14話
「……さて、どこへ行った?」
船内のある通路の、ある十字路の真ん中で、今はケビンと言う偽名を名乗っている男は迷った様な声を上げていた。
ケビンはMr.スマイルの格好をした者を追って下の階へ降り、極限の集中で雑音から足音を聞き分け、それを追っていたのだ。人外めいた非常識な聴力を持ってるからこそ、可能な技だ。
だが、そんな超人的な技を持ってしても彼はMr.スマイルに見える者を見失っていた。いや、厳密には今もそれがどこへ行っているのかは分かっている。
だが、『どちらを追えばいいのか』を彼は迷っていたのだ。Mr.スマイルの様な者の気配は、途中で誰かと合流し、また分かれていた。
彼の聴力が超人的だったとしても、離れた場所に居る相手の服装を音だけで判断できる程には優れていない。逃げる側は、それを利用して来た。
「……俺がどの程度に気配を読めるのか、分かってやがるな」
十字路の真ん中で肩を竦め、呟く。彼の五感、特に聴力は素晴らしい物だが、限界がある。その範囲や効果を知っている人間は殆ど居ない。リドリーですら知らないくらいなのだ。
だからこそ、彼は先程のMr.スマイルの正体をある程度見破る事が出来た。
その顔にはどこか安堵している様な色が見て取れる。何故、そんな表情をしているのかは本人にしか分からないのだが、ともかく彼はホッとした顔付きになっている。
此処へ来るまでも、足取りはあまり素早く無かった。どちらかと言えばゆっくりとした物で、それはどこかMr.スマイルを追う気が無い様にすら思えた。
実際、この十字路で足を止めているケビンの顔付きには何かを追いかけようと考える物の顔はどこにも見当たらないのだ。
「……まあ、良いさ。逃がしてしまうなら仕方ないだろう……ん?」
手に持っていた銃を降ろし、ケビンは苦笑する。そのまま身を翻し、パトリック達の元へ戻ろうとする。すると、ケビンは何かを足で踏みつけてしまった。
足下にあるそれを拾って、じっと見つめる。ルービックキューブだ。やはり形は揃っていないそれを見て、一人の人間が頭の中に浮かんでくる。
船員の格好をし、帽子で顔を隠した男だ。妙な怪しさを纏った男の姿は印象的で、ケビンの頭の中にもしっかり残っていた。もちろん、声もだ。
「ああ、成る程。あれはあいつか!」
その声を思い浮かべた瞬間、ケビンは何かを納得する様な声を上げる。パトリックと同じく、過去にその声を聞いた覚えがあったのだ。
彼の聴力がどれだけ良くとも、記憶力まで完璧という話ではない。事前に、『そうなのではないか』という予想が無い限り、声だけで人間を特定する事は難しいだろう。
そして、今は予想があったからこそ、特定出来たのだ。
手に持ったルービックキューブを大事そうに懐へ入れて、ケビンは懐かしそうな顔をする。過去の思い出は確かに心に存在し、今でも彼を動かしているのだ。
どこか安堵している様にも見える姿で、ケビンは小さく笑う。もう、Mr.スマイルの事は考えていないのかもしれない。
「ん?」
そんな中、ふとケビンは何かを察知して、十字路の奥、手すりの向こうに海が見える景色へと目を向ける。その方向で、音がしたのだ。何かが海面から飛び出る水音と、何かへ蹴りを入れる音が。
特に意識しなくとも、ある程度耳が良ければ分かるくらいに大きな音だ。
もちろん、普通ならば水音は魚か何だと感じるだろうし、衝撃音を蹴りによる物だと見抜く事は出来ないだろうが。
その音のがした方向へ目を向けたケビンは、困惑に眉を顰めていた。そこには、下から手すりに掴まる片腕が見えている。
恐らく、水面から飛び出した後に何かを無理矢理足場にして飛び上がったが、距離が足らずに片手だけが手すりへ届いたのだろう。
引き上げようか、そうしない方が良いのか。ケビンは一瞬だけ迷う。だが、何故か機嫌の良い彼はとりあえずその手すりへ近づく。
唯一見える片腕の先に誰が居るのか、それすらも分からない状況だが、それでも近づく事を決めたのだ。
ケビンが近づいていると、それが分かるのか手すりに掴まる腕に何やら力が籠められて、それがどんどんと強くなっていく様に見えた。
