試練 四日目~九日目
倉庫があったのはゴミ処理場の端っこで、既に使用されず放置された場所だった。
偶然作業している作業員に出くわし、衛士は仕方無しに私刑を受けたことを説明すると男は驚いたように事務室まで引き寄せ、警察に連絡をしてくれることとなった。それからそこの作業服と簡易シャワー室を借り、その上暖かいお茶と軽食まで用意された衛士は申し訳なく思いながら、流れぬ涙を流した体で泣き顔をしてみせる。
だが男が目を離した隙に、衛士は何本も置かれているビニール傘の一本と、壁に貼り付けられていた近辺の地図を拝借し、プレハブ小屋を後にした。
――道なりに三○分も歩き続けると、やがて交通量が多い道に出た。
近辺に携帯ショップでもあればと、ざっと見渡し探してみるも、そもそもあるのは小さな定食屋程度であり、コンビニすら無い有様だった。衛士は仕方なく、そこからさらに大きな道を目指して歩き続ける。
ゴミ処理場で見た時計は午前四時を指していたから、現在は五時近いのだろう。衛士は簡単に考えて、ただ歩くことだけを考えた。もしかしたら家とは逆方向へ進んでいるかもしれないという不安を覚えるが、それでもともかく、人が多い場所へ出ることが一番の目的であった。
そこで――衛士は向かい側から走ってくる、空車の文字が目立つタクシーを見ると、殆ど無意識、反射的に手を挙げ、タクシーの注目を得る。車は徐々に速度を落とし、やがてウインカーで路肩に寄ると衛士を乗せるために、後部座席をがちゃりと開けた。
衛士は傘の水滴を払い、閉じて車に乗り込む。運転手は怪訝そうな顔で衛士を鏡越しに見ながら、そっと口を開いた。
「行き先はどこです?」
「あー、近くにコンビニってあります?」
「お客さんが歩いてた逆方向にヘヴンイレブンがありますよ」
「とりあえずそこにお願いします」
タクシー独特の奇妙な臭いが鼻をつく。妙にふかふかと身体に優しい座席に身を沈めると、すぐに眠気が襲い掛かった。しかしそれを耐えるように、外の景色を楽しむ暇も無く瞼をつねり、引っ張り上げる。
すると、数分もせずにタクシーは停車した。
「着きましたよ」
「あ、すいません。お金下ろして来るんで、ちょっと待っててもらえます?」
「お客さん……いいよ、わかったよ」
「すいません」
運転手の疲れたような嘆息が心に痛む。だが、とられてしまったものは仕方が無いし、されどそれを彼に話しても仕方が無いのだ。ただでさえ、容姿と時間帯故に若干の不気味さを覚えられてしまっている。最も、作業服のお陰で何とか納得はして貰えているようだったが。
――二万程でサイフを潤し、それから少しばかりの食料と、簡易充電器を購入。早速それでケータイに電力を補給しながら、衛士は再びタクシーに乗り込んだ。
「――って所まで、お願いできますか?」
そこで早速、衛士は料金を催促されるよりも早く自宅の住所を口にすると、運転手は意表を衝かれた様に眉をしかめて口ごもる。
「今まで残業ですか?」
再び、わざとらしい溜息を漏らして、車は発進する。進行方向は先ほどまで衛士が歩いていた方向と同様であった。
しかし――本当に助かった。衛士は心の底からこのタクシーの存在に感謝する。あのまま歩き続けていれば疲労で倒れていたことだろう。これも、日ごろの行いと言う奴か? と冗談めかしく考えながらケータイを操作する。――と、電源が入ると間も無くメールが着信する画面に移行し、すぐさま大量の件数が表示された。
「まぁ、そんな所ですかね」
その殆どは理恵からのものであり、中村と山田、葉山からそれぞれ一件。着信は母からのものが多かった。バイト先から連絡が来ないのは、恐らく身内が事情を説明してくれたお陰なのだろう。
全部で八○件のメールは五○件を理恵のもの、そして驚くことに、残りの二○件以上が早乙女美琉から届いていた。内容は『大丈夫?』『どうしたの?』やら、それから失踪が発覚したのか『何処に居るの?』『何か悩みでも』といった、まるで普通の友人のような心配しているようなものだった。そんな事に素直に感心しながら、だが優先すべきは彼女ではないと、返信しそうになる指を止めて、一旦待ち受け画面に戻った。
せめて自宅には先に連絡を入れておこうと電話帳を引っ張り出して自宅の番号を表示させ、発信する。恐らく父親に怒鳴られるだろうなと焦燥じみた緊張で顔を強張らせるが、妙に日常に戻ったような気がして、それがまた嬉しい気持ちにもなった。
ケータイを耳に当てる。それから間も無く、プルルルと呼び出し音が鳴る。運転手はその中で何かを言いかけたが、彼が電話をしているらしいと見て口をつぐんだ。
車は十分も走ると、やがて見覚えのある景色を流す。駅から遠く離れたスーパーやコンビニ、覚えのある街路樹や景色が、妙に安心させてくれる。されど電話は出る気配を見せなかった。
衛士は眉をしかめて電話を切り、次いで理恵に繋ぐ。――が、やはりその電話も呼び出し音が鳴るだけだった。聞きたい声は聞こえず、無機質なそれだけが彼を迎える。
否、まるで誘われているようだった。
衛士は焦燥を覚える。理由の無い焦り、もしかして今、とんでもない事に巻き込まれているのではないかという不安。緊張が腹痛を起こし、額から滲む汗は流れるままに頬を濡らす。
「……なんだか、二日か三日前から精神がどうにかしちゃった人が病院から逃げ出した見たいでね。近くの高校でも殺人事件が起こったらしいし、気をつけてくださいよ? お客さん家の住所、案外そこに近いから」
ケータイを閉じると、不意に運転手はそう口にした。衛士はそこでようやく、彼の怪訝な表情の理由を察することができ――同時に、脳裏に真赤な妄想を過ぎらせた。酷く凄惨で、むごく生臭い……記憶。そんなものは無論持ち合わせては居ない。そんな状況などに居合わせた覚えは無い。
だというのに、まるで”思い出した”かのように、頭の中に蘇ったのだ。
そんな事知らない。知るわけが無い。だから当然そんな事が現実なわけが無い。しかし否定すればするほど、強く思えば思うほど、それは現実味を帯び始めた。
今日に、今回に限っては今の衛士は貧乏神など度を越した凶悪さを招いている。だからこそ――。
無機質な着信音がケータイを俄かに振動させる。衛士は全身を大きく弾ませてから、ケータイを開いて確認した。発信相手は、果たして早乙女美琉であった。
震える指で着信ボタン押す。高鳴る胸を押さえながら電話を耳にあて、心を落ち着かせようと目を閉じると途端に広がる悪夢に顔をしかめて、大きく眼を見開いた。
全てが嫌になる。
何でオレが、と嘆きたくなった。
もう嫌だと逃げ出したくなった。
こんな人間的知性があるからこそ、こんなに、これほど、どうしようもないくらい悩んでしまうのだと、気が狂ったほうが楽だと心の底から苦悩した。
嘘だと否定する自分が居る。だがそれよりも大きな声で”覚悟しろ”と言い聞かせる自分も居た。
何が正しいのか分からない。そもそもまだ知らぬ現実に対してこれほどまで心配する必要など、ないのかもしれない。
こんなことは単なる心配性のサガでしかない。嫌な事があったから、つい考えがそういった負の感情に惑わされているだけなのだ。
――まるで、死体を背にして現実も見ずにヘラヘラと笑っているような自分の横っ面を殴り抜けるような声が、鼓膜を破らんとする大声音で響き渡った。
『――もし! もしもし! ちょっと! 聞いてます!?』
「あ、あぁ……早乙女さん、朝早いね」
『はぁ……思ったより元気そうですね。エイジさんが突然居なくなって、大変だったんですよ――』
学校中探しても見つからなかったこと。中村が思い立って屋上に駆け上がってみるも、残されたのが傘一本だけであったこと。下駄箱を見てみると既に靴を履き替えた後だったこと。そして被害にあった男性教員が重体で病院に搬送されたこと。それから学校が今週は全て休みになったこと。
次いで話題に上がるのは、他の皆も心配していたという事である。精神異常者が逃げたという話も上がって、衛士は恐る恐る自宅の事を聞いてみるが、彼女は知らないと首を振るようだった。
やがて早乙女は報告することも無くなったのか、私的に心配するような声で聞いてくる。
『声に元気が無いけれど、大丈夫ですか?』
「はは、何言ってんだ。オレから元気を取ったら何が残るんだ?」
『ふふ、色々ありますよ。そうじゃなかったら、そんな単純バカみたいな人と仲良くなろうと思いませんから』
「……多分、何があっても明日は平和になる。全てが終わる。短い間、かもしれないけどな。もしかすると、またこんな事になっちまうかもしれないが……」
