16話
男の姿を見た瞬間、ジェーンの中で渦巻いていた憎悪や殺意は、消し飛んだ。
「……パパ、だよね?」
自分で言った言葉を噛み絞める様に呟いて、じっと男を見つめる。片手に持った仮面や、着込んだトレンチコートなど気にもならない。
驚いたパトリックが自分を落としてしまったが、それすら気にならない。いや、自分が床に落とされた事にジェーンは気が付いてすら居ない。『そんな事』よりも、優先すべき物があったのだ。
男の顔は、地味だった。人に覚えられない事を目的とした、地味な顔だった。だが、少女にとってそれは何よりも、そう何よりも愛おしく自分の魂よりも優先すべき物だ。愛する父親の、顔だったのだから。
「この野郎生きてやがったか、やっぱりな」
ケビンと名乗った男の声が少女の耳に届くが、意識には全く上がらない。その感情は完全に停止して『父親が目の前に居る』という事実だけを認識し、五感は目の前に居る男が父親である事の確信だけを求めて動く。
「よう馬鹿野郎。聞いたぞ、相変わらず小さい組織で変態共の面倒を見てるんだってな」
「組織内部に狂信者を持ってる奴には言われたく無いがな、それは」
軽く片手を上げ、友好的な態度で『父親』が男に話しかける。その声は紛れもなく彼女のよく知る父親の物で、その挙動も含めた全てが父親そのものだ。
その父親と親しげに会話する人間の方も、『父親かどうか』の確信を持たせる事が出来る存在として認める事が出来た。
男は船内で一度、リドリーの『ボス』として会った事がある存在だ。だが、どこかで見覚えがあると考えていたジェーンは今、その正体を思い出していた。数年以上前、まだ幼かった彼女の前に男は現れたのだ。
----パパの、相棒として。
無意識の内に、ジェーンは瞳に涙を溜めている。
死んだと聞いた時は、すぐに後を追おうとした。復讐を終えたら、死んで会いに行きたい。本気でそう思っていた。だが、父親は確かに、目の前で生きている。
----生きていたのだ。
「パ、パパぁー!」
目の前に広がる事実に我慢が出来なくなったジェーンは自分の片足が動かす旅に激痛を発する事も忘れて、恥も捨てて、周囲に誰が居るのかも忘れて自らの父親へ、『ボス』の胸の中へ飛び込んだ。
勢いが良すぎて足が途中で崩れ落ちそうになったが、その時には父親が目の前に立っていて、自分を支えてくれる。
体に伝わる確かな感触がそれを夢ではないと告げて来る。結果的にそんな形になっただけの話とはいえ、父親に抱きしめられたのはもう何年も昔の話だ。
だが、ジェーンはその時の記憶を一分も忘れていない。確かな存在感が嬉しすぎて、幸せすぎて、ジェーンは人生における喜の全てを噛み絞める様に、泣きじゃくる。
「会いたかった! 絶対、グスッ……私、わたし、終わったら自害、してパパに、ヒック……会いに……行こうって、決めっ……!」
嗚咽と幸せの笑顔が混じる声が、男の腕の中から響いて来る。アール・スペンサーと名乗った男は何も言わない。だが、柔らかな手つきが相手を大事に思っている事の証明だ。
感動の再会、そう呼ぶべきなのだろう。
「……」
だからこそ、この後で確実に起きるであろう出来事を承諾したプランクは流石に居心地が悪そうな、罪悪感の一つでも覚えるかの様な顔をする。
「機嫌、悪そうだぞ」
「当たり前だ馬鹿野郎。こっちはお前の所の部下に仲間を売れなんて持ちかけられたんだ」
それを余所に、ジェーンを抱きしめた男はケビンの方へ声をかける。見るからに機嫌が悪いと分かるその姿を見かねたのだろう。
話しかけられたケビンはジェーンに対しては懐かしそうな視線を向けつつも、男には不満をぶつける様な態度で返答している。
「お前な……いや、サイモンか。許せ、あいつには後から言っておく」
彼の言葉が誰を指しているのかを理解した男は重々しく、だがケビンに対しても何故か呆れる様に頷いた。そこで毒気が抜かれたのか、ケビンは表情を緩めて男の肩を叩いた。
「それにしても、『パパ』か。『パパ』か……クッ、ああ悪い悪い。馬鹿にしてる訳じゃないぞ? だが、『パパ』……ククッ……随分と愛されてるなぁ『パパ』?」
