プロローグ1
その少年達は知ったのだ。世界は残酷で、人間は汚れていて----しかし、だからこそ最高の笑顔を浮かべるヒーローは居るのだ、と。
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全てが終わって一日後
薄汚れた通りの真ん中で、一つの死体が転がっていた。
死体の前には囲いがあって、通行人の行き来を遮っている。この様な状況であれば野次馬の集団でも現れる所だろうが、そこには一人の見物人も居ない。
まるで、それが毎日の恒例行事の様な扱いで通り過ぎていた。
「銃弾を胸に一発……即死か」
「ええ、ま、いつもの事ですけどね」
そんな、通りを歩く人々にすら気を留められない哀れな死体の側では人かの制服を着た者達が立っていて、周囲の様子と死体を調べていた。
死体にシーツを被せながらもその者達の声は冷たく、何の興奮もない。見慣れているのだ、彼らは警察なのだから。
通行人達などよりもずっと死体に見慣れた彼らにとっては、転がる死体など人間が息を吸うくらいに自然な姿だったのだ。
「それにしても、酷い殺し方っすね。こんなに酷いのは……ああ、五日前に見ましたっけ?」
周囲に不審な者が居ないかどうかを探しながら、警官の一人が眉を顰めている。新人なのか、他の警官達には建前上だけの遜った態度を取っていた。
死体は、胸に一つの穴が開いている。が、それ以上に目立つ点として、幾度も死体を傷つけた痕跡が残っていた。腕は無く、目は潰されている。内臓は引きずり出されていて、まるで肉の解体でも行ったかの様だ。
そんな残虐な事を殺してから行った、という事はすぐに分かった。苦悶を感じさせない死体の顔を見れば、明らかなのだ。
死んでからも、相手の身体を破壊し続けるその手口。そこからはおぞましい程の憎悪が感じられ、同時に相手を傷つける事に喜悦する感情も、見られる。
残骸として認識するしかない、肉の塊。それを行う存在に、警官達は心当たりがあった。
「ほら、大分前に名前だけ上がったろ……上の連中が賄賂で捜査を打ち切ったのが」
「そういえば、つい最近も聞いたな。あー、どこの新聞だったか」
頭を掻きながら、一人の警官が思いだそうとする。だが思い出せないのか、少し呻くだけで面倒そうに仕事に戻る。その動きにはどこかやる気を感じさせない。
「なあ、俺達……こんな所で捜査する意味はあるのかよ? どうせ、賄賂貰って事故として処理するんだろ? それか、犯人じゃないギャングか異常者を代わりに捕まえてくるとかな」
諦めが混じった様子で呟いた。そんな考えに至るのも当然だろう。この町の警察は上から下まで全てに置いてギャングや悪徳政治家の言いなりで、罪状や証拠の偽装なども彼らの思いのままなのだ。
虚しそうな一言を呟いたその警官もまた、今持っている財布の中にはギャングの幹部から渡された金が入っているくらいなのだから、救う手だてが無いと言えるだろう。
誰も彼もがやる気を無くしてしまうのも、仕方が無い事だと言える。この町で逮捕される人間は背後の無い精神異常者やチンピラと不良少年くらいなのだ。
「……そうだ。『Mr.スマイル』っすね」
やる気の無い捜査を続けていた警官達の中で、唐突に新人の一人が声を上げる。彼らの中ではまだ真面目に仕事をしている部類に入る人間だ。
恐らくは警官の『悪を罰する集団』というイメージで入った、正義感のある若者なのだろう。既に賄賂で浸かっている様に思えても、心の中では司法の正義という物を信じているに違いない。
「あ、ああ。そいつだ。よく覚えてたな、もう、殺人鬼なんぞ週に二回も三回も新しいのが出るんで、忘れちまうよ」
内心、新人の姿を哀れに思いながら返事をする。他の町や国なら真面目で素晴らしい警官になっただろうが、この町では意味が無いのだ。
そんな視線に首を傾げつつも、新人の警官は少し明るい笑みを浮かべる。
「……? あ、『Mr.スマイル』は殺人鬼なんかじゃないですよ。素晴らしいクライムファイターです!」
「いや、殺人鬼だろ。あんな惨い手口で、あんな大組織に手を出す奴は正気じゃない、イかれた殺人鬼だ」
妙に肩を持つ新人警官に、壮年の警官が窘める様な声をかけていた。賄賂漬けになった自分達の事は棚に上げて言うのだ。犯罪者の肩など持つな、と。
