10話
銃声が鳴り響いたと同時に、扉が吹き飛んで『兵隊』の男へ叩き付けられた。
突然飛んできた扉に、男は何の抵抗も出来ずに吹き飛ばされる。そのまま体が潰れる程の衝撃と共に壁に追突し、数秒間だけ痙攣したかと思うとそのまま動かなくなった。
「……え?」
唐突に自分を殴り銃を向けた男が唐突に死んだ事に、ジェーンは呆けた様な声を上げる。どうやら、幸運が彼女を助けた様だ。
その中で何かが起きたのだと悟ったジェーンは体を震わせ、痛みに眉を顰めながら這って扉の向こう側を覗き込もうとする。
少女の顔が扉の数ミリ前まで近づく。その瞬間、部屋の中から二人の人間が飛び出して、少女の鼻先を掠った。
片や、人生を心から楽しんでいる笑みを浮かべたどこか演技の色が目立つ男。片や、歪みきった笑顔の仮面を付け、古めかしいコートを着た怪物の様な、男か女かもよく分からない者だ。
「お前に俺が殺せるかな? 撃てるなら、撃って欲しいねぇ!」
「言われなくとも!」
二人は銃を構えると、ほとんど目の前で躊躇無く引き金を引く。だが、それと同時に首を動かす事で銃弾を寸前で避けてみせる。
凄まじい動きだ、しかし、ジェーンは大して驚かない。動きの素早さや見事さ、何より異常さでは先程見た女の方が上なのだ。いい加減、見慣れている。
だが、その変わりにジェーンは話で聞いた事のある格好の存在を凝視していた。
一瞬の動きで互いは距離を取り、少し離れた場所で睨み合った。ジェーンの側には、聞き覚えのある歪んだ笑顔の仮面を付けた者が立っていた。
「お、前……! お前はぁ……!」
抑え難い声と共に、ジェーンは凄まじい勢いで憎悪の炎を燃え上がらせる。その心の中は焚き火にガソリンをまき散らした様な惨状になっていた。
強烈な殺気と憎悪と体の痛みが伴う憤怒がジェーンの体からまき散らされ、周囲の気温を一気に下げる。
「殺す! 殺して殺る! 殺すぅ!」
「え、えっと。落ち着いた方がいいと思うんだけどね?」
凶悪な雰囲気を放つその姿を見たリドリーは困惑した様な顔になるも、ジェーンがそれに反応する様子はない。
痛みで震えながら、ジェーンは恐ろしい程暗い大声を上げている。客観的に見れば、その威圧感と雰囲気はこの船に乗っている誰もが圧倒される程の力を感じる事が出来た。
だが、笑顔の仮面を付けたMr.スマイルの反応は----苦笑だった。
物理的には何もないというのに感じられる、体を動かす事すら許さない圧倒的な威圧感を以ても、Mr.スマイルはその程度の反応しかしなかったのだ。
あまりにも凄まじい意志の力で自分を睨んでくるその姿に、何か気づく所があったのだろう。Mr.スマイルは一度思い出した様に頷いていた。
「そうか、お前は……」
何やら感慨深そうな声音で、Mr.スマイルは呟いている。正面からジェーンの殺気を受けているのだからかなりの重圧を感じてもおかしくは無いのだが、特にそれを悪い者として扱っていないのか、Mr.スマイルの声には余裕が見て取れる。
右足を震わせながら、ジェーンが袖の仕込み銃を取り出そうとする。が、痛みで体がうまく動かせず、銃は一向に現れる事はない。
それが分かっているのだろう。Mr.スマイルは少女の姿をじっと見つめ、再び苦笑する。仮面で顔は隠れていたが、明らかに苦笑だと分かる物だ。
「残念だ。殺し損ねた一人を除いて全員殺し尽くしたつもりだったというのに、まだ残っていたのか」
そんな表情になりながらも、Mr.スマイルは心から残念そうにそう言ってのける。
一瞬、ジェーンの顔は言葉を理解できないとばかりに疑問を浮かべていたが、その内容を理解した途端に凄まじい形相で憤怒と憎悪を見せつけた。
「うあ、あぁああ!! 殺してやる、ぶち殺してやるっ!」
声と同時にジェーンの服の袖から銃が現れ、何のためらいも無く引き金が引かれ、銃声が響く。ジェーンの持っていた銃からの銃弾は吸い込まれる様に真っ直ぐにMr.スマイルへ向かっていった。
しかし、Mr.スマイルの肌に銃弾は届かない。コートが、銃弾を阻んだのだ。恐ろしく頑丈なそのコートが何で出来ているのかは謎だが、銃弾が通らないというその一点のみが現実だ。