どう聞いても馬鹿にしているとしか思えない口調で何度も、『パパ』と呼んでくる。それを見た男は見るからに嫌そうな顔をした。
恐らくは、それがケビンの目的だったのだろう。悪戯っぽい笑みを浮かべた事がその証拠だ。
何故、そんな顔をしているのか。一瞬、男は疑問に思ったが、それは自分の胸元に頭を埋めているジェーンの不安そうな声によって、すぐに氷解する事となる。
「……っう、えぐ……パパぁ……呼ばれるの、嫌……?」
ほんの少し頭を上げて、ジェーンは悲しそうな顔をする。全身全霊からの親愛を籠めたこの呼び方を、ジェーンは気に入っているのだ。勿論、父が止めてくれと言えば即座に止めるのだが。
男が、ケビンへ抗議する意志を籠めて思い切り睨む。しかし、ケビンはそれを柳に風と受け流し、ニヤニヤと笑った。
やがて諦めたのか、男がジェーンに目を合わせて静かに笑う。
「嫌じゃないな。くすぐったい事この上ないが、嫌ではない」
「うんっ……私、パパって呼び方、好きぃ……」
夢見心地にすら思える声で、ジェーンは泣き続ける。それまで船内で溢れていた殺気も憎悪も悪意も、その場では感じられない程に平和で穏やかで、愛らしい光景だ。
暫くすればこの空気が壊れると知っていても、プランク達はそれに顔を緩めてしまう事を止められずに居た。
「ボス」
それまで黙って目を見開いていた男、パトリックはやっと正気に戻ったらしく、嬉しさが滲み出る声で男に話しかけた。ジェーン程に強烈な歓喜ではないが、少なくとも顔に似合わないくらいには幸せをまき散らしている。
「パトリック、お前も俺のガキのお守りを良くやってくれたよ。感謝しなければならないな」
部下の姿には、当然ながら男も気づいていた。話しかけるタイミングが無かった為に声をかけなかったのだ。
タイミングがあれば言おうと思っていたのか、男の『感謝』の中には心からの賛辞が含まれている。嘘の無い、聞く者の心を感動させる言葉だ。
「いえ、ジェーン様を守るのは当然の事です」
最高級の賛辞だと受け取ったパトリックは恭しく一礼し、男から距離を取る。まるで、親子の再会を自分が壊してはならないと言うかの様に。
距離を取ろうが取るまいが、その再会は壊れる運命にあるとパトリックは理解しているのだが、それでも、離れた。
「パパぁ……ごめん、なさいぃぃ……わた、わたしっ」
「喋りにくいなら、待っても良いぞ。良いよな、プランクさん?」
パトリックの気遣いを有り難く思いつつも、ジェーンは何かを言おうと口を開く。だが、出るのは意味のある言葉では無く、大半は幸せから来る嗚咽と泣き声だ。
何とか泣き止もうとジェーンは努力するも、父親である男の声を聞いた瞬間からまたやって来た歓喜の一撃に破れ去り、泣き声が余計に大きくなる。
その姿に少し困ったのか、男はプランクの方へ顔だけを向けて、確認を取る。
「……え、ええ。待ってますよ、ずっとね……」
急に声を掛けられたプランクは数秒遅れて返事をする。とても居心地が悪そうで、肩身が狭い。そういう姿をしている。
隣のスコットはやるせない表情をしていて、この和やかな雰囲気の中にあって彼だけが重苦しい。
「なあ、その重苦しくて死にそうな雰囲気は止めないか? いや、何が起きるのかは察しが付くが」
いい加減に重すぎる空気に嫌気が差したケビンが、彼らへ声をかける。声の中にある物は決して軽くない、この後の事を理解した上で、その空気が嫌だと言っているのだ。
その言葉は男の耳にも届いている。勿論、ジェーンの耳にもだ。泣き続ける彼女は反応する余裕も無かったが、男にはそれくらいの事ならば出来る。
少し重苦しい空気を放って、男はケビンへ声をかけた。
「仕方ないだろうが、どこかで落とし前は付けないといけない」
「まあ、それはそうだが……」
不承不承と言った体で声を返す。そこに不安を感じたらしく、パトリックは半ば彼らの言う所が分かっていながらも自らの『二人の恩人』の顔を見比べる。