その態度に嫌悪感を持ったらしく、新人警官は一瞬、ジトリとした目を壮年の警官へ向ける。だが、立場上そこからは何も出来ない為に、すぐに目は背けられた。
新人警官の感情に気づかなかった他の警官達は捜査の手を止めて、立ち上がる。
「ま、Mr.スマイルとやらがどんな奴だろうが、どうせコイツの件も賄賂で『無かった事』にされるさ。もう検死官が先に金を貰ったらしい。ま、無駄だ無駄、さっさと切り上げようぜ」
面倒そうな声を上げたかと思うと、警官達はまともな捜査もする事無く、休憩に入ろうとその場を去っていく。死体はいつの間にか来た他の人員によって運ばれていったらしく、その場にはもう無くなっていた。
何のやる気も無く、何の捜査力も無い。無能どころか何もしないのだ。事件そのものを無かった事にされ、捜査とは全く違う犯人を捕まえさせられる。
そんな場所の警官達は、ある意味で疲れきっていて、ある意味で欲に浸かりきっていると言えるだろう。
彼らの背中を見ながら、新人警官はこの町の全て、自分を含めた全てを呪い殺しかねない声で呟いた。
「……少なくとも、この町の腐った警察よりは『私刑』執行人の方がマシだろうが……」
+
「Mr.スマイル? 何だそれは?」
厳密には既に始まっていたその事件は、その一言から始まった。
そこは、新聞社だった。地方情報ばかりを載せている小さな新聞社だ。
本当に小さな新聞社である。別段、裏で情報屋をやっているのでも無いその場所にて、その名前は告げられた。
「ここ最近、ガキやギャング共の間で人気の都市伝説ですよ? 知ってますよね?」
「いや、知らないな」
首を傾げる上司の姿を見て、男はオーバーな挙動で驚きを表現する。冴えない顔をした男だというのに、顔は異常極まる物だった。
「ええ、知らないんですか!? なら話しましょう、知っておいた方がいいですよ」
話題を始めた男は楽しそうに話を続けている。そんな男の態度に、男の上司は思わず首を傾げた。
よく知る部下は外見も中身も、眼鏡をかけているだけの普通の男だ。特におかしな所も感じられず、少なくともこの様な話題を好む類の人間ではない。
だが、男はそんな印象を裏切る声で流暢に話す。
「悪党なら誰だって潰しにかかるスーパーヒーローですよ! 笑顔を象った仮面を付けて、夜中に街の悪を消し去るんですよ!」
本当に楽しそうに、しかし不審な挙動で男は話を続ける。
曰く、『Mr.スマイル』は日夜悪と戦うヒーロー。
曰く、『Mr.スマイル』は仮面を被っている。
曰く、『Mr.スマイル』は何が起きても悪を許さず、皆殺しにする。
そこまで聞いて、上司は『ありがちな話だ』という感想を抱いていた。
噂というには荒唐無稽だが、スーパーヒーロー物の漫画であれば王道だ。皆殺し、という点は少し違ったが。
「あー……それは、漫画か?」
「いえいえ! 都市伝説です!」
思わず口に出してしまった言葉を、部下が即座に訂正していた。本当にどうでも良い事だ。
「……その噂に、何かの意味があるのか? 記事になるのか?」
そう、新聞社で仕事中の上司に実在しない物の話を、しかも仕事を放り出して熱心に語る男の姿勢が理解できなかったのだ。そもそも、記事にはできないのだから。
だが、そんな言葉は予想出来ていたのだろう。部下の男は分かっているとばかりに一度頷き、窓の外を見た。
「ありますよ。そんなヒーローが、今日は実際に現れるんです」
喜ばしげな、しかし何かを押さえ込む様な怪しい表情で語る、その姿。それを見た男は背中に嫌な汗が流れるのを実感した。
部下の姿があまりにも子供の様だったからではない。次に告げられるであろう、言葉が分かっていたのだ。
「だからその……これを記事にさせてください!」
ほら来た。男は予想通りの言葉にため息を吐き、即座にそれを却下する為の言葉を考えたが、その前に口が動いていた。
「……正気か? 最近流行のヤクでもキめたのか?」
口からそんな言葉が出てしまった事に男は驚いたが、本音である事は確かだ。
言ってしまった物は、どうしようもない。男はすぐに開き直り、部下の提案を却下する為の言葉を続けた。