『ちょっと、何を言っているんです? 要領を得ませんが……』
「いや……。悪いがケータイの電池が切れそうなんでな。また明日」
『え? ……はい。それでは』
明日は学園は休みになっている。それを聞いたばかりなのにそんな事を口にする衛士に何かを感じた彼女は、ただ素直に頷いた。
やがて通話が切れ、衛士は簡易充電器が刺さったままのケータイをバッグに放り込んだ。中には、水洗いをし乾いても居ない制服がビニールに入って突っ込んである。着込むのはつなぎ一着だが、少なくとも制服よりは丈夫そうな素材で出来ている。
左胸に刺繍される会社名が少し目立つ、薄水色のつなぎであった。
しかしこれからはどちらにせよ縁がなさそうな会社である。あの従業員は不気味な衛士の事を当分忘れないであろうが、それでも平凡な日常を過ごせることだろう。
――オレは……どうだろうか。
衛士は思い出したように落ち込んで、それから決まったように都合の良い妄想の中に逃げ込んだ。
彼の情緒は酷く不安定で、それが極端になれば泣き笑いを同時進行できる程であった。
「お客さん、着きましたよ」
眠れる筈も無いのに座席に横になると、やがて車が止まり声が掛かる。衛士は気怠そうに身体を起こして首を鳴らし、大きく伸びをしてから息を吐いた。妙に鼻がすっと通って、泣いた後のようだった。
サイフから一万を差し出し、おつりを貰う。運転手はそれから、心配そうに声を掛けた。
「……お気をつけて」
「あ、すいません。あと一つ、良いですか?」
衛士はカバンを肩に掛けて、全重力が肉体を襲い体が酷く重い。開く扉で身体を支えながら、車内を覗き込むようにして言葉を投げる。運転手の疑問符が浮かぶよりも早く、衛士は言葉を続けた。
「今のオレじゃ到底状況が説明できないんで、警察を呼んでください」
「……お客さん」
「オレにも分からないんですよ。もう遅すぎるのは分かってんのに、だけど急がなきゃって。でも、何が遅いのかってのは……」
知りたくない。認めたくも無い。こんなこと、こんな状況に、こんな気持ちになるのなら砂時計なんて要らなかった。カンニングだって、勉強さえすれば必要ないのだ。
しかしもう後戻りなど――。
「分かりました。まだ若いんですから、どうかお気をつけて……」
衛士が扉から離れると、男は物悲しげな表情で最後にそう残した。やがて車は走り出し、角を曲がって完全に姿を消した。
閑静な住宅街である。時刻はまだ六時にも満たない早朝。津々と降り注ぐ雨は既に豪雨と成り得ていたが、新品の少し大きめの作業服は水滴を弾いて身体を濡らさない。頭だけをビショビショに濡らした彼は、酷く緩慢な重い足取りで、玄関へと向かった。
指は無意識の内に呼び鈴を鳴らす。
これを最後に聞いたのはいつの事だろうかと考えるが、思い出せない。さらに中からの反応も無いので、衛士は恐る恐る玄関扉を引く。すると案の定、施錠などはされておらず――。
開く瞬間に鼻腔を刺激する生臭さは――なかった。されど安堵は出来ない。
実際には、何の臭いも無い。強いて言えばいつもどおりの自宅の香りであった。
扉を閉めて、靴を脱ぐ。左右に広がる廊下には血の跡など何もなく、だが心臓は激しく鼓動する。胸が痛くなるほどであった。
衛士は恐る恐る、居間へと足を向ける。と、共になにやら、アンモニア臭のような……自身が排泄物を垂れ流した際の臭いが漂ってくるのを覚えて、思わず足が止まった。居間と廊下を隔てる扉は僅か数歩分。さらに血の香りが鼻につくのを理解して、衛士の身体が完全に動かなくなってしまう。
扉の向こうに、確かな人の気配があった。すりガラスであるが故に向こう側を確かに確認できないが――黒い影が、向こう側で動くのを確認できた。その直後に肉体の主導権が解放されたような気がして、勢いに任せて扉を突き破るようにして居間へと飛び居る。
「――っ……」
衝撃が電撃のように脳天から貫いた。
言葉が出ない。瞳が、焦点が定まらない。
思考が真っ白に染まりあがる。同時に、目の前に黒い影が立ちはだかって――天井から伸びる縄に吊るされる三人分の何かが、彼の視界から遮られた。全身には包丁か、刃物かが突き刺されたままで、足元には大きな血溜まり。ソレ故にその行為は事後に行われたものだと認識できた。が、衛士はそれを理解しようとはしなかった。
その場面に対する情報量は余りにも膨大なモノで、彼の頭では到底処理しきれるものではなく、また処理した結果に訪れる救いの無い結果を、彼は求めなかった。
「来た来た来たよおバカさんが」
――そういえば着信もメールも、ある一定の期間から突然として途切れたように来なくなっていた。記憶を呼び起こして思索してみると、それは恐らく、二五日……つまり昨日から連絡が失せたのだ。
「昨日から待ってた。おっさんは邪魔だったから先にヤった。次はババァだ。汚らしいし、女の子を庇ってたから殺した」
胸が高まる。
目の奥が熱くなるのを感じた。
思考が纏まらず、今自分が何をされているのか分からない。
だが男は、その雑に伸びた坊主頭を撫でるようにしながら嬉しそうに語り続けた。
「おっさんは立派だね。弱いくせに頑張った。締めて折ったらすぐ逝ったけど。弱音も吐かなかった。偉かったね」
だけど、と男は続ける。衛士はそんな事、と聞きたくないはずなのに、その言葉の全ては全身に染み入るようだった。不思議と、男の言葉に嘘が無いと信じてしまう。彼が語る言葉一つ一つが、場面を鮮明に想像させた。
「ババァは五月蝿かった。ヒステリックって奴? チョー耳に障る。だからおもっきし顔面蹴ったら泣いてんの。この子だけは! って。カワイソウになってきたから、おっさんと同じように殺したった。泣いて喜んでたよ」
――この男の目的はなんなのだろうか。
否、目的は分かる。時衛士の殺害だ。
だが、コレほどまで気が触れたような人間であればそもそも金などには固執しないだろう。
だから、問う。頭の中で何度も繰り返した言葉を、何度も口にしたような気がして、実際には唇すら動いていなかった疑問を、ようやく投げた。やっと口に出来た。
「なんで、オレを狙うんだ……?」
言われて、男は驚いたように唇をすぼめて眼を見開くと、なんだ喋れるじゃん、とおどけた様に衛士の肩を小突いて見せる。彼はそんな行動に全身を強張らせて弾ませると、それが可笑しかったのか男は軽く笑って答えてくれた。
「殺せって言われた気がしたから。っつか、オメーにストーカーされてた気がすんだよね。命も狙われてたし。殺されかけたし。だから、復讐代わりっつーの? この家で待ってたら、おっさんとかうるせーんだもん。今は静かだけどな」
「――っ!」
訳が分からない。これが、精神異常者という人間なのだろうか。
だがそれをどうかと判断する理性はなく、だが衛士は自身の頭が徐々に冷えていくのを感じた。
感情は落ち着きを得て、やがて何をすべきか、どうするかを考えられるようになる。
「ねーちゃんはかわいかった。ビデオ撮ったからよー、見るかー?」
ヘラヘラと浮かべる薄笑いは無邪気そのものであり、彼はテーブルの端に、横にして立てられた箱ティッシュを手にして再び衛士の下へ戻ってくる。彼はそのままティッシュを一枚一枚引き抜いて、辺りをティッシュで埋め始めた。
「うっつんねーよぉ!」
やがて中身が空になると、男は怒りし空になった箱を叩きつけて踏み潰す。その場で激しく地団駄を踏んで騒ぎ散らし、やがて怒りに任せて衛士の頬を殴り抜ける。衝撃が脳を嬲り、衛士はされるがままに足元をふらつかせて近くの壁に叩き付けられた。
頬がじんじんと痛むが、それだけだ。
衛士はそこで、はたと気がつく。
精神が様々な抑圧から解き放たれたかと衛士は認識したが、それはただ単に全ての衝撃によって麻痺しただけであった。
故に何も感じず、故に何かを表すことは無い。心は虚無と化していた。
ただ念頭に置かれるのは、目の前の男を”どうにかしろ”という本能からの欲求に程近い命令。
瞳からは光が失せ、衛士が最後に感じたのは、得たのは冷静などではなく、ただ単に自分が消失していくその瞬間のものであった。今の彼の肉体には、つい先ほどまで恐怖していた衛士も、興奮していた衛士も、悲しんでいた彼も、逃避していた彼も存在しない。
見る世界には何の思い入れもなく、タンスは、吊るされる遺体はただの障害物として認識され、生気のない眼差しで男を眺めていた。
「いいや、つまんねーし。殺す」
「テメーをな」
