啓輔 Ⅲ
朝、玄関を開けて廊下に出ると、まだ微かにペンキの匂いがする。隣の玄関の真新しい緑色が朝日に照らされて、嫌に鮮やかだった。俺と篠原さんと三浦さんの3人で塗り替えたドア。それは一昨日の出来事だった。
その日も、いつものように新聞を取りに外に出た。出た瞬間にペンキの臭いが鼻についた。臭いのもとをたどると、俺の目は異様な光景を捕えた。
篠原さんの部屋のドアが、赤いペンキで落書きされていた。それもただの落書きではなく、恨みの言葉とも取れる文字だった。そんなものを見てしまったのだから、半信半疑だった俺も、篠原さんがストーカーにあっている事を認めざるを得ない。この事件が解決するまでは、篠原さんの警護を怠ることもできなかった。
「大丈夫ですか?」篠原さんが覗きこむようにして、心配そうな顔を向ける。
依頼人との打ち合わせを終えて、オフィスに帰る電車の中でボーっとしていたようだ。
「あ、変な顔してた?」
「いえ、そういうわけじゃ……なんか元気なさそうだったんで」
「そう? 大丈夫だよ」と言って、背筋を伸ばす。昔から何かを考えてる時に背中を丸める癖が抜けなくて、よく周りから心配された。どうやら具合が悪く見えるらしい。
「ちょっと疲れてるのかもね」と笑って見せると、篠原さんは顔を曇らせて、「ごめんなさい」と零した。
「わたしのせいですよね。先輩まで巻き込んじゃって」
「違う、違う」慌てて訂正する。「篠原さんは関係ないよ。ホラ、最近あんまり休みとれてないからさ」
今年は夏から依頼が集中して、毎年仕事が減ってくる秋になっても、予約が残っていた。その為ここ2カ月余りほとんど休みが取れていない。
「仕事が多いのは嬉しいけどさ、やっぱり休みはある程度欲しいよね」
「先輩大人気ですもんね」
そう言うと、篠原さんは一瞬はにかんだ後、思い出したように、あ。と表情を変えた。「休みが取れてないって、じゃあ聡美さんとは会ってないんですか?」
「ん? 会ってるじゃん、毎日」
「じゃなくて、仕事以外で、ですよ」
「ああ、そうだね……」
それは俺としても胸が痛いところだった。最後にデートしたのがちょうど2か月前でそれ以降ほとんど二人の時間は取れていない。ようやく自分の仕事がひと段落して、やっと聡美さんとの時間も取れると思っていた矢先に、今回の篠原さんのサポートの話が来た。
「ごめん、知美のサポートに着いてくれない?」と聡美さんに手を合わせられたら、嫌、とは言えないだろう。
「ダメですよ女の子を放っておいたら。女の子はみんな寂しがり屋なんですから」
「聡美さんはそんなに弱くないよ」
「いいえ! 先輩は女の子を解ってません」
篠原さんは腕を組み、眉根を寄せてじっと睨む。俺はその視線にたじろぐしかない。
女の子を解ってないといわれると弱い。まさにその通りだからだ。
「近いうちに誘わなきゃダメです」
「解ったよ。心配してくれてありがとう」
社内に車掌の声が響く。もうすぐ降りる駅に到着するらしい。この話を終わらせるいいタイミングだった。
「ホラ、もう着くよ」と、勢いよく立ちあがる。「さぁ、帰ろう」