啓輔 Ⅰ
「コーヒーで良いかな?」
「あ、うん。ありがと」
聡美さんは窓際に腰かけて、初めてくる俺の部屋を物珍しそうに眺めていた。聡美さんの家に比べたら、ここなんてウサギ小屋だよ。と心で呟く。
「今度の土曜日どこに行く?」
「聡美さん、その日なんだけどさ、家来ない?」
三浦さんの頼みを断れなかった俺は、デートの予定を変更して、聡美さんを家に招いた。篠原さんと三浦さんのデートをキャンセルさせたくない。けど自分の方もキャンセルしたくない。葛藤の末、俺が出した結論は、家でまったりする。だった。
というのも家のアパートは壁が薄く、隣の音が丸聞こえなのだ。だからもし今日篠原さんが出かけている間にストーカーが忍び込んだとしても、家に居れば音で解る。聡美さんには申し訳ないけど、俺にはこれしか浮かばなかった。
「うん、おいしいよ」
聡美さんはコーヒーを一口飲んで笑顔を見せた。その笑顔がかわいくて思わずハッとする。自分の家に聡美さんがいるっていうだけでどうしてこんなに意識してしまうんだろう。
「ホント? 良かった。前に聡美さんの家で飲んだコーヒーに少しでも近づきたくて、最近毎日淹れてるんだ」
俺はとにかく喋り続けた。少しでも黙ってしまうと理性が飛んでしまうような気がして恐かった。久しぶりのデートを楽しみにしてくれていた聡美さんを裏切りたくはない。
聡美さんは相槌を打つばかりでほとんど喋らなかった。時折遠くを見るような目をしてどこかを見ていたり、ボーっとしてるのかと思えば急にそわそわしたりと、少し様子がおかしい。
もしかしたら具合が悪いのかと思った。思えば聡美さんもしばらく休んでいないわけだし、疲れが溜まっているのかもしれない。
心配になった俺は、聡美さんに横になるように勧めた。もし具合が悪いのなら、看病をして一日を終えてもいい。
聡美さんは「ああ」だか「うん」だか、あいまいな返事をして、ふらふらと立ち上がると、俺の隣にストンと腰をおろした。目が虚ろで顔も少し紅潮している。熱があるのかもしれない。
「何か作ろうか? お粥とかのほうが良いかな?」
今朝炊いたご飯がまだ残っているからそれでお粥を作ろうと立ち上がると、思いがけず腕を引っ張られた。よろけ気味に無理やり座らされると、急に聡美さんが体を寄せてくるものだから、心臓が跳ね上がる。
「さ、聡美さん?」そんなにくっつかれると、俺我慢できなくなっちゃうよ。
「啓輔、ドキドキしてるよ」
「ど、どうしたの?」
もしかして聡美さんも意識してたのかな? 様子がおかしかったのもそのせいなのかな。
「啓輔が悪いんだよ」そう言って上目づかいに見つめる聡美さんがあまりにもかわいくて、その瞬間理性で抑えつけていた感情があふれてしまった。
そっと首に腕がからみつく。俺の目はもう聡美さんの唇に釘付けだ。背中に手を回して、ゆっくり引き寄せる。
鼻と鼻が触れる、キスまであとほんの数ミリ……のところで携帯が鳴った。思わず顔を上げると聡美さんの残念そうな顔の先で、ガラステーブルの上で俺の携帯が震えていた。
「……電話だ」
「……出なくてもいいじゃん」
聡美さんは首に回した腕を離そうとしない。俺も背中にまわした腕を離したくなかった。きっとこれを離したら先に進むタイミングを失ってしまう。でも――
「大事な電話かもしれないよ」
「今あたしとこうする以上に大事なことってあるの?」
腕にぐっと力を込めるのが解る。続きをしたい。聡美さんとキスがしたい。キスだけじゃなくその先も――
「……ダメだよ。やっぱり出ないと」
背中にまわした手を離す。それだけで全てを手放したような寂しさに襲われた。ガラスに振動を伝えて嫌な音を立てる携帯を恨めしく手に取る。電話の相手は三浦さんだった。
もうそろそろ帰る、という報告と、篠原さんの部屋に異常がなかったかどうかの確認。
「無茶なお願いを聞いてくれてありがとうございました」と三浦さんは明るい声を出した。
「いえ、いいんですよ。それより楽しかったですか?」
「え? ……ええ。楽しかったです」
「そう、それなら引き受けた甲斐がある」
携帯を置いて振り返ると、ベッドに座ったまま聡美さんは黙って見つめていた。もうその眼にさっきまでの雰囲気は滲んでいない。いっそ冷ややかな視線と言った方がいいほどだ。
当然だな、と思った。
「誰からだったの?」そう訊ねる聡美さんの声は限りなく小さく、限りなく冷たい。
「……知り合いからだった」
でなければよかったのかもしれない。そうすれば聡美さんを怒らせることもなかったし、こんなに罪悪感を抱くこともなかったのに。
聡美さんの視線が、痛い。たった一本の電話で全てが変わってしまった。