啓輔 Ⅱ
今日も何事なく家に帰れそうだ。
「篠原の元彼がどこで狙ってるか解らないんで、くれぐれも気をつけて」と三浦さんは念を押したが、今のところストーカーと思われる人物が現れる気配はなかった。
駅のホームからアパートへの道を歩きながら何とはなしに周りを見渡す。
「いつもわたしと一緒にいて、聡美さんに何か言われません?」
ただ黙って歩くことに飽きたのか、篠原さんは口を開いたと思ったら、そんなことを訊ねてきた。
「何かって?」
「え?それは……その、嫉妬、的な?」と篠原さんは自分で言ったにも関わらず言いにくそうに目をそらした。
「毎日話はするけど、そういうことは何も言わないぁ」
「ちゃんと、フォローした方がいいですよ。女の子はすぐ不安になるんですからね」
「そう思うんなら、ちゃんと聡美さんに説明してよ」
アパートが視界に入ると、同時に怪しい人物が目に入った。とっさに篠原さんの歩みを止める。
怪しい人物は木陰に隠れるようにして、アパートを伺っているように見えた。顔を上にあげて、視線は2階の方に向いているような気がする。
「あれって、篠原さんの元彼?」
「解りません……暗いし、遠いし」
確かにこの距離では顔の判別はおろか、年齢の特定も難しい。とはいえ怪しい人物がうろついている限り、このままアパートに帰るのは危険に思えた。
「……どこかで時間をつぶそうか?」
「いいんですか? ……時間」と篠原さんは時計を指差した。
とっさに腕時計を見る。時刻は夜の21時になろうとしていた。
「うん。あまり遅くならなければ大丈夫だよ」
聡美さんに電話するのは決まって22時以降だ。少しくらいの余裕はある。
来た道を少し戻り、近くのファミレスで時間をつぶす。ちょうどお腹も空いていたし、ここで夕食を済ませることにした。
「聡美さんと付き合ってどれくらいなんですか?」
屈託のない笑顔で篠原さんが訊ねる。
「ちゃんと付き合いだしてからは、まだ半年くらいだよ」
俺と聡美さんが付き合っていることはオフィス内では周知の事実ってやつだ。去年の暮れに聡美さんの方から想いを伝えられて、今年の春に俺の方から正式に申し込んだ。女性から想いを告白されることも、自分からちゃんと伝えることも、なにより女性と付き合うこと自体が初めてで、何も解らないまま手探りで進んできた半年だった。
恋愛をカードゲームに例えるとするなら、今まで恋愛を経験したことのない俺が持っているカードは一枚だけだった。
好き。というカード。
他にカードがない以上、どんな時でもそのカードを使うしかなくて、いつもワンパターンになってしまう。
飽きられないかな?
バリエーションの少ない男でつまらなくないかな?
その思いはどうしても拭うことはできない。嫌われたくないという思いが強くて、逆に重くないだろうか、といつも思う。
「いいなぁ、聡美さん」
篠原さんはホットサンドをつまみながら、羨ましい。と言った。
「何が?」
「だって、先輩優しいから。先輩みたいな人と恋人になれたら、絶対幸せですよ」
幸せでいてくれたらどんなに良いだろう。でもどうしても不安になってしまう。俺は幸せだよ。聡美さんはどう?
アパートに戻ると、怪しい人物はいなくなっていた。
「じゃあ、先輩。おやすみなさい」挨拶をして篠原さんは隣の部屋へと入って行った。
6畳ワンルームのアパートの隣に住んでるのが篠原さんだと知った時は驚いた。同じオフィスで働く仲間が同じアパートの隣に住んでるなんて、世間は狭いとは言うけど、狭すぎだろう、と思わず笑ってしまったほどだ。
部屋に入ると、真っ先に携帯を取り出す。時計を見てずいぶん遅くなってしまったと、焦りが生じる。時刻は22時36分を指していた。1時間ほど時間をつぶすつもりが、篠原さんの話が止まらないおかげで、少し長居してしまった。
「もしもし?」短いコールの後、すぐに聡美さんの声が聞こえた。待っていたのかな。と申し訳ない気持ちになる。
「ああ、聡美さん。遅くなってごめんね」
「ううん、大丈夫。そんなに待ってないから」
聡美さんの明るい声にホッとする。
どんなときも、聡美さんと話しているだけで落ち着く。それは会話じゃなくて、メールでも同じだ。
俺のことを忘れてない。それだけで嬉しかった。だから聡美さんが突然不安そうに「ねぇ、啓輔」と呼んだ時も俺は1ミリだって迷わなかった。
「うん? 何?」
「あたしのこと、好き?」
「もちろんだよ。俺が好きなのは聡美さんだけだよ」
俺がどんなに聡美さんを好きなのか。この一言でちゃんと伝わっているんだろうか。
聡美さんは、ほんの少し間をおいて「うん」と小さく呟いた。
「うん。あたしも好きだよ。啓輔」
なるべく間があかないように
載せていきます