「おいおい……そんな不確かな情報で、何かを書くつもりか? もう一度聞くが、正気か?」
言いながら、男は部下に背を向ける。その反応は予想外だったらしく部下は必死な様子で男に近寄り、服を掴まんばかりの勢いで正面に立って見せた。
「いや、ちょっ! 待ってください部長! 確かな話なんですよ!」
「あのな、それ……記事に出来るわけないだろう?」
随分と必死にすがりついてくるその姿に、内心男は困り果てていた。
何故、そんなにも必死になるのかが分からなかった。その為、男はとりあえず部下の提案を絶対に受け入れられない事だけを告げる事にする。
「それに、もしそれが確かな話だとしても……ウチが出してるのは地方新聞だ。読者はスーパーヒーロー大活躍の記事を求めてる訳じゃないんだぞ。地元の情報を求めてるんだ」
「しかし、本当に出るんですよ。今日! もうすぐ! Mr.スマイルは姿を現すんです!」
諭すような声を聞いた部下は、それでも諦めない。それどころか、より熱意のある態度で詰め寄ってくる。
その姿が錯乱している様にも見えて、男は反省した。提案を却下した事にではない。働かせすぎたのかもしれない、そう考えたのだ。噂の中のスーパーヒーローが実際に現れる、それよりはずっと現実的だろうと。
「お前、疲れてるんじゃないか……? 話になってないぞ、休め。仕事は切り上げて、寝ておけよ」
優しげな声音だった。男は部下の肩に手を置いて、心配そうな顔をする。
「ですが!」
男の優しさを受けても、部下は止まらずに何かを言おうと口を開く。
だが、その前に電話の着信音が部下の声を止めさせた。その電話は外部の人間からかかってくる時は鳴らない物だ。
恐らくは、何か事件が起きたのだろう。男はそう判断し、まだ諦めていない様子の部下をあえて無視して受話器を取った。
「私だ、何だ?」
電話の相手は、男もよく知る人物だった。何やら本当に重大な事件が起きたらしく、電話の向こうの声はかなり緊迫感を覚えさせる物だった。
男は、言葉を聞く前に覚悟を決める事にした。間違いなく余程の大事だ。
そして、男には『まさか』という考えもあったのだ。荒唐無稽だと思いながらも、心の隅では『ありえるかもしれない』と考えていたのだ。
「……何だと?」
その予感は、的中した。
電話の向こうは今でも大変な事になっているらしく、混乱と混沌が耳に響いてくる。
が、男は気にならなかった。的中してしまった予感への混乱で、まともな思考が出来ないでいた。
それでも男は息を一度だけ大きく吐いて、頭を冷やす。
「あ、ああ……分かった。すぐに記事にする準備をしておくよ」
言いながらも、男は慣れた手つきで手元のメモ帳に情報を書き連ねていく。内心の混乱とは別に、体はすぐに動いていた。
「ん? いや、何でもない。何でもないよ、気にしないでくれ。情報提供、ありがとう」
すぐにそれを書き終えて、男は電話を切ると受話器を元の場所へと戻す。その瞬間、男はまるで化け物を見る様な目で部下の顔を見た。
驚きと、恐怖と、混乱が混じったそれを受けた部下は心からの喜びや楽しさを表現する様な笑顔を見せて、得意げに呟いた。
「ほら、出たでしょう?」
翌日、この新聞社から発行された新聞は普段とは様相の異なる物だった。
地方の細かな情報ばかりを載せている筈の新聞には、一面に『Mr.スマイル』の情報と犯行が載せられていたのだ。
そう、その新聞の中には『Mr.スマイル』の行った犯行も載せられていたのだ。どこの新聞社よりも、細かく。
そこには、こうあった。『ホルムスという男がトップに立っている商社の幹部を皆殺しにした』と。
この商社が実の所、不法な賭博や麻薬の大規模な売買、支配領域の庇護などを行っているギャング組織である事は公然の事実だった。
そんな場所の、幹部がほぼ全員殺された。民衆は非合法組織が一つ消えた事に喜ぶ者も居れば、悲しむ者も居る。当然だ、その存在で利益を得ていた者も、不利益を得てしまった者も居るのだから。
だが、これだけは一致していた。
『Mr.スマイル』の犯行に、どの民衆も恐れ慄いたのだ。
----噂通り、一切の容赦もしなかった為に。
+
数時間前
新聞社で上司に部下がMr.スマイルの話を始めるより遡る事数時間前、とある裏路地の隅に四人の男が座っていた。
