7話
「……」
「……」
下の階で起きている事など気づく事も無く、二人の男が互いに銃を向け合い、睨みあっていた。
片や軽機関銃、片や拳銃。それだけを見るなら相手の有利と不利はすぐに判断出来るだろう。だが、そうではないのだ。軽機関銃を持っている方が、不利なのである。
それは何故か。分かりきった事だ、拳銃を持っている方の男が、桁外れに強い。
「……どうするんだ?」
銃口を向け合ったまま、拳銃を持った方の男が声をかける。決して軽くは無いが、緊張感も見せないその姿は機関銃を向けられている様には思えない。
「……どうするって、どういう事だ?」
銃口を向け合ったまま、機関銃を持った方の男が返事をする。声音は重苦しく、緊張感に満ち溢れたその姿は武器を持たずに撃ち殺されそうになっている様に思えた。
「お互い、相打ちになるのは避けたいだろ。どうする? 俺の方が、多分、早いぞ」
男が何を言わんとしているかは、男、パトリックにもすぐ分かった。
もしも、自分が引き金に微かな力でも入れれば、引き金が引かれるよりも早く拳銃が銃弾を発しているだろう。間違いなく、射殺されてしまうのだ。
そして、パトリックは自身が『とある理由』から目の前の男を撃つ事が出来ない事を理解していた。
間違いなく、死ぬ。それを再認識したパトリックの顔に、冷や汗が一筋流れる。
「おい、どうするんだ? もう一度言うが、お互い怪我も避けたいし死にたくもない。そうだろう? だが俺はお前より早くお前を撃ち殺せる、で、どうする?」
半ば脅迫に等しい言葉が向けられて、パトリックは呻く。相手は気づいていないが、パトリックは男を撃てないのだから、どうするも何も無いのだ。
油断など欠片もしなかったというのに、この状況に持ち込まれてしまった事をパトリックは後悔する。
先程、幾つもの武器に身を包んだ彼は気配を感じ、警戒をしていた。だが、男は見事にパトリックの不意を打ち、このような状況に持ち込んで見せたのだ。
そしてそれは、男自身が考えもしなかった利益を産み出してもいた。パトリックがその顔を見るという、その利益を。
「……」
「それでいい。安心しろ、俺は撃たない」
無言のまま、パトリックは手に持っていた銃を床に置く。それを見た男は満足そうな色を顔に宿し、自分の銃も下げて見せた。
明確な隙に見える。だが、パトリックが再び何か武器を手にすれば、下げられた銃は神速で持ち上げられ、何が起きるよりも早くパトリックが撃ち殺されるのだろう。
「良し。なら一つ質問だ。お前にとっては苦しいが、俺にとってはもっと苦しい質問だ」
「……何ですか」
半ば諦めた様子のパトリックは、男の質問に答える気になった。断っても殺されないかもしれないと思えたが、その代わり強烈な『質問』を受ける危険もあるのだ。
ジェーンと、ボスと慕う相手に出会うまで、彼は五体満足で生き抜かねばならない。
その感情の動きを見切っているのか、男、ケビンは一度だけ頷き、思い切った様子で側にあった扉へ手をかけた。
「この惨状だが、これはお前等の----!」
扉が開き、部屋の中の状態がパトリックの視界に入ったその瞬間----突然、窓の向こう側に女が現れた。
虚ろな目と、凶悪な程の美貌。それはパトリックとジェーンが船に進入する前に見た女そのものだ。だが、ケビンとパトリックの視界に入ってきたのは女の外見よりも、その状態だった。
女は、逆さだった。まるで空中を逆立ちのまま飛んでいる様に、逆さで浮いていたのだ。
それが本当に空中浮遊している訳ではないと、ケビンはすぐに気づいていた。女の腕は船の小さな窓枠をしっかりと掴んでいて、それを支点に壁を蹴り上げ、結果的に浮いているのだ。
二人の目が女の目と合った。
その瞬間、下の階にあるであろう部屋から爆発音が響く。
それが小型の爆弾を爆破した音だと、ケビンとパトリックには理解できた。恐らくは、他の階や他の部屋を破壊しない程度に調整された爆弾だという事も。