「……」
そこで、ケビンは足を止めてみる。その音も当然ながら手すりの向こうまで届いた。が、その反応はそれまでよりももっと劇的だった。
声がそこまで響いた瞬間、まるでケビンと顔を合わせる事が必要だと言わんばかりの勢いで、手すりに掴まる者の顔が現れたのだ。
そう、顔だけを覗かせた、全身海水で濡れに濡れた女と、ケビンは目があった。
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「ちょ……! プランクさん! ストップストップ!?」
「放してくださいスコット! 私はこの大間抜けを始末して海に捨ててやらなければならない!」
背後から腕を回し、スコットは慌てた様子で必死にプランクを抑え込んでいた。彼らの目の前には、頬の部分が赤く染まったコルムが暗く感じられる雰囲気を纏って俯いている。
プランクとスコットは既に船の外にある甲板、その端の部分に辿り付いていた。彼らの体には幾つかの怪我が見られる、特に、スコットの腕にはナイフが突き刺さっている。
そんな怪我をしているのには当然の事ながら、理由があった。コルムが居ると思われる場所へ向かった二人は、甲板に出た瞬間に、虚ろな目をした『兵隊』達に襲われたのだ。
「死にかけたんですよ、我々は!? まったく……そんな怪しくて正体不明の人間を信じる馬鹿がありますか!?」
プランクが普段の態度をかなぐり捨てて怒鳴っている。彼も、『兵隊』達の攻撃によって傷を負っている。それだけならば、彼はまだ笑みを維持していた。だが、その後に聞いたコルムの話には耐えられなかった様だ。
発せられる怒気は鋭い。もしもスコットが抑え込んでいなければ、コルムは海へ落とされていたに違いない。
そして、そのスコットもコルムへ時折微妙な視線を向けている。しかし、それは当然だとコルム自身も理解できている様だ。
俯いたままのコルムは自分が確かに愚かな事をしたと知っている様に見える。だからこそ、暗い顔をしたままなのだ。
「……あなたは、まったく……何と馬鹿な」
「正直、俺もお前を殴り飛ばしてやりたいよ。プランクさんがこのザマだから我慢するけどな」
何とか落ち着き始めたプランクの前に立ち、コルムが殺されない様に守りながらもスコットは怒気を露わにしている。
恐らく、彼らの仲間が話を聞いたとしても同じ怒りを見せるだろう。
コルムは、船員の格好をした人間に『ある人物と対面させる』という事を条件に、船の倉庫に隠してある薬の場所を教えてしまったのだ。まさしく愚かさ此処に極まれりと言った具合だ。
余りに間抜けな話を聞いたプランクが平静さを失うのも仕方が無い。コルムを見張っていた『兵隊』達に襲われて傷を負ったのは、彼らにとって大した事ではない。
「……あのですね、コルム。普通に考えてくださいよ、正体不明で、ウチの構成員に攻撃を仕掛けて来た奇妙な中毒者達の兵隊を操っていて、『薬』の在処を聞いてくるなんて……」
一度、大きく息を吸って呼吸を整えると、プランクの怒気はほんの少しだけ緩んでいく様に見える。
それを見たスコットが安堵の息を吐く。思った以上に力も怒りも強いプランクを抑えるのは想像よりもずっと大変だったのだ。
「どう、考えてもっ! その中毒者共を操っている黒幕か、その部下でしょうっ! 何を考えているんですか! ああ、粛正です! 海に捨ててやる!」
だが、コルムを殺そうとしたプランクを抑える為に、またスコットは苦労を背負う事になった。緩んだかと思った怒りは、ため込んでいただけの様だ。
そして、罵声らしき物と殺気を投げつけられているコルムは意外にも、抵抗する様子を見せていない。むしろ、そうされて当然だと受け入れている様に見える。
スコットは、自分が居なければコルムが殺されると必死でプランクを抑えつけていた。
「……騙されたのは分かってます。ぶっ殺されても、無理は無いってのも、分かってます」
俯いたままのコルムはプランクの怒気を受けて、更に暗い雰囲気を放つ。普段の軽薄な印象よりもずっと重く、自分の判断に責任を感じている様にも思える姿だ。
