啓輔 Ⅲ
仕事は順調に進んでいた。依頼主がこっちの自由にさせてくれる人で、注文をつけられることもなく進められていることが一層仕事を早くしていた。本来の予定の1週間を待たずに、5日目にして、飯塚さんの仕事はほぼ終わりを迎えていた。
初日以降篠原さんがあれこれ訊いてこなくなったことも大きい要因として上げられる。
「この分なら明日には飯塚さんを呼んでも良さそうだね」
イメージボードと実際の内装を照らし合わせながら最終チェックをする。
「早く終わりましたね。これも先輩が手伝ってくれたおかげです」と篠原さんにしては珍しく殊勝な事を言うので、思わずタブレット端末から顔を上げて篠原さんの顔を覗いてしまう。
「何ですか?」
「いや、素直だな、と思ってさ」
「もう、わたしこれでも先輩の事、尊敬してるんですからね」
篠原さんが嘘をつくでもなく嬉しい事を言ってくれる。こんなことを言われては顔がにやけてしまっても仕方がないだろう。
ありがとう、と言いかけると篠原さんは「仕事だけは」と付け加えた『だけは』の部分だけ強調して。
「前言撤回」
「はい?」
やっぱりこの子は裏表がない。まぁ、それがいい所でもあるんだけど。
「なんだかんだで1週間なんてあっという間ですよね」
一階の広々とした神殿のようなロビーを歩きながら、ひとり言のように篠原さんが呟いた。ポツリと発した声は広いロビーを横断して壁を反射し、天井から吊り下げられた豪華なシャンデリアにぶつかって、雫となって降り注いだ。それは大理石の床を一歩踏むごとに響く高い足音をともなって、俺の耳に届く。
何気ない一言だったが、このロビーの一種の荘厳なイメージのせいか、もしくは俺自身が深い闇のように心に抱いていた為か、1週間という言葉が妙に胸に突き刺さった。
もう一週間も聡美さんと話をしていない。
そんなことは聡美さんと付き合い始めて以来、初めてのことだった。思えば喧嘩らしい喧嘩もした事がなく、よくよく考えてみれば、それすら聡美さんの寛容な心で許してもらっていたのではないか、と思った。
この半年、聡美さんは、何度か機嫌を悪くした。
初めのうちは電話をするのも気が引けて、聡美さんからかかってくるのを待っていただけだったが、そのうち「あたしからばっかりで啓輔から一回もかかってこない」と怒った。
二人でいるときに「手をつないでもいい?」と訊くと「わざわざ訊くな」と怒ったし、付き合いだして2カ月もすると「どうしてキスもしてくれないの?」とむくれた。
聡美さんが怒るたび、俺は軽い自己嫌悪に陥った。聡美さんが怒る理由はいつも普通のカップルならできて当然の事を出来ない俺のせいだったから。
こんなんじゃ聡美さんに嫌われてしまう。
俺はそればかり恐くて、聡美さんが怒るたび、謝った。
「ごめんね」と言うと、聡美さんは必ず「いいよ」と優しい笑みを浮かべて許してくれた。俺は聡美さんの「いいよ」が大好きだった。
今にして思えば、我慢していたんじゃないだろうかと思う。
自分から近付く努力を怠って、聡美さんの許しが出るのを待っているだけの俺を、聡美さんは寛容な心で我慢していただけで、我慢も限界が来れば爆発してしまう。喧嘩にでもなれば溜まった鬱憤を発散できるのに、俺とでは喧嘩にすらならなかった。俺の知らないうちに聡美さんは言いたい事を内にため込んでいたんじゃないのか?
俺はもっと早くそれに気付くべきだったのだ。
こないだの電話の一件。
人生に究極の2択があるとするなら、あの場面だったんじゃないだろうか。
間違った選択をした事で、聡美さんの我慢も限界を迎えてしまったのかもしれない。
「どうかしました?」
篠原さんの心配そうな眼で我に帰る。いつの間にか駅のホームに来ていた。また考え込んでいたらしい。具合が悪そうに見えたのだろう。
「大丈夫だよ。なんでもない」
ちゃんと謝ろう。
もう遅いかもしれないけど、ちゃんと聡美さんと話をして、ちゃんと謝る。もう聡美さんの「いいよ」は聞けないかもしれないけど、どんな答えでもしっかりと受け止めよう。全て俺が悪いんだから。