そして、爆発を見届けた女は勢いを付ける為なのか足を伸ばせるだけ伸ばし、そのまま勢い良く下へ落ちていく。
慌てた様子でケビンが下を見るが、もうそこには誰も居ない。
「……今の質問の答えは、後で聞くぞ!」
突然、真剣な声を上げてケビンが窓を開け、下へ降りようとする。
それを見たパトリックは思わず危険だと止めようとしたが、ケビンは止まらない。そのまま女がしたのと同じ様に窓枠へ手を掴み、下へ降りていく。
止める方法など有りはしない。まず、パトリックとケビンは敵対しているのだ。パトリックは足を止め、ただ下の階へ窓から降りていくケビンを見つめる事しか出来なかった。
視界からケビンが消えた事で、パトリックは周囲の様子を窺う余裕を持つ事が出来た。その室内には、動くものは一つたりとて居ない。
そして、その部屋には死体が転がっている訳でもない。
「……クッ」
だが、その代わりに、パトリックが呻くには十分すぎる光景が広がっていた。部屋の中には、明らかに人間が残酷に殺されたのであろう痕跡が残っているのだ。
壁には飛び散った血が、床には肉の破片が、そして窓の方には、明らかに死体を引きずって海へ落としたと分かる、血の痕がある。
尋常な殺し方ではない。恐らくは、余り時間が無かったのだろう。時間を掛けてゆっくりと殺したのではなく、限られた時間で出来る限り苦しめた様に感じられる。
誰がそれを行ったかなど、パトリックには一目で分かった。手口が、似ている。執拗に人の体を破壊しようとするその癖が、特に。
「……Mr.スマイル。お前か」
パトリック本人ですら驚くほど冷たい声が、心の底から吹き出していた。ドス黒い濃厚な殺気が心を乱し、冷静さを奪おうとして来る。
だが、何度も首を振ったパトリックは何とかして心の乱れを振り払い、無理矢理に頭を冷静にしようと動く。
「いや、ジェーン様だ。それより先に、ジェーン様だ」
頭の中に渦巻く憎悪や、複雑な感情を押さえ込む為にパトリックは何度もジェーンの名前を呼び、その姿を思い浮かべる。
すると、パトリックの頭はどんどんと落ち着いていき、今から何をするかを思い浮かべるくらいの余裕が生まれていった。
「……下の階、行くか」
一度思い切り息を吐いてパトリックは身を翻し、静かに一言呟いて部屋を後にする。もう、部屋の惨状に気を払う様子もない。
凶悪だった雰囲気は押さえ込まれ、パトリックが至極冷静に思考している事を表している。だが、その顔は未だに怒りと復讐の炎に満ち溢れていた。
+
「ひ、くくぅぅぅくくくあはは! これすごっ、すごく気持ちいぃいのぉ!」
パトリックの居る、一つ下の階では永遠に聞き続けたくなる美声で、永遠に耳を塞ぎたくなる発言が周囲に響いていた。
声の主である女は刀を肉眼で捉える事が不可能に近い速度で振りかざしながら、虚ろな目と悦楽に溺れた表情で襲いかかってくる。
その姿は恐怖そのものと言っても過言ではないだろう。不気味を通り越して、おぞましいくらいだ。端から見ている二人が時折恐怖に身を震わせるのがその証拠となるだろう。
「何の、俺を主役にするには十分だがっ! 脇役にするにしては色々と、足りないねぇっ!」
だが、それを恐れず刀に飛び込み、二丁の拳銃で攻撃を捌いてみせる男が居た。
神速と呼べる刀の動きを殆ど見切り、本来はそのような距離の戦闘で使う物ではない拳銃を巧みに操って、攻撃と防御を同時に行っているのだ。
それも、紙一重で命が奪われる状況で男は女と同じ悦楽を含んだ笑みを浮かべている。
強力を通り越して、恐ろしいくらいだ。端から見ている二人が時折、男を驚異の存在として見ている事からもそれは明らかだろう。
「ひひひっ、あなた、あなたの血、血が欲し、それでもっと気持ち良く、欲しいよぉ! くふふっ……」
目を背けたくなる程だらしなく、口からは涎を垂れ流しながら女は男へ斬りかかる。これと言った型や決まった動きがある訳ではなく、それら全ての動きが別々の物だ。
「俺の、血は……高い!」
