13話
「何だ、あのジェーンって嬢ちゃんは、その、お前の……何なんだ? いや、察しは付くがな」
「それはもう! 大事な大事なボスですよ! ……いや、俺のボスはあの方だけなんですが」
銃弾が放たれる少し前、その近くにある通路では二人の男が、ケビンとパトリックが、ある組織のボスと敵対組織の構成員、その様な異色の組み合わせは話をしながら、歩みを進めている。
「良かった。もしお前が嬢ちゃんへ『愛してる』だの、『恋をしてる』だのと言う気持ちを向けているんだとしたら、俺はちょっと……まあ、お前を殴っていたかもな」
心からの安堵が籠もった息を吐き、ケビンは笑う。返答次第では本気で殴る準備をしていたのか、いつの間にか握られていた拳が解かれていた。
殴られなかった事で軽く息を吐いたパトリックは悪い冗談だと言いたげに手を顔の前で振って見せる。
「ありえませんよ。ジェーン様にはもっと上等で良い相手がきっと居ますし、俺自身も魂までファミリーに、正確にはボスに捧げてる身です」
「相手がどう考えるかの問題があるぞ? もしも、あの嬢ちゃんがお前の事を恋愛対象として見ていたら……」
「ははっ、ジェーン様も、ボスに、自分の父親に魂を捧げてる類です」
二人の男は苦笑にせよ、笑顔にせよ、相手への敵意が感じられない様子で向け合っている。
二人は既に互いの立場を理解していた。だというのに全く迷う様子も背後から撃つという気配も無く、まるで同じ組織のボスと構成員の様な関係を築いている様に見えた。
そう見える原因は一つ、パトリックが、ケビンに対して心の底からの尊敬を向けているからだ。己の組織のボスとその娘のジェーン以外には絶対に見せないであろう表情だ。もしも、この場にジェーンが居れば気絶しかねない光景だろう。
だがパトリックの中では側を歩くケビンもまた、自らのボスと同様に尊敬し、恩を返さねばならない立場の相手なのだ。彼が敵対組織の人間だからと言ってもそれは変わらない。
無論、パトリックは自らがボスと呼ぶ相手への忠誠は一瞬たりとも忘れては居ない。もしも忘れそうになれば、彼は自らの頭を銃弾で吹き飛ばしてしまうだろう。
そのパトリックの顔をケビンがいつの間にか覗き込んでいた。何かあったのだろうか、とパトリックが首を傾げると、その答えはすぐに来た。
「……話は変わるが、お前があの時の奴だとは思わなかったよ……顔に見覚えが無かったからな」
歩きながら、器用に肩を竦めて見せる。その足はあまり早く無い。何故、早くないのか。それは間違いなく、パトリックの足に合わせているからだ。
それなりに重装備のパトリックは長距離を早くは動けない。それが分かっているケビンは急いでいるというのに、合わせ歩いてくれているのだ。
有り難いと思いつつも、パトリックは同じ様に肩を竦めてみせる。違うのは、少し恥ずかしそうに見える所だけだ。
「その、自分でも忘れてたんですよ、顔を変えたって事。いやぁ、でもまさか声の微妙な調子で気づいて貰えるなんて……」
パトリックは少年時代にケビン、いや、『目の前に居る名前の知らない誰か』と会った事がある。だが、パトリックはその後に身分や前歴を隠す為に顔を変えた為、ケビンは気づかなかったのだ。
『自分の顔に見覚えがないか』というパトリックの一言で何かに気づいたケビンがその声音や雰囲気、調子を意識して聞き取らなければ、最後まで気づく事は無かっただろう。
超人的な耳の良さにパトリックは助けられたのだ。
「耳の良さにはまあ、自信があるのさ。ま、極限の集中がないと駄目なんだがな」
「影で何かがこそこそ動いてる場合は無価値な聴力だ」と続ける。謙遜にしか聞こえなかったが、『集中しなければ意味がない』という意味では嘘ではない様に思える。
パトリックは相手が十分に人間離れした身体能力の持ち主だと賞賛したくなったが、言葉に出すと良い顔をされそうに無いので止める。
「ま、内の構成員で一番頭がおかしい奴と、存在自体がおかしい奴に比べれば、俺は耳が良いだけさ」
もしも全てが聞こえていれば、恐らくはこの様な状況になる事自体が無かったに違いない。パトリックの顔はそう言いたげだ。
だが、パトリックはケビンの耳が常時良い訳ではない事を知って、内心では安堵していた。恐らく、船に乗る前に計画は阻止され、ジェーンもパトリックも精神に大きな負担を抱える事になっただろう。
彼がボスと呼ぶ存在が生きていると予想している為にパトリックの中では既に計画は失敗しても問題は無くなっていて、今は『どうやってジェーンに責任を取らせずに済むか』を考えるのみだ。
