15話
時間は、少し戻る。
「……クスリ」
その一室では十数人の人間達がとある薬物を吸引して、恍惚とした表情を浮かべていた。
屈強そうな男から、か弱そうに見える老女まで、人種も年齢も別々の数人は同じ様に薬を吸って、同じ様な顔をしている。共通して虚ろな目をしていて、服の隙間には銃器や銃弾、そして小型の爆弾が詰められている。
そう、彼ら彼女らはジェーンが作り上げた『兵隊』達であり、今は『薬を渡して指示を出した者』に仕えている下僕達だった。
それらは皆、受け取った薬を吸っているのだ。指示を出した者が許可を出した事から、この船内にある部屋で『兵隊』達は薬を吸っている。
彼らと彼女らには、意識はもう無い。ただ、薬への渇望があるだけだ。
だからこそ薬を得た時の彼らは薬によって失った全ての感情が一気に現れる様な顔をして、しかし数秒もすれば薬によってそれらを全て破壊されたかの様な能面になる。
凶悪極まる薬の効果は意識を作り上げて破壊する。天国と同時に地獄が押し寄せてくる。生きながらにして世界の全てを知るかの様な全能感と、生きながらにして死ぬ様な無力感が同時に遣ってくる。
その効果は意識に影響を与えるに止まらず、肉体にも強烈な影響を与えている。如何にもか弱そうな外見の老女が肉体の限界を越えて動き、プランクの部下や船員達を襲う事が出来るくらいに。
「……」
天国と地獄を同時に味わっていながらも、それらの表情に変化は無い。それは最早、彼らの意識が薬の中毒性以外に対して何の反応も示さない事を表していた。
魂までもが壊れきっている。恐らく、薬が足りなくなって億が一にも正気に戻ったとしても、数日後には魂が死に絶えるに違いない。だからこそ、ジェーンはそれらを『兵隊』として選んだのだ。
「……」
そんな哀れな自業自得の集団は、自らの現状に対して何も感じる事無く薬を吸い続けている。放っておけば、死ぬまで吸い続けてしまいそうだ。
だからこそ、それらの哀れな生涯を終わらせる者はやってきたのだ。窓ガラスが割れて、そこから飛び込んで来た仮面の存在が。
「哀れなクズ共だ。薬に溺れ、痛みで罪を洗い流す事すら出来ない。全てを無くしたお前達が得られるのは、死のみだ」
どこか芝居の様な色を持つ声音で、飛び込んできたMr.スマイルが壮絶な殺気を放つ。本物だ、ジェーンがベッドの上で見た存在と比べると、凶悪さも残虐さも遙かな先にある。
その姿を見た『兵隊』達は自分の持っていた薬を即座に捨てて、銃を構えた。
最優先で殺せと指示された相手だ、それは、ジェーンに言われてから一切の変更も行われては居ない。彼らの顔は薬への恍惚から機械的な能面になる。
その場の『兵隊』達は全員、素早くMr.スマイルを包囲する形になる位置に付いていた。
そのまま撃てば同士討ちになるだろう、だが、絶妙に避けられた射線がそれを避けている。そして、同士討ちを恐れる様な感情は彼らには無い。
「生きる意志すら無いか、本当に哀れな……ならば私は大いなる憐憫と若干の寂寥を以て君達を本物の地獄へ叩き落とすと誓おう」
それを見たMr.スマイルはやはり芝居掛かった口調で囁くように言葉を発すると、物質化する寸前に思える程の凶悪な殺気を放ち始める。
それが、合図になった。
『兵隊』達は誰が最初になる訳でもなく、同時に引き金を引く。銃声は響き渡り、銃弾はMr.スマイルを貫かんと迫り行く。
しかし、やはりMr.スマイルのトレンチコートや山高帽、そして仮面は銃弾を通さずに弾いてしまう。
「……無駄な事をする。しかし、余り撃たれすぎるのは危険か」
何を素材にしているのかも分からない程頑丈な服だが、それでも銃弾を受け続ければ破れてしまうだろう。そうなれば、危険になる。
それを理解しているMr.スマイルは一度息を吐き、そして、動き出した。
だがその動きは『兵隊』達には見えなかったに違いない、急激に動いたMr.スマイルに付いていけず、何人かが同士討ちをしてしまうのがその証拠だ。