「あぁぁぁぁぁ!! その服を脱げ! 撃たせろ! 私に、おまえを、殺させろ!」
銃弾が通らなかった事になど驚きもせず、ジェーンは再び燃え上がる憎悪に任せて声を発する。本人の物とは違う、低い声だ。
声音まで別な物になってしまったジェーンは、まったく揺るがない感情の動きと共に銃の引き金を引く。
もちろん、全ての銃弾はそのトレンチコートを貫通する事は出来ない。だがそれでもジェーンは引き金を引き続けた。
だが、やがて銃弾が尽きる時は来る。ジェーンが十数回引き金を引いた時、それは起きた。それ以降は何度引き金を引いても、銃弾が出る事は無かったのだ。
混乱と怒りと憎悪で冷静な判断が出来なくなっているジェーンは、それでも引き金を引き続ける。もしかすると、銃弾が出ていない事に気づいていないのかもしれない。
必死の形相でこちらを見つめてひたすら指を動かすその姿を、Mr.スマイルは面白がる様に見つめていた。
「……! ぅぁ、うぅうううぅう゛ぁ!」
そこでようやく気づいたのだろう。ジェーンは持っていた銃をMr.スマイルへ投げつけ、喉の奥が地獄の底に繋がっているかのような呻きと叫びをあげた。
だがそれも長くは続かず、息が切れてジェーンは荒く呼吸をする。
「……ふむ、終わりかな?」
「お前がな」
Mr.スマイルが愉快そうな声でジェーンを馬鹿にした様な声をかける。そして答えは隣から、拳と共にやって来た。
凶悪な程の拳がMr.スマイルにの仮面に突き刺さり、何の抵抗も無く吹き飛ばす。
「かなり痛いねぇ、やっぱりその仮面、頑丈に出来てる」
その拳を放ったリドリーはジェーンの隣に立ち、腕を軽く振りながら声をかけた。彼が殴った仮面は銃弾すら通さない頑丈な物だ。それを全力で殴り付けたのだから、当然、拳は痛むだろう。
相当の痛みだというのにリドリーの声は軽々しくて、大した痛みを感じさせない。
「邪魔、なんだよ……! 退、いて、退いて、退けぇ!」
その姿を視界に入れつつも、ジェーンはリドリーが邪魔だとばかりに憎悪の炎を差し向ける。だがリドリーは涼しい顔を浮かべて見せた。
「退いたって、どうするんだ?」
「……ぶっ殺してやる!」
「その、足で?」
壁に吹き飛ばされて動かないMr.スマイルを眺めつつも、リドリーは軽い調子でジェーンの右足に触る。すると、ジェーンの口から軽い悲鳴が響いた。
そう、ジェーンの右足は銃弾で打ち抜かれていたのだ。這う様な動きしか出来なかった原因がこれだ。
足を震わせるジェーンは、しかしそれを気にした様子は無い。その目はMr.スマイルに向けられていて、それ以外は後回しにされているらしい。
「……ははっ。随分と、怖い子供じゃないか」
強烈な殺気を向けられたMr.スマイルは静かに立ち上がり、笑い声を上げる。そこには殺気を浴びせられた事への感情はどこにも無く、ただ何かを嘲笑する色だけが見られる。
仮面には、傷一つ無い。大した損傷でも無かった様だ。頭も無事だったらしく声にも問題は見られない。
「……」
黙ったまま、歯が折れるのでは無いかと思える程の力でジェーンが歯を食いしばる。力が強すぎて歯茎から血が溢れていたが、気にも止めていない。
その血が口を伝い始めた時、リドリーはジェーンを庇う様な位置に立っていた。
じっと、Mr.スマイルとリドリーは見つめ合う。
----これは……危ないかねぇ
頭の中で、リドリーが自身の危機を実感して溜息を吐いていた。隣で倒れているジェーンは足を撃たれ、腹部を殴られたのか顔が青い。そしてリドリーもまた片腕の動きが鈍く、女との戦いで疲労しているのだ。
Mr.スマイル自身は先程の女くらい強い訳ではない。リドリーが万全なら、恐らくはリドリーの方が強いだろう。
だが、現状ではMr.スマイルとの戦いは危険なのだ。
「……どうするかねぇ」
迷いが感じられる声で、リドリーは呟く。だが実の所、この時にはどうするかを既に決めていたのだが。