滾るように感情が復活したかと思うと、それは単なる怒気であり、目の前は真赤になって殆ど反射的に突き出した拳が男の頬を殴り返した。
炎を灯す瞳はされどドス黒く、どろりとした粘り気を持つ。彼の精神を占める感情は、原油に引火した爆炎と然程違うものではなかった。ただ少しのきっかけで巻き起こる事故であり、されど燃料が燃料であるが為に処理が難しい。放って置けば炎は広がり、強くなる。
轟と唸るように衛士は肉薄。男の胸元に飛び込むように肩を衝突させる。
彼はおっとっと、とワザとらしく身体を傾け、尻から転ぶ。衛士はそこから何の抵抗も無いのを良い事に馬乗りになって、力いっぱい顔面に拳を振り下ろす。
「お前のせいで」
「いってーよ!」
唇を切ったのか血を流して男は喚く。衛士は構わずもう片方の拳で同じように顔面を殴り飛ばした。
「オレのせいで」
「痛い痛い痛いィッ!」
頬を殴り抜け男は衝撃により後頭部を叩き付ける。間髪おかずにもう片方の頬を殴り抜ける硬い拳骨故に、弾むように浮かび上がった頭部は必然的に床に激突した。
やがて男の悲鳴も聞こえなくなり、幾度も繰り返す行動にはしかし飽きは生じない。彼の拳は、一度動き出した水車のように、ただ燃え盛る怒りだけを携えて奮われ続けていた。
そうしていつしか拳は血に染まる。人差し指はおよそ曲がるはずも無い方向に曲がり、拳は拳たる形をとどめない。指がそれぞれ、丁寧に骨折しているらしかったが、痛みを感じる余裕は無かった。
また男の顔面は赤く染まり、鼻はひしゃげて、瞼は腫れ目を開けられていない。肉体はぐったりとその場に脱力して動かない。
しかし衛士はその拳を止めることはなかった。
心は無にして、肉体は既に限界を達そうとしているのにも関わらず停止する気配は無い。
――これほどあっさり、男はやられて良いのだろうか。
やがてそうする中で、衛士の精神は理性を――否、それを理性と呼ぶのは余りにもおざなりな知性が蘇り始めた。
両親を、姉を殺した仇であるはずだ。ならばより苦痛にまみえて、よりその幼稚な精神、脳ですら苦悩しなければならないほど苦しめなければならないはずだ。だというのに、こんな事で奴の命を奪って良いのだろうか。
否――断じて、否である。
そこでようやく衛士の動きは停止した。
気がつくと、周囲には男のモノと思われる血が飛び散って床が汚れている。衛士の顔にも返り血がいくらか掛かっていて、乱れる呼吸をそのままに、馬乗りのまま肉を露呈し歪む口の中から歯が喪失したことを見せ付ける男を見下しながら、そっと立ち上がった。
――暴力に暴力を返すことは、同類のすることであり、恨みを晴らすならば、抵抗するならば相手の上を行く行動に出なければならない。
それはいつからか心の中に決めていた、決まり事のようなものだった。しかし、今回で衛士は確信する。
そんな高等な事はオレには無理である、と。
力には力でしか歯向かえず、また残虐を前にして理性を保てる自分は居ない。
未熟であると攻め立てられようとも衛士はそれ以外の行動を取るつもりはなかった。
――虚ろな瞳で男を見下した後、次は何で苦しめてやろうかと周りを見渡し、目に入ったのは天井から吊るされた三人の姿であった。
日常を、つい先ほどまで感じていたかのような姿は未だ綺麗であり、されど薄く開かれた目はただ一点だけを見つめ続ける。腹に、背に、胸に、腕に。刃物を付き立て刺された皮膚は青く染まり、そこから流れていたであろう血は既に乾いて肌に張り付いていた。
「あ、ああ、ああああ――」
それを見た途端に、再び理性や知性、その精神はどこか遠くへ旅立った。
恐怖は既に無く、心に満ちていく悲しみだけが、口を衝いて悲鳴として零れ落ちる。
その場に腰を抜かす様にしてそれらを見上げる衛士の意識は、なんの予兆も無く――不意にそこでぷつりと途切れた。
――されど試練は、無情に次の段階に移行する。
衛士が病院に運び込まれたのは、それから間も無くのことである。
彼が目覚めたのは当日午後二時の事であり、目を覚ますと同時に警察官からの事情聴取が開始した。
両手はその指全てを骨折していたが為に包帯で封じ込められ、自由が無い。また全身の打撲や軽度の凍傷の為に肉体自体が、そもそも上半身を起すことすら困難であった。だというのに身内は見舞いにも来ず――と愚痴る中で、つい今朝の事を脳裏に蘇らせる。湧き上がる吐き気を抑えきれず俯くと、若い警察官は洗面器を差し出し、優しく背中を撫でて介抱する。
これでもかと苦い味を覚えたはずなのに、実際舌にそれを感じると嫌悪感を覚え、それが更に嘔吐を促す。
それから少し落ち着いて、ようやく男は、年季の入ったような刑事に促されて質問を投げた。
「気分は大丈夫?」
「はは、そう見えるんなら大丈夫なんじゃないっすかね。オレには自分のことすら良くわかんないんで」
実際衛士の顔は酷くやつれていて、頬はこけて青白い。目の下に浮き出るクマは酷く濃く、男はこれが死相だと言われても、なるほどと頷く程の悲壮感がそこにはあった。
無用心な質問に、男は先輩と思わしき中年男性から軽く頭を小突かれる。彼は気まずそうな顔をしてから、再び問うた。
「まず報告すべき事なんだけど、祝英雄は今だ意識が戻らないけど、命に別状は無い。それからご家族は……君が発見した時からおよそ二○時間前にはああなっていたらしい事がわかった」
「……あの、免許証って有りますか? ポケットに入ってたはずなんですが」
男は重々しい事を今更ながらに報告する。しかし衛士は既に理解した上で平静を装っているのだから無駄な話だと、まず自身の欲求を満たさせる。すると男はこれかな? と寝台のすぐ横にある引き出しの上に置かれるソレを差し出した。
衛士は器用に包帯のまま、両手でそれを掴んで見る。
写真は未だ三本の指を突き立てていて――試練の内容が表記される部分は、未だ白く染まっていた。
身体を起こすと、全身に鋭い痛みが走る。息をするのもやっとな激痛を耐えて上半身を起こすと、男が手を伸ばした引き出しの上には、ケータイとサイフ、それから砂時計が並べられていた。カバンはそこには無く、男に聞くと、中の荷物を勝手に洗濯してしまったらしい。
別段困ることは無く、また逆に助かることだと衛士は短く、用は済んだと息を吐いた。
幾らなんでも、これから再び自宅へ戻るまで作業服で居るわけにも行かないのだ。さらに、着せられているチェックのパジャマは事情聴取する警官が買ってくれたものであるらしく、衛士は僅かながらの礼に頭を下げた。
「退院したら、過剰防衛って奴で逮捕まるんですかね?」
「いや、まだわかんないのが正直なところかな。どっちにしろ君の身体の怪我も衰弱もひどいし、相手を無力化するなら……」
口を出しすぎたのか、男は口ごもる。しかしこの怪我も衰弱も、全てはその前の拉致事件で引き継いだものである。されどそれを警察に伝えることははばかられた。無論、これ以上物事を面倒にすることが嫌であったし、思い出したくも無いことだったからだ。
起訴も逮捕も、勝手にやればいい。衛士はもうそれらに関わりたくは無かった。
――こんな、些細な会話でも人の温もりを感じる事が出来る。小さな事でもそれが嬉しく、心の底から安心出来るのに、流れても良いはずの涙は流れる事無く、瞳は乾ききっていた。
しかし衛士はそれを気に留めることは無く、ただこの現状を、良かったな程度にしか捉えていなかった。
「それで、話せる範囲で良ければでいいんだけど、今回のこと話してくれるかな」
――言われて、衛士は少しばかり眉をしかめる。
今回のことは、衛士が駆けつける二○時間前に一旦事が済んでいるのだ。であれば、即ちその間衛士はその場に居ないことになる。さらにそれ以降、二○時間自宅には居らず、なればそこから話さなければならないはずだ。
恐らく、丸一日以上家を離れていたという事もあって警察に捜索願を出していた可能性もある。
なら下手に話を誤魔化すのは無駄なことだろう。
衛士は短く息を吐いてから、仕方なく学校で自身を狙ってきた不審者の場面から話をすることにした。
――まず初めに、昇降口で不審者をのして逃げ出したこと。逃げ出したところで待ち伏せていたような若者三人に石を投げつけられ、当たり所が悪ければこんなものかと気絶する。気がつくと見知らぬゴミ処理場の使用されなくなった倉庫の中に居て、椅子に縛り付けられた状態だった。奇跡的に緩む縄を解いて、丁度現れた三人を命がけで倒し、やがて拾ってくれたタクシーに送ってもらって自宅前へ。
