当日
聡美と啓輔が交互に続きます
聡美
いつになくすっきりと目覚めた。いつもは目が覚めた後も少しの間布団の中でゴロゴロしてしまうのが、今日は目が覚めてすぐに起き上がれたほどだ。
部屋の時計が10時を指している。普段より3時間も多く寝られたからだろうか?
リビングへ行くとまずキッチンに置かれたコーヒーメーカーのスイッチを入れる。これがあたしの日課。仕事の日でも、休みでもまず朝一のコーヒーが無いと一日がすっきりしない。
ソファに腰をおろし、コーヒーが出来上がるまで携帯をチェックする。これも日課の一つ。昔に比べて着信もメールもだいぶ減ったけど、未だにメールをくれる友達も少なからずいる。まぁほとんどは啓輔から来てないかをチェックするだけなんだけど。
メール着信1件 啓輔からだ。
『おはよう。まだ寝てるかな? 昨日言った通り今日の待ち合わせはお昼でいいよね? 駅で待ってます』
メールを見て思わず顔がほころぶ。昨日までは今日という日を楽しみには思えなかったが、今は楽しみで仕方がない。
『おはよう、今起きたよ。今日はあたしの誕生日祝ってくれるんでしょ? 楽しみにしてるね』
メールの返信を打ち、送信ボタンを押すと、キッチンでコーヒーメーカーが味気ない機械音を発しながら蒸気を噴き出した。
さぁ、まずはコーヒーを飲もうかな。
啓輔
メールを送信してベッドから飛び降りる。
昨日の定期通院でようやくギプスの取れた右足で着地すると、まだ少し痛かった。
カーテンを開けて朝日を部屋に取りこむと、ガラステーブルに光があたってキラキラと反射した。テーブルの上のデジタル時計は8:20と表示している。休みだと言うのにあまり寝られなかった。
眠い目をこすりながらポットに水を入れ、火にかける。朝一でコーヒーを飲むのが眠気を覚ます為の毎日の日課だ。お湯が沸くまでの間、聡美さんから教わったコロンビア産の豆をコーヒーミルに入れてゆっくりと挽く。初めは面倒だと思った手動式コーヒーミルも、最近はすっかり慣れて、ガリガリと豆を粉砕する音が妙に心地よくもある。
カップに注いだコーヒーをガラステーブルに置き、携帯をもう一度開く。外を見れば一目瞭然だが、一応念のため天気を確認すると、今日は一日快晴らしい。
ホッと胸をなでおろす。昨日の岩さんの言葉が脳裏に浮かんだ。
『いいか? 誕生日デートは全部お前が主導権を握れ。ただし予定は立てるなよ。あくまでさりげなく最終目的まで持って行くんだ』
岩さんの言う最終目的まで行くかどうかは別として、一応昨日の電話で今日は俺に任せてほしいとは言ってある。
天気が晴れなら、予期せぬ出来事に慌てることもないだろう。
まぁ、全て岩さんの言うとおりにするつもりもないけど。
コーヒーを一口啜ると、口内に広がるコーヒーの香りがみるみる眠気を覚ましてくれた。
聡美
駅に着くとすでに啓輔の姿があった。服を選ぶのに時間がかかったが、腕時計を確認すると12時ぴったりなのであたしが遅れたわけじゃなさそうだ。
「お待たせ。いつもながら早いね」
待ち合わせをすると啓輔は必ず早く来る。これはもう癖なんだなと気付いたのは何回目かの待ち合わせであたしの方が早く着こうと15分前に待ち合わせ場所に行ったにもかかわらず啓輔の方が先についていた時だった。
「そんなに待ってないよ」
これも必ず言う。ホントは結構待ってるくせに。
「さて、まずはどこに行くの?」
今日一日何をするのかあたしは何も聞いていなかった。まぁ、あたし達のデートはいつもノープランだからいつもの事と言えば、いつもの事なんだけど。昨日の啓輔の話はあたしの気分を少しだけ高揚させるものだった。
「お昼だからね、とりあえずご飯食べようか?」
啓輔は眩しい笑顔を見せて歩き出す。
今日一日啓輔があたしをどうエスコートしてくれるのか、子供っぽくわくわくしながら後をついて行くと、珍しく啓輔の方から手を繋いできて少なからず驚いた。
「あたしは楽しみにしてて良いのかな?」少し意地悪く訊ねてみる。