だがもし、計画実行前に失敗していれば、二人は自害していたかもしれない。
「……いや、しかし。もしもあなたの耳がそれほど良かったら、俺は貴方に会う事は出来なかったでしょう?」
「そうだな、ああ、そう言う意味では……俺の耳の中途半端な超人ぶりに感謝しなければ」
ケビンは歩きながら苦笑する。その表情はどこか懐かしそうな色が含まれていて、目の奥には少年時代のパトリックが写っている様に思えた。
「安心しろ、大体の事情は察してる。だが、俺はお前やあの嬢ちゃんに何かしろと言う気は無い」
「でも、ボスにはぶっ殺されそうです」
何もかもを知っている様な顔つきでケビンが話している。恐らくは、ジェーンの事を探すという点でパトリックの立場を完全に見て取ったのだろう。
それが分かった時も、パトリックはケビンに何かをしようという気にはなれなかったし、したとしても一蹴される予感しかしなかった。
「その時は俺が匿ってやろうか? 奴とは古い仲だ、最近は話もしなかったが……」
「いえ、罰は……罰なので」
「そうか? ……なるほど、奴への恩返し、か?」
「あはは、そうではなくて。命を預けたい相手って、感じですかね、俺にとってのボスは」
軽く首を振って見せる。パトリックの心には『ジェーンを逃がす』という頭は有っても、『自分が逃れる』という選択肢はほんの僅かにも持ち合わせていない。
彼の絶対的で強固な忠誠が心を支えている。
もし、ジェーンの元に居なければ、パトリックはそれが自分の組織の人間であっても即座に撃ち殺し、ボスの元へ向かっていただろう。
「どうにも、奴は自分の娘をお前の留め金にした様に思えるな。行きすぎた忠誠心は時に全てを滅ぼしかねない、って事を分かってる奴らしい策だ」
パトリックの中にある強固な忠誠はケビンにも伝わっていた。
軽く驚いて、パトリックは目を見開く。そんな事は今まで一瞬も考えた事は無かった。ジェーンという、『ボスの娘』の元へ所属する事になったのも、偶然だと捉えていたのだ。
だが、『言われてみればそうではないのかもしれない』という気持ちはある。実際、パトリックはジェーンの元に付いてから、ジェーンの補佐に周り続けていたのだから。
「奴は人間の配属の仕方が分かりやすいんだよ。お前の場合は、『忠誠心の暴走を押さえる為に、よりその対象に近い人間の元へ送られた』訳だ。まあ、法則性に気づけばの話だが」
まるで旧来の友人に対する呆れと変わらない行動に喜びを感じる様な声音で話している。だが、パトリックはそれを疑問には思わず、むしろ当然の事だと考えていた。
ケビン、いや、ケビンという偽名を名乗る人物と再会出来た事は、パトリックにとって最高の幸福だったのだ。船内の出来事は総合的には不幸と言えるが、全てを許せる気さえする。
ふと、パトリックは一つ聞きたい事が頭に浮かんだ。
「そうだ、俺が貴方に出会った当時、俺と一緒に居た……」
パトリックは聞くつもりだった、『当時、自分と一緒に居た二人の仲間は今どこに居るのか、知りませんか』と。だが、聞けなかった。銃声が声をかき消したのだ。
彼らは知らないが、それはMr.スマイルの格好をした者により発せられた銃声だ。もしもその者が部屋の扉を閉じていれば音が届く事は無かったのだろうが、結果的に、銃声は外へ響く事になったのだ。
だからこそ、その音は彼らの耳にも届いていた。
「……! おい、聞こえたか!?」
「はいっ、勿論です! 行きましょう!」
届いた音の正体が銃声であると即座に理解した二人の男は音の聞こえた方向へ走っていく。
パトリックが言おうとした質問は、彼が走り出した時点で二人の頭から忘れ去られている。
それはケビンにとって、とても重要な意味を持つ質問だったのだが、その事には誰も気づいていなかった。
+
「……結局、何だったんだろうね。あの人は、さ」
ジェーンは部屋の中から居なくなったリドリーの事を考えて、ぽつりと声を漏らした。
銃弾はリドリーの体に直撃し、窓際に立っていた彼はその衝撃で為す術も無く外へ転がり落ちていた。その下には、海が広がっている。間違いなく、死んでいる筈だ。
だが、もしかすると船の僅かな縁か何かに掴まって、よじ登っている所かもしれない。そんな想像も浮かんできたが、自分の現状の方が重要なジェーンはその想像をすぐに頭から消し去る。
目の前には、相変わらずMr.スマイルの格好をした者が立っていた。
「さて……邪魔者は居なくなった。次はお前だ」
ジェーンの転がるベッドのすぐ側に立つMr.スマイルに見える者は、今度は銃をジェーンに向けて見せる。
