啓輔 Ⅳ
「じゃあね、お疲れ様」と篠原さんに挨拶をして俺はいつものアパートの近くの駅よりも2駅手前で電車を降りた。
飯塚さんの家の仕事が今日で終わり、これで篠原さんのサポートの仕事も終わった。
昨日、聡美さんにちゃんと謝ろうと決めたときから、今日はこの駅で降りると決めていた。来週の聡美さんの誕生日にあげるプレゼントを選ぶ為に、いつも降りる駅よりは、この駅の方が都合が良かった。
「聡美さんが許してくれなかったら、意味ないんだけどな」
ホームを歩きながら、まるで意味のない事をしているような気がして少し可笑しかった。
若干高揚した気持ちを落ち着かせながら、足は浮ついていた。
プレゼントは何が良いだろうと、色々なお店を回りながら考えている時間はとても楽しくて、ついつい時間を忘れてしまう。ほとんど無趣味と言っていい俺は、自分自身の買い物すらロクにしないので、簡単には決められなかった。
雑貨屋に寄っては、迷い。
某有名ブランドの服を見ては、迷い。
聡美さんに似会いそうな靴を見ては、迷い。
結局決まらないまま2時間ほどあちこちの店を出入りしていると、道の反対側に時計屋が見えた。
いつも時計をしてるから、腕時計にしようかなと、恐る恐る入ってみる。高級時計ばかりを扱った、少し敷居の高い店だったが、せっかくの誕生日プレゼントだから少しくらい高くてもいいか、と高をくくった。
店内は煌びやかな照明が整然と並べられたガラスケースを照らしていて、安物のジャケットで来てしまった俺を無言で圧迫しているような気がした。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
黒スーツの女性店員が物腰穏やかに訊ねてくる。こんな格好でも一応客として認めてくれたようだ。
「あの、誕生日プレゼントなんですけど、いつも腕時計をしてるので、時計にしようかと……」
何と言ったらいいのか解らずに言葉尻がすぼまる。何か情けないな、と自分が恥ずかしくなった。
「お相手は女性ですか?」
「あ、はい」
それでしたら、と店員に連れられるまま向かった先のガラスケースには、スイスの腕時計職人が作った有名な時計が並べられている。時計の脇に置かれた小さなプライスカードを見て声を失う。正直、桁が違う。
「あの、さすがにこれは……」高すぎます、とは言えなかった。
「でしたら――」と、店員は俺の財布事情を察知したにも関わらず、卑下するでもなく、あくまで物腰は穏やかに次々と時計を勧めた。
コチラは女性の方に人気がある、と勧められた時計は、確かに可愛かったけどやっぱり高すぎる。
コチラはちょっとしたプレゼントに人気です、と勧められた時計は、値段は割と安かったが、デザインがあまり聡美さん向きではなかった。
あれこれと店員に従うまま店内を縦横無尽に歩き回り、30分ほど経った頃に俺は一つの時計に目が止まった。
フランスの有名ブランドの時計にしては、割合安く、四角を基調としたデザインといい、薄いピンクの文字盤といい、聡美さんに似会う気がした。割合安いといっても、俺の財布事情ギリギリのラインだけど。見た瞬間にこれだと思った。
色々勧めた結果、なかなか決まらない俺に店員も少し頭を悩ませていたのか、これを見せて下さい、と訊くと、その時だけ店員の顔に光がさしたように明るさが増したような気がした。
どうぞ、と渡された時計を手に取ると、見た目より軽くて、手のひらの上でふわりと浮くような感覚だった。
「初めてのプレゼントにこの時計はおかしいですかね?」
その時計は気に入ったものの、プレゼントとしてはどうなのか自信がなくて、つい店員に訊ねてしまう。黒スーツの店員は、やはり物腰穏やかに柔らかい笑顔を作ると
「コチラの時計を女性にプレゼントなさる方はあまりいませんね」と言った。
ずいぶんはっきり言うな、と驚いていると。店員は「ですが」と言葉をつづける。
「私は、好きですよ」とその時だけ親しみやすい笑顔を見せた。
