も殴りつけ、病院送りにしていたのだ。だからこそ、何も言えない大人達の代わりに彼らは行動した。やった事はただ、彼らの昼食を奪って食べたという軽い事だ。
だが、彼らは死ぬ程痛めつけられた。臆病だった少年は死ぬ程殴られ蹴られ、殺されかけた時に男達に助けられた。この時、少年は思ったのだ。
『自分は何と臆病で弱いのだろう』と。
「何だ、私は確かに臆病者だよ。今のこんな姿からは想像も出来ないだろうがね……それが、何より忌々しいのだが」
この感情は、少年が青年になり、大人になってからも止まる事は無かった。顔を変える必要がある様な立場になっても、その後に何とか見つけた恩人の一人の組織に下っ端として入り込んでも、止まらなかったのだ。
相変わらず、少年時代の臆病さは男の中にあり、それはある意味では危機を逃れる長所であり、同時に短所でもある。
自分の臆病さに悩んでいたのだ、男は。
「君らは自分がどうしようもなく弱くて臆病な雑魚だと確信すれば、どう思う? どうにかしたいと思うか、諦めるか……私は、つい最近まで後者だったよ」
そんな彼の生活に変化が訪れたのは、つい数週間前の事だった。
ある日、男が家に帰ると荷物が届いていたのだ。爆発物か何かである事を考えた男は持ち前の臆病さが現れる事を自覚しながらも、その中にある『希望』を感じて荷物の中身を見た。
山高帽と古ぼけたトレンチコート、それに仮面だ。念入りに手入れされたそれらには汚れ一つ無いが、年月を感じさせる雰囲気は取れる物ではない。
何故そんな物が送られてきたのかと、男は首を傾げた。しかし、仮面をじっと見つめていると、まるで天の使いが自分へ使命を投げ渡してきたかの様な感覚が彼の中に生じ、どうしようもなく仮面を被りたくなった。
誘惑に負けた男は、仮面を被った。そして理解した。これが自分の長年の悩みである臆病さを消し去り、強い力を与えてくれる物なのだと。
「そういう事で、私は私になったのだ。おい、聞いているかな? 折角説明してあげたんだ。礼くらい言ったらどうだね?」
臆病さを仮面と力の奥底に封印した男は、暴走した。昔聞いた都市伝説であり、昔自分のボスがそうではないかと考えた事のある存在から取って、自らの名としたのだ。
名前を作った男は、迷わずとある組織の幹部達に標的を定めた。それは自らの所属する組織と戦争一歩手前まで敵対しかけていた相手である。
幹部達を皆殺しにすれば、戦争は止まって組織は安泰。自らは心の中に昔からあった嗜虐心と優越感を晒け出す事が出来て嬉しい。相手の組織以外は誰も損をしないのだ。
そう考えた彼は、即座に行動して即座に殺した。それはまさしく悪鬼の所行だと分かっていても、行動した。
恐らく、人々には『歪んでいる』とか『狂っている』とか『間違っている』とか言われる事は彼にも分かっていた。だが、彼はその時になればこう答えようと思っている。
「『知るか』、そう、こう答えるつもりなのだよ。どうだ、良い返答だとは思わないかな?」
自分自身に陶酔しているその存在、Mr.スマイルは楽しげに目の前の相手に尋ねている。返答など聞く気は無い様で、相手がどんな声を返してきたとしても気に留めない姿勢だ。
しかし、目の前の存在からは返答が無い。圧倒的な殺気と嘲笑がぶつけられているというのに、一切の反応も言葉も無いのだ。
「……ふふ、答えられる筈も無い、か」
それも当然である、Mr.スマイルの目の前に居る存在は首がへし折れ、体中に穴が開いているのだから。
明らかに死んでいるその存在を、Mr.スマイルはまるで生きているかの様に拷問まがいの方法で痛めつけている。それは彼なりに考えた、『敵』を始末する最高の方法だ。彼自身の欲求を満たすという意味でも、情報を得るという意味でも。
しかし、この相手だけは例外だ。
一様に虚ろな目をしたその集団をあっさりと返り討ちにしたMr.スマイルはすぐに宣言通りの地獄へ送り、サイモンの言う場所に向かっていた。
そう、今、彼が居るのは虚ろな目をした集団の拠点の様な一室なのだ。
サイモンの言葉を信じる事にして此処に現れた彼は、その中に居た者達をやはりあっさりと叩き潰す事に成功する。そしてやはり、自分の趣味趣向の行くままに彼らへ生きたまま地獄の苦痛を浴びせかけていた。