「一応ね。でもあんまり期待しないでね」と、啓輔は困ったように笑った。
啓輔
『飯を食うなら、和食が良いぞ。周りが静かだから無理なく会話ができる』
と岩さんは言ってたけど、初めて入るこの店はあまりにも静かすぎて、今がホントにお昼時なのか疑ってしまいたくなる。席は結構うまってるのに会話があまり聞こえてこないのは不自然で、ぎこちなくなりそうだ。
「おいしいね。こんな店知ってたんだ?」
聡美さんも周りを気にしてか、少し顔を近づけて小声で話しかけた。
「いや、俺も初めてなんだ。どこが良いかなって、調べたらココが良さそうだったから」
失敗だったかな。緊張であまり味が解らない。
右手で箸を動かすたびに内ポケットの中に入っている物が当たるのも俺の緊張を否応なく誘う。待ち合わせ場所に行く前に受け取ってきた、聡美さんへのプレゼントだ。お店の好意でプレゼント用にキレイにラッピングされていた。おかげで動くたびにポケットの中で音がするんじゃないかと気が気ではない。
『プレゼントはギリギリまで見せるなよ。もらえるとは解ってても、こっちとしては切り札だ。そう簡単に見せるもんじゃない。効果的な場所で、効果的な演出をして出さなきゃダメた』
そうは言っても岩さん。ずっと隠し持ってるのは心臓に悪いよ。
「どうしたの? おいしくない?」
俺の緊張を勘違いした聡美さんが心配そうな顔を見せる。
「あ、いや。煮物にしいたけが入ってるな~って」
あわてて取り繕う。顔が引きつっていないか心配だ。ちゃんと笑えているだろうか。
「しいたけ嫌いなんだっけ?」
聡美さんは、じゃあ、あたしが食べてあげるよ。と煮物の上に存在を主張するしいたけをひょいと箸でつまんで、口に入れる。
「ありがと」
「おいしいのに、しいたけ」
「ダメなんだ。しいたけだけは」
「好き嫌いは、いかんなぁ」
聡美さんが自分の事を棚に上げて意地悪く笑うので、負けじと言い返す。
「自分だって嫌いな人参よけてるくせに」
「あ、ばれてた?」
聡美
全てを啓輔に任せたデートは新鮮で楽しかった。
お昼に食べた和食のお店はすごくおいしかったし、この歳では少し恥ずかしさを覚えるお台場の観覧車も、啓輔に連れてこられるとすんなり乗れた。当の啓輔はぎこちなさが見え隠れするものの、今日の為に色々調べたらしい片鱗が見えるたびに、あたしは嬉しかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がつけば太陽は姿を隠し、代わりに細い月が顔をのぞかせ始める。
今日はホントに楽しかった。久しぶりのデートもさることながら、啓輔の変わらない優しさを感じて、幸せだった。ただ一つ。この時間になってもプレゼントを渡す気配が無い事を除けば。
催促するつもりはないし、用意してなくてもそれはそれでいい。あの時『プレゼントを見に行った』と聞かなければ、こんなに気にする事も無かったんだろうけど。
「お腹空いたね」啓輔はお腹に手を当てて言う。
「そうだねぇ。いつの間にかもうこんな時間だし」
あたしの腕時計は19時を指し、お腹の時計もそろそろ鳴りだす頃だ。
「じゃあ、行こうか」と啓輔は照れ臭そうに頭を掻くと、あたしの手を取り歩き出した。
「実はレストランの予約を取ってあるんだ」
今日の啓輔はホントによく出来てる。別人なんじゃないかと疑いたくなるけど、上から握られた手を指をからませるように繋ぎ直すと、途端に顔を赤くするからいつもの啓輔に間違いない。
海沿いのホテルの12階にあるレストランは大きな窓からレインボーブリッジが一望できた。
空間に浮かぶように煌びやかにライトアップされた橋脚が夜空に二つの花を咲かせている。水面に反射したライトの数々がキラキラと、まるで星を散らしたように輝いて、普段何気なく見ているレインボーブリッジが今日ばかりは全くの別物に思えた。
「乾杯しようか」
食前酒のワインが注がれたグラスを啓輔は優雅に持ち上げる。
これは夢なんだろうか?