外野から見てもまったく読めないその動きに、しかし男は見事に対応してみせる。
避けられる物は避け、出来ない物は即座に拳銃で刀の峰を叩き、動きを逸らしている。もちろん、その一瞬一瞬の動きは外野の二人には認識する事すら出来ない程に早い。
だが、女にはそれが見えている。
「なんだろっぉ! すごくしあわせぇ!!」
無茶苦茶な笑い声を上げながら、女は体の動きを更に早くする。強烈すぎる動きは本人の意識すら置いていってしまうのではないか、と思わせる程だ。
「ははっ、はははははっ! 良いぞ良いぞ、追いついてこいよ!」
同じ様に、人生の絶頂に居る様な笑い声と共に男は相手の動きに追いつく程の素早さで反応し、先程までとはまた違う動きで刀を避けながら銃撃を加える。
そして男と女、リドリーとカナエは避けきれなかったのか相手の攻撃によって掠り傷を受け、血を流す。
「いひひひひ!」
「はっはっはっは!」
自らが傷を負った事を認識した二人は、恐ろしさここに極まれり、とすら感じられる程の不気味な笑い声を上げ、相手の顔を見つめている。
互角の動きだ。それまで船の中で無敵だとすら思えた二人は、この時、完全に互角の戦いをしている。
その事を誰よりも知っていて、誰よりも認識していた外野の二人、ジェーンとコルムは化け物を見る様な目で二人の馬鹿者を眺めていた。
まるで、宇宙に意識が飛んでいる様な顔だ。そう感じた二人はいつの間にか距離を近づけ、相手の出自を忘れて話し合っていた。
「あー、っと……そう、こういう連中の精神状態を何て言うんだっけ?」
「トランス状態だ」
「そう、それ!」
ジェーンとコルムは呆れ返った表情で、暴れ回る二人を眺めている。
そうしている時にも、リドリーとカナエは距離の違う得物で戦闘を続けていた。だが、距離はカナエに有利な位置だ。刀がリドリーの首筋を掠め、一本の小さな線を作られた。
「危ねっ!」
この時、ようやく接近戦を不利と判断したのか、リドリーは勢い良くバックステップを踏んで、銃弾で牽制しながらも驚異的な速度でカナエから離れようとする。
だが、離れていくリドリーをカナエは素早く追いかけ、前進を阻もうとする銃弾を刀で『弾き飛ばした』。
「うぇ!?」
あり得ない行動に、ジェーンが喉の奥から出たような声を上げ、目を丸くする。銃弾を弾いた事も、女がそれより早く動いた事も、まさしく人間業ではない。
そんな、人と思えない程の動きを見てもリドリーは驚く様子も無く銃弾をばらまき続ける。
流石のカナエもその全てに反応する事は難しいのか、側にあった扉を開いて、その部屋の中で銃弾をやり過ごす。
しかし、それはリドリーが想像していた通りの動きだった。
「だが読めていたんだ! ぶっ飛ばしてやる!」
カナエが部屋に飛び込んだ瞬間、元々それが狙いだったかの様に片手に何かを持ち、室内に何かを放り込む。
すかさず、リドリーは扉を閉めて床に伏せる。余りにも素早い動きは外野の二人の行動を遅らせるのに十分すぎる早さだ。
「やっば……!」
叫んだコルムは遅れながらもリドリーと同じ様に床に伏せる。持っている物を見る事は出来なかったが、部屋に何かを放り込んで、扉を閉めて床に伏せる動きが意味する物を察したのだ。
----でも、あれは、私の兵隊の……
しかし、リドリーの持っていた物が何であるか知っていたジェーンは身動きもせず、ただその場でリドリーを見つめている。
瞬間、爆音が響いて扉が吹き飛び、側に居たリドリーは寸前で飛んできた扉を回避する事となった。
「……ああ、やっぱり。ウチの爆弾だ」
爆発による被害は、見た目より小さい。完全に室内だけを破壊しているのだと分かる規模だ。それを確認したジェーンは一度頷き、自分の感覚が正しかった事を認識する。
彼女が自信の兵隊に持たせた爆弾だ。室内を破壊する為に、船に下手な悪影響を与えない様に計算して作られた物だけに、それが爆発した時に起きる被害の程はジェーンもきちんと知っていた。
