表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キラーハート The Killer In Smiling MAN S  作者: 曇天紫苑
The Killer In Smiling MAN S 大笑編
27/77

3話

 数日後、とある船室にて



「お、お前は……!」


 その顔と、手に持った物を見たその人物は目を見開き、思わず引き金の指の力が緩んで----小さな銃声が、鳴り響いた。


 だが、その瞬間だ。その瞬間なのだ。


 銃弾は身体に届く寸前に----異常なまでに強固な、現実離れしたトレンチコートによって弾き飛ばされる事になった。

 誰が着ていた物かは明白だ、この日においては誰もが知る新聞に載せられた記事の中にその存在が確認出来る、ギャングの幹部を凄惨に殺した存在、その存在の名は----Mr.スマイルと言う。


「……やはり、お前がMr.スマイルだったか。手紙は本当だったと言う訳だ」


 両手で銃を握り込んだ、男、サイモンは相手の姿を心の底から湧き出る怒りを込めて睨み付ける。余りに凶悪な視線はそれだけで人を殺せてしまいそうだ。

 しかし、視線の威圧は分厚いトレンチコートといつの間にか付けられていた仮面によって阻まれていた。


「…………久しぶり、と言っておこうか。確か……サイモンとか、おっと、さっき会ったかな?」


 目の前に居る、同僚達を皆殺しにした存在は仮面越しにサイモンへ話しかける。そこから感じられるのはどこか友好的な雰囲気で、銃を撃ったサイモンに対しての敵意が見当たらない。

 声の調子も、雰囲気も覚えのない物だ。先程、船に乗り込む彼らに近づいて様子を窺った限りでは、エドワースは単なる臆病者にしか見えなかったが、今は全く違う。

 不敵な悪意に包まれた仮面がその正体を隠す。が、サイモンの脳はハッキリと覚えていた。自分達、正確には彼を含めない二人の男が助けた、三人の少年達を。

 恐らくはそのなれの果てである、Mr.スマイルの形を。


「その通り、久しぶりだ……少年。いいや、エドワースだったか? さっきは気づかれなかったからな、改めて挨拶だ」

「……ふむ、そうか。君が私を呼んだのだな?」

「いや、違うが」


 唐突に向けられた質問を聞いて、サイモンは思わず素で答える。

 呼ばれたエドワース、いや、『エドワースの上にMr.スマイルを被った存在』は、自分の名を呼ばれたというのに、それには何ら反応しない。まるで、それが自分の名前ではないかの様に。

 帽子を手に持っているサイモンの顔は思い切り露わになっていて、隠すつもりなど欠片も感じさせなかった。エドワースはその顔を覚えていたのだろう、敵意を向けないのがその証だ。

 しかしMr.スマイルは一度挨拶したきり、サイモンに対しては何らかの感謝や尊敬の念を示す事は無く、逆に相手に対して若干の疑問をぶつけてくる。


「違うんだとしたら、私がエドワースだとどうやって知った? これからバレない様に対策をするつもりだ、答えろ」


 言葉の中には、強制的に答えを聞こうとする意志が見え隠れしている。答えなければ、過激な方法で『質問』するつもりなのかもしれない。


「……まさしく、別人だな」


 誰の耳にも届かない様に、小さく呟く。サイモンの記憶の中にある少年や、先ほど見た小さな事に怯えていた臆病者のエドワースとはまるで別人だ。

 発している雰囲気からして全く違う。

 それは殺気や敵意ではないが、背筋が凍り付く程の威圧にはなっている。思わず口を滑らせてしまいそうな凶悪な物だ。

 しかし、サイモンは肩を竦めるだけで質問に答える事は無かった。


「さあな。そんな事はどうでも良い。問題はお前が……命の恩人である筈の人から部下を奪ったクズだって事だ」


 返事をした瞬間、物理的に現れるなら絶対零度にまで達するであろう怒気と殺気がMr.スマイルの体を覆い尽くす。だが仮面の力は偉大な物で強烈な視線を受けられたとしても、小揺るぎすらしない。

