前日 聡美
今日は朝から拓実と啓輔がいない。仕事がないからビラを持ってあちこち回ってくる、なんて言ってたけど、どうせロクでもない事を考えてるに違いない。まぁ、啓輔の視線を気にすることなく仕事に集中できたおかげで、だいぶはかどったから、よしとするか。
「じゃあ、お疲れ。聡美も早く帰んな」
真理は小さく手を振り、帰り際にウインクした。明日の誕生日に関する何かの合図のつもりらしかったが、あたしはそれどころじゃない。何せ今は啓輔の事を信じられないんだから誕生日も何もあったもんじゃない。
真理が出て行って室内にはあたしと知美の二人になった。
最近は定時ですんなり帰る知美が、今日は珍しく残っている。特に仕事があるわけでもないのに、と不思議に思い、じっと見ていると不意に目が合う。
「聡美さん」と呼ばれて体が強張った。
な、なんだ? やる気か?
知美はふらふらと立ちあがって近づいてくる。
なんだろう、宣戦布告でもされるんだろうか。
「やっと二人になれましたね」と知美は表情を変えずに言った。
「どういう意味?」
冷静に返しはしたが、内心はドキドキだ。
「わたし、ちゃんと聡美さんと話をしなきゃってずっと思ってたんです」
「な、何?」
「先輩の怪我の事」
「へ?」
あたしの心配をよそに知美はゆっくりと今までの事を話し出した。
元彼のストーカー被害の事、啓輔に相談してずっと護衛してもらっていたこと。そのせいで知美と付き合っていると誤解されて襲われてしまった事。時々言葉に詰まらせながらも、止まることなく切々と。
「あの時、わたしのせいだと呟いたのはそういう意味だったんだ」
「あたしのせいで先輩にあんなひどい怪我させちゃって、わたし申し訳なくて」
「それで泣いてたの?」
思いがけず出てしまった言葉に自分で驚いた。しまったと思った時にはもう遅く、一瞬目を丸くした知美は「見てたんですか?」と申し訳なさそうに訊ねた。
「あ~、うん……見るつもりはなかったんだけど」
そのせいで今、疑心暗鬼です。
「そうですか、ごめんなさい。聡美さんの大事な山田さんをお借りしちゃって」
いや、そういう風に言われると、どう対応していいのか困るんですけど。
「わたし、好きな人がいるんです」
静かな室内にあって、知美の声はとてもか細く、耳を立てないと聞き逃しそうになる。
「でも、彼もわたしのせいで大きな怪我をしてしまって……」
聞けば、その彼はストーカーに連れ去られた知美を助けに行った際に刺されてしまったらしい。
あたしにはなんだか突拍子もない話に思えて、現実感はあまり感じられなかったが、話しながらもポロポロ零れる知美の涙がそれを真実だと伝える。知美は二十三にしてとんでもない現実にさらされているのだと思い知ると同時に、同情がこみ上げてくる。
そんなことになってるとも知らずに啓輔の行動が怪しいだの、知美と何かあるんじゃないかだの疑っていた自分が恥ずかしかった。
「どうしてそれを今話そうと思ったの?」
「最近、聡美さんと先輩が、なんかぎこちなかったから、もしかしたら疑ってるんじゃないかと思って」
見抜かれてた。若干二十三歳の知美にあたしの考え全部見抜かれてた。
穴があったら入りたくなるほど恥ずかしかったが、そこは堪える。
「そんなことないよ。ホラあたし明日誕生日でしょ? この年になると誕生日前はちょっと気が重くなるの」
一回り近く下の子に見透かされて動揺なんて見せられるものかと、嘘をついた。
だって、なんか悔しい。あたしってそんなに単純なのかな。
「わたし、どうしたらいいんですかね」
しばらくあふれる涙をティッシュで拭っていた知美は、俯いたままポツリと呟いた。
「三浦くんの怪我も、先輩の怪我も、みんなわたしのせいなんです。わたしが巻き込んだから……」
ようやく止まりかけた涙が知美の大きな瞳からまた、あふれ出す。
きっと啓輔が怪我した後からずっと悩んで、そして立て続けに好きな人が怪我をして、さらに自分を追い込んで、毎日のように泣いているんだと思った。不安で、苦しくて、突きつけられた現実に押しつぶされそうになるたびに自分を責めているのだろう。
「知美。うぬぼれちゃダメだよ」
あたしはティッシュ箱からティッシュを2枚取り、知美の涙を拭いて、顔を上げさせた。
「啓輔も、知美が好きな彼も、きっと知美のせいだなんて思ってないよ。きっかけは確かに知美が相談したからなのかもしれないけど、知美を助けようと思ったのは彼らの意思なんだから、怪我をしたのも自分のせいなの。知美がいくら自分を責めても彼らは喜ばないよ。今知美に出来ることは自分を責めることじゃなくて、知美自身がしっかりすることじゃない?」
あたしにはストーカー被害を受けた経験もなければ、大事な人を自分のせいで大けがさせたと悩んだ経験もない。だからあたしの言葉がどれほど知美の心に届くのかは正直解らないけど、今あたしが言えるのは年長者としての最低限の励ましだけだ。
「その人の事好きなんでしょ? だったらちゃんとお見舞いに行って、しっかりお世話してあげなさい。塞ぎこんでたって何も始まらないよ」
そう言って肩を叩くと、知美は真っ赤に腫らした目を細くして、はい。とほんの少しの笑顔を見せた。
「……良かったです」
帰り支度を終えた知美は、ドアを開ける前にあたしを振り返り、そう呟いた。
「何が?」
「聡美さんの誤解が解けて……ホントは今日岩崎さんに言われたんです『誤解を解くなら今日しかねぇぞ』って」
知美の背後に拓実の姿が見えたような気がした。なんだかあいつの思惑通り進んでいるようで、ほんの少し腹が立つ。
「わたし、どうしたらいいのか解らなくて……こんな時相談できるの聡美さんしかいないから、ちゃんと聡美さんと話が出来て、嫌われてなくてホントに良かった。おかげで自分のするべき事が分かった気がします」
知美は深々とお辞儀をして、最後は笑顔でドアを開けた。
「バーカ……そんな顔見せられたら嫌いになれないじゃんよ」
バカ岩崎。今回はあんたに助けられた、かな。
知美が帰った後の誰もいなくなった室内で、あたしは椅子に座ったまま天井を見上げていた。
なんだったんだろうと、この数日の疑心暗鬼がとてもバカらしいものに思える。
現実ってこんなものなんだろうか。
あの時の光景がドラマとか小説とかだとその後の展開は、相手の女が、今回で言えば知美が先輩はあたしのものだ。とか、開き直った男が、今回で言えば啓輔がお前にはもう飽きたんだよ。とか言って、哀れな年上女は物語から消されてしまうものだろうに。
あたしの話をもし物語にしたとしてもきっと誰も読まないだろう。
だって、こんな拍子抜けな話、3流以下じゃないか。自分でも笑ってしまうほどの、なんて間抜けでバカな物語。
でもいいや、なんだか気分が軽いから。
「……さて、帰るか」
明日は誕生日だ。気が重くて、少しだけ楽しみになった。