裏路地に座っていると言っても、彼らが浮浪者でも、誰かから隠れている訳でも無い事は一目すれば瞭然だ。
その場に居る全員が全員、仕立ての良いスーツに身を包んでいて、しかも隠す様子もなく堂々としているのだから。
彼らが何故、夜の裏路地で座り込んでいるのか。一部の人間であればすぐに分かるだろう。そう、その男達の表情や、雰囲気が分かるならば。
「今日の取引はでかい、心してかかれよ」
唐突に、一人の男が口を開く。剣呑な雰囲気を放ったその男の顔にはまるで顔を隠すかのようにサングラスが付けられていた。
黒いスーツにサングラス、そして剣呑な雰囲気と来れば、それだけでもうその男の職業は明らかになってしまいかねないのだが、誰も言葉に出す者は居なかった。
「俺達のホルムス・ファミリーはヤクの売買で稼いでるんだ。連中の機嫌を損ねようが、それはまあ……他にもルートはあるがな、良い品が入りにくくなるのは困る」
そう言って、どうやらリーダー格らしいその男は周囲の三人を睨み付ける。殺気すら感じさせる視線は確かに男達に伝わった。
「わ、分かってるよ……ちゃんと、取引すればいいんだろう……? 脅しとか、そういうのは無しで……」
「そうだ、エドワースは分かってるんじゃないか。お前等はどうだ?」
男達の一人が若干どもりながら言うと、男は満足そうに頷いて他の二人を見る。
ほぼ同時に二人が頷いて見せる辺り、どうやらその二人もきちんと分かっている様だ。男はそう判断して三人から視線を外した。
雲一つ無い空で、月が輝いている。
普通は、此処で縁起の悪さを感じはしないだろうが男は違う。明るく輝く月の光がどうにも恐ろしく感じられて、男は目を背けてしまった。
「まあ……ヤクの受け取りが終わったら今日の仕事は終わりだ。連中が取引相手に銃でもぶっ放すサイコ野郎じゃない以上、安全に終えられるだろうさ」
何やら、仲間を元気付ける様な口調で男は呟く。それは、仲間以上に自分へ向けられた言葉の様でもあった。
ふと、男は懐の銃へ手を入れる。きちんと手入れされたそれは、例え危険に陥っても助けてくれるだろう。
そう自分に言い聞かせた男は一度深呼吸をして、仲間の方へ視線を戻し----違和感に気づいて、眉を顰めた。
「おい、パトリックはどこへ行った? 便所か?」
違和感の正体はすぐに分かる物だった。何せ、『人数が変わっている』のだ。先程まで四人組だった男達は、今三人しか居ない。
その場から消えた男の名前を言いながら、リーダー格の男は警戒心を最大まで引き上げる。直感が告げている、『何かがあった』と。
それを裏付ける物がある。残った、二人の反応だ。怯えきった様に震えるその姿を見れば、誰でも『異常事態』を読み取るだろう。
「何があった? 話してみろ」
「それが……目を離した時には居なくなってまして……」
要領を得ない言葉で、男は説明する。だが、何度聞いても理解できたのは『仲間が急に居なくなった』という事だけだ。
怯えきった様子に内心舌打ちをした男は、すぐに懐の銃を抜いて周囲を警戒する。
特に何の気配も感じられない。それを理解して、まだ怯えた様子の男の肩を掴み、何度か叩いて無理矢理に笑みを作った。
「そこに居ろ、俺が見てくる。安心しろ、きっと便所さ。どうせ取引前で緊張し過ぎて帰り道を忘れたんだろ」
何度か肩を叩くと、男はすぐに周囲を探り始める。あまり広いとは言えない裏路地だ。
そんな場所で、人を消すとなると可能性が高いのは『ドアの向こう』だろう。そう判断して、男はすぐ近くにあったドアを開けようと手を伸ばしたが----
「も、もう嫌だぁあ! 助けてくれえええ! 誰か、誰か居ないのかぁあぁぁ!」
その前に、先程元気付けたエドワースという男が恐慌する様に走っていってしまった。
「おい待て馬鹿野郎! ……チッ、所詮は下っ端か……玉の小さい野郎だ」
エドワースと呼ばれた男は必死な様子で走り去っていく。それが余りにも必死だったのと、一々追いかけては居られないという感情から男はエドワースを追う事を止める事にして、息を吐いた。
もう、その場に残ったのは二人だけになっていた。リーダー格の男以外の最後に残った男は、何故か大人しく座り続けたままだ。
「スコット、お前はどうだ? 怖いか?」