突きつけられた銃は今にも引き金が引かれそうで、その時がジェーンという人間がただの死体になる瞬間となる事も、しっかりと伝わって来た。
だが不思議と、抵抗しようという気が沸かない。
「……」
「何を黙っているんだ? 確かに命乞いをしても無駄だが、最後の言葉くらい残しておくべきだと思うぞ」
Mr.スマイルの形をした何者かがリドリーと同じ、どこか棒読みに聞こえる声をかけてくる。が、反応する気にはなれず、ジェーンは黙り込む。
困惑がジェーンの心を包んでいたのだ。Mr.スマイルを目の前にした時に覚えた圧倒的な殺意と憎悪が、今は溢れ出てこない。
どう見てもMr.スマイルだ。だが、その姿はどこか違う何かにも思える。何かが違うのだ。
それは例えばリドリーへの対応であったり、自分と似た反応をする所であったり、全身から放たれる雰囲気であったりと服装を除けば、様々な部分に差異が見られる。
声はくぐもっていてそこから人物を割り出す事は出来ないが、声の調子もどこかMr.スマイルとは違う何かを感じさせた。
「……パパ?」
その為、ジェーンは一番初めに頭に浮かんだ父親かと期待して、声をかけてみる事にした。そこで反応を見るという方法だ。
だが、それを聞いてもMr.スマイルらしき存在は全くと言って良い程に動揺しない。ただ、少し黙っただけだ。
「……完璧な変装のつもりだったんだがな、で? 何故私がMr.スマイルではないと思ったんだ?」
ほんの少しだけ顔を近づけ、質問をしてくる。自身がジェーンの父親である事に関しては肯定もしないが、否定の言葉も飛んでは来ない。
正解に近かったのか、それとも正解だったのか、見抜く事は出来なくとも、答えが否定ではなかったという事は、つまり、そういう事なのだ。
「簡単、本物は君程……優しくない。本物のアイツが私を撃つならまず四肢を撃って、動けずに痛みに悶える私を時間をかけて虐めて苦しめて……」
気を良くしたジェーンは楽しそうな笑みを浮かべて、Mr.スマイルが行うであろう残虐な行為の数々を並べる。恐らくは、本当に行うだろうと彼女自身が予想していた内容だ。
目の前のMr.スマイルはその内容に不快そうな色を示しているのが、ジェーンには何となく伝わって来た。やはり、目の前の存在はMr.スマイルでは無いのだ。
「それで、私の心が壊れて何をしても反応が無くなったら、そこでやっと殺すんじゃないかな。ほら、飽きた玩具をゴミに出しちゃうみたいにさ」
柔らかい声音でそこまで告げて、言葉を締めくくる。平気で残虐な話をしたジェーンの顔色には何一つ変化は無い。ただ、Mr.スマイルに見える者へ視線を送るだけだ。
目の前の存在は、ジェーンには一切気づかせない程度に溜息を吐き、自分がMr.スマイルではないと認める様な事を言う。
「あんな残虐で残酷な奴よりは、俺に撃たれて死ぬ方が良いか?」
「ううん、それはまた別の話。でも……撃つんでしょ?」
相手がMr.スマイルではないと本人の口から確認したジェーンは心に僅かながら残っていた殺意を消し、向けられた銃とその相手へ笑みを見せる。
撃たれる事を歓迎する様な仕草に困惑を見せた何者かはまた暫く黙り込む。それが何かに迷っている様にも見えて、ジェーンは首を傾げた。
それを見たのか、Mr.スマイルに見えた者は面倒そうな声音で告げる。
「……いいや、本当は脅しだ。お前は、売人の連中に引き渡す。その方が自体の解決は早い」
「まあ、そうだろうね」
話の内容から相手が何を求めているのかを察して、ジェーンは軽く頷いた。首謀者の彼女を標的である売人達に引き渡せば、この船で起きている問題の大半は解決するだろう。
『兵隊』達は既に彼女の制御を離れている。が、彼らもこの船に居る者達が揃って反撃に転じれば、すぐに居なくなってしまうかもしれない。
だからこそ、ジェーンは軽く笑う。
「それなら……お断りかな。パパの命令なら勿論大歓迎で、生首でも磔でも受け入れるけどさ」
復讐の為に作り上げた計画は、何も父親が殺されたという一点から企んだ事ではない。自身の所属するファミリーの幹部が一人を除いて抹殺されたという、はっきりとした事実から来る『報復』の気持ちもあるのだ。
無論、それはジェーンの中では大した感情ではない。父親さえ生きていれば、ファミリーは再興出来るとジェーンは考えている。
だが、だからと言って報復行動を行わない、という選択肢は彼女の中には無かった。
そこにある確固たる意志を見たMr.スマイルの様な何者かは残念そうに軽い溜息を吐き、同時に銃の引き金を引く。
