最終日
目を覚ますと、世界は未だ宵闇の中に在った。
顔を上げようとするが、頬が何かと接着しているようだった。衛士は顔を机から引き剥がすようにしてようやく立ち上がる。椅子を引いて、油塗れになるテーブルをさするようにしてから身体を動かすと凝り固まった筋肉が鈍くも鋭い痛みを突き刺す。そんな激痛に少しばかり、深呼吸をして気を落ち着かせてから、立ち上がり、大きく伸びをした。
――そこは自宅の居間であり、ケータイを確認すると時刻は既に五時○○分であった。
寝巻きではない衣服は尋常でない汗を吸い込んで不快感を覚えさせている。衛士は顔から、身体から吹き出る汗をそのままに、気分でも変えようと玄関へ向かい、靴を履いて外に出た。
履き古した靴は気がつくと汚れ、黒ずんでいる。しかし履きなれたものであるために心地よく、また動きやすかった。
大きく息を吐くと吐息は白く染まる。同時に、全身に突き刺すような寒さが染み渡った。季節感逞しい気温に、流石に薄着だったかと下着にシャツ、ジーンズという気軽な格好に苦笑する。
――やけに、頭がスッキリとしていた。何かに解放されたような気分だった。
あっという間に汗も引く寒さに身を抱きながら、衛士は閑静な住宅街をゆっくり歩く。夜の散歩も乙だと呟いた。
鍛え抜かれた肉体はプロレスラーのように鋼鉄が如きでは決して無いが、それでもその細身に似合った締まる筋肉を纏っている。されどやはり寒気には勝てないのは、仕方が無いことだろう。
世界はやはり、少なくとも衛士の目に映る範囲は平和に見えた。どれだけの時が経過してもそれだけが変わらないのは、彼にとっての救いに思えた。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、目は冴えて心はより落ち着きを持つ。
衛士は等間隔で並ぶ街灯の下で立ち止まり、冷めた目で誰も居ない先を見つめながら呟いた。
「今は気分が良いんだ。邪魔をしてくれるな」
口元には薄い笑み。されどその生気の無い瞳が全てを物語るようだった。彼の友人がその感情の大きな隔たりを見れば狼狽すること請け合いだろう。
――現在は三月三日。”アレ”から半年以上が経過した。試練の三ヶ月前ではない。試練から九ヶ月近くが経過したのだ。そして記憶はしっかりと、衛士の脳に刻まれている。
しかしそれは飽くまでも記憶だけである。
例えば、何気なく朝食を食べたとしよう。しかし味が無い。されど腹が膨れる。時間が経って昼になり、空腹を覚えた。その時に、朝食を食べたはずなのに、と何を食べたか思い出す。そうだ、ご飯に焼き魚、それと味噌汁を食べたのだ。ではどのような味だったのか? 分からない。味が無かったから。
彼はつまり、そんな記憶だけを持ち合わせていた。
友人達と共に、学園での様々な行事――体育祭、文化祭、球技大会、修学旅行、夏休みには海に行き、元日には初詣に行く。誰々と、どんな会話をした。それは覚えている。だがその時何を思ったのか、何を考えたのか、分からない。
ただ行った、体験したという事実だけが記録される。それだけだった。
衛士が鮮明な感情を覚えているのは、六月一日以前までの事。それ以降、今に到るまでには泣き笑い、怒りもしただろう。しかしその熱は一切無い。だから感慨に耽る事も出来ず、ただ遥か昔の事でも思い出すように懐かしむだけだった。
――恐らく、巻き戻した日数分だけが強制的に早送りして月日を経過させたのだろう。
そうしなければならなかったのか、これもまた試練の一つなのかは、定かではない。
しかし衛士が家族を失ったのは事実であり、そしてそれを悲しむ間も無く既に九ヶ月以上が経過れていた。
イワイ・ヒデオは死んだだろうか。衛士は自身に問うが、否であると即答される。
奴のスーツは身体能力を向上させる。肉体を強化することだろう。そしてそれ故の強靭な肉体を持つ。だから、治癒能力も、何かの冗談かと思いたいくらいに強化されている筈だ。そしてどちらにせよ、この”道具”の使用に慣れ、ないし素質を持つ人間をそう簡単に手放す、手放せるはずが無い。
イワイもまた、仕方無しに強いられていた一人――されど、未だに許せる相手でもなかった。
過ぎた月日は全てで約二七六日だろう。九日間と言う時間制限を過ぎたのか三○回。イワイの言葉が正しければ、だが。そして一日目で脱落したのが六日間。そして六月一日から加速が開始したのであれば現在が三月二日でなければならないのだが、砂時計を使用した分だけまた時の加速する分が追加されると考えればこのくらいが妥当であろうと考えられた。
