聡美 Ⅱ
玄関を開けて、明かりをつけるなりあたしは「はぁ」と大きなため息をついた。無意識なんかじゃなく意図的に吐いた。
なにもできなかった。
どうしてもしたかったわけじゃないけど、して欲しかった。
倒れ込むようにソファに体を沈める。妙に頭が重かった。怒りやら悲しさやらで頭の中がぐちゃぐちゃだ。
雰囲気は間違いなく良かった。啓輔もその気になっていたと思う。あの電話さえかかってこなければ。
どうしてあの状況で啓輔は電話に出たんだろう。そんなに気になることでもあったんだろうか。啓輔は知り合いからだと言っていたけど、目を合わせようとはしなかった。あの態度があたしの疑惑を強くする。
ホントにただの知り合いなの?
やっぱり何か隠してるんじゃないの?
だってあたしと続きをするよりも電話に出ることを選んだし。よほど大事な相手がいない限りそんなことしないはずだもん。
やっぱりあたしに魅力がないのかな?
やっぱり八歳も年上だからなのかな?
「はぁ……」またため息が出た。今度は無意識だった。
今日会えば疑惑がなくなると思っていたのに、なくなるどころか深くなってしまった。それだけがショックだった。
もう今日はお風呂に入るのも面倒くさいな。
体がソファに沈んだまま動くことを拒否する。『気が沈む』と言うけど、気が沈むと体も沈んでしまう。まるで体に重い鎖が巻きついているかのようだ。
このまま寝ちゃおうかな。
ああ、でも化粧だけは落とさないと。
体をソファに押し付ける重い鎖を振り払って、なんとか起き上がる。ぼんやりする頭を振って、重い体を引きずりながら洗面所に向かう。
化粧を落とすと、洗面台の前に情けない顔をした女が立っていた。大きい鏡に映る自分の顔。これ自分の顔?
二十三の頃から仕事に生き、自分の仕事に絶対の自信を持って、周りの声を力でねじ伏せてきた、あの初芝聡美さんがそこに映っているはずなのに、現実は今にも泣きそうな弱弱しい女の顔をまざまざと映している。
リビングで携帯が鳴る音が聞こえた。メールの着信音だ。
じっと鏡を睨みつけると、一瞬鏡の中の自分が笑ったような気がしてハッとする。
まるで鏡の中のあたしが現実のあたしを見て嘲笑っているような気がして無性に腹が立った。
リビングに戻ると、携帯が緑色の着信ランプを点滅させていた。あたしのイライラを助長するかのように定期的に明滅する携帯を無造作に取り上げる。今は何もかもが敵に見えた。
携帯を開く。メール一件。啓輔からだ。
「聡美さん、今日はごめんね。せっかく来てもらったのに怒らせちゃって……こんなはずじゃなかったんだけど。ゴメン」
メールを見た瞬間に全身の血が全部頭に上って急速に沸騰する。怒りが頂点を超え、体中のうぶ毛が逆立つような感覚を覚えた。
こいつ謝りやがった!
苛立ち任せに携帯をソファに叩きつける。
啓輔は何も解っていない。
あたしがなんで怒ったか。
あたしがなんでこんなに寂しいのか。
謝られた方がみじめになる事だってあるんだよ。
あいつはどうして解らないんだろう。あたしの気持ちの3分の1でも解ってくれればこんなに腹が立つこともないのに。
あんな奴もう知るか!