Mr.スマイルはその姿を確認する事も無く自由自在に動き、片手に軽機関銃を持って撃ち殺し、片手にあるナイフで刺殺する。
苦しめる意図の無い一撃は確実に彼らの致命を突き、一瞬で絶命させた。
「……」
この人数では、相手にならない。そう機械的に判断した『兵隊』の一人が、扉に体当たりを決める。
「何をするつもりかは知らないが、とりあえず君達に生きる道は無い、自害する事を薦めよう」
それを見逃すMr.スマイルではない、その一人は扉を体で開けたと同時に通路へ蹴り飛ばされ、地面に這い蹲ったかと思うと頭を踏みつけられる。
ミシリ、と頭の方から嫌な音がした。後数秒もすれば、その頭は何の抵抗も無く潰れる事だろう。
「む?」
瞬間、凄まじい抵抗が起きた。踏まれた当人ではない、周囲の『兵隊』がMr.スマイルの居る方向へ山の様な銃弾を浴びせかける。
まるで、仲間を守ろうとしている様だ。その雰囲気から見て、仲間の命を守ろうなどと言う感情など無いのは明らかだ。何か、別の目的がある証拠だった。
それを理解しつつも、Mr.スマイルはまず目の前の障害を取り除く為に頭を踏み潰し、片手で持つ軽機関銃の引き金を引く。
軽機関銃は火を吹き、銃弾が『兵隊』達の致命傷となる部分を撃ち抜いた。『兵隊』達の銃弾もMr.スマイルに当たってはいる。だが、やはり弾かれてしまうのだ。
こちらの攻撃が通らず、相手の攻撃はこちらに通ってしまう。
完全に一方的な、最早戦いとも呼べない状況下だ。彼らに感情と死への恐怖があれば、絶望に顔を歪めていただろう。
「……?」
「何か、あるのかな? いや勿論、何であろうと叩き潰し、君達に恐怖の一つでも教えてみたい所だが……」
こちらを一方的に虐殺するMr.スマイルを余所に、彼らが機械的な思考で思い浮かべたのは『疑問』だった。
勿論、彼らは仲間を助ける目的でMr.スマイルの方向へ、より厳密には、『Mr.スマイルの居る通路の向かい側へ』銃弾を撃ち込んだ訳ではない。
向かい側の部屋には、彼らと同じく薬を吸っている『兵隊』達が居るのだ。
彼らと同じである以上は当然だが武装もしている。そんな者達がやはり十数人、たった今、銃弾が穴を開けた扉向かい側の扉の中に居る。
扉を開けて銃弾を放ったのはMr.スマイルへ攻撃する為ではなく、向かい側の部屋の者達が事態に気づいて増援に来る、という状況を狙っての事だった。
「……?」
そんな、室内に居る筈の集団が一向に増援に現れない。穴を開けた銃弾が室内の全員を殺してしまう事などありえないのだが、事実、向かい側の扉は開く気配が無い。
何か、増援に現れる事が出来ない事情があるのだろう。それを理解しても、『兵隊』達は銃弾をまき散らして身を守る。
「どうやら、何かを企んでいた様だな。無駄な抵抗は好きさ、しかし……こうも無感動では何も良さを感じない」
Mr.スマイルの落胆の混じった声が銃声の中にあって一際強く、響く。何の反応も無く、何の感情も無い。
そんな集団と戦っていても、何の喜びも得られない。そういう意味の表情を浮かべている事は仮面越しにも明らかだ。
諦めた風な息を吐き、Mr.スマイルは彼らを手早く片づけようと動き出す。
その時だった、別の意味で『兵隊』達の企みは成功する事になったのは。
向かい側の扉が、まるで投げつけられた小石の様にMr.スマイルへ飛び込んでいった。
「ガッぁ……! 何だ!?」
まるで、車に正面から衝突された様な衝撃が体を襲い、Mr.スマイルは思わず吹き飛ばされる。衝撃の大半がコートによって吸収されても、痛みまではどうしようも無い。
扉を飛ばしてきたのは一体何者なのか、それを確認しようと彼は向かい側の室内を見た。部屋中が返り血で真っ赤に染まり、地獄と道義と言われても仕方のない光景が広がっている事がその場所からでも窺える。
----居、ない、だと……?