銃を構えて、リドリーは軽く息を吐いた。その顔は真剣そのもので、Mr.スマイルに警戒されるには十分だった様だ。
その反応を待っていたとばかりにリドリーは引き金を一度だけ引き、銃声が鳴り響くと同時に----ジェーンを抱えて、走り出した。
Mr.スマイルはそれを認識すると同時に追撃しようと動くも、やって来た銃弾は動きを防ぐ位置を的確過ぎる程性格に狙っていて、身を守る事を優先した為に動きを止める。
その間に、二人は彼らの視界から消えていた。
「なっ……放して! あいつ、あいつ許せない! 私が復讐してやるんだ! 放してぇ!」
「はっはは! 今は逃げさ! 後でまた殴ってやるから、安心してくれ!」
じたばたと、両手と左足を動かしてジェーンはリドリーの腕から離れようとする。が、リドリーの力は強く、ジェーンの細腕では揺るがせる事も出来なかった。
+
「……エドワース、どこだ?」
一つ一つの部屋を開き、その中の様子を確認しながらケビンが声を漏らしていた。
周囲には生きている人間も居なければ人間だった物も無い。幾つかの銃弾の痕跡がある事を除けばその場は平穏そのものだ。
だがケビンの顔は臨戦態勢で、何時、どんな者が来ても対応出来る様に銃は構えられている。
彼はあの部屋の惨状を見てからずっと部下の一人であるエドワースを探していた。それも羽虫の羽音にすら気づきかねない程の必死さで、だ。
それ程にケビンが必死でエドワースを探す原因はエドワースの居る筈だった部屋が血みどろになっていた事を考えれば明らかだろう。
ケビンは並の人間が受ければ自然を膝を折ってしまいそうな程に強烈な苛立ちをまき散らして、そのまま進む。
その間に開いた扉の向こうに時折『機械』達が存在したが、ケビンは相手の行動の変化になど目を遣る事も無く、相手が銃を構えた瞬間にあっさりと彼らを撃ち殺していった。
今の所、ケビンはエドワース自身もエドワースが居たという痕跡も見つける事は出来ていない。が、それはケビンの探索力が低いという訳ではないのだ。
そうしている間にもケビンは微かな音を察知して、音がした方向へ向かっていく。それはジェーンがMr.スマイルに対して銃を乱射した音だ。
勿論、ケビンはそれを知らない。だが、それが銃声だと言う事だけは分かっている。そして、銃声がする方向こそ、彼が探している場所なのだ。
「……誰だ?」
唐突に、ケビンは足を止めた。彼の視界に入る位置には誰も居ないのだがケビンはまるで何者かの姿が見えているかの様に正確に、通路の角を見つめている。
警戒する様な口調だというのに銃が構えられていない事を考慮すると、今はケビンと呼ぶ男には隠れる者が誰なのかも分かっているのかもしれない。
ケビンの声がかかった場所からはまだ誰かが現れる気配は無い。ただ、ケビンはじっとその場所を見つめ続けていた。
「隠れるなよ。さっきから、俺を追っていたんだろう?」
数十秒経っても誰も姿を現さなかった為に今度はより詳しく、通路の角に居る存在に気づいていた事を言葉に表す。
声がその場所まで届くと、ケビンにしか分からないくらいにその場の雰囲気が変わった。見つかっていたと慌てる物と、冷静になれと促す物だ。どうやら、隠れているのは二人の様だ。
そこで、ケビンはそこに隠れている二人の正体に気づいた。
「プランクと、スコットだったか?」
今度はもっとはっきりとした反応が帰ってきた。特に、呆れた様な溜息ははっきりとケビンの耳に届いている。
「おや、こんにちは。ケビン・スペイシーさんでしたか?」
「ケビン・ミラーさんですよ、プランクさん」
その溜息のすぐ後で、二人の男が通路の隅から姿を現した。彼らの名前は思った通りで、姿も見覚えがあるプランクとスコットだ。
二人の男は全く違う雰囲気を放っていて、プランクは特に呆れが、スコットは喜びが強い様に思える。
どちらにせよケビンに対して敵意をぶつける事は無い様だ。それが分かったケビンは口元を釣り上げ、いつでも撃てる様にと準備していた銃を降ろす。
「二人とも無事だったんだな、ああ、そっちの仲間はどうなった?」