ケビンの顔は余り機嫌が良い様には見えない。むしろ、嫌そうに眉を顰めている。彼がボスと仰ぐ男はそれとは違い、鋼鉄の意志を感じさせる目をジェーンに向けていた。
「あの、ボス……俺じゃ、駄目なんですか?」
思わず、パトリックは声を漏らしていた。少し涙を抑えたジェーンが、『自分の言葉を忘れたのか』と睨んでくる。しかし、言ってしまった物は仕方がない。
パトリックは自分が今、どんな顔をしているのかを予想出来る、きっと、悲しみや苦しみに溢れた顔をしているのだろう。
「駄目だな、彼らが許してはくれないだろう」
言いつつ、男はプランクの居る方向へ指を向ける。向けられたプランクは一層居心地が悪そうな雰囲気を発したが、顔はまだ張り付いた様な笑みがそのままだ。
言葉に対してプランクは何も返答しない。どうやら、要求を曲げる気は一切無い様だ。パトリックはその事実を当然だと思いながらも、落胆を抑えられずにいた。
そんな色を見て取ったのか、男はそれまでの雰囲気を一変させる。そこには冷たい雰囲気と、大組織の主という男の強烈な覚悟が溢れ出ている。
慣れている筈のそれに気圧され、パトリックは一歩だけ後退した。強烈な気配は周囲にまき散らされ、圧力を感じさせている。
「パパ、パパの匂いだぁ……」
だが、ジェーンだけは別だ。それを心地良さそうに感じ取ると、涙を流したままでニヤケ顔を浮かべていた。勿論、男の体で隠れて顔色は窺えなかったのだが。
「……こいつの不始末は、俺の責任だ。そっちの売人達との話は付いてる。コイツの命一つで今回の件に手を打つそうだ」
男と殆ど同じ規模で幸せな雰囲気をまき散らし、感じ取った人間を浮かれた気分にしてしまうジェーンのそれに対して、男は静かに、徐々に空気を重苦しくしていく。
話の内容はこの場の全員が理解していた事だ。パトリックとジェーンは事前に予想が出来て、ケビンは詳しい話を聞かずとも内容は察している。
だが、改めて言葉に出すとパトリックにせよケビンにせよ、スコットですら暗い顔をして目を見開く事になった。
そんな反応をしなかったのは、何故か不満そうに男を見るプランクと、『自分の命などどうでもいい』とばかりに父親の感触をその身で受け入れ続けているジェーンだけだ。
「あの、人に娘殺しを強要させてるみたいに言わないで貰えますか? 引き渡していただけるなら、私がこの場で頭を撃ち抜きますが」
不満そうな顔をしていたプランクが、軽く手を挙げて言う。やはり居心地が悪そうに身じろぎしているが、だからと言って考えを曲げるつもりは無い様だ。
誰も、それを冷たい言葉だとは思っていない。何せジェーンは彼の仲間を殺す計画を立てて、彼らが売った薬で作った『兵隊』達に計画を実行させたのだから。
「……元々は、薬を『盗む』為に立てていた作戦を復讐専用にアレンジしたんだ」
男の腕の中でジェーンがぽつりと呟く。それに対してパトリックが頷いて肯定した。最初は強盗計画だったのだ、それを『強盗なんてパパに迷惑が掛かる』と気づいたジェーンは計画段階で取り止め、今回の計画に流用した。
「でも、生きてるなんて思わなかった。沢山迷惑を掛けちゃった。何だか、私って駄目だね」
父親の腕の中でそう呟いて、ジェーンは少しだけ離れる。その顔はとても名残惜しそうだ。だが同時に、何もかもを受け入れる柔らかい笑みが、そこにはある。
ジェーンは、微笑んだままで深呼吸をして微笑んだまま、腕を広げた。
「だからその----他でもないパパは、私を殺す権利があるんだよ」
涙はもう、止まっていた。
その瞳には吸い込まれる様な、確固たる意志の光が見える。広げた腕は武器を持っていない事を表していて、無防備だ。ただ彼女の胸に銃弾を放つだけで、あっさりと死んでしまうだろう。
片足に銃弾で出来た穴があるというのにジェーンはその場に立っていた。強烈な意志の力が痛みも体の異常も無視している。
美しく、儚い笑みが男へ向けられる。それまで胸元で泣きじゃくっていた少女はそこには居ない。その姿は、彼女が一つの組織の幹部だと確かに伝えて来るのだ。
「やれやれ、感動の再会に水を差す様で、気が乗らなくなってきましたよ」