「試練の中で既にノルマの善行一○○回は達成されている。トキ・エイジ。貴様はこれよりこちらへ来る権限を得た」
女性の、澄んだ声が透き通るように空気を響かせる。衛士は嘆息しながら冷えた手をポケットに突っ込んで、煌めく星を見上げて、オリオン座を見つける。最も彼が知る星座はそれ以外には冬の大三角形しかなく、無限のように広がる空でそれを探すには見慣れぬ衛士にとって苦難以外の何物ではない。そんな彼は首を振って諦め、俯いた。
「こちらってどちら? 最低限説明すべき事すら説明しないつーのは、どうなのよ」
「貴様の理解力は驚愕を隠せぬ程に平均を下回っている。話すだけ無駄、と言う事だ。身をもって覚えろ」
「てめぇじゃ話にならねぇな。ミシェルを呼べ」
「彼女には既に貴様に対する記憶は無い。黙って――」
不意に心が大きく震えた。
それはまるで――初めて、家族の死体を見つけたときのような動揺だった。
思わず振り向き、数メートル後方にある街灯の下に立ち尽くす女性の姿を睨んでしまう。しかし動じない彼女へと、怒鳴り散らすように疑問を投げた。
「どういう、事だよ!」
褐色の肌には白い短髪が良く目立つ。片目を隠すような髪型で、服装は以前ミシェルがしていたものと同様の、ウェットスーツのような服。微動だにしない彼女は、キリッと引き締まる口元を緩めてから、吐息を白く染めて言葉に応じた。
「知りたければ付いて来い。怨念を晴らしたくば……」
「黙って話せよ、オレの質問に!」
眉間に皺を寄せ、いつしか影になる眼窩には赤く染まるような殺気が漲っている。されど彼女は涼しい顔で肩をすくめると、同様に睨み、威圧を持って衛士に食い下がった。
「愚図が。貴様は招かれれども客人ではない。丁重に扱えとの命を司っては居ない。私がここで貴様の質問に答えてやるのと、力づくで連れ行くのではどちらが容易か判断らないか?」
「テメェを倒せば話して貰えるって事だな」
その場に捨てるように呟く衛士は、間髪おかずに駆け出した。その速度はイワイとの戦闘で見せた素早さの比ではなく、俊敏に掛ける衛士は瞬く間にして彼女との距離を縮める。
その一方で褐色の、二十歳前後の風貌を持つ女性はそんな衛士に苛つきを隠せず、太腿の、備え付けられているようなホルダーに差した拳銃を引き抜いた。
「低脳……自分の都合しか省みぬ阿呆、何故分からない。今の言葉で、何故話せぬと理解できない」
噛み締める白い歯の奥で怒りを孕む言葉が漏れ――閑静な住宅街に乾いた銃声が鳴り響く。
衛士は咄嗟に横に飛ぶ。視界が反転し、そしてすぐさま元に戻る。アスファルトに叩き付けた身体に擦り傷のような僅かな痛みが残るが、それ以外に外傷は無い。しかし何があるか分からぬ故に、ポケットから取り出す砂時計をその場に叩きつけて、再び姿勢を低くして走り出した。
その瞬間――。
音もなく飛来した何かが、左肩に突き刺さる。強い衝撃が、衛士の前に肉体を押し出す踏ん張りなどを容易に一蹴せしめて仰け反らせ、衛士は勢い良くそのまま空を扇いで、滑って転ぶように背中を叩き付けた。
直後に襲い掛かるのは激しい熱。熱した鉄棒でも押し付けられるような灼熱を左肩に覚え、思考はする余裕を奪われる。間も無く首は流れた血に浸り、生温かさを覚える。だというのに全身からは徐々に熱が引いていくのが良く分かった。
「咄嗟の判断、そのセンスは良い」
冷たい銃口が額を叩いた。気配が近づき強くなるのに、衛士は凄まじい勢いで暗く、何も見えなくなる視界の中で必死になって彼女を探す。やがて見つけるのは、輪郭を曖昧にする人の影だった。
「だが次のチャンスは無い。もし私と対等に渡り合いたいのなら直感だけでは不十分だ。頭を使え」
――それから暫くしてから、衛士は再び姿勢を低くした回避直後の体勢から意識を引き継いだ。
状況は発砲後。そして銃口は衛士へと向き始めている。
衛士は乱れる呼吸をそのままにして再び横に飛び込むように前転する。と、身体が道と民家を遮る壁に衝突し、停止する。その直後に凄まじい速度で飛来する弾丸が地面に撃ち出され、アスファルトが砕けて破片となり周囲に飛び散る。
衛士は発砲音の無い射撃に混乱しながらも立ち直り、砂時計を設置することも忘れて再び走り出した。
――相手の拳銃は確実に与えられた”道具”に違いない。その効果は時間差の発砲……だろうが、焦燥に駆られてその時間を確認できては居ない。
だが、本当に効果はそれだけだろうか?