銃を降ろすと、言葉と同時に片腕を差し出す。その仕草の意味に気づいたプランクは同じ様に銃を降ろし、相手が出した方とは逆の腕を差し出して、握手を交わした。
互いに、相手へ危害を加えようとする様子は微塵も無い。
「かなりの人数を殺られました。どうにも面倒な連中ですよ」
ほんの少しの苛立ちと共に返事をしたプランクは、握手を続けながらも相手の姿を観察する事を忘れてはいない。そんな、隠しているとはいえ無遠慮な視線を受けながらもケビンが不快そうな顔をする雰囲気は一切無かった。
二人が銃を向け合う気配が無い事を理解したスコットが、隣で嬉しそうな安堵の息を吐いている。
「限界まで気配を殺していたつもりだったんですが、見つかってしまいましたね」
「音だよ」
「音?」
「ああ、音だ。その気になれば、自分の物じゃない足音くらい聞き分けられるさ」
自分の耳を何度か軽く叩いて、不敵な笑みを浮かべてみせる。嘘を言っているのでなければケビンは少し離れた場所から聞こえて来る微かな足音を聞き分けたらしい。
かなり耳が良くなければ出来ない事だが、カナエに映像だけで見た二丁拳銃の男に目の前のケビンと、いい加減に慣れている二人は全く驚かなかった。
その反応は予想出来ていたのか、はたまた大した反応を初めから期待していなかったのか、ケビンは特に不満そうな様子も見せない。
「そうだ。連中の行動のパターンがどうにも変化した様ですが、気づいていましたか?」
思い出した様に、プランクが声をかける。
明確に誰とは言わなかったが、それは正確にケビンへ伝わった様だ。それを聞いたケビンは目を丸くして、たった今知ったと驚いた顔になる。
「……いや、俺は気づいていなかったな。何だ、連中の動き、変わったのか?」
「ええ、殺さない方向で動いている様です。それに、誰かを捜している様で」
後半は、プランクの予想だった。画面の向こう側に居た『機械』達の動きは一見、皆殺しを止めたという一点を除いては何も変わっていない様に見える。
だが、注意深く見ていれば分かるのだ。彼らが、何者かを捜しているという事に。それが何なのかまでは、分からないにせよ。
「探している? ……ああ、成る程な」
それを聞いたケビンはほんの少しの間考え込む様子を見せて、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。表情の変化も本当に微かで、じっと顔を見つめていなければ気づかない程度の物だ。プランクにすら気づかせない程だ。
そう、じっとケビンの顔へ憧れの視線を向けていたスコットは、だからこそそれに気づく事が出来た。
「あの、何か、知っているんですか?」
「いいや、知らないな」
思ってもみない相手に自身の感情が見抜かれた事へケビンは少し驚きを覚えたが、微かにも表情に出す様子は無い。
今度はスコットも気づかなかったのか、返事に対して納得した様子で頷いていた。当然、プランクもその表情から何かを見抜く事は出来なかった。
「ああ、そうだ。こっちからも質問させてくれ」
相手の声に答えたケビンは、ほんの少しだけ探りを入れる様な声音で二人へ声をかけ、やはり少しだけ相手の顔を見通す雰囲気を漂わせて、声を上げる。
それに気づいた二人は、少しだけ顔を見合わせ、一体何を言われるのかと疑問符を浮かべた。目の前のケビンと名乗る男の正体は既に知っているが、彼に関わる事で分かる事は殆ど無いのだ。
二人の様子が変わった事を確認したケビンは、自然な口調で探りを入れた。
「俺の仲間で、エドワースって言うんだが……見てないか?」
その言葉を聞いた瞬間、今度こそプランクとスコットは思い切り顔を見合わせた。厳密には、スコットが目を丸くしてプランクを見て、それをプランクが返したのだが、それでも顔を見合わせている。
思った以上にはっきりとした反応にケビンの方が逆に驚いた。が、すぐに何かに思い至った顔になって、二人の様子を観察する事に戻る。
「エドワース、ですか」
「そいつって……」
プランクはその内心を悟らせない張り付いた様な笑みが防いだが、スコットの声の中には間違いなく本心から来る驚きが見て取れた。