だが、Mr.スマイルが疑問に思ったのはその室内の光景ではなかった。確かに、凄惨だがそこには『誰もいない』。誰もいないのだ。
いや、よく見れば部屋の入り口付近に十数人の人間が転がっているのが分かるが、扉を吹き飛ばしたであろう人間は向かい側の部屋のどこにも居ない。
そう、向かい側の部屋には、居ないのだ。
「アヒ、アヒャ、クク……」
「……!? 何者だ!?」
背後から聞き覚えのある笑い声が聞こえて、とっさに背後へ体を向ける。
見覚えのある姿が、目に飛び込んで来る。そう、そこに居たのはカナエと呼ばれる女だった。変わらない、耳を塞ぎたくなる笑い声と顔を逸らしたくなる笑顔だ。
その服装はダークスーツから栗色のセーターにマフラー、ジーンズを履いた姿になっている。が、誰も気には留めていない。
セーターには可愛らしい刺繍が入っていたが、やはり誰も気にしなかった。何故なら、カナエが身につけている物の中で、服装以上に目立つ物が無かったのだ。
強烈な気配を感じつつ、Mr.スマイルはその一点に目を向けた。
「……なあ、一つ聞きたいんだが……刀はどうした?」
そう、カナエは船内で肌身離さず持っていた刀を持っていなかったのだ。余りにも目立つ物だけに、無ければ実に違和感を覚える。
思わず聞いてしまったMr.スマイルに対して、彼女は答える事は無い。ただ、気味の悪い笑みを浮かべるだけだ。
その恐ろしい笑顔に何を感じてどうするべきだと判断したのか、かなり数を減らしてしまった『兵隊』達はMr.スマイルよりも優先してカナエへ銃を向ける。
後、一秒もすれば撤退の二文字は無い壮絶な銃撃が彼女へ迫るだろう。しかし、そうはならなかった。
「ふ、くく……あは、あはは!」
カナエは、笑いながら軽く一歩を踏み出した。それが何を意味するのかなど、本人以外は分からなかっただろう。数秒もすれば、理解させられるのだが。
そして、銃撃が始まるかと思われたその瞬間----『兵隊』達は倒れた。
隣でその一瞬を目撃したMr.スマイルは、仮面の下で目を見開く。
----何だ、今のは。
何が起きたのか、誰にも認識出来なかった。Mr.スマイルですら、カナエが一歩を踏み出した瞬間から先の事は何も分からない。
位置が変わっている。カナエは窓際から踏み出した一歩からいつの間にか、Mr.スマイルの側、扉の隣に立っていたのだ。
どう動いて何をしたのかを認識する事は不可能だったが、それでも何が起きたのかは理解出来る。そう、『兵隊』達はカナエによって全員が気絶させられたという一点だけは。
「何だ、殺していないのだな。一体、何故殺さない? 奴らは魂が死んでいる、殺した方が奴らの為だろうに」
死んでいる訳ではない。よく見れば、全員が息をしている事が分かるだろう。それを見たMr.スマイルは残念そうな顔で声を掛ける。
何故か、返事を期待している様な口調だった。
「ふふっ……」
返事はない。しかし、カナエの表情は変化していた。柔らかく、優しい笑みをしていたのだ。それは酷く魅力的で、魂を包み込み取り込んでしまう様な絶世の美貌を際だたせている。
しかしMr.スマイルはそんな美貌など知らないとばかりに無視を決め込む事が出来るのだ。
カナエは言葉を発する事は無く、静かにMr.スマイルへ笑顔を向け続ける。声も無く、意味も感じられない。ひたすらに不気味だ。
「……」
その為に、Mr.スマイルは静かにナイフと銃を構えた。言葉こそ無いが、その体からは恐ろしい程の殺気が放たれている。強烈すぎる威圧感が部屋を圧迫し、カナエに纏わり付く。
それに合わせたのか、カナエからも凶悪な雰囲気が滲み出してきた。それらはぶつかり合い、相殺し、互いの威圧に呑まれる事を許さない。
後一歩、どちらかが一歩でも動けば、指先の震え一つでも起こせば、この二人は雰囲気だけではなく、銃や拳を以て争う事になるだろう。
だが、その前に----一人、まだ気絶していなかった『兵隊』が居る。扉に体当たりをしてMr.スマイルに頭を踏みつけられた者が。
「……」
奇跡的に忘れられていたその存在は、二人の意識の外にある通路に居る。
思い切り踏まれた事による凄まじい頭痛と目眩が肉体へ襲いかかっていたが、壊れきった精神はそれを気に留めない。ただ、部屋の中に居る二人をどうやって効率的に始末するか、それだけだ。
そこで、その『兵隊』は自分の腰に付けられた物の存在を思い出した。ジェーンから渡された中では一番の武器が、まだ自分の腰に付けられている事を。
「船に設置しろ」という命令を受け、実際に他の者達は船の要所に設置していたのだが、この『兵隊』はその前に薬を渡され、新たな指示を受けた為にまだ持っていた。
そっと、『兵隊』は二人の様子を窺う。まだ気づいた様子は無い。最大のチャンスだ。この時、微かにカナエが『兵隊』を見て笑ったのだが、正面に居るMr.スマイルすら気づかなかった。
「……!」
『兵隊』は、腰に付けられていた物を部屋の中に放り込んだ。
「これは……?」
新たに室内に入ってきた音と物に、Mr.スマイルは目を遣る。もちろん、カナエへの警戒は全力で行っていて、その物への優先度は低い。
しかし、すぐにそれの正体に気づいて、警戒心を危機感に塗り変える事になった。
「……そうか貴様っ!? ……クソッ!」
頭の中の警報が一斉に鳴り響き、Mr.スマイルは窓へと飛び込んでいこうとする。最悪の悪手を、彼はたった今行ってしまった。
そう、Mr.スマイルはそこで、思わずカナエから意識を外してしまったのだ。
それに気づいた彼は慌てて背後へ意識を遣る。すぐに、自分の愚かさを知り、後悔した。そこには、自分に向かって笑みを浮かべ、突進してくる女の姿があったのだから。
----しまっ……!