それに関心した男が声をかける。だが、返事はない。
まさか死んでいるという展開かと男が慌てて近寄ってみると、息はあった。
「……気絶してやがる」
だが、意識は無いようだ。目を瞑ったまま、こちらの言葉に何一つ反応した所を見せない。
どうやら、この場で命があって、取引に応じる意志を抱く事が出来るのは自分一人になったらしい。男はそう感じて、嫌そうな顔をする。
組織人としての面子が無ければ、この嫌な予感を覚えた時点ですぐに逃げている。
そろそろ取引相手が現れる時間だ。彼らが来て、自分の持つケースと相手のケースを交換すれば終了する。それを終えれば、すぐに帰って妻や娘の顔を見よう。
男はそう心に決めて、その場で待つ事を決める。逃げていれば、良かった物を。
「……あ?」
その決定を男が後悔したのは、決定したのとほぼ同時だった。軽い衝撃と痛みが、腹の辺りにやってきたのだ。
見てみると、そこには刺された様な跡が残されていて、血が流れていた。
「が、っ……!? 畜生っ、やられたクソッ!」
認識した瞬間、痛みが思い出す様にやって来た。それが刃物による刺し傷である事は誰の目にも明らかだ。
男は混乱する。
警戒は怠っていないつもりだった。小さなネズミが近寄っても気づくくらいにしていたつもりだった。だが、彼を刺した存在はまったく----それこそ刺した事すら気づかせなかったのだ。
「どこに、どこにいやがるっ! 出てこい臆病なクソったれ野郎!」
痛みを覚えながらも男はそれを無視して銃を持ち、全力で周囲の気配を窺う。間違いなく、近くに居る筈だ。
挑発を交えて呼んではみたが、これほど見事に気配を断つ人物だ。出てくる筈が無いと男はそう考えていた。
だが、それは的外れな考えだったらしい。
声が周囲に響いたその瞬間、裏路地に一つだけある街灯の上に、何者かが立っていた。
「やあ、どうでもいいギャングの幹部のようなA君。初めまして、と言っておこうか」
何者かは気安げな調子でナイフを持った片手を振り、自身の存在を見せつける。
「何だ……? お前は……?」
その存在の姿を見て、男は思わず呟いた。
古ぼけたトレンチコートに山高帽、下げられている手が握るのは恐らく、どこかの国で昔マフィアがよく使っていた事で有名な軽機関銃だろう。
服装や武器だけなら古い犯罪映画から飛び出してきた様な雰囲気を持つ存在だった。
それだけなら、男は驚かない。その存在が異常だったのは、『顔に付けられた仮面』だ。
露天で売っている物に見えれば、また仮面の職人が作る一品物にも見えるその仮面。それが象っていたのは、まるで、世界をあざ笑うかのような歪みきった----笑顔。
「こんばんは。私はMr.スマイル。そして残念な知らせだが……君の取引相手は、此処には来ない」
「何だと?」
驚いた硬直した男に構わず、その存在は勝手に名乗り、勝手に話を続ける。
聞き捨てならないその内容を聞いて、男はやっと気を取り直すとすぐに殺気を込めて睨み付け、銃をその存在へ向けた。
「来る途中で見かけたのでね、少し『質問』したら……あっさりとこの場所を吐いてくれたよ」
本当に何の事もない態度で麻薬の売人を『拷問』したと言ってのけた存在に、男は異常な物を感じる。
その存在の声が、挙動が、態度が告げているのだ。仮面の下にある顔も、恐らくは笑っているのだろうと。
「君には、否、君のファミリーは麻薬を不正に手に入れようとした疑惑が掛かっている」
男の困惑など意に介する様子も無く、その存在は淡々と話し続けた。
しかし、ホルムス・ファミリーは麻薬の取引で有名な組織だ。男もそれを言われたくらいで驚愕する事は無い。
「それで、どうした? お前はサツか? 俺達を脅そうっていうのか?」
だが、警察に現場を押さえられれば終わりだという事も当然だが、分かっている。
そう判断して、男はその存在が『脅し』を仕掛けているのだと考えて声を上げた。
----心の底で感じる、恐怖に打ち勝つ為に。
それを見たその存在は、軽く首を横に振って否定の意志を見せる。先程よりもずっと楽しそうなのは、気のせいでは無いのだろう。
「ああ、安心したまえよ。私は別に、サツに情報を売ろうという話をしている訳じゃない。ただ----」