二人は、そのエドワースという名前をはっきりと知っている。スコットに至ってはその人物と会い、話した事すらあるのだ。
----となると、エドワースという男は……成る程、スパイ。
驚くスコットの隣でプランクは考えていた。先日、Mr.スマイルが最初に現れた場に居た三人の下っ端の内、二人がスパイだったのだ。
そう判断した理由は簡単だ、ケビンの正体を知っているからである。
「エドワース、という名前は聞いた事がありますが……生憎、船内では見ていませんね」
考えながらもプランクは返事をする事を忘れていない。喋った事も全て事実だ。
だろうな、と言いたげな顔でケビンは頷く。恐らくは、ケビンもプランクが何者なのかに気づいているのだろう。微かな警戒は見て取れるが、『敵』とは扱っていない様に見える。
「……?」
スコットはその姿に疑問を覚えていた。
ケビンの小さな組織は彼らの支配域で薬の取引をしたホルムス・ファミリーと敵対していた筈で、その繋がりでプランク達も敵だと見られているとばかり考えていたのだが、勘違いだったらしい。
そんなスコットの視線に気づいたケビンが軽く手を振って、苦笑して見せた。
「俺は、気が合う奴と殺し合いをする趣味は無いさ。それに、あそこと敵対したのはまあ……色々、な」
言葉を濁しつつも、声の中にははっきりとした真実が含まれている。
その内容はケビンが彼らの正体に気づいているという確固たる証になったが、本人があまり気にした様子は見られなかった。
「ま、それはいいさ。俺はエドワースを探していてな、見つけたら……残念ながら連絡出来ないな」
肩を竦めつつも軽い調子で話すケビンには、もう二人を探る様な姿も見られない。
極限まで隠していれば気づかない可能性もあるが、プランク達は何故かケビンがそれをしていないという直感があった。
「じゃあ、俺は他の場所を探させてもらうぞ」
言いながら、ケビンはその場から去っていこうと歩み始める。その横顔からはどこか不安そうな色が見えた気がしたが、ほんの一瞬の事で二人は気づかない。
「そうだ、そっちは何処へ行くつもりだ?」
歩み始めてから数歩した辺りでケビンは足を止め、軽い調子で質問をする。今度は探る色どころか、警戒している様子すらない。ただし、背中を向けていても隙が窺えないのは流石と言えるだろう。
どうやら単に、聞きたかっただけの質問の様だ。そう判断したプランクは本当の事を言う事を即座に決めて、珍しく朗らかな笑みをケビンの背中へ向けた。
「色々あって、甲板へ出ようと思いまして」
「……そうか。ま、お互い、生きて帰れる様に頑張ろうかね」
答えを聞いたケビンは少しの間だけ驚いた様に口を噤んでいたが、プランクと同じ様な朗らかな声音と共に軽く手を振って、何処かへ歩いていった。
+
同じ頃に二人の男が別々の表情で歩みを進めている。二人は一言も発する事無く、また顔を合わせる事も無い。
それはこの二人が特に関係を持っていない、殆ど他人である事を表している。では何故、この二人は共にどこかへ歩いていくのだろうか。答えは簡単だ。
「あの……本当、ですか?」
二人の内、片方の男が足を止めて少し遠慮がちに声を上げる。口調は外見とは全く合わない物で、どうにも違和感を覚えさせる物だ。
「ああ、本当だ。全存在を賭けても良い」
印象とは一切違う声で話している相手である男はそんな姿に対しては何の感情も表す事無く頷いてみせる。
しかし、もしも何か表情に変化があったとしても気づく事は出来なかっただろう。男の帽子は目深に被られていて口元しか窺えず、手に持ったルービックキューブが何やら目を引いて、男の動きから目を逸らす役割を果たしていた。
そんな男をじっと見つめ、男、コルムは何とか自分を納得させた様だ。しかし何か、恐ろしい想像をしているのか、顔はどことなく青い。
「……嘘だったら、俺は俺の組織のボスにぶっ殺されます」
頭の中にはプランクが自分へ銃を向け、張り付いた様な笑みを浮かべて引き金を引いている光景が広がっている。