その思考と共に、爆音と光、何より衝撃が五感を揺るがし----
+
数分前 ジェーン達の部屋
「……あれ? 無い、なぁ……? うーん……?」
爆発が起きる少し前、そこから離れた一室では一人の少女が座り込み、片手だけで大きな鞄の中を漁っていた。使っていない片手からはとりあえずの応急処置、と言った風な包帯が巻かれている。
片足も同じ様に包帯を巻いた少女、ジェーンは首を傾げて鞄の中の荷物を確かめていた。
どうやら、探している荷物が見つからないらしい。それを理解したパトリックは心配そうに顔を覗き込む。怪我をした体で無理をさせたくは無いのだが、ジェーン自身の望みで手を出せない。
「無いなぁ……誰かが持って行っちゃった? そんな、でもそうだとしたら……」
独り言を呟きながらジェーンは鞄の中の荷物を放り出し始める。その中には計画に使うかもしれなかった武器なども含まれていて、それに関してはパトリックがきちんと回収している。
「ジェーン様? 一体、何を探しているのですか?」
「あ、そのね……アレだよ。ちょっと危ないし……」
何かを探しながらも、ジェーンからは返事が来る。口ごもっていて、それが何なのかをはっきりとは言わない。だが、パトリックには理解できる。
何故かと言うと、パトリック自身もそれの存在は計画の段階で知っていたのだ。計画が失敗になりかけた時の、保険として。
「……アレですか」
「そう、アレ。でもおっかしいなあ……アレの鍵は私が持ってるから、アレだけじゃ意味ないのに」
首を傾げたジェーンは言いながら、片手でポケットを探って奥底から一本の鍵を取り出す。余程大事な物なのか、鍵は服に縫いつけられていた。
パトリックは鍵を見て、それで作動する様になる物を考えて顔を青くする。それが無くなったとなると、かなり危険な状況だ。
しかし、ジェーンの顔には焦燥は無い。むしろ、何かの覚悟を決めた者特有のしっかりとした顔付きをしていた。
「……とりあえず、鍵を捨てればいいか。でもアレが無いと最後の手段が成立しないんだよね……」
言いながら、ポケットに鍵を戻す。口調は軽い、まるで、それが無くとも大して困らないとでも言うかの様だ。
そこで、パトリックはそれまで気になっていたが、はっきりとした回答が得られなかった事を聞こうと決める。
「そろそろ、教えて頂けますか? 計画はどうするつもりなのかを……」
「簡単だよ。パパが生きてたら、アレは使わずに海へ投げ捨てる。もし、死んでいたとしたら……迷わず、押すよ。どちらにせよ、私は死ぬけどね」
単純明快な言葉が返ってくる。何の策略も無く、何の思考もしていないのではないか、などと思ってしまう様な内容だが、単純故にその行動方針も分かりやすい。
そして、本当に彼らがボスと仰ぐ存在が生きていた場合、ジェーンは確かな覚悟を持って命を差し出そうと考えている様に見えた。
「……パパが生きてたらその時は、覚悟しておいてね。私だけで済むと良いんだけど」
言葉が彼女の中の覚悟を後押ししている。自分の命を捨てても良いと考える様な投げやりな物では、断じて無いのだ。
それを見たパトリックは初めて、ジェーンに対して苦虫を噛み潰した様な顔をする。そんな覚悟を持って欲しくは無かったのだ。
何せ、共に同じ男を敬意を持って『ボス』と呼んだ仲間だ。そんなジェーンを、ボスの娘を死なせる事はパトリックにとっては相当辛い物になるだろう。
だからこそ、彼はあえて覚悟を決めた顔付きでジェーンに向き合い、首を振ったのだ。
「いえ、ジェーン様。俺はどちらにせよ覚悟を決めなきゃいけないでしょう? それに、どうせ死ぬなら俺が責任を……」
「全部終わったら私はパパに殺されるだろうね……出来れば、部下の人達よりパパ自身に殺されたいな」
無視された。見えていない訳では無いだろう、ジェーンは彼の事を忘れる程愚かではない。それはどこか、パトリックの覚悟を邪魔な物として扱っている様にすら思える。
そこにあるジェーンの優しさを感じ取ったパトリックは、どこか和やかな笑みを浮かべた。
「……全部終わったら、どうせ俺も殺されますよ」
物騒な事を言いながらも、顔には恐怖が見られない。何もかもを受け入れて良いとする人間の心がはっきりと絡んでいると思われる。