途中で言葉を止めて、その存在は一度深呼吸をする。
その態度はやはり楽しそうで、同時に恐ろしい事極まる姿でもあったのだ。
「----ただ、苦しみ抜いて死んで貰おうと、そう思うだけだよ」
「っ死ね!」
その存在が言い終えた時には、男は迷う事無く発砲していた。
どうやって立っているのか、そこは街灯の上などという移動の難しい場所だ。銃弾から身を守る場所などありはしない。
勿論、銃弾は何の抵抗も無くその存在に当り----弾かれた。
「……はぁ?」
思わず、男は惚けた声を上げる。信じられない光景だが、銃弾はトレンチコートに当たった瞬間、まるで壁に投げつけられたボールの様に弾かれたのだ。
信じ難い現象だったが、荒事慣れした男の本能と体は意志に反し、仮面にめがけて引き金を引く。
明らかに木製であろうそれは銃弾で簡単に貫け、銃弾はそのまま頭部を打ち抜く。その筈だ。
だが、引き金を引いた瞬間、その存在はその場に居なかった。
「なっ……!」
「残念だ。もう少し、楽に逝かせてやろうと思っていたんだがな」
驚いた男が周囲を探ろうとするより早く、その存在の声が『背後から』聞こえる。
状況が余りに逼迫している事を男は既に確信していた。その上で、背後を取られたのだ。危険どころの騒ぎではない。
それでも、男は生き抜く為に振り向いて銃の引き金に力を込める。しかし、銃弾が射出されるより早く繰り出された拳によって、男の銃は手から弾き飛ばされる事となった。
だがそれは、男も予想出来ていた事だ。銃が手から飛んだと同時に男は拳を振り上げて、仮面の存在に叩き落とす。
「成る程、どうやら君はそこそこに腕の良い……幹部か何からしいな」
声と共にその拳は仮面に触れる事無く止まり、男は地面に顔を打ち付けた。その存在は飛んでくる拳を掴み、瞬く間に受け流すとそのまま男の背後に回ってねじ伏せたのだ。
今度は、反応する暇など一切与えられない動きだった。トレンチコートに身を包んだその存在が、優雅に見える程に。
「君に質問がある。君のファミリーに居る……幹部達の家とその者の世界で一番大切な物----ああ、妻子でも親でも何なら宝石でも良い、それを教えて欲しいね」
それに対して男が驚いて思考停止している間にも、その存在は構わず話を続けている。
まるでお構いなしだ。あまりに恐ろしい強さの存在は、だが男の状況など構わず『尋問』を加えてきた。
「誰が話すか……畜生がっ……」
勿論、男にそれを答える気など無い。当然だ、そんな事にただ土の味を思い知らされているくらいで答えてしまうのであれば、彼はこのような場所には居ない。
だが、それを聞いた歪んだ笑顔の仮面の存在は小さく笑い声を上げ、懐から何かを取り出して男に見せた。
「大丈夫さ、君はすぐ話したくなるからな」
それは一本の注射針だった。特に鋭くも無く、拷問用とは思えない普通の物だ。男は、即座に何か血管に入ってはいけない物を入れられるのではないかと覚悟を決める。
彼らにしても、この手の手段は使い慣れている物だ。だが、その存在が取り出したビンの中身を見て、男の顔色は変わった。
「これだよ。最近出回ってる……君達が売っている薬だ。注射で血管に入れれば、一瞬で魂も吹き飛ぶ優れ物さ。まあ、飛ぶ場所は多分……地獄だろうが」
見覚えのある液体がビンの中に詰まっている。そう、それは今日、取引相手から手に入れる予定だった薬なのだ。
どうやって、その薬を手に入れたのかは明らかだ。ビンの側面に付く、血痕を見れば。
「これを注射すれば、君はきっと何もかもを答えてくれる」
顔を蒼白にする男の姿をその存在は楽しむ様に、目の前で注射針に薬を注入する。
その瞬間から形振り構わず男は暴れ出したが、万力の様な力で押さえつけられて、身動きが取れない。
「畜生っ……! やめろ! こんな事をしてタダじゃ……」
「済まさなくて良いとも」
殺気混じりの男の声を受けながら、その存在は注射針を腕に近づける。仮面から覗く目は、悦楽に浸りきった色をしていた。
「私も、君達をタダでは済まさないからな」
暴れる男の腕に、容赦無く注射針は差し込まれ----
「……ァッ! クソッ……! どうなった……!?」
