パレット
聡美と真理
「どうだった?」
あたしの顔を見るなり真理はグイっと顔を近づけ、目を輝かせた。
「うん。楽しかったよ」
あたしはあくまで穏やかに、書類の整理をしながら淡々と答える。
「何? その満足げな顔。良い事あったんだ、プレゼントもらえた?」
「良い事、あったよ」
左手には啓輔にもらった時計がはめられているが、袖に隠れているので真理からは見えない。あたしは顔を上げて、真理の目を見ながらニヤリと笑う。教えてやるもんか。これは啓輔の気持ちそのものだから。
「なんだよ、幸せそうな顔しちゃって」
「悪い?」
「いいや、なんか若く見えるよ、聡美」
「それって、嫌味?」
狭い室内に真理の笑い声が響く。長年の親友は、聞こえるか聞こえないかの声でポツリと、良かったと零した。
啓輔と拓実
「どうだった? おい」
ビルの入り口を開けると、ロビーで待ち構えていた岩さんに声をかけられた。どうしても結果が気になるらしい。
「ああ、うん。楽しかったよ。聡美さんも喜んでくれたみたいだったし」
俺は努めて冷静に、岩さんを落胆させないように答える。
「そうじゃねぇよ、やったのか? やってないのか?」
やっぱり気になるのはその一点のみらしい。岩さんらしいと言えば、それまでなんだけど。
「岩さんらしく言うなら、やっては、いない」
「なんだよー」
岩さんは大げさに上半身をのけぞらせて、嘘だろー、と嘆いた。
「あんだけレクチャーしてやったのにダメだったのか? 聡美はそんなに身持ちが堅いのか?」
「そうじゃないよ。岩さんのおかげでデートは大成功だった。すごく楽しかったよ」
岩さんの気持ちに感謝を示して、一応これだけは言っておく。だけど、最終目的については、俺と岩さんでは考え方が違うのは仕方がない。
「岩さんには悪いけど、俺たちはこれで良いんだよ」
啓輔と知美
なじみの椅子に座り、パソコンの電源を入れると、入口のドアが開いて篠原さんが出勤してきた。ここ数日の落胆ぶりが嘘のように明るい顔をしている。
篠原さんは聡美さんとの挨拶もそこそこに、俺の前に走り寄って、先輩! と跳ねた声を出した。
「三浦くんの意識が戻ったんです」
篠原さんは、あの事件以来、一週間以上意識不明だった三浦さんが、昨日意識を取り戻したのだと話した。その顔は今まで見た篠原さんのどの笑顔よりも輝いていた。
「わたし、ようやく三浦くんに謝れたんです」
「そう、三浦さんはなんて?」
「『篠原が無事でよかった』って。一言だけ言ってまた寝ちゃいました」
「良かったね」
「はい」
篠原さんは眩しい笑顔を見せる。彼女自身の本来の明るさを、今まで落ち込んでいた分まで取り戻しているかのようだ。
拓実と知美
「悪かったな、トモちゃんにあんなこと頼んで」
お昼休み、コンビニに向かう途中で岩崎は手を合わせて謝った。
「あの事ですか? いいんですよ。わたしもいつか聡美さんに話さなきゃいけないと思ってたんですから。ちゃんと話せて良かったんだと思います」
「そう言ってもらえると、助かるよ」
「――で?」
知美は好奇心に満ちた目を岩崎に向けると「どうでした? あの二人は」と小声で訊く。
「トモちゃんにまで手伝ってもらっておいてなんだけど、またダメだったみたいだ」
岩崎が落胆を滲ませてそう言うと、予想に反して知美はまるで子供のように軽快に笑った。
「やっぱりですか。そうじゃないかと思ったんです」
「どう思うよ、あいつら」
「わたしはいいと思います」知美は白い歯を見せる。
「先輩は今時珍しいくらい奥手だし、純情で、はたから見てると展開が遅くてやきもきするけど、そんな先輩に愛されてる聡美さんは幸せだと思いますよ。きっと聡美さんも満足してると思います」
「嘘」岩崎には信じられなかった。「体を求めなくても?」
「そういうのが必要ない関係もあるんですよ、きっと」
「マジかよ」
「マジです」
そして聡美と啓輔
気がつけば、週が明けたら今まで通りのパレット戻っている。
拓実はいつものように椅子に寄りかかってパソコンとにらめっこしながら周りにちょっかい出してるし
知美はこないだまでの暗い雰囲気が嘘のように電話口で明るい声を出している。
真理は性懲りもなくメガネの奥で瞳を光らせて何かを考えているようだし
悟は相変わらず仏頂面でデザイン画と向き合っている。