そんな意外な姿が無ければ、プランクはコルムを自分の近い場所に置く事は無かっただろう。同じ状況になったとしても、スコットがコルムを殺していたに違いない。
「お前がクソだってのは分かってるさ、だけどな。今はお前を罰してる様な暇は無いんだ、でしょう? プランクさん?」
プランクを抑えつけながら、スコットは若干の罵声を含めた声音で諭す様な言葉を吐く。
初めて聞いた話に首を傾げたコルムに対して、それを聞いたプランクは数秒間、黙り込んだ。彼はスコットが何を指しているのかを知っている。
むしろ、スコット以上に危機感を覚えていた程だ。
「…………ああ、まったく! そうですよ、確かにそんな余裕はありません!」
暫く黙り込んで、ようやく口を開く。吐き捨てる様な声音だ。認めたくは無いが、スコットが言う事は正しい、そう言いたげな意志が見られる。
より一層、コルムは頭の上に疑問符を浮かべた。二人の顔色は深刻で、重い。明らかに何かがあると思わせる顔付きだ。
「船長達と連絡が取れないんだ。連中に殺された、って可能性も計算に入れなきゃならないな……」
疑問に対して、スコットは重苦しい顔色で状況を説明する。さりげなくプランクが手に持った通信機が全てを表している。そう、その通信機は無駄になったのだ。
連絡を取ろうとした時から、船室からの返事は無かった。何か、退っ引きならない出来事があったとプランクとスコットは同時に嫌な感覚を覚えたのだ。
それでも二人がコルムの元へ向かう事を決めたのは、二人では船室に戻る事で訪れるであろう危険に対抗出来ないと考えたからだった。
「もしくは、Mr.スマイルという可能性もありますねむしろそちらの可能性の方が高いかもしれません」
何とか落ち着いた様子のプランクが呟く。『Mr.スマイル』、実際に会った事は無いが、カメラ越しに存在を確認したプランクはその危険性を理解している。
ホルムス・ファミリーの幹部達を皆殺しにしたその腕前は尋常の物ではない。更に言うならば、怪しい人物も居るのだ。
----あの、新聞記者……
頭の中にその怪しい姿が浮かぶ。意識的に地味にした事が窺える外見と、集中して見ればよく分かる、奇妙な雰囲気を持つ人間だった。分かる事は、男である事だけだ。
その新聞記者はカメラで見ていた限り、殆ど姿を現していない。コルムと共に姿を見せたのが最後だ。それ以降は、一瞬たりとも見ていない。
怪しいとしか言い様が無い程、怪しい。だが、一番怪しいのは『怪しく見られる行動を意識的に行っていたのではないか』と思える事だった。
「どうしました、プランクさん」
「ああ、コルム……あの、新聞記者ですが、何か怪し……いえ、止めておきます」
冷静になったプランクはコルムへ質問をしようとして、何故か途端に気まずそうな顔色になって言葉を止める。
何やら不審な態度に変わったプランクを見たコルムは首を傾げる。一体、何を質問しようとして止めたのか。その顔にははっきりとその意志が見て取れた。
「……あなたに聞いてもね、アテにならないんです。むしろ間違った情報を聞かされそうで」
目を逸らして、プランクはそう告げる。
言っている内容こそ馬鹿にしているが、その口調は心から気を使っている事がよく分かる物だ。その方が、コルムの胸に突き刺さるだろう。
コルムはまた俯いて、今度は顔を上げようとしない。随分と、これが終わったら自殺してしまうのではと思ってしまう程、効いた様だ。
暗い雰囲気を漂わせる二人を見て、スコットはそんな風に感じた。
「まあ、あなたに聞いても仕方ないですが……仕方ないとはいえ、他に助けになる様な者も居ないんですがね」
恐らくはコルムのそんな状況を理解したのだろう、プランクはどこか元気付けようとする意志が見え隠れする挙動で軽く肩を叩いている。
既に張り付いた様な笑みは元に戻っていて、他者に思考を読ませない普段の様子が戻っていた。
内心、スコットは安堵している。その笑みの無いプランクはあまりにも不自然で、何時見ても慣れそうに無い。彼らにとって、彼らのボスの自然体はそんな笑顔なのだ。