「……今更、それくらいじゃ私の気は変わらないよ」
銃弾がジェーンの柔らかな片腕をあっさりと打ち抜いていた。綺麗な肌からは赤い血が溢れ出していて、痛みがジェーンの脳を貫く。
流れた血はベッドの真っ白いシーツを赤く染め、ベッドの上で笑うジェーンの姿と相まってある種の美しさすら感じる光景を作り上げていた。
「だったら、お前の四肢を撃ってでも連れていく。まずは腕を撃ったぞ。まだ、付いてくる気は無いのか」
吐き捨てる様な声音だ。人を撃った事に対する不快感ではない、『ジェーンを自分の手で撃った事』による不快感から来る物だ。
「ははっ、ひどーい。でも、それは無理かな」
相手の思考を見抜いたジェーンは軽く笑い声を上げ、次の瞬間には少し真剣そうな面持ちで言葉を告げている。出血で血の巡りが悪いのか、顔は青い。
だが、その顔は不敵で楽しそうで、大量の出血をしている人間の顔とは思えない物だ。
「ね、だって。私には助けてくれる人が居るんだもの」
自分は誰よりも幸せ者だ、そう考えている人間の笑顔だ。視線はMr.スマイルの様な物へ向けられてはいない。それは開いている扉の奥へ届けられている様に思えた。
誰かが、そこに居る。ようやくそれに気づいたMr.スマイルみたいな物は慌てた様子でそちらへ目を向けようと首を動かす。途端に、何発もの銃弾が胸の位置へ放たれる。
古めかしく強固なトレンチコートが銃弾を弾き、肉体への衝撃すら防御された。Mr.スマイルに見える者は応戦しようとジェーンの居る位置から離れ、銃を相手へ向ける。
「会いたかったよ、パトリック君。ずっと、あなたを待ってたんだ」
ジェーンの声が聞こえてくる。目の前に居る人間はパトリックと呼ばれる者ではない。カタギではない威圧感が強烈な程伝わってくるその男は、パトリックではない。
扉から移動し、ジェーンの前方に立つ相手に銃を向けながらも、Mr.スマイルらしき者はその疑問を口に出す。
「パトリック? いや、そいつはパトリックじゃ……」
「俺は、此処だ!」
その瞬間、扉の向こう側に隠れていたパトリックが飛び出してきて、両手で握っていた機関銃の引き金を躊躇無く引いた。
大量の銃弾が遣ってくる。恐らく、それを使わせる為に拳銃を持った男はジェーンの近くまで移動して、流れ弾から身を守る事にしたのだろう。
ジェーンが嬉しそうな顔をしたのも、扉の向こうで隠れるパトリックの姿を見たからの様だ。Mr.スマイルらしき物はトレンチコートで銃弾から身を守りながら、理解する。
明らかに状況は不利と言える。機関銃の連射を受け続ければ、この世ならざる凄まじい強度を持つコートですら、限界が訪れてしまうだろう。
「……! ジェーン、きっと、付いてこなかった事を後悔するぞ!」
それ以上の状況は危険だと判断したMr.スマイルの格好をした者は捨て台詞を吐いて開いた窓へ飛び込んだ。
同時に、下の方で窓ガラスが割れる音がする。パトリックと男ことケビンが素早く窓の外を確認すると、下の階のガラスが外側から割られているのが見えた。
「俺が追いかける! お前は、お前の役目を果たせ!」
相手が下の階へ逃げ込んだ事を確認したケビンが、同じ様に窓から身を乗り出して飛び降りる。パトリックが止める暇すらない。
慌てたパトリックが窓の下を見ると、ケビンは下の階の窓の縁を掴んで勢い良く壁を蹴り、強引な動きで室内へ飛び込んでいく姿が見える。
無事を確認したパトリックは思わず安堵の息を吐いた。だが、その息が消える間もなくベッドに居るジェーンへ飛び寄り、心配そうな顔をした。
「ジェーン様……腕は大丈夫ですかっ!?」
「ううん、大丈夫じゃない。けど……でも、うれしいなっ!」
動く片腕でパトリックの顔を抱き寄せて、ジェーンは心の底から嬉しそうな顔をする。腕を撃たれて間もない人間の姿とは思えない。
どうやら、精神的なショックは何一つ受けていないのは確かなようだ。その存在を確認するかの様に頬摺りを受けていたパトリックはその事に安堵した。
出血をベッドのシーツで押さえる姿は痛々しいが、どんなに外見がそれらしくない物であろうと彼女はギャングの幹部だ。銃弾を向けられる事には慣れているのだ。
「パトリック君と再会出来て、本当に嬉しいんだっ」
そんなギャングとしての一面を一切感じさせない勢いでジェーンがパトリックの肩を握り、輝かんばかりの目を向ける。輝きすぎて、パトリックの目が焼けてしまいそうだ。
喜びの余り抱きついて来るジェーンの姿は再会による物、と言う一言だけで表すには大げさ過ぎる物だ。