ついでにスコットが自分を羽交い締めにして、カナエが押さえつけられた自分の喉にもう一つの口を作る姿まで思い浮かんだらしく、コルムは嫌そうな顔をする。
「さっき話しただろう、分かってる。骨は拾って……悪いな、拾えない」
先を歩く男はコルムへ心の底から哀れむ様な声をかけてくる。
コルムは男を睨みつける。
だが、恐怖を覚える様に見えるその姿には殆ど迫力が無い。男の反応は殆ど視認する事は出来ないが、どこか嘲笑している様にも思える物だ。
怒りがこみ上げてくるが、それ以上に思わず溜息が漏れている様だ。どうも、カナエに斬られた時からのコルムは普段よりもずっと臆病に見える。
その時の傷は今でも残っていて稀に痛みを感じる事もあるとは言え、怖がりすぎている。そう感じたのか、コルムは、自嘲に見える笑みを浮かべる。
急に苦笑したコルムを、男がどうでも良さそうに眺めていた。その中にほんの僅かだが変な物を見る様な色があるのは、気のせいではないのだろう。
「……」
「どうしたんだ? 何を恐れている?」
黙り込んだコルムに、男が軽く声をかけてくる。しかし、コルムには声が聞こえていない様で、返事は無い。
だが特に気にした様子も無く、男は先へ進んでいく。一瞬、付いてこないのではないかと男は背後を見たが、コルムの足は勝手に動いている。
肩を落としたまま付いてくるコルムの姿は何やら不安になる物だ。が、男には関係がない、付いてくるのなら文句など無いと先へ進む。
しかし、背後から聞こえてきた大きな溜息が余りにも気になって、男は面倒そうに声を上げた。
「……本当に大丈夫なのか?」
「あ、いいや、何も。大丈夫だ、俺は平気だ」
声にやっと気づいたのか、コルムは軽く顔を上げて元気のない様に聞こえる声を返す。どう見ても平気には見えない物だが、コルムはひたすら自分の無事を訴えてくる。
それを聞いた男はそうかと頷いて歩みを再開した。元々、大して心配していなかったのだ。付いてくるのであれば何も問題は無いだろう。
そんな事を考えながらも男はルービックキューブを手で弄んでいた。一つの面すら揃わないのは、もしかすると意識して揃わない様に動かしているのかもしれない。
ぼんやりと眺めながら、コルムはそんな感想を抱いていた。
コルムの顔色は先程より良い。男の言葉は面倒臭そうな意志が明らかな物だったが、多少元気付ける程度の力はあった様だ。
男へ付いていくコルムは周囲の風景に一切気を配る事が無い。頭の中には、その男の話した内容が何度も反芻されている。
コルムは、倉庫に居た男に『薬』の場所を教えてしまった。それは男の話を信じた事による行動だったが、それは余りにも軽率だ。少なくとも、プランクへ話をしてから行うべきだろう。
軽く、溜息を吐いた。
「付いたぞ」
同時に前方の男から声が響いて来る。そこでようやく気づいたかの様に、コルムは周囲を見回す。そこは壁や扉ではなく、視界一面に海が広がっていた。
船の先端まで来ていたのだ。陽光で輝く青い海が存在感を放っていて、美しい。しかし、コルムはその事に気を払わなかった。
周囲を見回して、何者かを探していたのだ。やがてその場に二人以外に誰も存在しない事を理解すると、冷や汗を浮かべて男へ顔を向ける。
「お、おい。居ないぞ? まさか、嘘か?」
男に言われていた『ある人物』がその場に居ない事に気づいたコルムが必死の形相で肩を掴み、泣きそうな顔をする。涙こそ流れてはいなかったが、今にも崩れ落ちてしまう様な姿だ。
「……違う」
肩を掴まれた男は鬱陶しそうにその手を払い除け、距離を取る。声そのものは面倒そうな色が見て取れたが、その表情は真剣な物だ。
目だけで男が周囲の様子を窺う。男の感覚からしても、甲板の上に人気は無かった様だ。軽く溜息を吐いて、肩を落とす。
が、すぐにコルムの方へ目を向け、隠れていない口元が苦笑して見せる。
「俺が言った事には一分の嘘も無い。信じろ。だが……何だろうな、何かトラブルがあったらしい」
「トラブル……おいおい、どうするんだ……?」