数秒間見つめあって、ジェーンはパトリックの言葉を否定する事を言う。
「だーめ! あなたは老衰するまでファミリーの構成員として、ファミリーに人生を捧げる運命なんだからね!」
要は、それが言いたかったのだろう。余りにもはっきりとした『引継の確認』に、パトリックは背筋が寒くなる思いをした。
これまで以上に、ジェーンをきちんと助けないといけない。そう考えられた。同時に、ボスとジェーンから『命令』されれば、自分は足を止めるしか無い事にも気づいて、身を震わせる。
そんな時だった。少し離れた場所で、巨大な爆発音が響いたのは。
「今の……爆発!?」
驚いた声でジェーンが扉から顔を覗かせようとする。だが、足がうまく動かずに倒れそうになってしまう。それを助けたパトリックはそのついでに、窓の外を窺う。
黒い煙が上がっていて、部屋が二つか三つ程軽々と吹き飛んでいる。強烈な爆発があった様だ。
ジェーンにせよパトリックにせよ、それ事態には何ら思う所は無い。しかし、その強烈な爆発を起こす『爆弾』には、心当たりがある。
「あれは、私達の持ってた……!」
パトリックに支えられて外を見たジェーンは、唇を噛んだ。傷になったのか血が出ている。気にした様子も無い、何故なら、先程まで探していた物と明確に関係のある爆発なのだ。
『兵隊』達に、設置せよと命じて渡した爆弾の事を、ジェーンははっきりと覚えている。もしかすると、暴発したのではないか。
父が巻き込まれてはいないかジェーンはそんな最悪の想像に青ざめる。しかし、そうではない。
「……! パトリック君、上!」
それが彼女の耳に伝わったのは、殆ど偶然だった。風の流れにのって来た音に釣られて、ジェーンは上を見る。その瞬間----彼女の魂の底から溢れ出る憎悪が部屋の全てを飲み込んだ。
一瞬、パトリックは息を飲んでジェーンを見つめる。だが、言葉の中に尋常ならざる物を感じて従う事を決め、窓から上を見る。
変わった物は何も無い。黒煙が邪魔で視界が悪いが、そのくらいの事は分かる。一体何を見たのだろうか、パトリックが首を傾げた。
誰かに投げ飛ばされたのか視界に飛び込んできた、古ぼけたトレンチコートの背中と仮面の横顔が見えるまでは。
「あ、れは……!」
パトリックの魂も、憎悪を発する。ジェーン程凶悪極まる物ではないが、かなり強い。二人の憎悪は混ざり合って世界を埋め尽くす勢いだ。
ジェーンを見つけるという意志で押さえつけていたが、今度は何も押さえる物がない。
どうやら、Mr.スマイルは黒煙と水流の音でこちらに気づいていないのか、起きあがってその誰かの元へ戻っていく。
「パトリック君、追うよ!」
憎悪の収まらないジェーンが窓から身を乗り出した。片手片足が動かない事など忘れている様だ。そのままでは落ちてしまう、パトリックは慌ててジェーンを背後から押さえ込んだ。
途端に、ジェーンの口からは罵声が発せられる。
「この……畜生! 離して、離してっ!」
「そこからは無理です! ……甲板に出ましょう! あそこからなら梯子で船の上に登る事が出来る筈……!」
聞くに耐えないその言葉をしっかりと脳に刻み付けながら、それでも腕から力を抜かずに説得を試みる。錯乱した彼女にどれだけ届くのかは疑問だったが、それでも止めない。
そして、効果はあった様だ。
「離っ……あ……ごめん、パトリック君……」
ジェーンは憎悪をまき散らしながらも、申し訳なさそうにパトリックへ謝った。口調こそ沈んだ物だが、目はギラギラと船の頂上を見つめている様に思える。
そこで、パトリックはジェーンを抱き抱えた。急な行動に驚いたのか、彼女は声を上げる。
「わっ……! パトリック、君?」
「行きましょう、ジェーン様。俺だってあいつはぶち殺したい気分で一杯です。そもそも、その為の計画でしょう?」
憎悪を周囲へまき散らしていたのはジェーンだけではない、パトリックも同じく凄まじい気配を放っているのだ。
そして、全面的にパトリックの言葉が正しい事を少女は知っている。何故なら、この計画は----『麻薬の売人の中に潜んでいる「かもしれない」Mr.スマイルに復讐する』為に存在するのだから。
