聡美 Ⅴ
ソファに腰を落ち着けて、時計を見る。
22時前に全てを終わらせるのはもう習慣になっていて、かかってくるはずのない携帯を前にして、すこしソワソワしていた。
ただつけただけのテレビからは長寿クイズ番組の特徴的な音楽が聞こえていた。子供の頃、この番組の名物CMの曲をよく真似していた事を思い出す。ハワイだかどこかにあるという木を映しただけのCMだ。大人になればあの木が何なのかわかるものと思っていたけど、三十三になった今でも、あの木は何の木なのかわからないままだ。
あの木に限らず、子供の頃は大人になればなんでもわかるのだと信じていたけど、大人になってもわからない事ばかりだと嫌でも気付かされる。最近はその最たるものだと、無意識に笑いがこみ上げた。
啓輔の事がわからない。拓実や真理が何を考えているのかもわからない。
それだけじゃない。自分の事もよくわからないし、ホラ、この番組が終わった後、次に何をやるのかもわからない。世の中わからないことだらけだ。
時計の針が22時を指す。反射的に携帯に目が行く。かかってこないよと思いながらも、期待してしまう。
目を向けた先で思いがけず携帯が鳴ったものだから、思わず二度見してしまう。
一瞬、まさかと疑うが携帯はせわしなく鳴り続けていた。
「もしもし!」相手が誰かも確かめずに飛びつく。
「聡美!」電話の主は拓実だった。
なんだ、拓実かと、落胆する。大げさに落胆する。
「何よ、こんな時間に」
「聡美、落ち着いて聞いてくれ」
拓実はひどくあわてているようだった。
「啓輔が、何者かに襲われた」
拓実が早口でまくしたてるのでよく聞き取れなくて、あたしは拓実が何を言っているのか、よく理解できていなかった。
『啓輔が』反芻してみる『何者かに襲われた』
襲われた? どういう意味?
「おい、聞いてんのか? 聡美!」
「聞いてるよ、何を言ってるの? よくわかんないんだけど」
「だから……」拓実は少しイラついた口調で「啓輔が襲われたんだ、怪我して救急車で運ばれた」と自分自身も確認するかのようにゆっくりと言う。
声が出なかった。携帯を持つ手が徐々に震える。全身が脱力して携帯を耳に当てておくのも難しい。
「何、言ってるの? 意味、わかんない」自分がさっきと同じことを言っていることすら気付かなかった。だってそんなの現実的じゃない。
「いいか? 落ち着けよ」
頭の中でドンドンと大きな音が響いて、拓実の声がよく聞こえない。それが自分の心臓の音だと気付くと、めまいが襲ってきた。
「啓輔が……怪我?」
口に出して確認すると、急激に現実感を増していく。目の前がグルグルと回って吐き気がした。口に手を当ててこみ上げてくる酸っぱいものを必死に飲み込む。
「聡美、聡美聞いてるか?」携帯の向こうで拓実が怒鳴る。
「とにかくお前も早く来い。病院は――」
慌てて呼び出したタクシーは10分と待たずに到着した。開いたドアに飛び乗り、病院名を告げる。必死に急がせて、タクシーは制限速度ギリギリであたしを病院へと運んでくれた。
ルームミラーに映る自分を見て、その時初めて自分が部屋着のまま出てきていたことに気付いた。グレーのスウェット上下にすっぴんの女は、運転手には可笑しく見えただろうと、少しだけ恥ずかしくなったけど、今はそれどころじゃない。
病院に到着すると、千円札を3枚渡して、急いで救急用入口へと向かった。
「おねぇさん、おつり」と背後から声が聞こえたが、戻るのも煩わしかったので、いらない! と叫んだ。
中に入ると、薄暗く狭い待合室に拓実の姿があった。壁に寄りかかり腕を組んでいる。表情はいつになく険しく、雰囲気から瞬時に状況を理解した。
「……啓輔は?」
「……今処置中だ」
拓実はあたしを一瞥したが、すぐに処置室に視線を戻す。
暗い待合室は嫌に静まり返っていて、どうしようもなく不安を煽る。処置室のドアの隙間からほんの少しの明かりが漏れているが、あたしにはそれが救いの光には見えなかった。
「あいつから携帯に電話が入った」
沈黙に耐えかねたのか、拓実が静かに口を開いた。
「いつものバーで飲んでたんだ。時間は、9時半頃だったか。あいつから俺に連絡なんて珍しいなと思ってさ、出たんだ。何気なく」
あたしは黙って聞いた。頷きもしないで黙って拓実の顔を見る。
「出たんだけど、何も言わねぇんだよ。こっちが何を言っても聞こえるのは風の音と、うめき声だけだった……さすがに血の気が引いたよ。ただ事じゃないってな」
そこまで言って、拓実は思い出したように「他の奴らには連絡したのか?」と訊ねた。声が震えている。恐らく涙を堪える為にわざと平静を装って話をそらしたのだろう。それともあふれ出る怒りを鎮めるためだろうか。
「ううん、まだ」あたしも努めて平らかな声を出した。そうでもしないと、たちまちパニックが訪れる様な気がしたからだ。
「じゃあ、俺は林と大島に連絡するから、聡美はトモちゃんに連絡してくれ」
そう言って携帯を取り出す。かける前に、ここって携帯使っていいのか? と独り言のように呟いたが、まぁいいか、と携帯を操作する。
あたしも言われるがまま、知美を呼び出した。呼び出し音を聞いている間中落ち着かなかった。
知美に啓輔が怪我をしたと伝えると、にわかには信じられない事実に「嘘」であるとか「まさか」であるとか口にした後、恐らく無意識にだと思うが、小さく、しかしはっきりと「わたしのせいだ」と呟いた。
何がわたしのせいなの? と訊ねる前に電話は切られた。「すぐに行きます」と最後に滑り込ませて。
電話を切るとすぐに拓実は横目であたしを見て「どうだ?」と訊ねた。顔は処置室に向いたままだ。
「うん……来るって」
あたしは知美の言葉が気になっていた。『わたしのせいだ』と呟いた彼女は啓輔がこうなった理由を知っているのだろうか?