そこで殺害現場を目撃し、怒りで周りが見えなくなった衛士はそのまま男に殴りかかり――。
全てを話し終えた衛士は短く息を吐くと、男は持っていたのか、買ってきたのか、缶ジュースを差し出した。
衛士は久しぶりに口にするそれで喉を潤すと、冷たさが身体の中に染み込むのを感じた。
これが生きていることかと、背伸びしたように心中で呟いてから、すぐさま空腹を覚えた。
壁に貼り付けてある時計を見ると、時刻は既に十五時が回るところであった。
「はは、ケンカ、強いんだね」
男は場を和ますように声を掛けた。
――誰一人として、否、結局自分の身すら守れないのに、強いも何も無い。
衛士はそれを口にせず、また言えずに、明るく笑ってやり過ごす。男は安堵したように胸を撫で下ろした。
「それじゃ、トキ君も疲れているだろうし、僕たちはコレで。また明日来ても大丈夫かな?」
「えぇ、いつでも」
「お大事に」
彼らはそう言い残して、そそくさと衛士の個室を後にした。
「――なんだか、神様が徹底的に彼を陥れようとしてるみたいな不幸ですよね」
「不審者に拉致、さらに家族を惨殺だからな……。だがどうにも」
「引っかかります?」
「気にならないわけが無いだろう。偶然、避難しなかった彼が不審者をのして、偶然逃げ出した彼が拉致監禁され、偶然そんな悲劇にあった彼の家族があんな事に遇ったんだ」
皺が目立つ、白髪を短く刈り込んだ男は顎に手をやり思索する。若い男はメモ帳を眺めながら、やがて病院を辞す。
それから駐車場に向かい、無言のままそれぞれが乗り込んで、ようやく言葉は交わされた。
「わかんないですね。現段階で、この五人の関係性は無いですし。共通点って言ったら、やっぱトキ君を狙ったってだけですけど……あんな気のいい高校生が、なんで……」
「そうだな。肉親が殺されたってのに、あまり引きずった様子もないさっぱりとした高校生だった」
「……! それって、もしかして……」
「いや、あくまで可能性の話だ。無論、動機だってまだわからんしな」
若い男は目を剥いて驚き、雨粒によってすりガラスのようになる窓から病棟を眺める。無数に並ぶ窓の向こうに、トキが居るのだと考えると、哀れだと思うのと同時に、相棒から聞いた可能性が思考に過ぎって背筋が凍りつく。
もしこの可能性とやらが真実に結びつけば、男がこれまで関わってきた、見てきた事件の中で酷く最低なモノとなりそうだった。
不自然な程不運に巻き込まれ、そして五人の共通点といえば時衛士を狙っていると言う事。都合よく拉致された所で肉親が殺害されて――。
身震いして、首を振った。男はそんなわけがない、と強く否定する。
中年男性は軽く微笑み、
「だったらいいな」
とだけ口にし、車を発進させる。
雨は朝より、やや優しくなっていた。
一度寝込むと、身体を動かすのは難しかった。
全身の痛みに耐えるのもやっとで、そもそも何故耐えなければならないのかと言う緩んだ心がそれを不可能にしてみせる。
今の彼は、数日前の衛士とはまるで別人のようであった。
人が居なくなれば無気力を極め、採血を行えばただそれに従い腕を出すだけ。看護師の問いかけにも無言を返し、対人用の笑顔は既に役割を果たさない。
空腹感を覚えるが、身体を動かすのが億劫であるために食さず放置。しっかり食べなければ、という看護師に上体起こしを手伝ってもらって、フォークを握らせてもらって、ようやく其処で食事が始まる。
女性の看護師は、まるで赤子の世話をするようだと冗談のように口にして軽く笑った。
されど、衛士の表情筋は一切動かない。感情を忘れたように無表情を極めていた。
思考は常に空白を保ち、何かを考える事を許さない。思索すれば、それがすぐさま記憶に繋がるからだ。何かを思い出せばすぐに家族の事を思い出す。涙も流せないのに、悲しみだけが襲い掛かってくる。
胸が酷く苦しいのだ。しかし、それを吐き出す術を、衛士は泣くこと以外に知らなかった。力任せに暴れることも出来るだろうが、今の怪我を見てそれは明らかに無理がある。故に衛士は、全てを放棄することだけを選択していた。
そんな頃になると彼の頭からは既に砂時計の存在は消えてなくなり、第五の試練が表示される事を待っていたことすらも忘れていた。
一日が経ち、二日が経つ。衛士が口を開くのは聴取の時だけであったが、やがて刑事も聞き出すことは無くなり、見舞いに来ることも無くなった。
さらに一日が経つ。衛士が言葉を放つ日が失せ、彼が寝台から起き上がるのは排泄の時のみになる。
やがてまた一日が経過した――五月三○日。
気がつくとアレから、試練が始まったあの日から一週間が過ぎていた。こんなに試練が長引き、またそもそも試練どころではなくなる事など、あの日誰が想像できたであろうか。――確か一人、衛士には心当たりがある。今思えば、あの反応はコレを知らなければやや過剰であったような気もするが……やはり、今となってはどうでも良かった。
どちらにしろ、彼女にはどうにも出来ないことであったろうから。
衛士の顔色は入院初日と比べると仄かに赤く健康色を取り戻していたが、その代わりとばかりに顔はやせ細り、肉体の筋肉は衰弱しはじめていた。
本も読まず、テレビも見ず、ただ一日虚空を眺めるだけで時間が過ぎる。いつしか心に抱いた、”気が狂ったほうが楽だ”と言う気持ちを地で行きそうである彼は、そんな日に、築かれ始めた痛々しい日常を、悉く破壊の限りを尽くされた。
「時さーん! お友達がお見舞いに来ましたよー!」
――その日の午後は、担当の看護師がいつもの調子で扉を開ける事から始まった。
しかし言葉は衛士の頭に入り込まない。聞いたら聞いたで思考せねばならず、それが家族の死に直結して心が傷つくからであった。
――もう、嫌だった。いっその事この場で死にたいほどであるのに、術は無い。飛び降りるならば身体が自由に動かなければならない。自分で息を止めては見たが、苦しくなって、生存本能がやけに勇ましく、空気を貪って生き延びた。
ならば餓死でもいいだろうと寝転がったままで居れば、看護師が無理矢理にでも口に詰め込んでくる。
なにやら生かそうとしてくれること自体が拷問なのでは無いかと思えてきた。
もう嫌だというのに――。
「エイジ……」
好青年そうな風貌を持つ少年は、半袖のカッターシャツにズボンという制服姿で出入り口に立ち尽くす。呟きは耳に届くが、衛士はそれに反応しない。瞳は動くことを忘れたように、彼は彫像のように、半身を起こし斜め上へ顔を向けたままの状態で硬直していた。
「ニュース、見たよ」
――山田の言うとおり、彼の身の上は少しばかりテレビで取り上げられた。しかし犯人は既に確保済みであるという事から然程取り上げられず、話題になるのはこの街の中だけである。
無論、それを衛士が知らないのは外から情報を取り入れないが故であった。
山田の影から覗くのは、大きな瞳に一杯の涙を浮かべる中村の姿。それらを心配そうに窺う葉山がそれぞれ並ぶ。
やがて勇気ある一歩を踏み出した山田に続き、三人は衛士の寝台を取り囲むようにして両脇に並んだ。
「ごめんねトキ、あたしがあの時、手を離さずに一緒に教室に戻ってたら……そんな事で、恥ずかしがったりしなければ……」
彼女はそこまで言ってうずくまる。両手で顔を押さえ涙を流して、嗚咽を漏らしていた。
泣きたいのはこちらだと心を動かし、口には出さず吐き捨てる。既にこの時点で、衛士には彼らが共に悲しみに来たのか励ましに来たのか、よくわからなくなっていた。
かつてはあれほど、かけがえの無い友人だと思っていたのに、今では若干鬱陶しいとすら思えて来る。流石にコレほどまでの心情の変化は衛士自身衝撃的で、悲しいものであったが、それなら仕方が無いと納得してしまう。そうできてしまっていた。
やけに冷え切って、情が無い。ある意味で理性的であったが、やはりそれは誰にも理解されないのだろうと考えた。
そしてそこから、殺害犯を殴り続けた記憶が不意に蘇り、自然に肉親の死を思い出す。
衛士は顔をしかめて声にならぬ悲鳴を押し殺して俯いた。
――もう戻ってこない。
あの品も無くだらしがない寝顔も、朝早くおきて作ってくれる朝食も、その全ては二度と戻ってこない。感じられるのはただでさえ記憶だけというのに、それさえも、思い出すことさえも悲しみによって封じ込められていた。
「――わるい、また、今度にしてくれ」
必死に搾り出した声は数日振りのものであった。それが確かに言葉になっていることを祈って口にすると、山田らはそれぞれ顔をあわせ、中村の肩を抱くようにして病室を後にする。