もしかすると何かがあったのかもしれない、そうパトリックは考える。
それが伝わったらしく、ジェーンは顔色を暗くして独り言の様な口調で話していた。
「今日は散々だったんだ……頭の中が映画しかない変態に付きまとわれるし、おっかない血みどろ変態女には出会っちゃうし……ああ、今日は変態にしか会ってない気がするよぉ……ふえ、えっぇぇ……」
今までの緊張や精神の疲弊が一気に流れ落ちているのか、瞳からは涙が流れ落ちていた。
ジェーンは恐ろしい程に庇護欲を刺激する姿を晒している。それは強固な忠誠を持つパトリックでさえ一瞬、戸惑わせる程の強烈な物だ。
世の中を渡る為の術として、ジェーンが『か弱い少女』を演じる事が出来るのはパトリックも知っている。今目の前に居る少女は無意識の内に、それを発してしまっているのだろう。
「落ち着いてください、ジェーン様。大事な話があります」
安堵の余り、胸元で泣き出してしまったジェーンの肩を軽く掴んで顔を遠ざけ、パトリックは真剣そうな面持ちで声を上げていた。
ジェーンと合流した時に、真っ先に言うべき事があったのだ。二人にとっては、とても嬉しく、計画が実質的に無価値になる話だ。
そう、彼と彼女の共通の『ボス』が生きているかもしれない、という話である。
「ボスの事ですが……」
「……生きてるかもしれない、でしょう? 私も気づいたよ」
声を遮る形でジェーンが声を上げていた。
今の今まで泣いていた筈の表情は不敵な笑みを浮かべていて、少し充血した目が不自然とはいえ、真剣な顔付きはパトリックのそれを更に上回る程だ。
素早く顔色を変えて見せたジェーンは少し舌を出す真似をしつつも、自分が父親の生存の可能性に気づいた経緯を話し出す。
「だって、あの連中を動かせるのは私を含む幹部と君と、パパだけだよ? 生きてる幹部は私とサイモンさんだけだけど……あの人は保身の為なら組織の情報を漏らす最低のクズだから、こんな危ない船に乗る筈無いし」
ジェーンは『サイモン』という名前を吐き捨てる様に呟いた。嫌な思い出でもあるのか、ジェーンの声からは隠しきれない不快感が滲み出ている。
パトリックも同じ気持ちだった。『サイモン』は彼らの組織の幹部だが、保身に長けたその性質は組織内でも嫌われていたのだ。
「ま、あの人の事はいいや……つまりパパが生きてるっていうのは、私もわかってたんだよね」
明るい顔色のままだ。ジェーンが復讐と父親の間で悩んでいるとばかり思っていたパトリックは、少し意外そうに目を見開く。
ジェーンの目の奥にあるのは父親が生きていた事への喜びであって、それ以外には何もない。
どうやら気持ちは定まっている様で、心が揺れる感覚は一切無い。だからこそ、パトリックは安心して今後の予定を聞く事が出来るのだ。
「……どうします? ボスが生きてる以上、計画の見直しが必要だと思いますが」
静かにパトリックが告げると、ジェーンは考え込む様な姿を見せた。だが実の所、予定は決めてあったのだろう。すぐに顔を上げて、少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
「うーん……パトリック君、ちょっと……部屋に戻りたいんだ。荷物があってね」
「荷物、ですか?」
聞き返すと、ジェーンが何を思ったのか自嘲する様な笑みを浮かべる。視線は窓の方へ向けられていて、どこか暗い雰囲気が漂っていた。
その荷物が何なのか、聞き返したパトリックは理解していた。計画を実行する為にも、停止する為にも、それは必要な物なのだ。
それが無ければ、計画の一番重要な部分が遂行出来なくなる程、重要な物だ。何故、今必要なのかは分からなかったのだが。
「うん、とりあえず、さ。今後の事は決めてあるから、とりあえず戻りたいの」
パトリックの表情からその感情の動きに気づいたジェーンは軽く首を振って、そこへ行く事を優先させる事にする。
いつの間にか柔らかな笑みを浮かべるジェーンの姿はどこまでも魅力的だったが、パトリックの心はそこには向けられない。ただ、その『荷物』をどうするつもりなのか、それだけがあった。
だが、暫くジェーンの顔を見つめたパトリックは笑みを浮かべ、ジェーンの手を取る。勿論、パトリックがジェーンの頼みを断るなど有り得ないのだ。
「成る程……行きましょう。立てますか?」
「あ、うん」
嬉しそうな笑みでパトリックの手を取って、ジェーンは立ち上がろうとする。どうやら、ジェーンは自分の脚の状態をすっかり忘れている様だ。
