聡美 Ⅳ
思えばもう1週間も啓輔と話をしていない。
空の啓輔のデスクが狭いオフィス内にぽっかりと穴を開けている。啓輔のいない穴は日を追うごとに広がり、寂しさが増していくような気がした。
話をしたければこっちから連絡すればいいんだろうけど、その都度疑惑が頭をよぎる。
もし啓輔が知美と付き合っているんだとしたら……
こんなに寂しい思いをしてる事がバカみたいじゃないか。と開いた携帯を閉じる。
ため息が出てしまうのは、この際仕方がない。
「またやってる」
顔を上げると、パソコンの画面越しに真理が見下ろしていた。
「連絡してみればいいのに」
「……うるさいな。何か用?」
こないだの話以降、真理は拓実と二人で何かを企んでいるようだった。真理も拓実も、気にしてくれるのはありがたいんだけど、正直ありがた迷惑っていう言葉を覚えて欲しいと思う。
「見てわかるとおり、暇なのよ」
真理は見てみろと言わんばかりに大げさに手を広げて、室内を見渡す。
確かに、毎年の事とはいえ、秋口のこの時期はがっくりと依頼が減り、暇を持て余すことが多い。今現在まともな仕事があるのは啓輔と知美くらいなものだった。
「で? 暇なあんた達は仕事中に何をしてるの?」と冷たく睨みつける。
やる事がないのなら、自分で仕事を探すのが社会人として当たり前のことだ。そして、それをやろうとしない者を叱るのもあたしの仕事の一つ。
「聡美達の事を思って、あたし達は計画を練ってるんだよ」
付き合いが長い分、真理はあたしの冷たい視線にもひるむ様子がなかった。それはそれで困ったものだと、あたしは目を伏せるしかない。
「計画って何よ」と訊ねると、真理は数枚の紙の束を寄越した。
『企画書』と丁寧に作り上げた書類には
・第一項 山田くんの気持ちを測る為に。と書かれている。
「何これ?」
「見ての通り企画書だよ。山田くんの愛の深さを測る計画の」
得意げに鼻を高くする真理の後ろで、椅子に座ったままの拓実がニヤニヤと笑っているのが見える。
まったく、今週ずっと静かだと思っていたら、二人でこんなことを考えていたのかと、あたしは呆れてものを言えなかった。
「大の大人が、子供みたいな事してないで仕事をしなさい」
「仕事はちゃんとしてるよ」と次に寄越したのは、丁寧に作りこまれたチラシと、いつの間にか取りつけてあった雑誌社との共同企画の計画書だった。
さすがにこんなものを寄越されては何も言えない。ただ遊んでいるわけでもなさそうだと、あたしは困惑と喜びの入り混じった顔をした。きっと真理から見れば、変な顔だったに違いない。
「とりあえずそれ、読んでみてよ」
去り際にニヤリと笑う真理は、やっぱりどこか楽しんでいる節があって、何か釈然としない。こんなもの、と書類トレイの上に無造作に重ねる。読むもんか、と。
室長という役職がら、みんなに仕事をしろと言ってはいるが、それでも仕事がないのが現状で、大手から中小企業までいたるところに売り込みをしてみてもなかなか依頼を取ることができず、気がつけばオフィス内には陰鬱な空気が漂っていて、妙な息苦しさを覚える。これはあれだ、天気が良くないせいだと、太陽を覆い尽くすドロドロとした雲を睨んでみるが、それ自体がなんの解決にもならない事を知ってもいる。
そう言えば、去年の今頃の啓輔はのぞみの事が好きだと思ってたんだよな。と不意に今はいなくなってしまった仲間を思い出した。
木ノ下のぞみは去年の9月までうちで働いていた、オフィスパレットの元エースだった女の子だ。
啓輔と同じ時期に入社した彼女を同い年の啓輔はずいぶんと意識していて、彼女が大手に引き抜かれた時の啓輔の落胆ぶりは見ていられないほどだった。
『俺、たぶん木ノ下さんの事、好きなんだと思うんです』と打ち明けられたのは、いつの頃だっただろう。耳に張り付いたセミの声から察するに夏ごろだったかもしれない。
空を蠢く黒々とした雲を眺めていると、気分までもが黒々と変色してくような錯覚に陥る。どうして今こんなことを思い出しているんだろう、と疑問が浮かんだ。啓輔に想いを打ち明けられた時に少しだけ胸が痛んだのを覚えている。あの頃は久しぶりに自分の内に訪れた感覚を信じられずに気付かないふりをしていたんだと思う。