 Mr.スマイルは一瞬たりともサイモンに対して怯えた様子を見せていない。堂々たる姿を晒していて、中身がエドワースという臆病者だとは誰も気づかないに違いない。


「……勘違いをしているようだから言っておくが、恩人であるかどうかは関係無い。私はただ、力によって悪人を意のままに苦しめる事が幸せなだけだ」


 おぞましい嘲笑を浮かべているのだと、仮面越しにもよく分かる。自分が行った事に対する何の罪悪感も、後悔も無い。そう言っているのだ。

 Mr.スマイルを見ていると、力に溺れている様にも悪意に飲まれている様にも思えてくる。しかし、同時にそれがエドワース自身の本質にも思える。

 悪意に塗られた仮面から、Mr.スマイルはサイモンを見ていた。


「善人ではこうは行かないだろう? 苦しむ姿は自業自得で、地獄に落ち行く顔を見れば『正義を行った』と満足感を得る事が出来るのだ。これは素晴らしい事ではないか」


 声の中に悦楽に浸る物を感じさせる声でMr.スマイルは話していた。後悔どころか、本気で自分が『正しい』と考えている様に見える。まごう事無き悪党にしか思えない。

 その姿は何故か仮面が喋っている様にすら見える。奥にあるエドワースが気づかれないのも無理はないのだ。


「しかしエドワースとして言うならば……恩人であるお前のボス本人には指一本触れないさ……それ以外は別だがな」


 だが、そんなMr.スマイルの顔が変化したと認識出来る瞬間があった。自分の名前である、『エドワース』を出した時だ。

 臆病者のエドワースではない、怯えは一切見られない。しかし、懐かしそうに少年時代の記憶を振り返る姿の中には確かにエドワースという少年が居た。

 誰かに操られている訳ではなく、自分の意志で『Mr.スマイル』になったのだ。そう判断したサイモンは心の中で溜息を吐いた。

 もしも第三者が居るならばボスの怒りはMr.スマイルでもエドワースでも、『今はケビンと名乗っている男』でもない、別の方向へ流す事も出来ただろうにと。


「お前が殺した奴の中には、組織に居たってだけで何の違法行為もやってなかった奴も居るんだが?」

「問題無いさ、私は悪を罰したのだ。その課程で誰のどんな人生が塵になろうとも、正しい裁きの前には小事でしか無いのだよ」


 相手が少しでも悔いる姿を見せないかと、サイモンは責める様な声を向ける。勿論そんな期待は無意味でしか無く、Mr.スマイルは微かな躊躇も無いはっきりとした口調で自分を許している。