ほんの少しの沈黙の後、金属の擦れるような音が室内に響いて、処置室から一人の看護師が顔を出した。
「山田啓輔さんの関係者の方ですか?」
看護師は義務的に声をかける。
「はい、そうです」と拓実が答えると、看護師は柔らかな笑顔を作り
「山田さん、気がつきましたよ」と言った。
その瞬間拓実の眉間に張り付くようにできていた皺がほどけた。恐らくあたしも同じような変化を見せていたんだと思う。つまり、安堵だ。
「どうなんですか?」
あたしは啓輔の容体を漠然と訊ねた。どのくらいの怪我なのかもわからないので、必然的にこんな訊き方になってしまう。
「頭部に裂傷があったため、少し縫いましたが、レントゲンにも異常はありませんし、体の方は骨折などは見られません。念のためこれから頭部のCTを取りますので、もう少しお待ちいただけますか?」
看護師の言葉はあたしの不安を取り除くのに十分な優しさと安心感を持っていた。白衣の天使とはよく言ったもので、その看護師はあたし達の前に現れた天使そのものだったのかもしれないとすら思った。
しばらくすると、真理が文字通り駆け付けた。そのすぐ後には悟も来たし、知美は見知らぬ男性に支えられるようにやってきた。皆一様に心配し、焦りにも似た感情に若干取りみだし、あたしと拓実に詰め寄った。そして啓輔の容体を告げると、一様に安堵のため息を吐いた。
知美にさっきの言葉の意味を訊きたかったのだが、がっくりと肩を落とす知美に、常に寄り添うようにして見知らぬ男が張り付いていて、なんだか近寄りがたい。
何か、こんな時なのにあの二人妙にいい雰囲気醸し出してますけど。
と、若干の腹立たしさを覚えたが、処置室のドアが開いた瞬間にそんなことは消え去った。
啓輔が出てきた。
両腕に松葉杖を携えてぎこちなく歩く姿が痛々しい。頭には包帯を巻いているし、右足にはギプスがはめられている。松葉杖を持つ両手はでっかい絆創膏が貼ってあるし、右目の上が腫れていて、充血している。黒のズボンには所々泥がついているし、羽織っただけのグレーのジャケットはいつも着ているものと同じとは思えなかった。
啓輔は待合室に集まったみんなの顔をゆっくりと見回すと、少し喋りにくそうに口をもごもごと動かした。
「ああ、みんなごめんね。心配かけちゃって」
「啓輔!」
啓輔の無事を少しでも近くで確認したくて駆け寄ると、啓輔はあたしの顔をみて、弱弱しく笑った。
「大丈夫? 拓実から電話貰って、あたし、啓輔にもしもの事があったらどうしようかと……」
堪え切れず涙が出そうになる。こんなときにも心配をかけまいと優しくほほ笑む啓輔の笑顔が胸に痛かった。
「聡美さん、ごめんね」啓輔は小さく謝ると、恥ずかしそうに顔を少し赤くした。
「ホラ、来週聡美さんの誕生日でしょ? プレゼントをさ、見に行ったらその帰りにやられちゃった」
「バカ!」もうダメだ、目が熱い。
「そんなことの為に、もし死んでたら絶対許さないから」
みんなの前で泣きたくないのに、啓輔のほほ笑みは容赦なくあたしの心を覆い尽くす。
「無事で……良かった」今は、そう言うのが精いっぱいだ。
「ごめんね。心配かけちゃったね」
溢れた涙が、一粒だけ零れて、落ちた。