あたしは無意識に書類トレイの一番上に置かれた紙の束を取り出していた。
『企画書』とキレイにタイプされた紙をめくる。
・第一項 山田くんの気持ちを測る為に。
『山田啓輔(以降、対象を乙とする)と言う人物の気持ちを測る為には、乙の人物像を理解しなければならない。(事項より、岩崎拓実による乙の分析を表記)』
企画書というよりも、どこかの研究レポートのような作りに思わず吹き出してしまう。
興味に駆られてあたしの目は次々に文字を追う。
生年月日から、年齢、身長、体重。さらには両目の視力まで書いてある。一体どうやって調べたのかと、向かい合って座る拓実と真理を交互に見るが、拓実ならこの辺の事は熟知していてもおかしくはないと、納得する。
さらに読み進めると、啓輔の歩んできた歴史が書かれていた。その中に『女性恐怖症』という文字を見つけてハッとした。
目の前が暗くなって、あたしは瞬時にその場所へと移動した。パレットが入っているビルの前。暗い夜道を照らす街路灯。静けさの中に場違いな声を響かせるアブラゼミ。そして、あたしの横で俯き加減で座る啓輔。
『俺、子供の頃から女の子が怖くて、高校出るまで女の子と喋ったことなんて数えるほどしかないんです。俺には姉が一人いるんですけど、その姉がひどい姉で……』
啓輔が弱弱しい声で打ち明けた自分の過去。
あれは啓輔がのぞみの事が好きだと打ち明けた時と一緒だったのではないだろうか?
啓輔は本当は話したくはないであろう自分の暗い過去を包み隠さず話してくれた。あの時全てを話した啓輔は『室長には、なんでも話せる気がします』と笑ったじゃないか。
実際啓輔のその言葉が嘘じゃない事をあたしは何度も実感したはずだ。
あたしから想いを伝えた時、啓輔はまだ自分の心にあるものがわからないと言った。
『恥ずかしい話ですけど、ホント言うとよくわからないんです。俺はずっと木ノ下さんが好きだと思ってたんです。でも木ノ下さんといる時と、聡美さんといる時では何か違うんですよね。心臓の動き方が違うというか、うまく言えないんですけど、でも嫌な感じじゃないんです。この気持がわかるまで、少しだけ待ってくれますか?』
申し訳なさそうにそう答える啓輔が、本当に真面目な人なんだと思って、あたしは『いいよ』と言った。久しぶりに好きになった人が誠実な対応をしてくれたことが嬉しかった。
啓輔と付き合いだして初めの頃、久しぶりに男と付き合うあたしが真っ先に気にしたのは、やっぱり年齢だった。
『こんなに年上でホントにいいの?』と訊ねると啓輔は『何言ってるの?』と不思議そうな顔をして「俺は、女の子と付き合いたいんじゃないんだよ。聡美さんと付き合いたいんだ」と言った。嘘を言っているはずがなかった。だって言いながら啓輔は顔を真っ赤にしていたのだから。
いつだって啓輔の口から発せられる言葉に嘘は一つもなかった。
あたしは啓輔の事が好き。
啓輔もあたしの事が好き。
この半年は二人で同じ道を歩いてきたはずだった。街路灯が照らす見通しの良い一本道だったはずなのに、いつの間にかあたし達の間に中央分離帯が出来て、啓輔は反対側を歩いている。この分離帯を作ったのはまぎれもなく、あたしの方だ。向こう側の啓輔を見れば、もう一人のあたしと手をつないで歩いている。じゃあここにいるあたしは誰?
『いつも変わらなくてこそ、ホントの愛だ。一切を与えられても、一切を拒まれても、変わらなくてこそ』
若い頃に呼んだゲーテの詩集の一文を思い出す。
啓輔は変わってない。
きっと変わったのはあたしの方。
啓輔の愛を素直に信じられないあたしは、きっとあのどんよりとした雲のように、暗く濁ってしまっているんだ。
真理達の作った企画書を閉じて書類トレイに戻した。これ以上読んでも仕方がない、とゆっくりと背もたれに寄りかかる。時計の針は丸い時計盤を貫くようにまっすぐに伸びていて、外を見れば眼下に広がる公園のオレンジの明かりが風で揺れる木々の隙間から洩れていた。
まだ6時なのにもう夜なんだ、と反射的に卓上カレンダーをみる。季節は秋。10月も終わりを迎え、11月になればあたしはすぐにまた一つ歳をとる。
また啓輔との歳の差が少しの間一つ広がる。