今度があればいいな、と他人事のように考えて、自身がこれから立ち直れるのはいつになるだろうかと漫然と考えた。しかし今を見るに、それは当分、下手をすれば死ぬまで訪れないだろうと思い始める。
されど世界はそれでも回る。
だからこそ、衛士はこれもある種の試練達成なのではないかと考えて、その日はそこで、眠りについた。
傷は治るのに、その精神だけは日が経つごとに、傷が深くなる。
衛士はその日から食事を断ち――次の日から、衛士は看護師との定期的な会話を強いられることとなった。
「貴方はこれまで大変だったわね」
まだ若そうな女性は縁の黄色い眼鏡をかけているのが特徴的だった。黒く長い髪は後ろで束ねられ、羽織る白い白衣から伸びる黒いストッキングが淫靡に見える。が、衛士にはそれが単なる特徴としか受け取れず、感情を揺るがすことが出来ない。
「はい」
「蒸し返すようだけど……」
彼女は松本と名乗り、カウンセリングを開始する。まず初めの質問は自分が元気だった頃を思い出すようにと促すようなものだった。
しかし衛士は、そんな事で悩んでいるのではないと、彼女に告白する。彼なりの精一杯の行動だった。
「オレだって、悲しめばまだなんとかなるんですよ。涙さえながれれば。泣くことが出来れば。感情が、感情のままに爆発させることができれば」
――口にするごとに、あの日の事が脳裏に蘇る。衛士は潤みもしない瞳で彼女の釣りあがる目を見据え、乱れる呼吸に言葉を途切れ途切れにされながらも、必死に、縋りつくように台詞を繋げた。
彼女はただ頷き、たまに相槌を打つ。醒めた反応に見えても、彼にはそれが丁度良かった。
「でも、出来ないんです。涙が、出ないんですよ。嫌だってのに、あの日の事が、思い出される。泣きたくても泣けなくて、胸が、苦しいんですよ。どうしようもないのに、オレは、もう、どうしようもないのに……」
――自分では何でも出来る気になっていた。人よりちょっと違う、砂時計なんて力を手に入れて、無敵にでもなった気分になっていた。ちょっとした英雄にでもなれるのではないかと勘違いしていた。
選ばれたから自分が特別な人間だと思っていた。
しかし、こうなってしまえば何も変わらない。ただの平凡な高校生だ。
力が強いわけでもない。頭がいいわけでもない。砂時計を使って相手の行動を、一挙手一投足を把握したからこそケンカなんてものは成り立っていた。だというのに、自分では、決して何も出来ないのに調子に乗って、皆に迷惑を掛けてはいけないと、馬鹿みたいにはしゃいで学校を飛び出した。
その結果がコレだ。
なんてことは無い。ただオレが、馬鹿であることが露呈しただけだ。悲しいのに涙も出ない。乾いていると嘆いては見るが、結局残されたのは、そんな不幸な自分に酔うことでしかない。
もう考えることも嫌になった。このまま衰弱死できるのならそれがいい。とにかく何も考えたくもなく、何も関わりたくも無い。
衛士はそこまで吐き出して、松本に背を向けて不貞寝する。一方的に、もう返ってくれと投げ捨てた。
「貴方はこれまで精一杯やってきたわ」
「オレなんて! 結局、何も出来てないんですよ……このザマだ。冗談じゃない……アンタが、オレの何を見て来たってんだよ……適当な事、言わんでください。オレを慰めるなんて、しないでください。いいんだ、コレで、もう、いい……」
起き上がり、振り返り様に怒鳴りつける。眉をしかめ、目を細め、精一杯涙を流そうとするのに、それは一筋として流れない。溢れさえしない。視界はあまりにも鮮明すぎた。
松本は、そんな少年の悲壮な顔を見つめて、思わず言葉に詰まる。
――最初はただのうつ病だと思っていたから、今日は軽くジャブ程度に話を聞こうと思っていた。しかしこれほどまでの拒否を見て、言葉すらも途中で支離滅裂になり、何かを思い出したように頭を抱えて俯く彼を見て、彼女は思わず口をつぐんだ。
自身に、ただ一介のカウンセラーとして課せられた仕事をするだけであろうと思って居た。いつものように親身に話を聞いて、親身に悩みを解いてあげようと思っていた。時間を掛けてでも、相手の心を解すように。
しかし彼は、そもそも初めの段階にすら到れない。話を聞く、話すことは出来ても、彼の心の内が見えることは無かった。あるいは、見えているのに、余りにも暗すぎるのかもしれない。
今見せている感情は確かに胸の奥底から吐き出しているように見えるが、だというのに衛士の今の表情は余りにも空っぽだった。
悲しんでいるのに、芯が無い。
その泣き顔は俳優がするソレよりも痛々しく、されど心がこもっていないような、ある種の滑稽さが見え隠れする。
だからこそ松本は戸惑った。
果たして他人である自分に出来ることなど存在するのか、と。
やるべきことはやる。もちろん、家族の悩みを聴くように親身にはなる。しかし松本では衞士が心を許さないのは明らかであった。
数多の男性を魅了したその肢体も、どこか母性のあるやさしい笑顔も、妖しい笑顔も、今は役にすら立たない。
――無力さが、自信の喪失が、彼から伝染するようだった。
しかし、ただ一つ気になるのはやはり彼の心の虚無さであった。泣き言の理由は分かる。そして彼自身心底悩んでいることは良く伝わった。だがその悲しみの根源、説得力のようなものが露呈しないのは、言ってしまえば不自然であった。
人は泣くとき、少なくとも悲しむときはどんなものであれ感情を噴出させる。赤子の空腹が故に喚く泣き声も、肉親が亡くなり無念だと悲しむ大人の泣き顔も、それぞれ確かに感情が分かる。
しかし衛士にはそれがなかった。
怒っているのか悲しんでいるのか、それが混じっているのならばまだ分かるが、松本にはそれが感じられなかった。
衛士の強さ故に、耐え我慢しているからこそ伝わらないのかと考えるも、自身で泣きたいのに、といっているのだから我慢もする必要が無いだろう。
だから松本は、少しばかり感じる、否、そうなのではないかと考えた。衛士はもしかすると自分に一歩距離を置いて、既に達観しているのではないか。もう悲しくともなんともなく――それ故に、肉親が惨殺されたというのに涙一つ流れない自分が嫌になったのではないか、と。
――仮にそれが真実であれば、彼はもうあと一歩かもしれない。あと少しで立ち直れる。そしてそれ故に二度と挫けぬ強靭な精神を持つことが出来る。
だがもしそれが叶わずこんな状況が続いてしまえば、思い込みによって本当に精神は病んで衰弱、下手をすれば死に到るかもしれない。
衛士は今、恐ろしき諸刃の剣をその胸に抱いていた。
「……今日はゆっくり休んだ方がいいわ。何か用があったら、ナースコールを押してくれればすぐに来るから……お休み」
しかしその事に確信を持てるわけでもない。そして別に急ぐことでもない。時間はある。
少しずつ彼を理解し、親心を持って成長と共に傷を癒せばいい。彼女はそう考えた。
だから松本はそう言い残して彼の病室を後にする。
だが、彼女が次に衛士の姿を見ることは無かった。
――時間は過ぎて、やがて病室は宵闇に包まれる。夜の帳は果たして落ちに落ち、深夜帯。時計を見ると時刻は既に午前二時にまわっていた。
人と少しばかり接していても、自分でさえも良く分からない自分と接し続けた衛士は、この一週間で誰もが想像出来ないほど急速に腐敗し、枯れ果てる。だというのに理性は活発に思考を続け結果を生み出した。
誰にも理解されたくない腹の中はひた隠し、ただ気狂いしたと吹聴する。しかしそれも限界だった。
――オレの精神がさっぱりしたからか、それとも怪我が一定を超えて治癒しきったからか。それともただ時間が適当になったからか、免許証には試練が表示されるようになった。
『刺客を始末するまで有効』とだけ記載され、その下には前回と同様に○/一とだけ表示される。衛士はあまりに落ち着きすぎる心を急かす様にして、片手にフォークを握り病室を辞す。
誰が相手か、衛士には分かっていた。あの男、名は確か若い刑事が教えてくれた『祝英雄』で間違いは無いだろう。そして病室も、その際に聞いておいた。
裸足で歩く廊下は冷え切っているために、距離が進むごとに足が痛くなってくる。衛士はそれでも構わず大股で進み続けた。
廊下は足元の非常灯だけが光源となる暗い道である。酷く静かで、ナースステーションからも離れるために人気はより希薄だった。一定間隔で存在する横開きの扉。その奥に誰かが寝静まっているのかと考えるとなんだか自分が酷く場違いな気がしてくる。最も、実際にこの場に存在してはいけないような人間なのだから、仕方も無いだろうと考え、軽く笑うように息を吐いた。