その言葉は、全然説得力もなかったし、売る側としては気のきいた台詞でもなかったが、ほんの少しだけ背中を押された気がした。女性店員がその時だけ見せた笑顔が、それ正解ですと言っているような気がしたのだ。
「じゃぁ、これください」
今日は見るだけのつもりだったのだが、勢いで決めてしまった。それでも後悔はなかった。商品はその場では受け取らず、聡美さんの誕生日まで店に預けることにした。
外に出ると、昨日とは打って変わって晴れた空に半分だけの月がぽっかりと浮かんでいて、なんとなく気分が良かった。
少しでもこの気分を長く味わいたくて、二駅分を歩いて帰る事にした。体の内側から駆けだしたい衝動が湧いてくる。楽しくて仕方がないと言ってもいい。
初めてあげるプレゼントを聡美さんは喜んでくれるだろうか、どうやって渡そうか、などと考えていると二駅分の距離なんて目と鼻の先のような気がした。
聡美さんが許してくれなかったら、とは考えなかった。考えないようにしていたのかもしれない。だって昨日と打って変って、空にはキレイな月が浮かんでるし、足はこんなにも軽い。悪いことが起こるはずなんてまるであり得ないと、信じられた。
アパートが近くなるとますます気分が高揚した。この気分のままなら久しぶりに聡美さんに電話できるかもしれないと、自然と足早になる。
聡美さんは「いいよ」と言ってくれるだろうか。ちゃんと話をすればこの1週間感じていた黒いものを取り払うことができるだろうか。お寺の角を曲がると、後は一本道だ。
急に足が空回りしたような感覚に襲われた。目の前をフラッシュが炊かれたように白くなり、少し遅れて後頭部に激痛が走る。訳もわからないまま出した足は地面を捕えることなく、俺は倒れていた。
何が起きたのか考える間もなく、2度、3度と体を鈍い痛みが襲う。何か固いものを叩きつけられているとわかった時には俺の目は異様な光景を捕えた。
街路灯に照らされて真っ黒になる人のシルエット。手を高々と上げて何かを振りかぶるその姿はなぜか俺の頭に『ムンク』の代表的な絵画を思い出させた。男が橋の上で叫ぶ、あの絵だ。
なんだこいつは?
暴漢? 通り魔? などと目まぐるしく思考は回る。その間もそいつは「お前がいなければ!」とぼそぼそと呟きながら、なお殴る事を止めない。声の感じから男だとわかった。
俺は抵抗することもできず、体を丸めた。せめて頭だけは守ろうと、両手で頭を抱え込むと、右手にぬるっとした暖かな感触があった。
どれくらい殴られただろう、ひどく長い間のようにも感じるし、ほんの一瞬の出来事のようにも感じる。体中のいたるところを殴られたのに、不思議と痛みは感じなかった。ただ寒かった。
男はまだ殴っているのだろうか? それとも、もう止めたのだろうか?
俺はまだ生きてるのか?
それとも、もう死んでしまったのか?
それすらわからない。
呼吸をしてみる。鼻はなぜか詰まっていて苦しかったが、口からなら何とか呼吸ができる。ああ、まだ生きてるんだと、わずかながら安堵した。
何とか薄眼を開けると街路灯の明かりがぼんやりと見える。男の姿はどこにも確認できなかった。
嵐が去った後に「あれは嵐だった」というほど滑稽な事はない。今の俺はまさにそんな感じだった。「あれは、通り魔だった」と今さらながらに思った。
とにかく誰かに連絡をしなきゃと、薄れ行く意識を何とかつなぎ止めて、ポケットの中の携帯を探る。気に入っていた安物のジャケットはあちこちが破れて、土埃にまみれていた。右手に携帯が触れる。壊れていないか心配だったが、取り出すとちゃんと画面は明るく点灯していた。
安心すると途端に気が遠くなった。どのボタンを押したのか解らない携帯からは誰かの声が聞こえていたが、俺の意識は深い眠りに落ちるように薄れて行った。
「おう、山田かどうした? ……おい?」
なんで痛くないんだろう?最後に浮かんだ疑問も、目の前をテレビが消えるように暗闇がやってくると同時に消えてなくなった。
「……啓輔? おい! ……啓輔!」