恐らく、リドリーは先程バックステップをしていた時に、隙を見て床の死体からそれを回収していたのだろう。
ジェーンはそう予想しながら、たった今爆発した扉の向こう側を少し離れた場所から観察する。
爆発の規模から言っても、女が生きているとは思えない。そう感じながら、それでも「もしかしたら」という気持ちが彼女を動かしていた。
そして、その気持ちは正しかった。
「くひゃ、ひゃふふ! 熱、あつかったのぅぅ!」
おかしな笑い声と共に部屋の中から飛び出て、女は刀を振り回し、その度に壁や床に大きな裂け目を作り出す。
どの様な方法を使ったのか、カナエはあの爆発から『ほぼ』無傷で生還してみせた。完全に無傷と言えないのは、手の甲や指がはっきりとした火傷を負っていたからだ。
どうして、その部分にだけ火傷があるのか。ジェーンにもコルムにも、リドリーにすらも分からなかったが、これだけは明らかだ。
「あひひひひひひっ! 今度は、あなたが怪我を、するのが……!」
リドリーに襲いかかっているという、その一点である。
刀が、リドリーに迫る。音速に迫るのではないかという想像すら浮かぶ程素早い動きだ。先程よりも更に早い。最早ジェーン達はカナエが刀を動かした事にすら気づいていないくらいだ。
回避不可能と言える、その一線。しかし、リドリーは余裕の笑みを崩さないまま----足下の何かを蹴り上げ、同時に銃弾を放った。
二人の体から、同時に血が流れる。カナエの場合は、避けきれなかった銃弾による、片腕の損傷だ。急所は避けていたが、それでも出血は避けられない。
リドリーが出血していたのは腕だ。彼が蹴り上げた『床に転がった死体』は防弾チョッキを着ていた。それを盾にして、リドリーは身を守ろうとした。
しかし、その死体を叩き斬って、そのまま刀はリドリーにまで迫った。だからこそ、リドリーはとっさに袖の銃を仕舞う場所を盾にし、腕が斬られるのを防いだのだ。
「……俺とお前は、同じなんだねぇ」
互いの傷の位置を見て、リドリーがまた高めの声で話しかける。腕の傷はかなりの痛みを伴っているのだろうが、気にした様子は無い。
ジェーンは、リドリーと目の前の女が似ている様で違う事に気づいていた。纏う空気も雰囲気も、女の方が圧倒的に『意味の分からない』物だったのだから。
だから、その発言は自分が相手より劣っていると自嘲している様に聞こえた。だが、そうではないのだとリドリーの顔はそう語っている。
「……」
言われたカナエは、急に大人しくなって黙り込んだ。目は変わらず虚ろで、意志の感じられない表情だ。死んでいると言われても仕方ないくらいに。
だが、その口元はどんどん歪んだ笑みを浮かべ始めている。まるでこの世の全てを笑い飛ばす様な顔だ。
「はふ、はは」
そのままの調子で、カナエが小さな笑い声を漏らす。血は相変わらず彼女の腕からこぼれ落ち、小さな血溜まりを作り始めていたが、それを意識した様子は全くない。
「ははは、はあぁはははああああは、くふうふあぁああぁあああぁ!!!」
やがて、カナエの笑い声は通路上の全てに響く程大きい物になっていた。あまりに異様な笑い声は聴いた者の心をかき乱すだろう。
ジェーンもまたその一人だ。耳に入れた瞬間、心が不安定になり、意識という土台すら無くしてしまいそうになる程の動揺が彼女を襲ったのだ。
「……」
そんな、吐き気すら伴う声を聴きながらもリドリーはただ笑みを浮かべて、カナエを眺めている。
その腕には拳銃が握られていた。どうやら負傷した片腕を使う気は無いらしく、二丁の拳銃は今、片方しか使われていない。
笑い声は続く。止まる気配はない。ジェーンの顔色は悪くなっていく一方だ。
頭を抱えて苦しむジェーンの姿を見て、リドリーはやはり面白がる様な顔をしたが、どこか落ち着いた雰囲気も漂わせていた。
「……じゃあな」
恐らく、ジェーンの姿を見た事で『自分の役割』を思い出したのだろう。リドリーは銃を構え----笑い続けるカナエに、撃った。