やさぐれ気味に歩き続けると、やがて目の前に大きな壁が迫る。行き止まりを意味するソレを見て、衛士は緩慢な動作で右を向いた。扉の横に貼り付けてあるネームプレートには確かに『祝英雄』の文字が有り、衛士はやれやれと首を振ってから、迷わず扉を開けた。
音もなくスライド式扉は滑らかに開く。そもそも廊下が暗いために中に光が差し込むことはなく、暗闇は同調する。衛士は気配を押し殺して、自身の病室と同様であろう内装を頭の中で思い描きながら、寝台へと足を向けた。
人の気配は感じない。気が立っているから探ることは出来なかった。
――初めは、こいつを殺してようやく仇が討てると思っていた。そしてこの祝自身も復讐ついでに殺してやると口にしていたから、この行動に間違ったものは無いだろう。最も祝のものは単なる妄想であるから説得力には欠けてしまうが。
しかし、時が経つにつれてそれも薄れる。ただ殺さなければならないといった義務感だけが芽生え、強くなっていった。
縦に伸びる寝台の横に回り、膨らむ布団を見下す。この中に、あの精神異常者が居ると思うと、やはりどう考えが変わっても興奮が抑えられない。悲しむ事が出来ないのに、殺意だけは一人前に芽生える自分は他から見ると一体どういった風にその目には映ってしまうのだろうか。
されどそれを心配には思えず、自分に不安すら抱けない。なるようになれ、と衛士は呟いて、両手で握るフォークを大きく振りかぶった――瞬間。
「やっと来たか」
不意に強くなる気配は背後で出現し、衛士が振り返るよりも早く羽交い絞めする豪腕が肉体を拘束する。それを振りほどこうとする暇もなく言葉は続いた。
「遅いんだよ! どれだけ待ったと思っているッ!?」
嬉しそうに、はしゃぐのが恥ずかしくてわざとらしく汚い言葉で怒りを演出するかのような言葉は衛士の耳元で叫ばれた。
「――んだと、テメェッ!」
上半身を激しく捻り、両腕をじたばたと振ってはみるが、その腕はまるで縄のように動けば動くほど締まる。脇下から潜り込む腕はそのまま上へ上り延髄辺りで硬く組まれる。故に顔は下を向いて、気管はその入り口を極端に狭めた。
「馬鹿が、踊らされるだけ踊らされて、何度目だァ? 少なくともお前がシクシクしないっつゥ事はよォ、覚えてんだろォ? あぁッ!?」
「んの、話だ……っ!」
「お前さんの記憶だよ。分かんだろ? 俺ァてめぇサマの家族を何回ブッ殺しゃいいんだって、覚えてんならこの意味わかんだろ?」
「わけ、わかんねぇよ!」
全身を捻り飛び上がるように背後へ押すと、その甲斐もあってイワイは足元を緩し背後へ後退、そのまま壁に叩き付けられる。しかし羽交い絞めは解かれることは無く、また壁に張り付いたが故にこれ以降の行動はより制限されることとなった。
顔は赤く染まり、視界は暗いために朦朧としているのか定かではないが、少なくともぼやけているのは分かる。眼球が圧迫されているような感覚を覚えていたからだ。
衛士は小さく舌打ちをして、大きく右側へ体重をかける。イワイにとってそれは不意な行動だったのか、身体が片方へよろけてしまう。衛士はその隙をついてポケットから砂時計を引き抜き、床へ落とした。
しかしイワイはそれを利用するかのように衛士を拘束したまま側転。腹ばいになって叩き付けられる衛士はそのまま背中に馬乗りになられ、首元を掴まれると両手でそのまま背筋の要領で力強く引っ張られてしまう。
「はっはー! キャメルクラァッチッ!」
「……っ!」
これで呼吸は完全に断たれる。また首筋は伸びてはちきれそうになり、首の骨はミシリと悲鳴を上げる。衛士は慌てて両手で床を叩くと、イワイは悪趣味な笑い声を上げえた。
「おお? ギブギブ?」
イワイは悪戯に言いながら力を緩める。辛うじて息が出来る程度まで首を下げて衛士へ発言許可を与えたようにも見えた。
「何が言いたいんだよ、テメェ!」
呼吸を乱しながら怒鳴り散らす。されどイワイは永続的な余裕を孕んで見下した。
「お前は俺を殺さなきゃ終われない。俺だって殺されなきゃまたお前の家族を殺さなくちゃだよなァ!? 後はてめぇサマで考えろ! その頭は飾りでついてんですかァ!?」
「テメェ、なんで、知ってんだよ……テメェがッ! なんでその事を知ってんだよ!」
「知ってる? 馬鹿言っちゃイケねぇな。素直に答えろ、出なければ本当に殺すぞ……。お前、この世界を何度繰り返した? どこまで記憶している」
「なっ――!?」
「答えろォ! 覚えてんだろ? いつもみてーに、馬鹿みてーに泣いてネェってことはよォ!」
――このイワイという男は精神異常者だと聞いていた。そしてそれを裏付けるように、あんな気が狂ったような行動をしていたのだ。
だからこそ家族は殺され、だからこそこんな心情になった。死にたくなって、でも死ねなくてどうしようもなくなった。
だというのに、この男は喋れば喋るほどまともな面が露呈する。そして、それ以前に――この男は、時間回帰の事を知っていた。
何度、と聞く辺りこの男は全てが開始した時点から全てを知っているのだろう。
そして――その言葉から導き出されるのは、衛士が既に何度もこの男と出会っていて、そして何度も家族が殺されていたという事実が存在すること。
今まで、初めて拉致されたと思っていたことは実は初めてではない――かもしれない。
事実今回は初めてなのだろう。だがそうでないのかもしれない。しかし結果的には家族惨殺は繰り返した事柄であり、そしてここまで、幾度か訪れたのもまた事実。
全てを思い出し記憶を引き継いだと思っていた衛士は、その実都合の悪いものだけはすっかり切り捨てていたという事を思い知らされた。
だが本能的というべきか、潜在的と言うべきか、やはり体験したという事は確かにこの身に刻まれているらしく、それ故に家族が死んだことに対する衝撃は薄れていたのだろう。
そう考えれば、イワイの台詞はなんとなく意味が通じてきた。衛士はおとなしく男の言葉に従って、繰り返した記憶を数え、口にする。
「ご……五回、今回で六回目だ」
「ざんねぇ〜ん! せぇかいはぁ、三六回でしたぁ!」
はしゃぎ頭上で大きく拍手する彼は、直後にすぐさま静まり返り、耳元に顔を近づける。吐く息が耳に掛かり、不快なむず痒さが襲い掛かった。
「そしてお前はこの回数の中で一度も死にはしなかった。だがな、ここまでたどり着く事も一度も無かった。入院して、そしてこの時間に、怪我を考慮してんのか気紛れか知らねぇが、試練が表示されるわけだ。が、お前は呑気に、馬っ鹿みてぇにシクシクワーワー看護師困らせて泣き喚いて、時間切れ。ゲームーバー。冗談じゃねぇぜ。こっちだって楽じゃねぇ。ココまで耐えたんなら踏ん張ってみろや! てめぇサマよォッ!」
「人の詮索ばかり……テメェは何者だ!? なんで――」
疑問を怒り交じりに投げつける。その中で言葉は遮られて――砂時計の五分が経過したことを教えた。
直後に衛士の肉体は羽交い絞めされ拘束される。すぐさま酷い苦しみに襲われて、しかし背後から男の言葉は構わず続いた。
「同類っつゥ言葉が一番近いか。テメェの道具はどうやら幾らかの短い未来を体験するみてぇだな。んで、その砂時計を設置した時点に時間は巻き戻る。無論その時点でてめぇサマは未来を識ってるからヨユーって奴か」
――最早衛士は驚くことすら出来ずに居た。
イワイが記憶を引き継ぐことは大方の予想が出来ていたために、予想通りと言うものであったから然したる驚愕は無い。されど、ただ一度の砂時計の使用によってこれほどまで、というか砂時計の全てを知られる事までは想定して居なかったのだ。
つまり、この時間回帰に関する全てに於いては、イワイの方が知識にしても思考力にしても、圧倒的に上であると考えてまず間違いは無い。
だから衛士は、殺気だけは放ちいつでも殺せるよう隙を伺いつつも、出来る限り情報を聞き出そうと思うが、何故だかそれが出来ずに口ごもってしまう。
「ま、てめぇサマだけ知られてるっつゥのもフェアじゃねぇ。教えてやるよ。俺の道具……つゥか、服だけどな」
羽交い絞めする腕は間も無く解け、前へ突き飛ばされたかと思うと更に尻を蹴飛ばされる。衛士は前屈みになって、されど転ばぬようスキップでもするように大股で幾度かブレーキをかけると――照明は、衛士が点いたと知覚する暇も無い速度で部屋全体を照らしていた。