しかし、しかしだ。相手は薬物で精神どころか魂すらも破壊された『動く死体』である。どれだけ痛めつけ、どれだけ悲鳴と恐怖と絶望を心待ちにした所で、思う通りの結果が得られる筈もない。
特に酷く苦痛を味わせた一人がついに死んだ時、Mr.スマイルは彼らからは良い反応が絶対に得られない事を確信し、つまらなそうな顔をしていた。時間をかけて苦しめ続けたというのに悲鳴の一つも、呻き声の一つも無かったのだ。
相手が動いているだけの死体同然だと理解したMr.スマイルは他の者達を屠殺する。そこには何の期待も未練もない、ゴミでも掃除するかの様だ。
だが、最後の一体の呼吸を止めると、何を思ったのかまだその存在が生きているかの様に自分の気持ちを語り始めていた。
自分の中だけで世界が完結しているのだ、誰が生きていて誰が死んでいるかなど興味の対象では無く、如何に自分が力を振るって人を苦しめ、楽しむかが問題なのである。
「……まだ生きている連中に、手を付けなければならないか」
それ以上、死体と楽しむ暇は無い。そう判断したMr.スマイルはへし折れた首を捻り切って壁に放り捨て、無茶苦茶になった部屋の中をみる。
彼が暴れた為に室内はかなり汚れている。血や肉片が散乱していて、見れた物ではない。しかし、Mr.スマイルはそれをあえて良しとした。見た者を怯えさせる為だ。
この部屋でする事はもう何も無かった。彼にとっては他者が感じる地獄の苦痛こそ悦楽の対象であり目的でもあるのだ。そのままの勢いで昔語りまでした以上、本当に用は無い。
「楽しみだよ、この部屋を見た者が怯えと苦しみに沈む姿が……ああ、見れないのが残念だ」
独り言を呟いて、Mr.スマイルは部屋に一つしか無い扉を開く。既に虚ろな目をした者達の事は頭に無く、彼らの無惨な姿を見た者がどんな表情をするか、興味はそこだけに向けられていた。
Mr.スマイルの下にあるエドワースも、その想像で口元を歪ませていた。
「……サイモンではないとすれば、アレは何だったんだ?」
頭の中に、『船にホルムスの人間が乗ると書いた手紙の主』に対して、微かな疑問を浮かべながらも。
----おやおや、これは……酷い事になっているじゃないか。ふふん、面白い……面白いが……うーん。
数分後、その部屋には一人の女が立っていた。室内の目を覆いたくなる惨状の中に立つ女は見とれる程に現実離れした雰囲気を放っていて、しかし同時に目を逸らしたくなる様な醜悪な笑みを浮かべている。
カナエだ、抜き身の刀を持ったままこの部屋に入り、部屋の中の惨状を見て微笑んだのだ。楽しんでいるというよりは、面白がる笑みである。
部屋に転がる肉片や人間だった物を避けて、女は部屋の様子を確かめる。無茶苦茶になってはいたがそこには武器が並び、壊れた何かの機材が散乱していた。
それを見ただけで、何者かが船の上で行動を起こし、それを受けたMr.スマイルが恐らく拠点であろうこの部屋に押し入って虐殺の限りを尽くした、とカナエは理解した。
「……おや?」
殆ど間違っていないその予想を頭に浮かべたカナエは、唐突に自分の足元に何かが引っかかっている事を認識して足を止め、そこを見る。
目を背けたくなる物がそこにはあった。首だ、怪物か何かに捻り切られたとでも思いたくなる様な酷い傷口の首が、足元に転がっている。
眼球は潰され、頭は割られ、首からは血が流れている。酷い有様だ。どんなに見慣れた人間でも、吐き気を覚えてしまうに違いない。
しかし、カナエはそんな首をそっと手にとってクスクスと和やかに、しかし憐憫を込めて笑った。人が死んでいる状況を楽しんでいる訳では無さそうだ。笑いながらも人への哀悼の気持ちを示す丁寧な手つきで首を撫でている。
その首の顔は今まではただ虚ろで生前の意志を感じさせない物だった。が、彼女に触れられている間は何故か安らかな笑みを浮かべている様に見えた。
「……君達の魂は、もう死んでいたんだ。今更、体が死んだ所で仕方がない、か」
一頻りその首を撫でた女は、再びその醜悪な笑みを浮かべる。満ち溢れた悪意の演技はまさしく迫真の物で、誰も気づかないに違いない。
首を抱き締めた女は、額にキスをしてそれを部屋の隅に、まるで棺桶にでも入れる様な手つきで置く。偶然気にかけた首をまた乱暴に転がしておくのは気が引けたのだろう。