あたしは急激に失った現実感に少し戸惑いながら、つられるようにグラスを持ち上げた。
二人のグラスがほんの少し触れて、チン、と澄んだ音を立てる。
「聡美さん、誕生日おめでとう」
啓輔
夜景の見えるレストランは二人の雰囲気を自然とロマンチックに演出してくれた。
運ばれてくる料理はどれもおいしくて、会話も自然と盛り上がる。
『夕食はここがいいぞ』と、この場所を教えてくれた岩さんに感謝しなくては。
「何か、夢みたいだね」
食事が終わり、デザートの到着を待つ間、聡美さんは窓の向こうに見えるレインボーブリッジを眺めながら呟いた。
「何が?」
「ホント言うと、今日は何回か『こいつはホントの啓輔か?』って疑ったんだよ」
「何それ? ひどいなぁ」
冗談めかして顔をしかめると、聡美さんはごめんねと目を細めた。
「それだけ今日の啓輔は別人のようだったんだ。あたしなんかの誕生日をこんなに素敵に演出してくれるなんて思ってもいなかったから……」
そう言って聡美さんは姿勢を正して、ありがとうと小さく頭を下げた。
思いがけない感謝の言葉に、顔が熱くなる。その一言が何よりの報酬だった。一日歩いて酷使した右足の痛みも忘れるほどの。
「なんかね、あたし思うんだ」
デザートの空き皿を片づけてもらい、何もなくなったテーブルの上で、ワイングラスをゆったりと回しながら聡美さんがポツリと呟く。グラスの中で揺れる赤い液体を眺めながら、それはひとり言のようにも聞こえた。
「この世界に神様がいるとしてね? その神様が、あたし達の間にドラマを作ろうと、必死に意地悪してるんじゃないかって」
「ドラマ?」
「うん。こうしたら面白いんじゃないか? どうしたらこの二人を面白くできるかって、あれこれ意地悪するんだけど、あたし達はさ、こんなだからことごとく神様の思い通りにはいかないの」
聡美さんはバカみたいな妄想だけどね、と恥ずかしそうに笑った。
「あたし達二人じゃ、ドラマになんかなるわけないのにね」
「もしこの世界に神様がいて、俺達に意地悪をしてたとしても、俺は俺だし、この気持は変わらないよ。俺は聡美さんが好きだし、何よりも大切に思ってる」
それは俺の素直な気持ち。この気持だけは決して揺らぐことはない。今までにも何回も言ってきたし、この先もきっと何回でも言うだろう。
聡美さんは驚いたように一瞬体を緊張させると周りを伺うようにして「そういうことはさらっと言うんだよね、啓輔は」と恥ずかしそうに目を伏せた。
「うん、ありがと。嬉しいよ」
『効果的な場所で効果的な演出をして渡せ』
頭に岩さんの言葉が響いた。ここか? 渡すタイミングは。
聡美
顔が熱い。絶対赤くなってる。
啓輔が突然変なこと言い出すからだ。
啓輔の素直さは時に恥ずかしい。なにもこんな所で言わなくてもいいのに。恥ずかしくて顔が上げられない。嬉しいけど。
「聡美さん」
不意に呼ばれて、恥ずかしさをごまかそうと慌てて顔を上げると、啓輔は何かを隠すようにテーブルの上に両手を置き、真面目な顔で見つめていた。
「これ、喜んでもらえるか解んないけど」とゆっくり手をどかすと、キレイにラッピングされた小さい箱が現れた。
「誕生日プレゼント。受け取ってくれる?」
スッとテーブルの上を滑らせて、あたしの前に箱を寄越す。
シルバーの包装紙に包まれた箱は小さく、薄い赤色のリボンが結ばれていた。
「……開けていい?」
「どうぞ」
箱を受け取るとあまりにも軽くて、ほんの少し力の加減を間違うと途端に壊れてしまうじゃないかと思うほど、それ自体がかけがえのない物に思えた。
ほどいてしまうのがもったいないくらい丁寧に結ばれたリボンをゆっくりほどいて、破いてしまわないように慎重に包装紙をはがしていくと、やがて見覚えのあるロゴが目に入った。
フランスの有名時計ブランドのロゴだ。
「これ……」