痛みがあっても、忘れてしまう時は忘れてしまう物らしい。立ち上がろうとした瞬間に、ジェーンは呻き声を上げる。
そこでようやく、パトリックはジェーンの脚に銃弾で出来たと思われる傷がある事に気づいた。
「痛っ……とと、忘れてた。脚をさ、撃たれちゃったんだ。支えてくれるかな?」
「だ、大丈夫なんですか!?」
「大丈夫っ、私の大事な部下と再会出来た喜びの方が、痛みを上回ってるからねっ」
親愛を込めて、ジェーンがパトリックへしがみつく。片足と片腕が動かない為に、パトリックを支えにしなければ立つ事も出来ない様だ。
今にも倒れてしまいそうな姿を見たパトリックが心配そうな顔をする。この時ばかりは彼らのボスの事より、計画の事より、ジェーンの事が心配だった。
ベッドのシーツで押さえた腕と脚からは血が滲み出していて、赤いドレスにジェーンの体が溶けている様にすら思える。
「……そのままだと、出血多量で危ないですよ。とりあえず血を止めないと」
「あはは、まあね。一応シーツで押さえてはいるけど……」
ジェーンの声は傷を負っていても、軽く明るい。血は、変わらず流れている。
応急処置が必要だ。そう考えたパトリックは彼らの自室にその手の道具がある事を思い浮かべ、ジェーンを支えながら行ける最短距離を考える。
「では、行きましょう。早く行かないと……」
傷に余り触らない様にしながらもパトリックはきちんとジェーンを支え、丁寧に歩みを合わせる。
「あ、ちょっと待って?」
海を一瞥したジェーンはパトリックに一言だけ告げると、支えられながら、脚を引きずって海が見える窓の方へ歩いて行く。
窓の際まで近づくと、ジェーンはその向こう側に何が見えているのか、静かに冷笑を浴びせかけた。
「ジェーン様?」
「……」
パトリックから見れば、その表情と態度はそれくらいの言葉で表せる物でしかない。だが、ジェーンにとっては違う。海の中で沈んでいるであろうリドリーを、複雑な気持ちで見ていたのだ。
苦手な類の相手だった。意味不明な言動と勝手な決めつけ、そしてそれを実現させてしまう実力を持った者など、薬物中毒者に慣れた彼女でさえ出会うのは初めてだ。
背筋が凍る様な思いを何度もさせられたし、奇妙な言動に疲れも感じた。
だが、ジェーンにとってそれは初めての『守られるだけの立場』だった。か弱いお姫様としては彼女は強すぎた。だからこそ、自分を一方的に守る男、というのは初めて見る類の人間だったのだ。
部下であり右腕でもあるパトリックですら、ジェーンが助ける事が幾度もあった。だが、リドリーは違った。
----頭痛の種だったけど、案外、守られる立場も悪くなかったかも……
「……ありがと、リドリー。疲れるけど、あなたのアドバイスは参考になったよ」
今はもう消えてしまった男へ侮蔑と、冷笑と、感謝を込めて、追悼の花束を海へ投げる様な気持ちで一言を呟く。
「ジェーン様?」
言葉はすぐ隣に居るパトリックにも聞こえていた。始めて見る表情だ。少女としてのジェーンでも、組織の幹部としてのジェーンでもない、まるで、『物語の登場人物』の様な雰囲気を感じさせる顔が、そこにはあった。
思わず、パトリックは声を漏らしていた。それに反応したジェーンの顔はパトリックへ向けられる。
「あ……と、ともかく! 急いで部屋に戻ろうか!」
海の中に居るであろうリドリーに思いを馳せ、気持ちがそちらに行っていたジェーンはパトリックの言葉にハッとした表情になると、誤魔化す様な口調で身を翻した。
パトリックに支えられ、気を取り直したジェーンは、リドリーの事など一切頭に入っていないとでも言うかの様な表情で歩いていく。
しかし、心の中にはまだリドリーの存在が残っていた。
あの存在感と、あの言動と、あの思想。全てに置いて異様だった男の姿は、確実にジェーンの心へ入り込んでいた。
+
----ふ、ふはは。俺は死ぬのかな、死なないのかな、さあどっちだろうか。
そんな風に、ジェーンがもう『死んだ物』だと考えて、別れの言葉を告げているなどとは知りもせず、リドリーは頭の中だけで楽しそうに笑っていた。
声を上げて笑う事は一切、無い。何故なら、それをした途端に自分は死ぬ事が分かっているからだ。彼は、海の中に居た。
Mr.スマイルの様な格好をした物に銃撃されたリドリーはそのままの勢いで海へ落ちたのだ。普通の人間であれば、即死してもおかしくない状況と言えるだろう。
だが、出血と怪我で思う様に体を動かせず、水流で押しつぶされてもおかしくない状況にあっても、リドリーは笑みを浮かべている。