----苦しめたりするのも、殺したりするのも好みじゃないのに……面白い奴。だけど……
その顔の奥にはどこか自嘲の様な物が見て取れる。それは何故か、人間の一つの人生が此処で終わった事を哀れむ様で、その人生に介入出来なかった自分を嘲る様に見えた。
Mr.スマイルという存在を、カナエはその時始めて不満に思った。彼女は人を、人生を大事にしている。それを苦しめて辱めて、そんなやり口は気に食わない。そんな気持ちだ。
「……あぁ、Mr.スマイル。私は……ふふ」
独り言が口から漏れた。言葉の先には誰かが見えているのか、カナエの目は遠くを見ている。その名前に対して女は何故か嬉しそうな意志を見せていて、この部屋をこんな状態にした存在への怒りや悲しみは微塵も無い。
「おい、カナエ! どこに……ってなんだここは!?」
そんな時、一人の男が部屋に入って来たかと思うとその惨状を見て目を見開き、驚愕の声を上げる。もちろん、カナエはその男を知っていた。
彼に対して、自分が魂まで狂いきった悪鬼か何かを演じている女はすぐにその演技を再会し、目を背けたくなる笑みをわざと浮かべてみせる。
男、コルムはまじまじとその顔を見て、周囲の惨状へ注目する。刀傷がある訳でも無いのではないが、凄惨な笑顔を見ていると疑いが沸いて出てしまうのも仕方が無いだろう。もう一つ、理由はあるのだが。
「……お前がやったのか?」
じっと、コルムはカナエを見つめる。怯えや恐れが感じられない瞳だ。ただ、意外そうな感情が見えているだけなのだ。
その視線から背を向けて、カナエは頬を膨らませる。失礼極まる目を向けないでくれと言わんばかりだ。実際、そんな事を考えていた。
----失礼な、私はこんなダメダメむちゃくちゃぁな殺し方はしないのにぃ……
察しの悪いコルムへ、ほんの少し苛立つ。察しが悪くなければコルムに自分の正体がバレている筈なのだが、その点に関しては気にも留めない。
部屋の中は相変わらずの惨状で、じっとカナエを見ていたコルムもその状況は流石に気になるのだろう。時折、部屋の内部を見ている。
すると、コルムは部屋に幾つか置いてある武器の数々へ目を送り、驚いた様に目を見開いた。
「何だこりゃ……ただの客じゃない、のか?」
コルムの呟きも尤もだ。部屋に置いてある武器の数々を見れば誰もがそう考えるとしか思えない。カナエも、そう思っている。
しかしこの部屋の人間がただの乗客ではないと知って、コルムはより強くカナエの仕業であるという感触を強めたのだろう。疑り深さと怯えを同時に感じさせる目を向けながら、一歩一歩後ずさりしていく。
見えない程度に肩を竦めて、カナエはコルムの方を見る。必要以上に自分の事を警戒している様に見える。まるで、今すぐにでもカナエが殺しに来るのではないかと。
ふと、カナエは自分の姿を見る。そこで気づいた。彼女の服は、首を抱き絞めた事で血塗れになっていたのだ。それがコルムの目には、最悪の殺人現場に見えたらしい。
----そうだね……服を、着替えるかな。
確かに血みどろで、端から見れば恐ろしく感じられるだろう。演技で見せているおぞましい笑顔で恐れられる事は承知している。
が、やってもいない事で恐れられるのは不本意だった。だからこそ、女は一番に服を着替える事を考える。どこで着替えるのかも、一瞬で決まっていた。
そうと決まれば話は早い。カナエは即座に動き出し、コルムの隣をあっさりと通り過ぎて部屋の外へ飛び出した。振り返る気は無く、頭の中だけでその場の死体達に哀悼の念を送るのだ。
口からは自然に狂った様な笑い声が漏れだして、通路を包み込んでいく。最初はただの歩行だった足はどんどんと早くなって行き、最後には半ば疾走している状態になった。 こうなっては、誰も止められない。
「おい! 行き成りどうしたんだ!? 待て!」
部屋を取びだしてから暫くすると後ろからコルムの物と思わしき声が届いたが、もうカナエは自分の服を替える事しか考えていない為に足も止まらない。
気分屋である彼女にとっては、今は何よりも着替えが大事だったのだ。だから、その間の彼女は精神が盲目なのだ。
そう、だからこそ、だからこそだ。何やら怪しげな男が焦った様子で通り過ぎても、気にする事は無かった。