「とりあえず、カナエがどこに行ったのかは分かりますか?」
「いやその……俺は、あいつが戦ってる隙に捕まってて……」
「……役に立ちませんね。まあ、私も人の事は言えませんが」
「……」
自嘲気味に呟かれた一言は小さな音でしか無かったが、側に居たコルムにはしっかりと届いている。後半の自嘲よりも前半の落胆の方が心に突き刺さったらしく、コルムは黙り込んで暗い表情をしていた。
余りにも暗い惨状を確認したスコットは心の中だけで疲れきった溜息を吐く。普段の二人とは印象が全く異なる姿を見ていると、どうにも疲れてくる。
「とりあえず、その……二人とも、な? とりあえず、現状をどう脱するか考える事に専念しよう、な?」
ともあれ、そのまま暗い雰囲気を出し続けさせているのはまずい。そう判断したスコットは出来るだけ二人を、特に死にたそうな顔をするコルムを刺激しない様に間へ割り込む。
それは勿論、スコット自身の本心でもある。今はコルムを落ち込ませておく暇など、無いのだ。
「どうするか考えていましたよ、私は」
苦し紛れに近い声を上げるスコットに対して、『何を馬鹿な事を言っているんですか』という視線と共に送られたプランクの返答は意外な物だった。
「……はい?」
「私を何だと思っているんですか、あなたは。コルムに怒鳴るだけで何も考えていないなんて、あり得ないでしょう?」
張り付いた笑みを浮かべたままのプランクは肩を竦める。どうやら、その点もスコットは把握していると考えていた様だ。そんな事を考えていると、顔には一切見せなかったのだが。
目を丸くするスコットを余所に、プランクは口を開く。
「我々だけでは話しになりません。味方を増やしましょう。あのケビンという方は、まあスコットの記憶が確かなら、協力して貰えるかもしれません」
プランクは二人へ提案しながらも、態度から見るとその考えに自信は無い様に見える。
スコットは少し不満に思った。彼の記憶は確かに、『少年時代に自分を助けた男の一人』の姿を覚えていたのだ。だからこそ、彼はケビンと名乗った『誰か』を信頼出来ると確信している。
----もう一人の男の姿は、忘れてしまったにしても。
「スコットを信じていない訳ではありませんが、彼は小さいとはいえ組織の頂点です。立場上、我々とは敵対していますよ……カナエがこの場に居れば楽なんですが……」
そんな不満をプランクは見抜いていた。だからこそ、慎重に、しかし嘘の無い本心から言葉を選んでスコットの不満を取り除く。
最後にこぼれた一言はそれとは関係無く、口から出てきてしまった物だ。名前を聞いたコルムが困惑する様子を見せるが、プランクとスコットは気にしない。
「ボス、どうしてあの頭のおかしい女をそこまで……」
二人が気にしなくとも、コルムは気になっている様だ。
彼が付き合わされた女は実力的には確かに頼れる存在だが、その動きは無茶苦茶で言動は支離滅裂で気味の悪い笑い声が印象的だ。
更に、絶世という言葉すら足りない程の美貌から来るおぞましい喜悦の笑みを思い浮かべれば、コルムは自分の正気もどんどんと削られていく様な気がしていた。
「……気づいて、いないのですか? 今日、ずっと一緒に居たというのに?」
そんな、自分の記憶の中にいるカナエと戦うコルムを見て、プランクは少し意外そうな顔をした。
その表情の意味が分からず、スコットとコルムが首を傾げる。コルムの表情は妙に青く、記憶の中の存在に恐怖している事がはっきりと見える。
「何だ、本当に気づいていないのですね。彼女は……」
二人の疑問を感じたプランクはそれに答えようと口を開き----そのまま別の事を言った。
「……残念ながら、とりあえず目の前の危機を何とかしなければならない様です」
言葉と同時に銃を取り出し、スコットとコルムの視界に入らない方向へ向ける。敵意を向けるべき存在がそこに居る。そう理解した二人はそれに追従する様に銃を取り出す。
視界の先で一つの存在があった。その存在は、世界を嘲笑する笑顔を象った仮面を付けていた。
プランクは、軽く声をかける。
「やあ、Mr.スマイル……で良いのですか?」