それから数分後、男は意識を取り戻して悪態を付いていた。一瞬の記憶の混乱はあったが首を一度振って冷静になり、周囲を見回す。
注射針が腕に突き刺さった瞬間から、男は意識が無かったらしい。強烈な薬の性能に男は内心恐怖を覚え、それでも状況を把握しようと頭を動かす。
どうやら、先ほどの存在はどこかへ去っていったらしく、周囲には誰の気配も感じられない。
「……夢? いや、いや! 違う。間違いなく、あの野郎は此処にいた」
一瞬、頭の中で浮かんできた思考を即座に否定する。間違いなく、その存在は此処にいた。それは壁の辺りに転がっている自分の銃や、腕の注射の痕、そして動かしにくい体が証明している。
この場に連れてきた三人の下っ端が居ない事も、記憶を裏付ける物となっていた。
思わず男は舌打ちを付いて、服についた土を払う。地面に顔を叩きつけられた痛みも健在だ。
となれば、薬で意識がどこかに行っていた間、情報を聞き出されてしまったのかもしれないと男は恐怖する。その様な事が伝われば、間違いなく粛正されるだろう。
もう一度舌打ちを付きながら男は転がった銃を拾おうと屈み----もう一度、地面に叩きつけられた。
今度は背中を地面に打ちつけて、男は痛みで眉を顰める。
「情報提供、感謝しようじゃないか。君はとても役に立ったよ」
男の前方には予想通りの存在が、歪んだ仮面があった。
今度は全くの手加減も無く腹部を踏みつけられ、男は吐く様な声を上げながらその存在を睨みつける。何とか反撃しようとするも、銃はその存在の足に踏みつけられていて、男の手には入っていない。
拳が通じる相手ではない事は明らかだ。
「なら、これはどうだっ!」
男は目潰しをする為に砂を手に取る。だが、次の瞬間にはその手を踏みつけられた。
ならば、ともう片方の手で砂を取った時には、激しい痛みと共に手の感覚が無くなっていた。
男が痛みを堪えながらその存在が何をしたのか確認すると、その手には銃が握られていた。機関銃ではない、男が先ほど拾おうとした物だ。どうやら、銃弾で片腕を貫いたらしい。
手詰まりだ。足を使おうにも、まだ薬が抜けていないのかあまり強い動きは出来そうにもない。
「お前は……どういうつもりだ……! 殺るならさっさと殺れよ! どうせ情報を吐いた俺は殺されるんだからよぉ!」
自棄になって、男は叫んだ。だがその存在は言葉に反応する事も無く、ただ銃で男の残った片手を打ち抜く。
余りの痛みに男の口から悲鳴が上がる。痛みで体が動きそうになったが、その前に腹部をまた踏みつけられて、ただ呻き声を上げるだけで終わってしまった。
酷い状況だ。抵抗は出来ず、情報は奪われ、取引は失敗させられた。どう転んでも、命は無い。
絶望的な表情をする男を見て、その存在は優越感に浸る様に笑い、口を開いた。
「----君が死んで、悲しむ奴はいるかな?」
唐突に告げられた言葉に、男の思考は止まった。何を言っているのかと痛みを忘れて眉を顰め、その存在を見つめる。
「……はぁ? 何だ、それは?」
「だから、君が死ねば……泣いてくれる人は居るのか? 苦しむ人が居るのか?」
その存在の声は、どこか不安そうだった。それはまるで『大切な人が居る人間』を殺したくない、とでも言うかの様な表情をしているのだ。
男は、その一点に希望を見出した。どこかの殺し屋か何かではないかと思っていたが、存外に『甘い』言葉だ。
もしかすると生き残れるかもしれないという思考が男を支配して、口から事実を語らせた。
「あ、ああ。居るよ。大事な娘と妻が帰りを待ってるんだ。だから、だから俺は……」
それを聞いたその存在の反応は、仮面越しではあったが隠しきれない動揺を伝えてきていた。
先ほどまでの冷たく、傷つける事に悦楽を感じる気配は形を潜めて、そこにはただ歪んだ笑顔の仮面を付けているというだけの人間が立っている様にも思える。
「ああ、そうだな。君には死んで悲しむ奴が居るんだな。そんな奴を殺すなんて、私は……」
その存在は、言いながら男から足を外して数歩離れる。
行って良い、という意味らしい。男はそれを察して裏路地の出口へ走り出す。体はうまく動かず、お世辞にも早いとは言えなかったが、その心は澄んでいた。