 自分の正当性を疑いもしない、人を凄惨に殺す存在でありながら、まるで自分が世界を救っているかの様な傲慢な事を、何の戸惑いも無く言ってみせるのだ。


「……お前がMr.スマイルだなんてバレたら、お前の尊敬するボスに迷惑がかかるが?」

「仕方ない事だ。正しい暴虐による悦楽と裁きの為なら、仕方のない事なのだ」


 説得も倫理感に訴える言葉も通用しない。まるで人語が通用しない獣か、聞いた上で相手の言葉を下等な物として意にも介さない悪魔の様だ。

 サイモンは、諦めた。相手を自分と同じ人間だと扱う事や、相手が言葉の通じる存在だと認識する事を、諦めていた。

 銃口は一瞬もMr.スマイルから逸らしていない。だが、放ったのは銃弾ではなく、静かな一言だ。


「……さっき、お前のボスに……つまり、エドワースの命の恩人を見てきたよ。お前の正体を彼に話したら、どう思うだろうな?」


 サイモンに拳が迫っていた。その一言がMr.スマイルに届いた瞬間だ、一も二も無くMr.スマイルは唐突に近寄って、思い切り拳を振るったのだ。

 その勢いは砲弾の様な威圧感に満ち溢れていて、当たれば挽き肉になってしまいそうな強烈な一撃である。


「おおっと!? 唐突にパンチとはやってくれるじゃないか!」


 しかし、サイモンも『貫く為ならその対象さえ利用する事を辞さない忠誠』だけで幹部になったのではない。身体能力も十分に備わっている。

 そんな彼をして、拳による一撃はかなり危ない物だった。後、一瞬でも反応が遅れていればサイモンの顔はバットで殴られた西瓜の様相を呈していたに違いない。実際、サイモンが居た先にある壁には穴が空いている。


「何だ、私の正体をバラす? それは許せないな。エドワースは彼に正体をバレたくは無いのだ。何故か? それは勿論、止められる事が分かっているからだよ」


 自分の攻撃が外れたというのに、一切の後悔も見られない。むしろ楽しそうに、外れた事を喜ぶ様な声音で笑っている。

 唐突に即死する攻撃を仕掛けた部分に、サイモンは相手の思考を見て取った。Mr.スマイルは彼に対して苦痛を与える気が無いのだ、恐らくは恩人であるという一点が嗜虐心を抑え込んでいるのだろう。

 Mr.スマイルは自分の感情が見抜かれている事を理解しながらも、まさしく人生を楽しんでいる『嘲笑』を止めていない。


「止められれば、私は彼らと敵対してでも私である事を続けるつもりだ。ボスに恩義のあるエドワースとして、それは避けたい、そういう訳だ」


 そんなMr.スマイルの口から出ている言葉は、エドワースの本心なのだとすぐに分かる物だ。何故なら、その時に感じられたのは嘲笑では無く、苦笑だったからだ。

 『仕方ない』と言いつつも、自分が『ボス』と戦う事になるのは避けたい様だ。そこにはMr.スマイルに付け入る余地がある様に見えた。


「……」

「……」


 が、現状の彼らはただ睨み合って互いを見ているだけだ。Mr.スマイルはサイモンを逃がす気が無く、サイモンもMr.スマイルを放置しておくつもりは無い。

 次にどちらかが声を発すれば、その場は血みどろの戦いに発展するか、もしくはサイモンが逃げているだろう。


 数秒、そんな状態が続いた。しかし、続く物には終わりがある物で、この状態は数秒の内に崩される事になる。


「……む!?」


 先に気づいたのは、Mr.スマイルの方だった。サイモンから視線を外し、扉の方へ目を向けている。まるでサイモンを忘れてしまったかの様な明確な隙だ。

 今銃弾を放てば、確実に殺す事が出来る。そう分かっても、サイモンは撃たない。彼も気づいたのだ、開きっぱなしになった扉の向こうから、何人もの人間が移動している音に。

 二人の敵対する存在は、同時に室外を覗き込む。


「……奴らは?」

「何者だ……?」


 思わず、二人は同じ様な意味合いで呟いていた。視界には何人かの人間が居る。年齢も性別もバラバラで、統一感の無い集団だ。

 同じ点があるとすれば、人類である事と、銃などで武装している事。何より、全員が揃いも揃って目が虚ろな事だった。


「あれはお前の、兵隊かな?」


 確認しようとMr.スマイルがサイモンへ声をかけてくる。

 それに対してサイモンはただ頷く事で意志を伝えてみせた。しかし、まるで心当たりが無い訳ではない。むしろ、有りすぎる程にある。余り、起きて欲しく無かった懸案事項として。

 虚ろな目をしたその存在は、この二人にとっては見知った物だった。片方は、自分が近くに居る男の同僚に投与した薬の効果として。もう片方は、自分が情報を聞き出した存在の目として。