まるで、この死に瀕した状況を娯楽の一種として、物語の一つとして楽しんでいるかのようだ。
----まいったねぇ、彼女は、殺されてしまったかな。
薄れつつある意識の中で、リドリーは自分の命よりもジェーンの事を考えている。
彼にとって、ジェーンは『守るべき対象という役を持つ人間』であり、同時に『敵』でもある存在だ。そう、ジェーンがどこかの、真っ当ではない組織の幹部である事などケビン、いやボスに聞くまでもなく、最初から気づいていたのだ。
本当はそれ自体に気づいたのはもう少し後だったが、それでもジェーンがただの『追われる少女』では無い事など、細かい言動や挙動、そして目の動かし方や雰囲気を見れば想像する事は容易だった。
しかし、リドリーはジェーンの事を攻撃する気には微塵もならなかった。
それは女子供を撃たないという感情から来る物ではなく、『登場人物としてのジェーン』を気に入っていたという、傍から見れば意味の分からない理由から来る物だ。
だからこそ、リドリーはジェーンを励ます真似まで行った。普段なら、そんな事はありえないというのに。恐らくは、『そういう役割を持つ登場人物』として自分を認識していたのだろうが。
----嘘、言ってしまったなぁ
その、励ましの為に話した内容だが、一部分は嘘だった。それを思い出して、リドリーは危険な状況にあってもそれを一切感じさせないまま、暢気に思考する。
両親について話す内容には特に嘘があった。本当は、彼には『生まれつき両親など居なかった』のだ。
本当は、彼の両親は生まれたばかりの頃に殺されていた。彼を育てたのは両親を殺した、映画好きのギャングだった。両親は薬の売人で、そのギャングの支配領域で薬を売った両親はその報復で殺されたらしい。
らしい、というのはそのギャングから聞いた事だからだ。両親は殺せても、生まれたばかりの子供を殺せる程非情では無かった様で、リドリーはそのギャングに拾われた。
そして、そのギャングも他の組織の人間に殺された。原因は知らない、だが、まともな理由では無いのだろうな、とリドリーは思っている。
さらに言うなら、殺され方も嘘だ。惨い死に様ではなく、ただ撃たれただけなのだ。
だが、借りたばかりのビデオテープを投げつけ、ビデオデッキで相手の顔が肉片になるまで殴り付けた事は本当だ。
リドリーという名前がその場の勢いで付けた名前だという事も本当だ。少年はその日、少年ではなくなり、ただの『登場人物』になってしまった。
恐らくは、少年がそうなる事を親代わりのギャングは望んでいないであろう。親を殺した事に責任を感じていた様に見えていた。
そんな男が、少年がリドリーになる事を望む筈がない。だが、リドリーはリドリーになったのだ。
----だから、とは言えないけどねぇ……ジェーンも、何か行動する時は、開き直ってしまった方が良いのさ。
少女の正体をはっきりと知っているリドリーは、だからこそ嘘を吐いた。共感し安くなるように、『親代わりのギャング』を両親に。犯人をギャングから『ストーカー』に。手口を射殺から『凄惨な殺し方』に。
----……両親が殺されただけなら、俺は今みたいにはなってないさ。今となって見れば、あの人に育てられたから今の俺が居るのかねぇ。
彼が『この世界は映画なのかもしれない』と思った理由は『ギャングが両親を殺し、そのギャングが自分を育てる』という状況そのものにあった。
育ての親のギャングは罪悪感と共に、せめて少年を楽しませようと、自分の好きな映画を幾つも見せた。
そこで、リドリーという名前ではなかった少年は『自分の立場はまるで映画の主人公だ』という想像を、自分の中だけで膨らませていったのだ。
そして、どんどん膨らんでいったその想像は、ギャングが死んだ事で爆発する事になった。
彼にとっての不幸と幸福は、子供の想像と一蹴出来るその感情をずっと持ち続ける程に純真な少年だった事と、その想像を現実に、超人的なアクション映画の主人公を越えられる程の殺しの才能を持ってしまった事だろう。
ギャングが居なくなった後も、リドリーと名乗る『何か』は映画を見続けた。映画という創作物を好む人間としてではなく、『映画好きという要素を持つ登場人物』として。
そして、彼は自分が所属したくなる組織に拾われ、その一員となったのだ。映画か漫画かと言いたくなるような経歴を持つボスと、明らかに人間とは思えない幹部が居るその組織に。
----とはいえ、それは俺が不死身って意味にはならないんだけどな……途中で死ぬ主人公……いや、だとすればこの話に主人公など、居ないのか?