衛士はようやく止まり、振り向く。すると壁を背にするイワイは奇妙な――黒色の戦闘服のようなモノを身に着けていた。
しかし、その外観は正確に表すならば耐Gスーツのようなモノであり、上下の区切りは無く前面に首筋から股間に向けてジッパーが伸びる。そして首元はタートルネックのようにたわむものの首から上との隙間を作らない。振り向くと、そこには脊髄がスーツにくっきりと浮かび上がっていた。
「触れた者、つまり対象者の時間をある程度停止させられるってモンだ。これも、”奴等”にとってみりゃどーでもいい副産物なんだろーけどよー」
「……ゴミ、だと?」
「そそ。ま、ゴミっつゥのは言い過ぎかも知れネェが、少なくとも眼中には無ぇモンだろうな。なんせ、こんな馬鹿げた事が出来る――」
「そうだ! てめぇよ、時間切れがどうのこうの言ってたよな。もしかしてテメェも免許証を持ってるのか?」
はっと思い出して衛士はイワイの言葉を遮る。彼はやれやれと肩をすくめて首を振るように、呆れて衛士を見下した。彼の身長は衛士より頭一つ分高いために、その動作がより際立っていて、衛士はむっとする。しかしイワイは、茶化すわけでもなく素直に答えた。
「ンなもん無ぇな。時間切れっつゥのは多分、この世界の事だ」
「世界……?」
「あぁ。この世界自体が長く保たないんだろうよ。俺の記憶が正しけリャ今日は試練が始まってから九日目だ。五月二三日からで、二四、二五はてめぇサマが呑気に連れ去られて……二六日に俺と出会い、それからにゅーいんせーかつだ。三○日におトモダチが会いに来て、今日カウンセリングを受けた」
そして今日は五月三一日……否、日付は既に六月一日へと変わっている。時刻は既に二時三○分を過ぎているのだから。
「この世界はてめぇサマ基準で回ってる。試練に失敗すリャなんども繰り返すし、成功すりゃ難なく続く。だが試練に制限時間があるように、この世界は六月一日の午前五時までしか存続できない。てめぇサマが無様に泣いて明かした夜で世界は終わり、五月二三日に巻き戻るわけよ」
「並行……世界って、奴か」
「あぁ。てめぇサマの分岐点は巻き戻って目を覚ました午前五時っつゥ事になる。試練っつゥのが成功したらこのまま続くのかどうなるのかまでは知らねぇがな」
「なんで、お前がそんなに詳しいんだよ! お前も、何か課せられてここに居るのか!? 例えば……俺の、家族を殺すことだとか……」
衛士が毒でも堪えるかのような言い苦しさを耐えて吐き出すと、イワイは心の底から理解できないように疑問の表情を浮かべる。それから遅れてやってきた認識に、いつものようなヘラヘラの薄い笑みだけを浮かべた。
両手をスーツのポケットに突っ込み、壁に背を預ける形で彼は言葉を返す。
「俺に課せられた試練はねぇ。いや、正確には”あった”だな。俺は失敗した。脱落した。もっとも自主的なものだがな。嫌になった。……詳しく言えば、面倒になったんだな。だから逃げ出したんだが――暫くして、気がつくと俺はここに居た」
しかし世界に特別な変化は無く過ごしていたが、突然時間が五分だけ巻き戻ったり、巻き戻った分だけ自身の行動も無かったことにされたりなどの、世界の不具合に違和感を覚えた。しかしこれも、”奴等”の仕業だろうと特に何も考えずに過ごしていたところで――不意に、日時が約十日巻き戻った。
何度も、何度も。いつしか行動が目立つ、自身よりいくつか年下の少年が時を――五分間の時間を巻き戻すことに気がついた。そこでイワイは、”奴等”が自分以外の、自分の代わりを見つけたのだと理解する。そしてその少年も試練に突き出されたのだと認識した。
やがてそうすると、何度も繰り返す内に使命感じみたものが頭の中から染み出した。それは時衛士と接触せよ、との事である。だから彼は行動し、衛士の自宅を見つけて――。
「人を殺すってのはよ、あんま体験できねぇだろ? んで、どーせてめぇサマも何度も躓くわけだから、どうせだから殺っちまおうってな。初めて会ったときは、ようやく来たかと思ったんだが、どうやらてめぇサマは繰り返してる事に自覚が無かった。悲しかったね。未熟すぎんだ。与えられた道具も使いこなせねぇし」
「……その”奴等”ってのはこのオレを利用してお前を殺そうとしてんのは良く分かった……。だがな、テメェ! 珍しい体験だから殺しただぁ!? ふざけるのも大概にしやがれ気狂い野郎がッ! お前なんざ同類でもなんでもない、ただの殺人鬼だ! 利用されてようが関係ねぇ……オレは! オレの意思で! テメェを殺すッ!」
「ハハハッ! いいねぇその調子! 俺だっていつまでもてめぇサマの世話ばっかで飽きてんだ。泣き顔も胸糞悪ィ! その顔その顔! かかって来いよ、門限が来ちまわねぇ内になァッ!」
――このイワイと言う男を、一瞬でも信用し、もしかしたら良い奴なのではなのかと疑った自分に腹が立つ。
一瞬にして真赤に染まりあがる視界は、毛細血管が破裂したのかと思うほど朱色であった。イワイの姿はドス黒く瞳に映り、衛士は力強く床を蹴って彼に飛びかかる。
イワイは依然として頭の大事なネジが外れたかのような甲高い笑い声を上げて――瞬間、前屈のような姿勢で走り出す衛士の顔面へと目にも留まらぬ拳を肉薄させ、避ける間も無く、またそれを知覚する余裕も無いままに頬を抉る。
衛士は寝台の方へと身を投げる用にして吹き飛ぶが、その身体は丁度空中に浮かび上がったところで停止する。イワイはそれを見ながら思わず、殴り抜けた拳を垂らして眉をしかめる。黒い腕からは血が滴り、純白の床に真紅の華を散らせた。
拳骨はまるで鋭い何かで抉られたかのように、頬に触れた箇所から手の甲、手首にかけて肉が裂け、骨が露出している。漆黒のラバーグローブは容易に裂け、そして裂けるとすぐさま肉体に直接深い傷を作り出す。そういった”仕様”になっていた。
イワイは注意深く衛士を見ると、頬からは赤く濡れた鋭い三本の牙――否、衛士が病室へやってきた時に所持していたフォークが、その頬の肉を貫いて突き出ていた。
即ち衛士はイワイに気付かれぬように口の中にフォークを含み、そして男が頬を殴るのを待っていたのだ。
――これを考えて実行するのは恐らく、このスーツの説明をしてからだろうが……。
イワイは嘆息する。
停止出来る時間を経過させた衛士は、まるで動く事を思い出したように吹き飛び、やがて寝台の上に叩きつけられた。
「んな事を実行なんて、とんでもねェ馬鹿か、気抜けか……気狂いだ」
「~~~~ッ!」
片方からは切先が、片方は内側で手に持つ部分が激しく肉を抉る。そこで血と唾液が染み渡り、衛士はフォークを口の中から吐き出し捨てながら、痛みに耐えた。寝台の上に唾を吐くと純白のシーツは一部分だけを真赤に染めて、衛士はそこを踏み躙りながら立ち上がる。
息を吸い込むと呼吸さえ染み、頬に焼けるような痛みを覚えた。
「ヴぅ……、デメェ、そのスーヅ、力が……」
「肉体強化って言えば格好良いよな」
「卑劣……」
「条件が良いだけだろ? だったら、てめぇサマの砂時計も使い方によれば十分卑怯だと思うんだけどなァ?」
――砂時計は個人だけが未来を知る事に強みがある。
砂時計の効果に気付いた者は大抵そういった思考に走る傾向がある。イワイに到っては既に道具を与えられて居た身だから、既に記憶継続を自主的に行える人間だから砂時計を一度使用しただけでその効果を知る事が出来たから、それは顕著であろう。
確かに道具の使い方であればイワイの方が何枚も上である。されど、砂時計には使用の癖がある。故に、使いこなせさえすれば対象の時を停止する、身体能力の向上を可能とするスーツなどは目でもない。
砂時計の強みは、必ずやり直せると言う事に或る。
様々な行動を実験として行い、そしてその中で改善点を視る。後悔しきれる事をしきれるだけ体験し、そしてやり直した五分前に後悔をしない、出来ない行動に切り替える。また、記憶を引き継いでも肉体の位置関係は五分前に戻ってしまうこともその特性だろう。
しかし問題は、衛士がこの使い方に気付けるかどうかであった。
だがどうあれ、既に右拳を封じられたも同然のイワイの戦力は殆ど半減。故に衛士は、そこはかとなく感じていた敗北の気配の途絶に気がついた。
故に、痛みに苦しむ時間を切り捨てて、立ち直ると同時に先ほど同然に姿勢を低くして肉薄する。
「学べよクソ小僧ッ!」
蔑み捨てるような怒号は失望の念を孕んでいる。イワイは腰を落として、前回と全く同じに上向きの左拳を、外側から衛士の頬へ目掛け曲線の軌道を描いくように迫撃するが――直後、衛士の顔に浮かび上がる笑みを視て、イワイはもう止めることが不可能となった攻撃に後悔が過ぎった。