そしてどちらにせよ、もう一度避けられるだろうか?
本当はただ二つ返事で頷いて、彼女の後に付いて行き、向こうに着いたところでミシェルの近況を聞けばそれで満足なのではないだろうか?
だが、もしそれで良いのならば何故イワイは全てを放棄する決断をしたのだろう。裏側を、本性を垣間見たからではないだろうか。
だがどちらにせよ、衛士に抗える力は限られている。
彼は交錯する思考に振り回され、しかしそれを振り払うかのように一直線に走り出して――発砲音で鼓膜を揺らがされる。虚空を貫く弾丸は、一瞬にして右耳の耳たぶを抉り去っていった。
灼熱が襲う。激痛が走る。
しかしそれだけでは、衛士の足を止めることは出来なかった。
彼は諦めない。既に、もうダメだなんて呟きすら失われていた。でも未だだなんて口にする暇もなく、判断は即座に行動として反映される。
彼女は再び弾丸を込める。衛士は既にあと一歩でその硬く握った拳を突き刺せる距離に迫っていた。が――振り下ろす拳銃、そのプラスチックの銃床が衛士の頭部に直撃する。
不意の攻撃に、されど歯を食いしばって拳を振りぬくが、ソレは対象を打ち抜けない。身軽な足捌きによって瞬く間に衛士のすぐ脇に回りこむ彼女は肘を振りぬき、側頭部を打撃する。
さらにくの字に折り曲がる肉体、その腹部に膝を振り上げ強打。衛士はなりふり構わず両腕を伸ばして乱舞するが、瞬時に頭を屈め、頭上でやり過ごす。そして正拳を握ると迷い無く立ち上がると同時に上昇を目論み、顎を打ち砕いた。
衛士は目を剥くが、空には星が見えなかった。身体に妙な浮遊感を覚え、直後に凄まじい重力が襲い掛かる。彼はそのまま立ち直ろうとするが、弱々しく震える膝は簡単に崩れ、跪く。
今度は後頭部に銃口が突きつけられた。
「五分前よりダメだ。蛆虫が、所詮この程度……正直、期待外れだ。死んだ家族に顔が合わせられないな?」
くつくつと彼女は肩を震わせて笑いに耽る。だが衛士に見られていないから油断をして居るのか、その目は一切笑っていなかった。
が――不意に銃身は掴まれ、後頭部に押し付けられる。それと共に衛士は立ち上がり、振り返った。銃口は額に移動し、衛士はそれを引き剥がそうとしない。女性はそんな行動に怒気を増幅させられたのか、彼女もまたさらに押し付け、引き金に指をかけた。
「笑いたきゃ笑えよ……だがな、挑発するなら上手くやれ。イワイみてぇにな……中途半端は、下手な殺意を買うぜ」
銃身を掴んだ手を下に潜り込ませて、身を沈めると同時に上へ弾く。真っ直ぐ突くように加わっていた力は、それ故に彼女の身体を僅か前方に傾けさせる。衛士は間抜けに口を開ける彼女の横面を眺めながら拳を握り、立ち上がり様に左拳の腹を自身に見せるよう構え、手首にスナップを効かせる様に頬を目掛けて振り払う。
放たれた裏拳は素直に彼女の頬に吸い込まれ、彼女の身体は大きく傾く。その中で彼女が振り上げた足は手加減も無いままに衛士の鳩尾を膝が貫き――両者はそれぞれ地に伏せ、這い蹲るようにして互いを睨んだ。
「私はそれ程器用じゃないんでね」
「どうでもいい。てめぇの事なんざな」
大地を踏み躙るようにして立ち上がり、腰を落として彼女に構える。だが一方で、彼女は嘆息と同時に素早く銃口を衛士に向けて――彼よりやや離れた虚空を打ち抜いた。それが衛士を狙ったものであれば見事に心臓を撃ち貫く位置である。
銃声の余韻を空間に残してから、太腿のホルスターの拳銃をしまう。だがその眉間に皺を寄せたままの険しい表情を崩さず、衛士に向き直った。
「この世界のトキ・エイジはココで死んだ。貴様とて分かるはずだ。既に、この世界で普遍的な人生を歩むことが出来ないのは」
「ったく。問答無用だな……」