自分が吐いた嘘の内容など、リドリーは気にしていない。ジェーンに嘘を吐いた事には若干の思う所があっても、それは無い。
水中で物を考えながら、リドリーは船に付いていく。
何も泳いで追従するという人外の技を披露している必要は無い、船の側面にある僅かな凹凸があれば、そこにしがみついて行く事などリドリーにとっては簡単な事だ。勿論、これも人類には限りなく不可能に近い行為であろう。
船の推進力による水流が、リドリーの体に突き刺さる。だが、リドリーは平気そうだ。まさしく人間とは思えない肉体の持ち主と言える。
----主人公が居ない、か。だがそれにしても……息が辛いねぇ。
妄言を頭の中で浮かべつつも、リドリーは自分の命が危機に瀕している事を自覚している。
海に入り、船に張り付いているのだから当然の事ながら呼吸は出来ない。その上体からは出血が止まらず、塩水に晒された傷口からは凄まじい痛みが走っているのだ。
凹凸に捕まる力も、長く続きそうではない。怪我と出血は行動を制限し、意識を制限し、リドリーの命を徐々に削っていく。
----ああ、もしかして……
----俺、死ぬ?
リドリーは自分が死ぬ事を自覚する。心の中にも顔にも恐怖や動揺は見当たらない。まるで、『自分の役を演じ終えた役者の安心した表情』の様な、柔らかい笑顔を浮かべている。
----ま、良いか。ここで死ぬなら、それまでだろう。
自分が死ぬ、という普通なら避けたいと思うであろう状況を、リドリーはあっさりと受け入れて見せた。まるで、死など彼にとっては大した事ではない。そう言いたげだ。
呼吸が苦しくなっていく。時折水面に顔を出しているが、その度に水流で体が潰れそうな気分を味わっているのだ。通常の人間、いや、通常ではない人間であっても、この状況をリドリー程に続ける事は不可能だろう。
そんな人外染みた行動で己の命を守りながらも、リドリーの顔には命への執着は全く感じられなかった。死への恐怖を乗り越えた訳ではなく、麻痺しているのでも無い。ただ、自分の命を気に留める様子はない。
なら、なら何故船にしがみつき、延命しようとしているのか。誰でもそんな疑問を持つだろうが、リドリーの思考は簡単な物だ。
----ここで何とか生き残れるなら、俺はアクション映画主人公の適正があるって事だ。さて、俺は生きるか死ぬか……それが問題か。
自分がどんな立ち位置に居るのかを調べる。ただ、それだけの為に彼は生き続けているのだ。まさしく常識の外側に立ち、世の通念に影響されない強烈な自己を有している、と言えるだろう。
そうしている間にも、リドリーが体に入れる事が出来る力はどんどん減っていく。出血と怪我と疲労が、彼の意識を朦朧とした物に変えていく。
----……ああ、これは……ダメかねぇ……諦めずに……登ってみるか? いや、流石に……無理か。
ぼんやりと上を眺め、そんな事を考える。船の甲板や窓まで行く事が出来れば、この状況から脱出出来るのだ。だが、今のリドリーには体力が無い。
特に片方の脚と手が怪我による悪影響を受けている為に、船の側面を蹴り上げて登るという凄まじい身体能力を生かした行いも不可能だ。
つまり、リドリーは自分が生き残る可能性がごく僅かである事を自覚していたのである。
----ここまでの、器かねぇ。
心の中で軽く自分の命を諦めたリドリーは苦笑する。次の瞬間にはもう、ぼんやりとした思考も消えかかっていた。
溺れ死ぬのが早いか、スクリューに巻き込まれてバラバラになるか、どちらになるか。死体は魚の餌か、プランクトンの餌か、はたまた海岸に打ち上げられて、サイコスリラーか何かの撮影に紛れ込んだりしてしまうのか。リドリーの興味は既にそこへ移っていた。
出来れば、超低予算映画の撮影現場にひっそり打ち上げられて、その作品を伝説の一本に仕立てあげてみたい。
そんな事を考えつつ、リドリーは苦笑したままで船に掴まっていた手を放し----