「聡美さん、いつも腕時計してるでしょ? だから時計にしてみたんだ」
自分の手の中にある箱が信じられない。まさかと頭が否定を試みるが、この箱は確かにあたしの手の中に存在している。
「開けてみてよ。気に入ってもらえるかどうかは、解んないけど」
震えそうになる手を必死に抑えながら箱を開けると、まずあたしの目に飛び込んできたのは鮮やかな赤色をした革ベルトだった。クロコダイルのウロコ模様が特徴的だ。四角い本体はシルバーの縁どりに薄いピンクの文字盤が可愛らしい。12時と3時の所に小さいダイヤが埋め込まれていた。
「ちょっと、これ……高かったんじゃないの?」
啓輔の財布事情を少なからず知っているあたしは思わず本音が出てしまう。啓輔は、そんなことないよと、あからさまな謙遜を見せたが、実際は相当したはずだった。
「気に入らなかったかな?」
驚きのあまり声も出ないあたしを、不安そうに見つめる。
「そ、そんなことないよ。すごく嬉しい」
気に入らないはずがない。これは啓輔から初めてもらうプレゼントなんだから。それがたとえどんな物でも嬉しかったに違いない。
こんなに無理しなくてもよかったのに。時計に込められた啓輔の思いが胸に詰まる。
「ありがとう。大事にするね」
啓輔
『最終目的まで持っていけ』と岩さんは言っていたけど、目の前で時計を見て目を潤ませてくれている聡美さんにそんな無粋なこと言えるわけがない。
聡美さんが喜んでくれれば満足だった。これ以上何を望もうと言うんだ。
『半年も待たされたら、焦れるだろ』
またしても岩さんの言葉が頭に響く。俺が良かったとしても、聡美さんはどうなんだろう。好きならば結ばれるべきなのか? 俺だけじゃなくて聡美さんも望んでいるんだろうか。
「聡美さん、俺、こんなだからさ、なかなかデートにも誘えないし、二人でいる時もいつも緊張しちゃってロクに触れ合うこともできなくて、自分で自分が情けなくなる事が多いんだ」
唐突に話し始めた俺を聡美さんはキョトンとした顔で見つめた。そりゃそうだろう。俺自身なんで今こんなことを話し始めたのか解らないんだから。
「もしかしたら、今までに聡美さんともっと親密になれるチャンスがあったのかもしれない。そのせいで聡美さんにもどかしい思いをさせてしまったのかもしれない。でもね、これだけは解って欲しい。俺だってホントは聡美さんともっと親密になりたいし、人並みに欲求もあるんだ」
「それって――」聡美さんは目を丸くしたかと思うと、顔を近づけて耳打ちするように「……エッチしたいって事?」と訊いた。
はっきり答えるのが恥ずかしくてゆっくりと首肯すると、聡美さんは珍しいものでも発見したかのように「へぇ……」と間延びした声を出して頷いた。
「そっか、ちょっと安心した。啓輔もちゃんとそういう欲求があるんだね」
「ごめんね。ちゃんと言えればいいんだけど、なかなか言い出せなくて。だからもう少し待っててくれないかな。その、ちゃんと俺から言えるまで」
自分の言っている事が情けなくて、申し訳なさも手伝って、最後の方はほとんど小声になっていた。聡美さんはええ? と大げさにのけぞり、どうしようかな、と意地悪く笑う。
やがて黙って見つめていた俺に、いつもの優しいほほ笑みを見せて
「いいよ」と言った。
俺は聡美さんの「いいよ」が大好きだった。なぜならそれは聡美さんが俺を認めてくれた証だから。俺という人間を認めて、一緒に歩いてくれると約束してくれた証だからだ。
「でも」聡美さんは人差し指を向けて「あんまり遅いと、味が落ちるかもよ?」と一言付け加えた。
「そんなことないと思うけど、じゃぁ、あんまり遅くならないうちにね」
よろしい、と聡美さんが笑うと、テーブルの上でグラスの中のワインがゆらゆらと揺れた。店内の照明を反射した赤い液体は鮮やかに輝いて見えた。