3日前 啓輔
篠原さんの落胆ぶりは見るに堪えなかった。
当然だ。何年も、何年も思い続けた人が目の前で刺されたんだから。
三浦さんはすぐに救急車で運ばれたものの、未だ集中治療室から出る事が出来ないでいる。当然、直接面会は出来ない。
だから彼女が泣いてしまうのは仕方がない。俺に出来ることはせめてその場にいた者として、彼女の悲しみをほんの少しでもわかってあげることくらいでしかない。
「ごめんなさい」
ハッと我に返ったように篠原さんは謝った。
「わたし、何やってんだろ。先輩に泣きついたりして」
「いいよ、辛い時は泣いたって良いんじゃないかな。泣いてすっきりするってわけにはいかないだろうけど、我慢してもっと辛くなるよりも、きっといい。でも最終的にはちゃんと信じてあげなくちゃダメだよ。自分と、三浦さんを」
篠原さんは目線を落としてはい、と呟くともう一度小さくごめんなさいと謝って、アパートの中へ帰って行った。
俺はと言うと、一応先輩面したものの、目の前で女の子に泣かれた経験なんかほとんど無かったため、すぐには動けないほど緊張していた。
聡美さんは、あんまり泣かないからなぁ、と一度だけ目の前で見せた事のある聡美さんの涙を思い出した。
こびりつくような熱帯夜の中、声も出さずに涙を零した聡美さんを、思えばあの時初めて一人の女性と意識したんだった。尊敬する上司と、美しい女性。彼女の二面性に初めて気がついた、あれは聡美さんに初めて自分の過去をうち明けた暑い夏の日だった。
風呂からあがると、正面の鏡に自分の姿が映っていた。怪我をしてから5日が経ち、ようやくギプスをつけたまま風呂に入るのも慣れてきたが、鏡に映る自分の顔はまだ、見慣れない。右目の充血が取れないなと、顔を近づけると誤って体重を乗せた右足がズキンと痛んだ。
捻挫した右足をかばいながらソロソロと歩く。さすがに家の中では松葉杖は使えない。
慣れたとはいえ、何をするにも時間がかかってしまう。気がつくと22時を過ぎていた。
携帯の発信履歴から聡美さんを呼び出す。履歴に網羅された名前はそのほとんどが『聡美さん』だった。
いつもより若干長いコール音の後、「もしもし」と聡美さんの声がした。
「ごめんね、何かしてた?」
「ううん、そうじゃないよ」
電話越しの聡美さんは声の感じに抑揚がなく、元気がないようだった。
「どうしたの? 何かあった?」
「うん?」と返事をした聡美さんは、次の言葉を繋がず、間をあける。少しして「なんでもないよ」とやはり抑揚のない声で答えた。
時間にすればほんの1、2秒ほどだけど、俺はなぜだか重苦しい間に感じた。なんでもないと言うまでに何かを考えていたんじゃないだろうか。それは、俺に言えないことだったんだろうか。
もしかすると、あの時の事をまだ怒っているのかもしれないと思った。
あの時の事を俺はまだ謝れていなかった。怪我をした日以降、聡美さんは今まで通り優しくて、謝るタイミングを逃してしまったのだ。
どうやって切り出そうかとタイミングを計る俺と、気がかりがあるような聡美さんとでは、会話は続く事がなく、途切れ途切れになり、度々沈黙が訪れた。そのたび、何とか会話を続けようと話題を探す。
「そう言えば、今日あの時の事を思い出したよ」
「何?」
「聡美さんが初めて泣いた日の事」
それは、話題を探した結果に出た共通の話題のはずだった。俺にとっては何気ない思い出話のつもりで言った事だったのだが、聡美さんはそうは捉えなかったのか「何で?」と言った。
「何で思いだしたの?」
「え?」
「今日突然その事を思い出したのは、何で?」
聡美さんが何にこだわってそんなことを聞くのか解らなかった。詰問されているようで背中の毛が逆立つ。
「何って、別に理由はないよ。ただ思いだしたよって――」
「嘘」
それはとても冷たい声に聞こえた。
聡美さんは「嘘」と言ったきり口を開かなくなった。さっきまでの短いものとは違い、長くて胸を圧迫するような沈黙。
俺は何もしゃべれなかった。なぜ嘘だと思ったのか、意味もわからず、訊くこともできなかった。
しばらくすると、耳に押し当てた携帯から、空耳かと思うほど小さな声でゴメンと聞こえた。あまりに小さい声だったので反射的にえ? と訊き返すが、聡美さんはそこで突然明るい声を出して「今日はもう切るね。また明日、お疲れ様」と言って電話を切った。
規則正しい電子音を聞きながら一人部屋に取り残された俺は、何も理解できず、ただ茫然とするしかなかった。
投げ出した右足がズキズキと痛かった。