銃弾は何の抵抗も無く、カナエの体を打ち抜く。体の一部に穴が開いた女は血を吹き出し、力を失った様に弱々しく微笑み、震え出す。
「やった……の?」
「いや、まだだね」
体の力を失なったかの様に膝から崩れるカナエの姿を見て、ジェーンが思わず呟くが、即座にリドリーから否定の言葉が返ってくる。
実際に、その通りだったのだろう。血を流しながらもカナエは立ち上がり、凶悪な笑顔で『二人』を見つめた。余りにもおぞましい笑顔を受けたジェーンは背筋に寒い物を感じ、後ずさりをする。
そんな恐ろしい雰囲気の中でもリドリーは笑って見せる。だが、その笑みの質は先程とはどうにも違う気がした。
「……どうする、お前? どうするんだ?」
何かを探る様な顔だ。この日のリドリーの凄まじい上機嫌さと異常な程のテンションの高さからは考えられない程に静かで、相手の挙動を一切見過ごさないと言っている姿だった。
「っァ、フぅ……! そう、そう、そうだ。そうするんだ。私はぁ……!」
体から血を流す女は、口からも血を流していながらも声を発し続けている。痛みを感じている様には見えない、むしろ、痛みを快楽と勘違いしている風だ。
一層異様な姿を、だがリドリーはもう当然として受け取る。そこには戦った相手への敬意も善意も感じられず、敵意も悪意も感じられない。ただ、笑みだけがそこにある。
「……うふふっ」
そんな姿を見て、何を感じたのかカナエが笑う。
今まで、何度も何度も見せつけられたおぞましく、背筋が震える物ではなかった。何故か美貌を損なわない、むしろ美しさが強調される魅力的な笑顔だった。
----うっ……何? 何なの、コイツ……
世界の全てを抱きしめる様に許容する優しげなその笑顔を見たジェーンは先程以上の恐怖を覚え、思わず自分の胸に手を当てて震えを抑えようとする。
余りにも凶悪過ぎる笑顔は傍目から見ても恐怖と寒気の対象だろうが、逆にそれとは一転してこの世の物とは思えない『最高の笑顔』もまた、恐ろしい物なのだ。
そんな最高の笑顔を見せたカナエは、そのままでリドリーへ近づいていく。
危険な香りがしたが、リドリーは何の抵抗もしないまま近づく事を許す。それを理解したカナエは足早に歩きだして、更に近づいていく。
相変わらずの最高の笑顔だ。危険な香りとは別に、見とれる様な魅力も感じられる。しかし、リドリーはそれをまるで道端のゴミの様に扱い、至極どうでも良さそうな顔をする。
「さっきの笑顔の方が、俺は良いと思うんだがな」
軽い声がかかると同時に、カナエが声の主であるリドリーの隣を通る。
一瞬、カナエがリドリーを叩き斬るつもりではないかと思えた。だが、カナエは何もする事無く、リドリーもまた何もする事無く、通り過ぎていく。
「……」
「……」
二人は黙ったままだ。そうしている間にもカナエはずっと先まで歩いて行き、爆破された部屋を通り過ごし、海の目の前にある手すりに辿り付いた所でようやく足を止めた。
そして、背を向けあう形になっていた二人はそこでようやく振り返り----銃声が、響く。
「あ、ぁぁぁ……!!」
甘く美しい声を響かせ、カナエは赤い液体を飛び散らす。そのまま手すりから滑り落ち、体は何の抵抗も無く落ちて行った。それは余りにも自然で、美しい。優雅さすら感じる動きだった。
そして、その迫力のあまり、誰もが視界に入れなかったが----コルムが、いつの間にか居なくなっていた。
+
女が船から落ちていく瞬間に、その近くにある通路では男が焦燥と恐怖に歪んだ様な表情を作って暴れていた。
男は口を塞がれ、腕を拘束され、通路を後ろ向きに引きずられている。明らかに、危機的な状況に晒されていたのだ。
声を上げようとしても、振り払おうとしても、男は自身を拘束する『何者か』から逃れる事は出来ないままで居る。まるで、二枚の大きく重い岩に体を挟まれている様に。
----小揺るぎもしないか
身動きが取れない男----コルムは周囲を見回し、何か使える物は無いかと探る。だが、通路には武器を持った死体も無ければ、武器になりそうな物すら見られない。
