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中央分離帯 『完全版』  作者: usk
半年目 秋
9/31

啓輔 Ⅴ



 オフィスに帰ってくると、しんと静まり返っていて、俺は一瞬入るドアを間違えたのかと思った。時計の針は19時20分を指している。皆もう帰ったのかな、と反射的に辺りを見渡すと、まだ残って仕事をしていた林さんが、打ち合わせ中。と小声で教えてくれた。

「今度のイベントの打ち合わせ。もう1時間以上話してるけど、まだ終わる気配ないよ」

「そうなんだ。大島さんは?」

オフィス内には林さんの姿しかなく、いつも林さんの隣のデスクで仏頂面しているもう一人のメンバーの行方を訊ねる。

「もう帰ったよ。あたしもそろそろ帰るね。夕飯の支度しないと」

 林さんは心が待ってるから、といつものように目を細めた。笑うと切れ長の一重まぶたが糸のように細くなる。その顔がなんとも幸せそうで、俺は林さんの笑い顔が好きだった。

「ココちゃん元気?」

林さんには心ちゃんという一人娘がいる。学校が休みの日などはよくこのオフィスにも遊びに来ていて、人見知りしない性格の心ちゃんはメンバーの皆にも大人気だ。

「もう最近は生意気盛りよ」とはにかんだしかめっ面を見せて、お疲れ様、と手を振って林さんはお気に入りの柑橘の香りだけを残して帰って行った。


「わたし達も帰りましょうか」黙って会話を聞いていた篠原さんは、すでに帰り支度を整えていた。

 まだ打ち合わせ中の二人を置いて帰るのも気が引けたが、あまり遅くなると篠原さんの危険が増すような気がして、心の中で聡美さんに謝りながら、俺も帰ることにした。



「林さんて、いつくでしたっけ?」

 アパートへ続く細い道を歩きながら篠原さんが訊ねた。目線の先には暗い夜道に街路灯の明かりが、まるで順路を示すように等間隔に並んでいる。

「確か、聡美さんと一つ違いだったかな。だから三十二歳か」

「てことは、二十五歳で心ちゃんを産んだんですよね。すごいなぁ」

 篠原さんは感心したように、指を折り、後二年で子供産めるかな。と独り言のように呟いた。

 二十五か、と俺も同じように感心する。俺と同じ歳で結婚もせずに子供を産んだ林さんは、俺なんかよりずっと大人だったはずだ。そう考えると、未だに聡美さんをロクにデートにも誘えない俺があまりにも幼稚な気がして、途端に恥ずかしくなる。このままじゃダメだ。


 突発的な焦燥感に襲われた俺は、篠原さんを無事にアパートまで送ると、自分は部屋に帰らず、歩いてきた道を戻った。今からもう一度オフィスに戻るには30分はかかってしまう。もしかしたら着いた頃には聡美さんはいないかもしれない。そんなことも頭をよぎったが、構うものか。と足を速める。

きっと篠原さんに言われたこととか、林さんの幸せそうな顔とか、今急に感じた焦りとかが、いくじなしの俺の背中を押してるんだ。今日誘えなかったら、またずっと先になってしまう。とにかく今日は絶対に聡美さんと話をしないと。



 もう一度オフィスのあるビルに戻ってきたのは20時半を過ぎた頃だった。幸いまだオフィスの明かりは点いている。まだ帰っていないようだ。

 入口を開けて、ロビーに入ると、ちょうど出るところだった岩さんと出くわした。

「おお、山田。どした? 忘れもんか?」

「忘れ物。うん、そうだね」今日は聡美さんと話をするのを忘れてた。

 俺の顔を見るなり、岩さんはハッとした顔を見せ、ああ、そう言うことか。と零した。

「山田」と意地の悪い笑みを浮かべると「頑張れよ」と意味深な言葉を残して、帰って行く。

「何を?」と口を開いた時にはすでに岩さんの姿はなかった。



 ロビーに置かれたベンチに座り、入口のガラス越しに外を見ると、公園に並ぶ明かりが目に入った。すっかり肌寒くなった10月の空に、オレンジの明かりが温かみを添えている。

 あの公園を一緒に歩きたいって言ったら聡美さん笑うかな。


 しばらくするとエレベーターの到着音がして、聡美さんが降りてくる。俺がいるベンチは軽い死角になっている為、聡美さんは気付かない。

 いつになく心臓が高鳴った。突発的な焦りは聡美さんの姿を見た途端に消え去り、2カ月ぶりにデートに誘うからなのか、なかなか声が出ない。急がなくちゃ、と追いかける。聡美さんの手が出口にかかったところでようやく声が出た。けど少し震えていた。

「聡美さん」

 後ろから突然呼ばれた聡美さんは、ビクンと体を震わせて、ゆっくり後ろを振り返ると不思議なものでも見るように呆けた顔で「啓輔?」とほとんど口だけで答えた。


「どうしたの? 帰ったんじゃなかったの?」

 ビルを出てどちらともなく公園に入り、ベンチに腰掛けると聡美さんが口を開く。オレンジの明かりに照らされた顔がとてもキレイだった。

「うん。一回帰ったんだけど、今日はどうしても聡美さんと話をしたくて」

「なに? 電話じゃダメなの?」

「うん。ちゃんと言わないと、と思って」

 そう言って、聡美さんの目をじっと見る。少しの恥ずかしさを滲ませながら、聡美さんも見つめ返してくれた。


急に誘ったら怒るかな。

仕事が終わらないうちに誘ってもいいのかな。

聡美さんの方が忙しいのに誘ってもいいのかな。


 色々なことが瞬時に頭をめぐり、そして消えて行く。聡美さんの瞳の前では、俺の小さな考えなんてすぐに吹き飛ばされて、何もひねることもできずに伝えたい言葉はするりと口から出てしまう。

「今度休みとってどこか行こうよ」

「……へ?」


 聡美さんは一瞬ポカンと口を開けると、噴き出した。何が可笑しかったのか解らないが、とにかく腹を抱えて笑いだした。

「あれ? 何か変なこと言った?」

「違う、違う」聡美さんは手を振ると「なんでもないよ」と笑いすぎた為か、目の端を拭った。


「どうしても話したかった事って、それだけ?」

「そうだよ」

「そう、ホント……」

聡美さんは思いだし笑いを堪えながら、俺の方に向き直ると、啓輔らしいね。と言った。

「なんか、ゴメン」

「なんで謝るの?」

「いや、なんとなく」

 突然爆笑した聡美さんの行動と言うか、心境が理解できなくて、なんとはなしに謝っていた。

 そんな俺の顔に気付いてか、聡美さんはじっと目を見ながら、優しい笑みを浮かべて、手を広げた。

 何の意味か解らずに、キョトンとしていると、「コラ」と睨む。

「デートの誘いだけじゃダメ」と首に手を回す。

 息がかかるほどの距離に聡美さんの顔が近づき、鼓動が一気にレッドゾーンに入った。

「あ、あの」と口を開きかけると、指でふさがれる。そして聡美さんは目を閉じて「早く」と一言だけ呟いた。


 さすがにこれ以上訊くのも野暮ってものかも、と思う。なぜこうなったのかは解らなかったが、唇をそっと重ねた。


2カ月ぶりのキスは優しく幸せに満ちていた。





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