 何が起きたかを一瞬で把握したサイモンは、小さな声で何事かを呟いた。


「……」

「何? 今のは、何だ?」


 Mr.スマイルの耳に届いた言葉は、明らかに船の内部にある場所を示す言葉だった。だが、その場所にどんな意味が籠められているのかはMr.スマイルの知る所ではない。


「……今言った船室に、コイツらの本拠地がある」


 少し躊躇した後で、サイモンは答えた。Mr.スマイルが何故知っているのかと目を見開くのも構わず、その集団が近づいてくる様子を警戒と共に見つめている。

 まるでMr.スマイルが今は攻撃をしないと思っている様だ。

 そんな勘違いを正そうとMr.スマイルは体を僅かに、気づかれない程度に動かして何時でも襲い掛かれる様に準備をした。


「俺を殺すか? 悪いが、却下だね。お前何ぞに殺されてやるつもりは俺には無い」


 気づかれない筈の微かな動きで相手の意図に気づいたサイモンがMr.スマイルに釘を刺す様な一言を告げる。相変わらず隙が見て取れるが、誘いにも見える隙だ。

 攻撃を仕掛ければ罠に飛び込む事になると感じたMr.スマイルは黙って数歩下がり、状況を見極めようとする。その間にも扉の向こう側の集団はどんどんと近づいて来ているのだが、Mr.スマイルはまるで気にもしていない。

 だがサイモンは気になっていた様だ。


「悪いな、行かせて貰う」


 その声量の大きめな一言と共に、サイモンは素早い動きでMr.スマイルの横を通って窓の方へ飛び込んだ。

 逃がさないとMr.スマイルが動くも、扉の方から来る音がかなり素早くなった事に気づいて思わず足を止める。大きな声を出したのも、彼らを呼び寄せる為だったのだ。


「罠と思うかはお前次第だ、悪いな、お前に構っている暇が無くなった……それに、お前が諸悪の根源という訳でも無い様だ」


 足を止めたMr.スマイルへ、サイモンは窓枠に手をかけながら一言を告げる。その中には憤怒の感情があるが、同時に目的達成の道具でも見る様な意志、そして僅かな憐憫も含まれている。複雑だ。

 どれにせよ、凶悪なまでの嫌悪を同時に持っていたのだが。


「待て!」


 近づく物達と迷ったMr.スマイルだが、自分の正体を知った存在を逃がさない事を優先しようと今更に決める。が、もう遅い。

 到着した集団が、扉の前に立つなりMr.スマイルへ銃弾を放つ。普通であれば致命傷を負う所だが、強固なトレンチコートはその銃弾を無効化し、身体を守る。

 しかし、自分の正体を守る力はその服には存在しないのだ。思わずそちらへ意識を向けてしまったMr.スマイルがもう一度窓を見た時には、もうサイモンは居なかった。


「クソッ……!」


 口調とは似合わない悪態を吐いて、Mr.スマイルは壁を叩く。その衝撃で壁には傷を通り越して大きな穴が空き、怒りの強さを如実に示している。

 しかし、壁への八つ当たりで気が晴れた様だ。怒りは四散して、代わりにMr.スマイルは凶悪な威圧感と殺気をその集団に向ける。

 そして、悪意しか感じられない声音で処刑宣告を放った。


「君達のお陰で、殺す筈だった相手を逃がしてしまった。お礼に……君達には、地獄を差し上げよう」







+


 時間は少し戻る。

 同じ船上で一人の男が腕を振るわせながら歩いていた。厚めのコートを着込んだ男だ。歩行の中には明らかに怒りが籠められていて、ただ歩いているだけで周囲に恐ろしい雰囲気を放っている。