認めたジェーンは体の力を抜いて、パトリックに心配そうな目を向ける。
「あの、ご、ごめんね? 重くないかな? 一応、気を使ってるつもりだけど……」
「大丈夫、軽いですよ…………軽すぎるくらいに」
最後の言葉を言いながら、パトリックは少し悲しい気持ちになっていた。同じ年頃の少女の体重など彼は知る由も無いが、確かに低めの身長だが、それでもジェーンは軽すぎる。
軽すぎるのだ。健康を保てるかどうかのラインに立っているのではないか、そう思えるくらいに。
それが、ホルムス・ファミリーの為に寝る間を惜しんで行動し続けた事による結果だと、パトリックは----同じく寝る間を惜しんだ為に、知っている。
恐らくは彼女の父親は娘が自分に人生を捧げる事を嬉しいとは思わないと言う事も、知っている。
「行きましょう」
しかし、内心の感情を完璧に隠したパトリックは静かに告げて、走り出す。向かう場所は甲板、そこから船の『屋根』に上がる為に行くのだ。
「うん、行くよ。絶対に、ぶち殺してやる……切り刻んで豚の餌にしてやる……!」
一般人ならば気絶する様な憎悪を隠さずに発するジェーンの声は、彼女と彼女の父に魂を捧げたパトリックにとって、何故か悲しい物に聞こえていた。
そして、二人はその甲板に『誰が居るのか』を知らなかった。
+
「この通り、残念ながら違う。Mr.スマイルではない」
爆発し、黒煙を上げる船を背景にMr.スマイル『に見える者』は苦笑しているのだと分かる声音で、話しかけて来る。
その存在が自分をMr.スマイルではないと言う事の証明になる物が、彼の背景には写っているのだ。女、プランク達がカナエと呼ぶ女がMr.スマイルと戦っている姿が。
一度もMr.スマイルを見た事が無い人間でも分かる程、視界の先に存在する者ははっきりと『本物』の雰囲気を発している。目の前の存在が偽物だと、伝えてきている。
「ならば、あなたは何者ですか?」
鋭い声音と相手の正体を探る雰囲気を以て、プランクが声を掛けていた。質問の体を取っているが、側に居るスコットとコルムは有無を言わさない何かを感じ取れる。
偶に、視界にカナエとMr.スマイルが入り込む事があるが、その場の全員がそちらへ目を向けるは様子も無い。
「……恐らく、お前が『そうではないかな』と疑っている存在で間違いはないな」
Mr.スマイルの格好をした者は静かに回答する。嘘の混じらない、心から出ている事がすぐに分かる声音だ。どこか誠実で、危険にも感じられる。
そこから何かを感じ取ったらしく、プランクは一度頷いた。そして、頷いたと思うとコルムの方へ顔を向け、悪い事をしたと言いたげな顔をした。
「……コルム、どうやら謝らなければならない様ですね」
「……え、はい?」
自分に話を振られるとは一分も予想していなかったコルムは戸惑いの声を上げる。言葉の内容もそうだ、何に対して謝ろうとしているのかが、全く理解できていない。
それを見たプランクは軽く張り付いた様な笑みを戻し、それでも申し訳なさそうな態度は消す事無く謝罪を入れる。
「あなたの判断は正しく、私の予想は間違っていた……おや? まだ気づいていないのですか?」
部下の二人が本心からの謝罪を入れるプランクへ不気味な物でも見る様な目を向けていた事に気づいたのか、軽く首を傾げて眉を顰めた。
複雑そうな顔をしたのはコルムだ、彼は『自分の判断が正しかった』と言われた事による困惑と、何がどう正しかったのかが理解出来ない事に不安を覚えている。
部下の不安を取り除こうと、プランクは務めて軽い調子で説明する事を決めた。
「まあ、Mr.スマイルの行動や、何より正確な格好を知る事が出来るのは加害者当人とスコットの様な目撃者、そして『被害者とその仲間』だけ、という事です」
気安そうで、大した事ではないと言いたげだ。
慌てて、二人の部下は表情を和らげて明るい物にする。元気付ける雰囲気で背中を思い切り叩かれた様な気分になったのは確かだ。
が、同時にプランクから睨まれた様な気がして恐怖が沸き上がったのだ、それは無理矢理にでも笑みを浮かべてしまうくらいに。
「……?」