途方に暮れる様な声でコルムは喋る。話通りなら、この場には男の言う通りの存在が居る筈だったのだ。しかし、その場には誰もいない。コルムはここまで歩いて来た。が、この場には誰もいない。
思わず頭を抱えて、その場に座り込む。どうすれば良いのか分からず、コルムは混乱している様だ。そんな風にコルムを認識しつつ、男はルービックキューブを凄まじい速度で動かしていた。
それでも一面すら、一瞬たりとも揃う気配は無い。目はずっと上を見ていて、ルービックキューブへ視線が行く事は無い。
「……で、あんたはどうするんだ? トラブルが起きた事は分かったけどよ……」
どうやら相手もこの状況は予想外だった様だ。それが分かると、コルムは少し落ち着いた様に見える。それでも状況は変わらないのだが、全てにおいて混乱されるよりはまだ良い。
「……ああよし。分かったよ、少し、行ってくる」
そんな事を考えて、ルービックキューブを動かし続けた男は唐突にその動きを止めて身を翻し、今まで来た道へ戻っていく。
「おい、待ってくれ。俺も行くよ」
どうやら、この場に居る筈だった人物を探しに行くつもりの様だ。それを察したコルムは立ち上がり、男へ近づいていく。今でも、あの中毒者達はコルムを襲う危険があるのだ。その場で一人、待つのは危険が過ぎるだろう。
だが、男はコルムの言葉が聞こえたかと思うとすぐに振り返り、冷たい声をかけて来た。
「いいや、待っていろ」
言葉に対してコルムが目を見開き、足を止める。それを確認した男が去っていこうとする中で、ようやくコルムはハッとした顔になり、もう一度追いつこうと足を一歩踏み出した。
すると、一歩と同時に次の二歩目が付くはずだった場所が、銃声と共に穴を開けられた。慌てて、コルムは足を引っ込める。
「な、何を……!」
コルムは男へ抗議しようとしたのか口を開くが、男は銃を握っていない。ただ、歩いているだけだ。
銃の主は男ではない事を悟ったコルムが銃声の方向をよく見ると視界の奥にある位置に人間が潜んでいるのが見えた。
「……あれか、あいつが撃ったのか」
その場から見ても分かる虚ろな目は、その存在が『中毒者』である事を表していた。いつの間にか付いてきたらしく、その場から二人が姿を現してくる。
二人共銃を握っていて、コルムに視線を送って来ていた。不気味な目だが、すっかり慣れてしまったコルムは大した動揺を覚える事は無い。
むしろ、カナエよりもずっと虚ろさが『人工的』なだけ、まだ安心出きる程だ。勿論、銃はそれとは関係無く安心できないのだが。
コルムが完全に足を止めた事を確認すると、男は先程よりも早足で歩いていく。
「ここで待ってろ、待ってないと……」
男はコルムの所まで響く言葉を告げて、船内へと入っていく。言葉の続きは無かったが、『待っていないと』何が起きるかは明白だ。
何せ、銃を構えた二人の『中毒者』が虚ろな目をコルムへ向けているのだから。
「……」
刺激を与えない様に、まるで爆弾でも扱う様な動きでコルムは少しずつ後ずさりし、甲板の手すりに背中が当たってやっと動きを止める。
虚ろな目をした二人は瞬きもする事無くコルムを見つめ続けていた。まるで機械だ、一瞬も、コルムから目を離していない。近くに障害物になりそうな物は無く、逃げる事は困難だろう。
「……クソッ」
この状況への思いを込めた様な声で、コルムは悪態を吐いた。
+
「やっぱり強烈ですよね、あの人。友好的で居てくれるからまだしも、敵対すれば……ああ、考えたくない」
少し前に消えていった背中がまだそこにあるかの様に眺めながら、スコットが独り言を呟いていた。隣にはプランクが立っていて、変わらない張り付いた様な笑顔を浮かべている。
「多分、大丈夫ですよ。そういう意味ではああいう手合いは安心出来る」
落ち着き払った様子のプランクは既にケビンが去っていった方から背を向けていて、懐から何かを探っている様だ。何を考えているのは、スコットには分かった。
彼らはそこから一歩も動いていない。内心では行動に迷いが生じていたのだ。