 その場に人間が居ない為に気絶する者は居ないが、圧倒的な存在感だ。数百メートル離れていてもその存在を察知されてしまいそうなくらいに。

 そんな男は、カメラを首から下げて傷だらけのメモ帳をポケットに入れている。顔立ちはまるで人に覚えられない事が目的であるかの様に地味で、雰囲気とはまるで違う。

 ただ黙って歩みを続ける男は一歩一歩が殺気だっていて恐ろしい。しかし、目立ちすぎる程に目立つ自分の精神状態を省みたらしく、その男は足を唐突に止める。


「パトリック……奴が居たって事は、ジェーンも、居るのか」


 この船や新聞社ではアール・スペンサーという偽名を使っているホルムス・ファミリーのボスは、静かに口を開いていた。

 部下であるサイモンに言われた通り、彼はこの船に乗っていた。心から信頼する部下の情報を無碍にする程、男は疑り深くは無いのだ。


「まあ、この件に関しては私の不徳とする所、という感じでしょうね……」


 つい今しがた呟いた言葉とは似ても似つかない口調の呟きが周囲に響く。よく聞いてみれば、それが仕事用の言葉遣いである事はすぐに分かる筈だ。

 一瞬で四散した威圧感は完全に消えていて、地味な雰囲気と地味な気配だけがそこに残っている。先程までとは全く違う、まるで別人だ。外見が同じだけで、口調も雰囲気も異なっている。


「……しかし、どうした物か」


 外見以外は全く違う人間になって見せたアールは少し悩んだ顔でまた独り言を呟く。頭の中にあるのは、憤怒と、それより少し劣る『娘』への心配だった。

 そう、サイモンの言う通りにこの船に来たアールはプランクという麻薬の売人のボスの顔を確認し、船に乗り込んだ後でふと甲板を見たのだ。

 そこには、男の知っている顔であり、サイモンの次に信頼出来る部下のパトリックが居た。

 十数年前に助けた少年の一人である彼は、サイモンやジェーンと並ぶ程にアールへ強烈な忠誠心を向けてくる存在だ。強烈すぎて、本人がくすぐったい思いをする三人である。

 その内、サイモンは余りに強烈で過激すぎる行動を抑え込む為に自身の側に置き、パトリックはジェーンの側に居させた。行動を、制限させる為だ。

 つまり、そんなパトリックがこの場に居るという事は、長い間共に行動させたジェーンも居る事の証明になる。つまり、娘がこの船に乗っているのだ----Mr.スマイルが乗っているであろうこの船に。

 何故、この船に乗っているのか。それは父親である男にとって容易に予想出来る物だった。


----中途半端に、俺に似やがって……


 一瞬だけ、心の底から苦虫を噛んだ様な顔付きになる。

 娘である少女は昔から恐ろしい程の愛情を父親へ向けて生きていた。幼い時分から見返りも求めないその姿勢はまさしく異常で、サイモンは関心していたが男としてはかなり将来が心配になった事を覚えている。

 そんな少女に、父親が死んだと言う。

 どうなるかは明白だ。自殺するか、周囲を巻き込んで自殺するか、一国の国民を大虐殺してから自殺するか、それとも全ての関係者を拷問の末に殺した上で自殺するだろう。

 それくらい異常な愛され方をしている事に自覚がある身として、男は昔から懸念していたのだ。今の様な、状況を。


「何が『いつかクソオヤジと呼ばれる』ですか。今でもあの子は私を『パパ』と呼びますよ、しかも、昔と変わらない口調でね……」


 パトリックを助けたその日に言われた言葉を振り返り、新聞記者としての口調を維持しつつも皮肉げな呟きを漏らす。その頃はいつ娘が反抗期を迎るのかと悩んだが、今では娘が自分へ尊敬と愛情を向ける事に悩んでいるのだ。