どこか様子のおかしい二人の部下へプランクは疑念を向ける。自分が原因なのだとは、微塵にも思わない。
目の前のMr.スマイルみたいな者は、居心地が悪そうに身じろぎを一つした。
「……そろそろ、良いか?」
「ええ、どうぞ」
本題に入ろうと、男が話しかけてくる。くぐもっているが、その声は男の物だと言う事くらいは分かる。
背景ではもうカナエもMr.スマイルも姿を現さない。だが、気配を察する技能に乏しい人間でも分かるくらい濃密な殺気と歓喜が渦巻いていて、視界に入らない場所に彼らが居る事は用意に判断出来る。
----カナエが負けるとは思いませんが……さて……
頭の中で視界の範囲外に想いを馳せる。その間にもMr.スマイルの格好をした物は本題に入り、話を始めていた。
声の調子からして、どうやら何かの取引をする様だ。
「……今回の件に関しては、落とし所って奴が必要だ。お前の所はどうして欲しい? どうすれば俺達は敵対しないんだ?」
「……そうですね、出来れば勝手に使われた薬の弁償。後は……言いにくいですが、そちらのジェーン・ホルムスの命です。首謀者を見逃す訳にはいきません」
本心から来る言葉を正直に告げる。相手にとっては余り良い条件ではない事は知った上だ。それをあえて言い、プランクは相手の反応を窺う事にする。
相手はそれを予想していたのか、慌てる様子も何も無い。むしろ、当然の事だと思っている様だ。
「だろうな。……命だけで良いんだな?」
「ええ、我々の命など軽い物です。将来のある少女の命一つでは余るくらいですよ」
本心から来る、確信を込めた一言だった。プランクにとって、自分を含めた売人達の命など所詮その程度の物だったのだ。少女の命一つで十分すぎる程だ。
この時、Mr.スマイルの姿をした者は何ら態度を変えていない。だが、ほんの少しだけ嫌そうな雰囲気を放っている。
プランクは、そこでMr.スマイルみたいな者の正体にはっきりとした確信を持った。
「では、そうしよう。ああ、殺し方についてだが……」
相手に気づかれている事を察した上で、Mr.スマイルに見える者はゆっくりと話し始める。スコットが尊敬の念を込めて見つめていたが、そこには構う様子は無い。
「いや、そんな手間を掛ける気は……」
話を聞いたプランクは余り嬉しそうな顔をしなかった。むしろ、面倒そうに眉を顰めている。
だがその提案はMr.スマイルに見える者にとってはどうしても飲ませたい物だったらしく、引き下がる様子は見せなかった。
「悪いのは俺とアイツだ。アンタは何も悪くない。確かにヤバい薬を売ってる時点で悪人と呼ぶのかもしれないが、少なくとも今回の一件で責任を取るべきは俺とアイツと……Mr.スマイルだけだろう」
「……あなたがそこまで言うなら仕方ない」
軽く息を吐いて頷く。相手の強固な意志を感じた為に、諦めたのだ。言葉通り、確かに相手の提案に従った方が後始末が楽だ、という点もあったのだが。
何となく、プランクはMr.スマイルの仮面の奥から覗く、目を見る。鋼の意志が感じられる瞳だ。強烈な決意が籠められていて、退くとは思えない。
少し、羨ましくなった。プランクにとって、心の強烈さは手に入らなかった物だ。張り付いた様な笑顔はその代替品として拾得した技能である。
この魂が震える様な意志の力だけで、人の上に立つには十分過ぎる。周囲を探ると、コルムがその力に呑まれかけている様に見えた。
スコットはそうでもないが、ケビンの時と同じ尊敬の念が籠もった瞳で相手を見つめ続けている。
あまり、良い状況ではない。プランク自身はその力を完璧に流す事が出来るが、部下の二人、特にコルムは今にも膝を崩してしまいそうだ。
雰囲気を押さえつける為に、プランクは話題を変える事に決めた。
「……そういえば、船長達と連絡が取れないのはあなたの仕業ですか?」
「あぁ……そうだとも言えるし、違うとも言える。……おっと、別に殺したとかそういう話じゃないぞ」
肯定も否定もしない答えが返って来た。それでも最後に付け足された言葉は確かな真実味を帯びていて、嘘ではない事を表している。
どうやら、言葉で表すのが少々難しい事態の様だ。それを察したプランクはあえて事態の細かい部分には触れず、結論だけを尋ねる事にした。