そして啓輔が叩くキーボードの音が室内に響き渡る。相変わらず誰よりも早くて、心地良い。
先週までとは大違いだ。皆の声が室内を走り回ってオフィス全体が明るく感じる
改めて思う。あたしはやっぱりこのオフィスが好きだ。
おせっかいだけど皆の事を第一に考えてくれる拓実。
一時疑ったりもしたけど誰よりも明るくてかわいい知美。
付き合いが長い分互いになんでも知ってる真理。
いつも仏頂面しながら冷静に周りを観察してるけどホントは誰より優しい悟。
そして――
「聡美さん、まだ帰らないの?」
午後8時。誰もいなくなった室内でパソコンの電源を落とした啓輔が背もたれに寄りかかりながら訊ねる。
「そろそろあたしも終わりだよ」
あたしは皆からもらった仕事の見積もりをエクセルに入力して、書類に承認印を押す。これで今日の仕事は終わり。
両手を突き上げて伸びをすると左手の袖の隙間から赤いベルトが見えた。ピンクの文字盤の上で小さな針が動いている。そっと触ると自然と顔がほころんでしまう。
「そっちは大丈夫?」
「オッケー、ちゃんと閉まってるよ」
「じゃあ、消すね」
戸締りを確認して、明かりを落とす。
ドアを開けて外に出ると少し肌寒い。あたしはコートの前を閉じて、玄関に鍵をかけた。
「久しぶりだね、聡美さんと帰りが一緒になるの」
後ろから啓輔の声がする。あたしは振り返って「それは」と指を向けた。
「それは、啓輔がずっと知美と一緒にいたからだよ」
じっと睨んでやる。あたしはずっとやきもちやいてたんだぞ、と。
「それは……ゴメン」
啓輔は申し訳なさそうに眉を下げた。なんでも真に受ける性格はからかい甲斐がある。
「いいよ」と言うと啓輔の顔に明るさが戻った。単純な奴。
なじみのレトロなエレベーターで1階に降りると、ロビーのガラス越しに正面の公園のオレンジの明かりがうっすら差し込んでいた。普段はこんなこと気付きもしないけど、明かりの落ちたロビーに広がるオレンジはとてもキレイに思えた。
「ねぇ啓輔」
「うん?」
名前を呼ぶとすぐに返事が返ってくる。近くにいるとやっぱり安心する。
今だから思う。独立してオフィスを立ち上げて良かった。啓輔と出会えてよかった。
「せっかくだから二人で飲みに行こうか」
なんか気分が良いから、飲みに行ったついでにあたしからキスしてやろう。きっと啓輔は顔を真っ赤にして驚くだろうな。
久しぶりに聡美さんと一緒になると、飲みに誘われた。もちろん断るわけがない。
俺も同じことを考えていたんだから。
ビルを出て並んで歩く。公園の木々の間から差し込むオレンジの明かりに、隣を歩く聡美さんが左手につけた時計を大事そうに触るのが見えた。さっそくつけてくれたんだ。
「ねぇ聡美さん」
「うん?」
聡美さんはぼんやりと俺を見る。口元に浮かべられたほほ笑みがすごく優しくて思わず俺も顔がほころんでしまう。
「好きだよ」
ホントは何か違う事を言おうとしたんだけど、聡美さんの顔を見たら何とはなしに口から零れた。
聡美さんは一瞬眉を上げて、何言ってんの? と目をそらす。
だって、今の聡美さんすごくキレイだ。俺の好きの気持ちはいつも容量いっぱいですぐに零れてしまうんだよ。と言ったらきっと『バカ』って笑われるんだろうな。
今日は飲みに行ったついでに勇気を出して俺からキスしてみようかな。きっと聡美さんは目を丸くして驚くだろうな。
でも決めたんだ。聡美さんから来てくれるのを待つだけじゃなく俺からもちゃんと近づく努力をするんだと。
「こないだ聡美さんが言ってた神様の話さ」店に向かう途中、狭い路地を歩きながらこないだから気になっていた事を訊いてみる。どちらからともなく繋いだ手が暖かい。
「何? あれは忘れてよ」
「あれは聡美さんの妄想では、神様は最終的に俺達をどうしたかったの?」
聡美さんは、恥ずかしそうに笑って、「そんなの、決まってるよ」と言った。
それはまるでずっと昔から決定したいた事のように力強く俺の耳に届いた。
「ハッピーエンド、だよ」
聡美と啓輔のお話はこれにて一旦の閉幕となります。
彼らの物語は終わることなく、これからも続いていくことでしょうから
機会があれば、またその時に・・・
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
usk
2011/10/2連載終了 2012/3/17加筆、修正