 贅沢な悩みだと男は自覚しつつも、悩む事を止められないで居た。だが、それは頭の端で行われている事だ。大部分の思考は別な所にある。


----ジェーンなら、間違いなくやる。この船にMr.スマイルが乗ってると思えば間違いなく皆殺しにする。


 娘がこの船に乗ってする事など、一つしか無い。

 復讐だ、組織の幹部を殺して『父に迷惑をかけ』、『父を殺すという神をも恐れぬ大罪を行った』Mr.スマイルを容赦なく叩き潰すつもりなのだ。

 船には麻薬の売人であるプランク達や民間客、それに船員達が居る筈なのだが、ジェーンは構わず殺すだろう。そういう人間性を持つ事を男は知っている。

 今すぐに止めるべきだ。男の頭の中の『父親』が声を上げる。もしもジェーンが何らかの方法で船の人間を殺せば、それがプランク達に被害を与えれば、庇う事は出来ない。

 父親であるなら、ジェーンに自分が生きている事を明かして大人しく帰らせるべきなのだ。男の頭の中で『父親』が叫んでいる。


----普通の親なら子供ってのは自分やこの世が滅んでも構わないくらい愛しい者なんだろうが……最低の父親だな、俺は。


 だが、男はジェーンに自分の姿を見せず、娘を探す事すらしない。『父親』としての自分を黙らせ、再び圧倒的な威圧感が周囲にまき散らされる。

 本来であれば、彼はこんな船上には居ない筈なのだ。

 部下を失った為に組織の建て直しを行う必要性が有り、失った部下達の運良く生き残った遺族の憎悪を受け止めつつも生活出来るように援助しなければならない。

 本来であれば、その為に必要な金額と時間をサイモンと、それにジェーンを含めた三人で計算していなければならない。だが、彼は今船の上で憎悪の炎を燃やしている。

 あの映像をサイモンと共に見た日から数日は経った。表面上は時間の経過と共に落ち着いたアールだが、その内面では何ら衰えない恐ろしい程の憎悪と殺気を滲ませているのだ。

 ジェーンやサイモン、それにパトリックが発する憎悪の感情も確かに凄まじい物だが、彼らのそれはあくまでアールと名乗る男に関連した物だ。

 他ならぬ彼自身のそれはもっと深く、人数も多い。


----他の部下だって、俺の家族みたいな物だ……ジェーンとは大した違いは、無い。


 例え血が繋がっていても、男はジェーンを完全に特別扱いする気は無かった。

 組織という一つの家族の一員として、大切な娘として見ているのは確かでも、他の仲間がそれに劣る訳ではない。殆ど同じくらい、他の部下達も大事なのだ。勿論、サイモンやパトリックも。

 その仲間達を一気に奪われた男の怒りは、桁外れだ。サイモン達のそれとは方向性も規模も違う。

 彼らが一つの巨大な憎悪の塊であるならば、アール・スペンサーの抱くそれは点在する憎悪が一つの目標に対して向けられている状態と言えるだろう。

 だから、彼はジェーンに構う余裕が無い。言い直せば、『ジェーンが何かを行った時に止られる権利を主張出来る様な精神状態ではない』のだ。

 例えどれだけ理性を取り戻していようと、憤怒は彼の中で渦巻き続けている。最早、これはMr.スマイルを『どうにか』するまでは収まりそうにもない。

 もしもジェーンが『Mr.スマイルを探す』という名目で一般人を虐殺し始めても、今の彼ではそれに追従してしまうかもしれないのだ。


----クソッ……!


 どうにもならない気分になった男は軽く壁を叩いて、今の気持ちを表現する。

 願う事があるとすれば、それはジェーンが何らかの行動を起こさない事だ。彼女が何もしなければ、男はただMr.スマイルが本当に居るかを確かめて『どうにか』するだけで良い。

 しかし、ジェーンは絶対に何かをしでかすだろう。というより、もう起こしているのかもしれない。

 彼の予感は正しい、ジェーンは既に行動を開始していて、彼女が作り上げた『兵隊』達は動き出し、もうアールに近づき始めているのだ。

 背筋が凍り付く様な嫌な予感がアールの脳裏で暴れ出している、既に状況は動いている。そんな気がしているのだ。


「……始まっている、のか」


 自分の知らない場所で何かが起きている。そんな嫌な予感を覚えつつ、男は歩みを止める事はない。憤怒も憎悪も無くならず、同時に悪寒も止まらない。


 虚ろな目をした集団が近づいてきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