「船長達は、生きているのですね? 危害を加えられている訳でも、無いのですね?」
「少なくとも、俺は何もしていない。信じてくれ」
「……信じましょう。それだけ分かれば十分です」
そこまで言って、プランクは言葉を切る。そこには仲間が生きていた事への安堵も何も無い。ただ、『船長達は生きている』という事実を納得した。その気持ちだけが顔に出ている。
まさしく、部下の命を何とも思っていない態度だ。それをはっきりと見てもスコットとコルムが気にした様子も無い辺り、彼らの組織は常にこの様な雰囲気なのだろう。
そんな事を考えながら、Mr.スマイルに見える者は相手の次の言葉を待つ。それを察したプランクは、一度息を吐いてMr.スマイルの隣を通る。
もう、カナエとMr.スマイルが闘っている雰囲気は消え去っていた。
「では、そろそろ行きましょう。ジェーン・ホルムスを見つけなければなりませんからね、スコットもコルムも付いてきなさい」
「おっと、悪いが俺もコイツに用事があるんだが?」
船内に戻ろうとするプランクの背中に、声が掛けられた。厳密には彼に声が遣ってきた訳ではない、Mr.スマイルの格好をした者に対して、話しかけているのだ。
聞き覚えのある声にプランクが振り向いて、背後を見る。そこに居たのは一人の、銃を持った男だった。
それだけならば何の問題も無い、この船の上では誰もが持っている。問題は、その銃がMr.スマイルの姿をしていた者に向けられていた事だ。
今にも引き金を引いてしまいそうだ。だが、そうする事は無く、一言告げる。
「よう、一目見てお前だって分かったぞ。仮面、取れよ」
どこか苛立っている様に見える男がそこに居る。その男はプランクが、この場の誰よりもスコットが知っている顔をしていた。
そう、銃を持った男はケビンという偽名を名乗っている男だったのだ。
「もう一度言うぞ。仮面を、取れよ。そうだろう?」
男はじっとその仮面を見つめていて、一瞬も目を逸らす気配が無い。誤魔化しも引き延ばしも通用しないだろう。
軽い溜息が、聞こえてきた。
「はっ……お前には負けるよ」
両手を上げたMr.スマイルの格好をした何者かが、昔からの親友でも見る様な瞳をその男に向けている。男のそれとは対照的に、友好的で和やかな物だ。
しかし、それ以上待たせれば撃たれてしまいそうだ。そう考えたMr.スマイルに見える者は、静かに仮面へ手を掛けた。
「……ああ、やはり。あなたですか」
その顔を見て、プランクは静かに確信を籠めた一言を呟いた。
仮面を外したその顔は、地味だった。印象に残らない事を目的としている様な顔立ちだ。だが、この船の上では少し不審な雰囲気を纏っていて、圧倒的な存在感が、顔付きの地味さを上回っている。
プランクはそんな地味な顔が逆に印象的で、その名前はそれ以上に印象的で、覚えていた。自分に挨拶をしてきた----新聞記者の姿として。
「改めて、挨拶をしようか」
仮面を手に持った男は、軽く会釈をしてケビンと名乗る男へ目を向ける。二人は仲の良さそうな態度でニヤリと笑い、改めて挨拶をした。
「アール・スペンサー……というのは偽名で、本来の名だが……」
言いかけたその瞬間「どさり」という音がその場へ響き、新聞記者を名乗っていた男は凄まじい勢いで船内に続く道へ目を向けた。まるで、そこに魂が引かれる存在が居るかの様に。
釣られて、プランク達はその方向を見る。
そこには、二人の男女が居た。片方は幾つかの武器を持った、目が虚ろでは無い事を除けば船の中ではよく見る姿だ。だが、もう片方の女は見慣れない。赤いドレスを着込み、片手と片足に血の滲んだ包帯を巻く少女だ。
男の腕から滑り落ちたのだろう。床に尻餅を付いていて、見るからに痛そうだ。しかし、少女は自分の痛覚など一切気にしていない様子で、『新聞記者』を凝視する。
それは、魂が吸い寄せられているかの様な姿だ。まさしく、信仰すべき存在と出会った信者の姿だ。視線に対して『新聞記者』が嫌そうな顔をしても、無くならないだろう。
痛々しい姿の少女は、呆然とした顔で呟いた。
「……パパ?」