客観的に観て、どう考えても絶望的な状況だ。
この状況に彼が陥ったのは、突然だった。カナエと二丁拳銃の男との戦いを傍観し、隣に居た少女と共に溜息や疲れを感じていた彼は、唐突に背後から首を捕まれ、口を塞がれたのだ。
予想外の出来事にコルムは混乱したのか、まともな抵抗もしなかった。冷静な顔付きになった頃には連れ去られる自分を眺める以外にはする事が無く、やはり何も出来なかった。
コルムが時折何とか暴れて離れようと動く。だが、彼の背後に居る人物には何の効果も無い様だ。
そのまま、コルムは自分がどんな目に遭うのかを余りに恐ろしい形で想像したのか、コルムの顔はわざとらしい程に青くなった。
「ははっ、臆病な奴だ」
彼の恐怖によると思われる震えは、それを運ぶ者にも伝わったのだろう。その声はコルムを運ぶ者が男である事を現している。
男は、どうにも楽しそうな声音で話していた。明確な隙だと勘違いしてしまいそうだが、奥底には油断が感じられない。下手には動けないだろう。
相手の腕は、筋肉質で力強い。何となく、実戦で鍛えられた様な雰囲気だ。コルムは、また体の震えを強くした。
そうしながらも、コルムの眼は周囲へ向けられていた。
「……?」
すると、通っている道には幾つか銃弾によって出来た穴がある事を見つけた。だが、それ以外には何一つ転がっている物は無い。まるで戦闘があった後で片づけた様だ。
殺した後の死体に、何か用事があったのだろうか。
「付いたぞ」
コルムの背後からまた声が響いてくる。いつの間にか、コルムを連れての移動は終わっていた様だ。足が止まっていて、引きずられていく事も無い。
周辺の風景は先程とは違う物で妙に薄暗く、他の明るい通路とは対照的で『関係者以外立ち入り禁止』という雰囲気を明確に放っていた。
そこがどこなのかをコルムは知っている。カナエと共に船に入る際、一度この場所にも立ち寄ったのだ。
相手の要求が伝わって来たのか、コルムは心の中で息を吐いた。
「さて、色々付き合わせて悪かったな。おっと、息苦しいか」
大げさなくらい怯えた顔をするコルムに苦笑しながら、男は拘束していた腕の力を緩める。勢い良く解放されたコルムは思い切りよろけ、そうしながらも背後に居る存在を確認した。
男は笑みを浮かべていた。だが、明確にはその表情を伺う事は出来ない。何故ならその顔は今、帽子を目深に被って目を隠していたのだから。
「悪いな。こんな場所まで連れ出して。だが色々と聞きたい事があるんだ。ああ、安心しろ。過激に『質問』する気はない」
ニヤリ、と男は笑った。それはまさしく悪党の笑みで、誰よりも歪んだ、憎悪や憤怒が感じられる物だった。
笑みを見て背筋に冷たい物が走った顔をするコルムは逃げる隙を窺おうと思った様で、相手の挙動を眺めた。
そんなコルムの様子に気づいているのだろう。男は友好をアピールするかの様にコルムの肩を慣れ慣れしい雰囲気で何度か叩く。
「はっはっは。そんなに怯えるなよな。俺は敵意がある訳じゃないんだから」
妙に明るい声で話しかけられるも、寒々しく、胡散臭い響きは余計に不安になってしまうだろう。
胡散臭そうに見られていると理解した男は少し残念そうに、だがわざとらしく肩を竦めて見せ、コルムの両肩を掴んで栗を開く。まるで、逃がさない為に体を固定するかの様に。
「とりあえず、前置きは抜きにしてだ……まず、普通に質問しよう」
ほら来た。そんな言葉をコルムは頭に浮かべた。考えた通りの展開だ。心の中で密かに、また息を吐いている。もう、相手が何の目的でこの場所に来たのかは分かっていた。
何せ、今の彼らが居る場所は倉庫なのだから。そして、彼らの仕事は『それ』を扱う売人なのだから。
「君達の『薬』は……この部屋の何処にある?」
そう、此処は倉庫なのだから、彼らの薬が保管されているのだ。
倉庫の端に置かれたルービックキューブが、妙な存在感を放っていた。