されど、どちらにせよ衛士は彼女の後をついていくつもりだった。仮に今回の行動で心証が悪くなり切り捨てられたとしても、縋るように、だがその弱さを見せぬように食い縛って追いつく予定だった。
衛士は首の骨を鳴らして、立ち直る。彼女は続けた。
「アンダーワールド……我々は此方の世界をそう呼んでいる。覚えておけ。そして以降は簡易な説明に入る。貴様の生活に関わることである為に、聞き逃すことをしてくれるなよ」
「あいよ」
もう緊張感は無い。耳の痛みも、既に麻痺してしまっている。
――女に弱いからなのか、そもそも殺意や憎しみが無かったからか、衛士は早くも彼女を許していた。しかしそもそも、許す以前に許さないという状況が無かった。ただ言葉遣い、その発言に怒り心頭しただけであったのだ。
そんな衛士に彼女も引き締めた眉間を緩め、無表情に戻る。街灯の下で照る白いルージュの塗られた唇は静かに言葉を紡いでいた。
「向こうに着いてから二日間の休息を与える。衣食住は此方で寮を用意してあるから其方で済ませることだ。そして本来ならばミシェルが二日間で覚えるべき事を教えるのだが、生憎此方の都合でそれが不可能となった。それ故に、担当は他の者が付く」
「イワイは?」
「……奴の言葉を信じるのは勝手だが、鵜呑みにはするな。奴に限った事ではないが――兎も角、イワイ・ヒデオは既に此方側の人間だ」
――ならば、イワイが衛士の両親を殺したのも、あるいは彼女等の命令なのかもしれない。
ただ何もせずに見ていたのだろうか? 彼がどんな考えであの行動に到ったのか、その本心は分からないが、少なくとも止められる立場であったのに、それをしなかった。
オレはそんな所にこの身を委ねようとしている。だというのに、これといった感情が湧かなかった。
心に広がるのはちょっとした虚無感だけ。衛士は溜息をついて、なるほどと頷いた。
「此方の世界での携帯電話は向こうでは使えず、連絡用の端末は此方で用意する。通貨は特に統一されてはいない。が、基本的には”円”だ。それから……、以上だ」
彼女は視線を宙に彷徨わせてから、小さく頷くように衛士を見据えて強く言い放つ。
「着替えは?」
「基本的には此方で用意する特殊なスーツだが、休息時は自由だ。ただし持ち込みは現金以外であれば、既に渡されている道具……貴金属以外ならば許されている。が、向こうで仕入れる事が出来るものばかりだ。思い入れが無いのであれば、特に荷物にする理由は無いと思われる」
「口座に大金があるんだが……」
「申請すれば此方で手続きをし、引き出せるようにしておく」
彼女は顔色一つ変えず、目を見て淡々と答える。衛士は気にせず気になった事を口にし続けた。
「お前等が所属しているのは?」
「貴様が配属される際に説明を受けるだろう。詳しい説明は向こうでする。では……そうだな。七時まで時間を――」
「いらねぇな。さっさと連れて行け」
「ふぅ。思い切りが良いのは見事だが……」
「説教なんて聞きたかねぇよ」
彼女は頬に僅かな笑みを浮かべる。少しばかり、何かに期待するような顔で、それでもそれを抑えるように眉間に皺を寄せた。
衛士はポケットに手を突っ込んだまま、やがて肩の上に彼女の手を添えられる。だが彼女は精一杯手を伸ばした状態で、極力近づきたくは無いようであった。
それから彼女は目配せして、行くぞ、と語る。衛士はただ頷いた。
――衛士が家族を失った翌年三月三日。衛士が砂時計を手に入れてから一一ヶ月……体感的には僅か二ヶ月後、衛士は惜しげもなく自身が育ってきた世界を辞す。その瞬間、同時に時衛士の存在を知る全ての人間の記憶から、そして保存されている記録から、彼が最初から存在していなかったかのように、彼に関わる記憶、記録、その殆どが消滅した。
それが、時衛士の、秘められし最初の物語である。
世界は緩やかに、破滅と平和との狭間で揺らぎ始めていた。