----ああ、彼は足を洗うつもりなのだろう。傷の応急処置を済ませ、妻を連れて娘を連れて、今日中には夜行バスにでも乗ってこの街、あるいはこの国から離れるつもりに違いない。きっと、家族と共に暮らすのだろう。
その存在は、そう考えながら男の背中と彼の今後の幸運も不運も見つめて見つめ続けて----
「そんな人生を壊せるとは、私は……なんて幸運なんだ」
今からそれを叩き潰す事が出来る、自分の『幸運』に感謝した。
男は、勘違いをしていた。この存在は動揺していたのでも無く、大切な人が居る者を殺したく無い。などという考えを持っていた訳でも無く----むしろ、その逆の思考を持っていた事に。
「……ぁ?」
男が感じたのは、軽い衝撃だった。先程と同じ様に顔面が地面に叩き伏せられ、土の味が口の中に広がっている。
「テメッ……」
何とか地面から顔を引き離して、その存在を睨もうと倒れたまま体を動かし、男は迫ってくる靴底を見た。
グシャ。そんな擬音を入れるのが正しいのだろう。強烈な一撃が男の顔に差し込まれ、顔面をあっさりと変形させる。
それまで受けた痛みを遙かに越えるそれに男は悲鳴を上げたが、それと同時にまた靴底が迫ってきていた。
グシャ グシャ グシャ グシャ グシャ グシャ グシャ
何度も何度も、靴底は男の顔面に落ちる。一切の加減も無く、一切の躊躇も無いその動きに、混濁した意識の中で男は恐怖した。
グシャ グシャ グシャ グシャ グシャ グシャ
止まらない、靴底は落ち続け、その度に男の顔を変形させる。もはや元の人間の形など留めない程に男の顔が潰れたその時、やっと男は口を開く隙が出来た。
「止め、ろ……さっさと、殺、せ……」
口から突いて出てきた言葉だが、それは男の紛れもない本音だった。それを聞いたその存在は、心の底から楽しむ様に笑い声を上げて、一頻り笑ったかと思うと、呟いた。
「残念ながら、私はこういう主義なんだ」
言いながら、その存在はまた靴底を男の顔面に落とす。今度は素早く、何度も何度も。
グシャグシャグシャグシャグシャグシャグシャグシャグシャグシャ----グシャリ
最後の音は、地面に足が付いた音だった。そう、恐ろしい程の力を込めて踏まれ続けた男の顔は、ついに骨も中身も潰れ、この世から消えて無くなったのだ。
そこに残っているのは、血の海になった地面と、『男だった物』。そして、返り血を浴びた----翌日にはMr.スマイルという名が周知の物となる存在。
「ふふ、やはり悪党退治は気持ちが良い」
自分に酔う様な声音で、その存在は呟く。言葉の中にはもう、たった今潰した男の事など残っていない様だった。しかし、仮面越しの顔は優越感と快感に包まれているのだろう。
表情からは『悪を討った』という雰囲気も、『正義を成した』という達成感も見せず、ただその行為そのものが気持ちよくてしょうがない、と語っているかのようだ。
「よしよし、このまま……此処に居ても仕方ないか」
しかし、その存在はこの場に留まる愚も理解している。面倒になって逃がした男の部下達が、仲間を引き連れてやってくるかもしれないのだ。
「後始末は警察の方々に任せるかな。何、彼らに変わって悪を裁いたんだ。それくらいは当然の見返りだろう」
それを知っているその存在は、勝手極まる調子で独り言を呟きつつ、その場を離れる。その片手には、紙が握られていた。
本人以外は誰も知らない、それが、薬を打ち込んで喋らせた、幹部と大切な物の居場所が書かれた紙だと言う事は。
ニヤニヤと笑っている事が分かる雰囲気でその存在は裏路地から外へ出ていく。こんな仮面を付けた者が居れば当然目立つだろうが、今は夜だ。目撃する者も居ない。
「いやぁ、街の皆さんは喜んでくれるね。麻薬で人の心を買っていたホルムス・ファミリーが今日で……無くなるのだから」
その為、悦に浸った邪悪極まる声音に気づいた者は一人として存在しなかった。
数時間後、ホルムス・ファミリーは『幹部のほぼ全員が妻子を含めて殺害』という結末に至る。
さて、プロローグ1となりました。
Mr.スマイルのデザインは一言で表すなら、『Vみたいな、ガイ・フォークス的な仮面を付けているロールシャッハ』です。キャラクター的には関係無いんですけどね。
ちなみに名前は元々別だったのですが、アメコミに同名ヒーローが居るらしいので変更です。