そう、それまでプランクとスコットは船の先端に出るつもりだったのだが、ケビンからの話を聞いて行動を変えるべきなのかもしれないと思っていた。特に、『エドワース』という名前への反応は強烈だ。
この船の中で行方不明となれば恐らくは生きていないだろうと思われたが、それでも二人は気になっていた。
「……よし、命の借りは返しておきましょう」
言葉と同時に、プランクは懐から探していた物を見つけてそれを取り出す。通信機だ。船長の居る部屋に通じていて、その部屋から出る前に回収しておいた物だ。
何かの役に立つかと入れておいた様だが、どうやらこのタイミングで使う様だ。そして、用途は誰もが分かるだろうが----人探しだ。
「船長に連絡して、エドワースという男を探してもらいましょう。スコット、確か顔を知ってましたよね?」
「はい。でも、さっき、画面を見ていた時は……」
確認する為に視線を向けられたスコットは大きく頷いたが、同時に不安そうな顔を見せている。言葉の通り、彼はずっと監視カメラの映像を見ていたのだ。
勿論、エドワースの顔を知っているスコットがその姿を確認すれば、すぐに気づく。が、その姿は一度も確認出来なかった。
更に、カメラの大半は壊れていて見る事が出来ない事もあって、スコットは一人の人間を特別に探す事は難しいと考えていたのだ。
「きちんと借りは返して恩は売るべきです。とりあえずやりましょう」
そしてプランクも考慮には入れていた。だが、行動する価値はあると考えている。
ケビンは「『行動した』という事実さえ知っていれば借しに数える」類の相手だ。それは頭の良い立ち回りとは言えないが、プランクは好意的な印象を受けていた。
「それに……どうにも気になります、いえ、エドワースとかいう男の事は別として……あのケビンという方。何か隠している様です」
ただし、その印象とは別にプランクはケビンから『何か』を感じていた。表情や雰囲気は完璧に隠されている、プランク自身もそこから見抜く事は出来ない。
だが、『何も見抜けない』という事が逆に『何かを隠している』という様に見えたのだ。それがケビンの出自や、組織とはまた別の隠し事だと、プランクの中の勘が囁いている。
どうしても、気になっていたのだ。
「とりあえず、船長に連絡してカメラをもう一度見て貰いましょう。何か見つかるかもしれませんよ?」
通信機を持ったプランクは軽い調子で電源を入れて、苦笑する。あまり期待していない様に見えた。
スコットはその姿を眺めながら、周囲の様子を窺っている。嫌に静かだ、『機械』達の動きが変わった為か、派手な騒ぎは起きていない様に思える。
と、その時、近くに何かが海の中に落ちた様な音が響いた気がして、思わずその方向へ顔を向ける。だが、そこには誰も居ない。
「船長? 今からスコットが言う男が画面に居ないか……後、カナエがどこかに居ないか調べてもらえますか?」
同じ様に水音を聞いたプランクはほんの一瞬だけそちらへ目を向け、言葉を付け足す。どうやら、プランクは今の水音がカナエによる物ではないかと思っている様だ。
海の中へ落ちたのであれば、特に船の側であればほぼ確実に生きてはいないだろう。もしかすると心配しているのかもしれない、そうスコットは考えたが、プランクの顔色は変わらず、張り付いた様な笑顔だった。
だが、その表情はたった今変化した。
「……船長?」
通信機を持ったまま、プランクが体を硬直させた。表情は眉を顰め、不審そうにしている。
その姿に、スコットは圧倒的な嫌な予感を覚えた。声音で理解できたのだ。通信機の向こうから何が聞こえたのかを。
黙り込んだまま持っている通信機を降ろし、プランクはじっと通信機を見つめる。
「……やられましたね」
そっと通信機をスコットの腕に置いて、プランクは大きく溜息を吐いた。
『ケビン・スペイシーさんでしたか?』 俳優『ケヴィン・スペイシー』から。『ユージュアル・サスペクツ』『私が愛したギャングスター』『LAコンフィデンシャル』『ライフ・オブ・デビット・ゲイル』『セブン』くらいしか見ていませんが、好きな俳優さんです。




