啓輔 Ⅱ
聡美さんからメールの返信はなかった。
昨日も何度も電話をしようか迷ったのだが、結局出来ないまま月曜日の朝を迎えてしまった。
ドアを開けるのが恐い。聡美さんはまだ怒ってるのかな。
「どうかしたんですか?」
俺が入るのを躊躇していると、篠原さんが不思議そうな顔で訊ねた。今日もいつものように護衛を兼ねて一緒に出勤しているのだが、篠原さんと一緒にいることも躊躇する原因の一つだ。
「い、いや。なんでもないよ」
そう言って笑顔を作るが、きっと空笑いだ。
篠原さんに気付かれないように小さく深呼吸して、ドアを開く。
「おはよう」
予想に反して聡美さんはにっこりとほほ笑みながら挨拶した。
「おは、よう」怒ってないの? ついぎこちなくなってしまう。
「おはようございます」
篠原さんも挨拶する。何も知らない彼女は普段通り可愛い笑顔だ。
「おはよう、知美」と返事をする聡美さんの顔を見てぞっとする。背筋を冷たいものが走って身震いした。
聡美さんの様子はいつもと変わらない、と思う。なのに何でぞっとしたのかが自分でもよくわからなかった。
自分の中の何かが警告を発しているのかもしれないと思った。
やっぱり怒ってるのかな。
挨拶したきり、目線をパソコンに落として黙々とキーボードをたたく聡美さんから隠れるようにして自分のデスクへ向かうと、それに気付いた岩さんに肩を叩かれた。背中を丸めて泥棒のように歩いていた俺を訝しげに見つめる。
「よう、何かあったのか?」
「なんで?」
「いや、様子がおかしいから。お前は解りやすいんだよな」
ドキリと心臓が鳴った。岩さんの顔を見れない。
「何でもないよ」と言って平静を装う。岩さんとは付き合いが長いから、こんな演技で騙せるとは思えないけど。
う~ん。と唸る岩さんを後目に、俺は椅子にも座らず急いで準備をした。今これ以上追及されるわけにはいかない。幸い、というか何と言うか、今日から現場に出る為、岩さんの追及を受けることも、聡美さんと気まずい感じになることも、とりあえずは回避できる。
あとでちゃんと話をしよう。と心を決めて、そそくさとオフィスを後にした。
一等地に優々と立つタワーマンションはいつ来ても高級感に惚れ惚れする。いつかこういう所に住んでみたいと、思う一方で、自分にはまるで縁がないと人生の不公平さにがっかりもする。
「聡美さんて、今日機嫌悪かったですかね」
現場に着くなり篠原さんは思い出したように呟いた。頃合いを見計らったのだろうか、わざとらしく言い出すものだから思わず「え?」と素で返してしまう。
「なんかいつもと違う気がしたんです」
「違うって?」
「う~ん。うまく言えないんですけど、さっき挨拶したとき、顔は笑ってたんですけど声のトーンが微妙に違うというか、何か冷たい感じがしたんですよね」
なるほど、さっきの違和感はそれか。と納得する。男の俺よりも女の篠原さんの方が聡美さんの変化を敏感に察知していたようだ。
それは違う方向からも思い知らされた。なぜ聡美さんの様子がおかしいのか、原因は俺にあると篠原さんは読んでいたようで、それからしばらくしつこいくらいに迫られることになった。岩さんと同じ人種がここにもいることを俺はすっかり忘れていた。せっかく岩さんの追及をやり過ごしたのに、また振り出しに戻ってしまった。
なるべく仕事に集中することでなんとか追及をかわしてはいたが、彼女の辞書に諦めるという言葉はないらしく、朝から始まった質問攻めは、一旦静かになったものの帰りの電車の中で蒸し返された。
「教えてくださいよ。土日になにかあったんでしょ?」
もうはぐらかすのも疲れた、悪いけど無視させてもらおう。
「聡美さん、金曜日はすごく機嫌良かったし、ああこれは先輩とデートするんだなってすぐに解りましたよ。で、今日になったらアレでしょ? 気になるじゃないですか」
目を瞑っておこう。無視だ、無視。
「先輩が何かしたんでしょ?」と言った篠原さんが、直後「あ」と声を上げて黙り込んだ。俺はしばらく目を瞑って平静を保っていたが、「あ」の意味が気になって薄眼を開け、横目でちらりと篠原さんの様子を伺うと、真剣に何かを考えているようで、目線を床に落としてあごに手をやっていた。
「何かしたんじゃなくて、何もできなかった……違いますか?」
突然耳元でささやかれて心臓が止まった。いや実際には止まってはいないのだが、一瞬本当に止まったのかと思うほど、ドキリと音を立てた。
耳元で声がしたからじゃなく、真相を突かれたからだった。彼女はもしかしたら岩さんよりも鋭いかもしれないと、冷や汗を感じる。
「わたしの想像ですけど、土日のどっちかにデートした先輩たちは、どこかで良い雰囲気になった。そこで聡美さんに迫られたりしませんでしたか? それを先輩が――」
「篠原さん」さすがにこれ以上黙っていられなかった。篠原さんの言葉を遮る。
「それ以上言わないでくれるかな。頼むから」
それは篠原さんの想像が正しいと認めることだ。それは解っていたが、野次馬的考えで色々と揶揄されるのはさすがに辛い。今の状況を作った原因が俺にあることも、また俺が悪いことも解っている。解っているから客観的にあれこれ言われたくはなかった。
篠原さんもそれ以上口を開くことはなかった。
気まずい雰囲気の中、電車は緩やかな加速と減速を繰り返し、目的の駅へと俺達を運んでいた。