聡美 Ⅲ
「馬鹿」
「へ?」
ファミレスの一角で真理はあたしをしっかりと見据えて言い放った。
席に座った途端の一言目がこれだ。真理の隣では小学生に上がったばかりの心ちゃんが、意味も解らずに「ばか、ばか」と楽しそうに繰り返していた。
正直あたし自身もなぜ真理に馬鹿と言われたのかさっぱり意味が解らなかった。仕事帰りに久しぶりにご飯でも食べない? と誘われたときには、まさか一言目に馬鹿と言われるなんて思いもしなかった訳で、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「話してごらん」
「何を?」
「なんかあったんでしょ? 山田くんと」
「何で?」
「あんた今日何回携帯開いたと思う? あたし暇だったから数えちゃったよ」
真理に指を向けられて言葉に詰まる。今日一日の自分の行動を思い返してみたけど、携帯を何回確認したのかは覚えているわけもなかった。
「あたしが見ただけで8回。初めはメールしてるのかと思ったけど、あんた開くだけで何もしないで閉じてたし、なんか気になる事でもあるのかなって思うでしょ、普通」
「時間を確認しただけだよ」と言い訳すると、真理は無言で左手を指差した。
あ、はい。腕時計してます。
「それに、山田くんの様子もおかしかったしね。知ってる? 朝、山田くん逃げるように現場に出たの。あんた達の態度見て気付かない方が難しいよ」
真理の口から出た山田くんの名前に、隣でおとなしく話を聞いていた心ちゃんが素早く反応して「聡美ちゃん、ケイスケお兄ちゃんとケンカしたの?」と真理にではなくあたしに訊ねた。子供特有の鋭さ、とでも言うのだろうか、彼女の純粋な眼差しはまるで悪いのはあたしなのではないかと錯覚させる。
必死に笑顔を作る。林親子に睨まれてあたしの背中は悪寒と共に汗が滲んでいた。
「ううん、何でもないのよ」と心ちゃんに言い聞かせながら、小声で真理に「心ちゃんって超能力でもあるの?」と訊ねずにはいられなかった。
「さあね、でもたまに人の心を読んだかのように思った事を口にすることがあるから、もしかしたらあるのかもね。名は体を表すって言うでしょ? この子は名前の通り心に敏感なのよ」
真理はそう言ってニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。
まさか、と思いつつ心ちゃんの顔を見ると、じっと見つめる大きな瞳が、まさにあたしの心を見透かしているような気がして思わずぞっとした。この子がいる限り隠し事はできないと思わされる。
「――で?原因は何?」
林親子の追及についに耐えきれなくなったあたしがやけ食いという現実逃避に走り、山盛りのサラダを次々と口に入れ、バリバリと咀嚼していると、アイスコーヒーを飲みながら、冷ややかな目を向けていた真理がしびれを切らして口を開いた。
「――は?」あたしはフォークに刺したレタスを口に運ぶ途中の形で固まる。
「喧嘩の原因だよ。言ってごらん」
「別に、喧嘩したわけじゃ……」
「喧嘩じゃなくても、気になる事があるんでしょ?」
「それは、……そうだけど」あたしの言葉は語尾にいくにつれ声が小さくなっていく。
「心ちゃんの前では、話せない」っていうかホントは言いたくないんだけど。
「心はまだ小学生に上がったばかりだよ。大人の会話なんてまるで解らないんだから、気にしなくていいわ」
「いや……」無邪気にお子様メニューを頬張る心ちゃんが目に入る。「さすがに、まずいよ」
「あ、そ。じゃいいわ」真理はおもむろにバッグから携帯を取り出し「山田くんに聞くから」とタッチパネルを操作する。
「ちょっ」慌てて止めようとすると真理はにやりと笑ってわざと画面を見せながらコールを押した。画面には間違いなく『山田啓輔』と表示されている。
「わかった、わかったから、とにかく電話を止めて」
あまりにも焦ったあたしは自分が大きな声を出していることにも気付かず、一瞬のどよめきの後、周りの席から視線が集中するのを肌で感じて冷や汗が流れた。
「初めからそう言えばいいのよ」真理は電話を切り、携帯を左手に持ったまま、身を乗り出した。
こいつは周りの視線は気にならないのか? と長年の親友の神経を改めて疑い、店内の視線を一身に受けてあたしは身を縮める。まさに穴があったら入りたいとはこういう状況の事を指すのだと、身をもって実感した。
しかして、観念したあたしはこないだの事を話すしかなかったわけだが、全てを離す必要もないわけで、かいつまんで、啓輔の行動が怪しいとだけ話した。さすがに体を求められない、とは言えない。
真理はふ~ん、と鼻を鳴らすと、で? と言った。
「で? あんたは何を疑ってるの?」
「いや、それは……」
「言いたくない?」
「……うん」
「あ、そ」
自分から聞いておいて関心がないのか、真理はテーブルの上の紙ナプキンを取ると、食べ終わって満足そうな顔を浮かべる心ちゃんの口元を拭いてあげる。それがとても慣れた手つきで、あたしは思わず感心した。ちゃんとお母さんやってるんだ、と。
「なんだ、結局岩崎くんの言った通りか」
真理は心ちゃんの口を入念に拭きながら、ぽつりと零すように呟いた。
「え?」拓実がどうしたって?
「岩崎くん言ってたよ」真理は汚れた紙ナプキンをくしゃっと丸めてテーブルの上に置くと、すっかり氷の解けてしまったアイスコーヒーを一口飲んだ。
「『山田は何があっても聡美一筋だ。一途っていう言葉を通り越してバカの域に達するほどのな』って。あたしもその通りだと思う。山田くんは聡美以外の女のことなんて考えられる人じゃない。付き合ってるとわからなくなるのかもしれないけどね。山田くんみたいな男は滅多にいないよ」
そんなこと、言われなくたってわかってる。でもどこか信じられない自分がいる。そのことが嫌な自分もいる。
啓輔を信じたい。
けど素直に信じられない。
この二つのせめぎ合いが、こないだの電話の一件から日増しに強くなって、あたしを苛んでいる。これは、もう自分ではどうしようもない。
「ま、でも疑ってしまうのもわかるよ。相手が本当に自分を愛しているのか知りたくなるのは、もう本能みたいなもんだもんね。」
真理はそう言ってしばし遠い目をしたかと思うと「そっか」と優しくほほ笑んだ。
「わかったよ。聡美も辛いんだねぇ」
「いや、そんなことは……」
「無理しなくていいから、あとはあたし達に任せておきなって」
「え?」
あたし『達』? 『達』って何?
その瞬間、ニコニコとほほ笑む長年の親友の顔が、ほんの少し悪魔のほほ笑みに見えた事は、絶対に言えない。