その姿を眺めていたプランクが肩を竦め、溜息を吐く。それでも『撃たなくて良い』と言う気はない。
自分を含め、命を無価値な物にしか思っていないのが彼だ。だが、一つの組織を纏める存在としてのプランクはジェーンを許す気など、微塵もないのだ。
そんな意志を受け取った男は、視線を一瞬たりともジェーンから離さずに軽く息を吐いた。
「そうさ、悪いがこれは俺のケジメだ。俺の娘がやらかした事だ。娘を止めずにMr.スマイルを追いかけた俺の責任だ。これは……俺への罰でもある」
静かに言葉を口にした男はごく自然な、新聞記者としての彼が懐からペンを取り出すのと同じ程に自然な動きで銃を取り出してジェーンに向ける。
引き金を引けば、それで終わりだ。銃を見たパトリックが何とか二人の動きを止められないかと考え、動こうとした。だが、ケビンがそれを手で制して止める。
「何を……!」
「止めろ、あれは止められる物じゃない。二人とも、覚悟って奴をもう決めてる」
その行動に抗議しようとパトリックが怒りの籠もった瞳でケビンを見る。だが、あまりにも真剣な顔付きが文句を言わせず----それとは別に、怒り狂った瞳がパトリックの感情を吹き飛ばす。
怒っているのだ、ケビンは。父が娘を撃とうとしている事に、娘が父に殺される事を受け入れている事に。何より、『こんな状況を生みだしてしまった存在』に。
勿論、その瞳の炎は男にまで届いている。しかし男はそれに対しては何も言う事が無く、パトリックの方へ目を向けられている。
「……俺が撃っても割り込むなよパトリック」
「い、いえ……しかし」
「パトリック君? 間違っても私を守ろうなんてしないでね?」
親子である二人は、殆ど同時にパトリックへ釘を刺す。長年の付き合いである二人にとって、恐らくは彼の思考など筒抜けだったのだろう。
同時にやってきた『命令』は、パトリックにとって重苦しい物だ。何せ、二人とも自らにとっての大切な存在なのだから。
「……分かりました」
心からの苦痛が感じられる声だ。ジェーンを死なせる事を受け入れた自分を責めている事が、見るからに分かる。
「……ごめんね、パトリック君……さてっ」
ジェーンは心から申し訳なさそうに一言を告げた。だが、次の瞬間にはそんな事は忘れてしまったかの様に朗らかな笑みを浮かべる。
その目は全てにおいて父親だけを見ている。恐らくは、本当に視界に入っていないのだろう。
「さ、パパ。私を撃って? パパの手で殺されるなら私、死体を辱められて、バラバラにされて、犬の餌にされても受け入れられるんだっ」
ジェーンの口からは物騒な単語が出てきている。だが、声音だけを聞けばこれから殺される人間の物とは思えない程に明るい。
実際、気持ちも明るいのだろう。死への恐怖も、それまでの苦悩も憎悪も、何もかも少女の心からは感じられない。ただ、覚悟だけがそこにある。
「……ジェーン」
しかし男は微妙な声を上げて、まだ引き金を引いていない。明るすぎる声がむしろ撃ち難いのだろう。どれだけ鋼の如き意志を持っていても、それでも娘を撃つ、というのは難しいのだろう。
プランク達は、そんな風に男を見ている。だがケビンとジェーンはそうではない事に気づいていた。
「あ、えとね? 死体は出来ればその……ママと一緒のお墓がいいかな? それに、分かってるんだ。自分の命じゃなくて、私の命を捨てさせる事を選んだ理由」
誰よりも早くジェーンは気づいている。父親は自分を撃つ事を躊躇っているのではなく、撃った後はどうするかを考えているのだと。
少なくとも、彼女はそう気づいていた。そして、もう一つ。ジェーンは自分の命が消える理由を、こう理解していた。
----私、パパが死んだら本当に生きていけないから。パパが死ぬくらいなら……私が死ぬ。
輝かんばかりの笑顔がその場の全員に差し込んだ。それまであった『組織の幹部』としての顔はまた何処かへ消えていて、可愛らしい年相応の少女に見える。
「……さらばだジェーン。何れ地獄で会おう」
顔色を微かに変えたかと思うと、男はそこでようやく引き金を引き----鮮血が飛び散った。