接近する拳は空を切り、イワイは脇を無防備に曝け出して身体を捻るように棒立ちする。衛士はその手前にて両足で床を掴むように停止したかと思うと、そのままポケットから砂時計を取り、落とす。
そして間髪おかずに、貫き手を脇腹に突き刺した。
されど、両手の包帯の程度は幾分かマシなほど、フォーク程度なら持てるくらいには軽度になっているものの、そもそも骨折と言う怪我がそう容易に完治する筈が無い。故にヒビが入りひしゃげた骨は悲鳴を上げ、衛士は苦悶の声を押し殺しながら思わず跪いた。
痛みは無論、予想したものを大きく下回る程度。故にイワイは顔面の位置が大幅下がる衛士目掛けて膝を素早く振り上げる。
直後、膝蓋に鈍い衝撃が伝わり、衛士は直撃した鼻、口を切り血を振り撒きながら背後へ大きく仰け反った。イワイはそれでも攻撃の手を休めず、さらにステップを踏むように脇へ回り込むとすぐさま、衛士の後頭部を右手で支え、平手の指先だけを折り曲げた形を取り、喉元を突き刺す。
喉仏に触れ、それを押し潰す。嫌な感触が伝わるもそれに対して感慨に耽る暇も無く、衛士の噴出すような胃液が腕を濡らした。すえた臭いが鼻につき、やがて俯き咳き込む衛士の顔面を鋭く蹴り上げ、頭頂部を、その垂直に振りあがる踵で叩き落した。
衛士は発情期の猫のように尻を突き出すようにうつ伏せに寝転がり、顎を床につけ、両手を身体に添わせるように垂らして意識を手放して――。
衛士は見る。大きく、この上ない隙を露出するその脇腹を。黒塗りの耐Gスーツのようなソレはあらゆる衝撃を殺しそうに見えながらも、ソレ自体には然程防御力というものは存在しない。いわば、ただの服と同様。少しばかり強固な素材で繕うだけの、特殊な能力を持つ衣服だ。
だから彼は口元に笑みを浮かべた。
この、ただの人間として対峙するだけでも手強い男を相手するに、衣服によって一般人の攻撃力が通用しないとなれば最早打つ手が無い。しかし十二分に通用することが分かった今、ここで足を止める理由は無い。ここで動きを止められる勇気は無い。走り、拳を作り、敵を打ちぬく。今出来るのはそれだけなのだが――。
衛士は飛び込むようにイワイへと肉薄すると、そのまま移動の最中に身体を捻り、右腕を折り曲げる。手を胸にあて、そこから作り出される肘の刃をより鋭く研ぎ澄ますが如く力強く脇を締め――突き刺す。脇腹は筋肉で鍛えられているも、無意識の箇所故に柔く、猿臂は容易に抉り衝撃で貫いた。
イワイは目を剥き口を開く。口腔から漏れ出す体液を床に撒き、さらなる追い討ちを受ける。
衛士は肘を突き刺したまま足を素早く振り払う。横から掬われた足元は簡単に床から離れて宙を踏み、イワイの身体は傾き、伸ばした手で衛士の腕を掴むも、簡単に振り払われて背中を床に打ち付けた。
「良くやった、と言いたいがな……」
しかしそれ以降、さらなる追撃は一切無く――衛士はイワイの足を払ったままの体勢で硬直していた。
イワイは嘆息しながら立ち上がる。しかし吐いた息を飲み込まざるを得ない状況を見て、首を振るように、ある意味で感心するように微笑んだ。
衛士の足元に再び設置されている砂時計を見たイワイは、既に足払いからの行動を思考から肉体へ伝染して居ない様に重心を後ろに取る彼の顔面を殴る。顔は歪むが、しかし衛士は動かない。その痛みは彼が動き出したと共に襲い掛かるが故だった。
しかしイワイの目的はそれではなく、再び触れた事によって停止させる時間を数え直させる事にある。
「なるほどなァ。先を見る、未来を予測する……ただ体験するだけじゃ無ェ。そいつが必要か」
イワイはそれから肩をすくめて再び衛士の全身を舐めるように見ると、ズボンのポケットに膨らみがあるのに気付く。迷いも無く、躊躇いも無くそこへ手を伸ばすと、指先に覚えるのは金属的硬質。ポケットへ手を突っ込んで引き出すと、掴み上げたのは、彼が自分の意思で捨てたはずのフォーク――否、隠し持っていた一本のソレだった。
「なるほどネェ」
イワイのスーツは持ち主の肉体と同化する。つまり使い主に依存すると言う訳だ。
しかし衛士が持つ砂時計はただ個体で独自の、ただ一つの能力を駆使する。勿論使い主が使わなければ能力は作動しないから使い主に依存すると言ってもそう大きな間違いではないが――面倒な道具だ、とイワイは吐き捨てた。とてもこんなものは、唯一渡された道具であろうとも、率先して使おうとは思えない。
フォークを寝台の方へと投げ捨ててから、二度目の停止時間の更新が不可能であるために動き出す衛士をイワイはただ、右手を垂らし、左手をポケットに突っ込んで眺めていた。
衛士は頬を殴られ首を左へと捻り、それからゆっくりとイワイへと向き直る。
両者は何かが通じ合ったように、それぞれ口角を上げてくつくつと湧き上がるように笑い始めて――。
――かくして時間は、衛士が砂時計を落とす直前に巻き戻る。
倒れるイワイに素早く跨り、両腕を踏み潰す。ポケットからフォークを取り出し、上腕に膝を落とすようにすると、衛士の股はイワイの胸元を圧迫した。
「ハハハッ! やっとか、てめぇサマが、ようやく俺の命を!」
「運が良かったってな。お前は運が悪かった」
「気持ち悪ィ、謙遜なんて似合わねぇな。完璧じゃねーが、砂時計の使用機会は良いんじゃねぇか? 俺は少なくとも意表を衝かれたが」
「お前……」
「けっ! 揺らぐんじゃねェよてめぇサマ! 俺はテメェの家族をぶっ殺したんだぞ……終わらせたくねぇのかよ! もしかしたら記憶を引き継げない、じゃねー……、もしかしたら記憶を引き継ぐかもしれないっつーに考えろ。てめぇサマはまた味わうんだぞ? あの虚無感。無力さ。分かってんのに自分ではどうにも出来ない絶望、間に合わないと分かるのに高まる焦燥……ッ!」
「お前が、殺さなきゃいい話だ!」
「殺さなきゃてめぇサマは俺を殺さねぇ! まだわかんねェのか知恵遅れ野郎!」
イワイは凄む。心臓に響くような低い声は、ただそれだけで誰もを近寄らせぬ威圧があった。
苛つきは彼の怒りを呼び起こす。されど煮えきらぬ衛士の言葉は、さらに様々な感情を呼び起こしていた。
――早くしなければ時間制限が来てしまう。そしてそれを終わらせるためにはイワイが死ななければならない。
彼がそれを知るのは、特にこれといった問題も無いままに彼と出会った時の事であった。
「こんな……っ! こんな出会い方さえしてなければ……!」
「馬鹿が。こんな出会い方じゃなけりゃ何も始まらねぇんだよ愚図」
「――だがな、オレはお前に心を許さない。どうあれ、お前の事が少しでも分かったような気がしたけど……お前が! オレの家族を、家庭を! ブチ壊した事実に変わりは無い!」
「そうだ咆えろ! それでさっさと――」
衛士が両手で握るフォークを振り上げる。イワイはもう喋ることを諦めた。
彼は無理矢理に昂ぶらせた魂でそのまま肉体を動かし、両腕に力を込める。折れた指が脳みそを掻き乱すような激痛を催させるが、今の興奮状態ではとても痛みを感じている余裕は無かった。
衛士はフォークを振り下ろす。
露出していた白い肌は銀光りする鋭い牙に突かれ、伸び、裂ける。途端に甘い臭いが鼻腔を刺激する赤い血が飛び散った。
イワイの狂った笑顔が血に染まる。フォークが開けた首の穴から空気が漏れ、血はブクブクと泡を吐く。同時に流れる血は共にそこを中心として血溜まりを作り出した。
残るのは返り血にそまる衣服と、その顔。そして手に残る、恐らくこれ以降忘れられないだろう、殺害した感触。
衛士は喉に生えるフォークを眺めながら、背後から怯えた声を上げながら迫る看護師の足音を聞きながら、いつかした、早乙女美琉の父親との問答を思い返した。
――彼はこう言っていた。『君は犯罪を犯すとしたら、どんなものだと思う?』と。
そしてオレはソレに対してやるせなく答えたのだ。『人でも殺してしまいそうだ』と。
緊張が緩み、意識の定着が朧げになる。視界がぼやけるなかで、全ての、拘束や緊張、それらの開放感を覚える衛士は――この、三六回もの数を繰り返された約九日間を脳裏で蘇らせた。
すると間も無く、そうなる事が当然のように瞳からは涙がこぼれ始めて――やがて意識は消滅する。
衛士はイワイに重なるようにして倒れ、それから程なくして衛士だけが看護師らに発見されることとなる。その時点で、既にイワイの存在を知る者は、その記憶から彼の情報を緩やかに消滅させていった。